第3話 残り香と裏切り者
機会は、その日の午後に訪れた。
旦那様が騎士団の急な呼び出しで席を外した隙を見て、私は執務室を抜け出した。
目的地は一つ。
家令ラドルの部屋だ。
廊下を音もなく走る。
魔狼の肉体は素晴らしい。足音ひとつ立てずに移動できるし、スタミナも尽きない。
人間の頃はドレスの裾を気にして歩くだけで精一杯だったのに、今の私は風のように自由だ。
(匂いは……こっちね)
鼻をひくつかせる。
あの吐き気を催す腐臭は、屋敷の西棟、使用人たちの居住区画から漂ってきていた。
慎重に進む。
幸い、使用人たちは捜索活動に駆り出されており、廊下に人影はない。
私はラドルの私室の前で足を止めた。
ドアは少しだけ開いていた。掃除係が入った後、閉め忘れたのだろうか?
なんて不用心。
でも、私にとっては好都合だ。
私は黒い体を隙間から滑り込ませた。
部屋の中は、驚くほど質素だった。
余計な装飾はなく、壁一面に本棚と書類棚が整然と並んでいる。
ラドルの几帳面で、潔癖症な性格が滲み出ている部屋だ。
(でも、匂いは誤魔化せないわよ)
部屋に入った瞬間、鼻が曲がりそうになった。
表面的にはインクと古紙の乾いた匂い。
けれど、その奥底にこびりついている、甘ったるく痺れるような刺激臭。
毒だ。
私が飲まされたワインと同じ、トリカブト系の即効性猛毒の匂い。
私は匂いの発生源を辿る。
机ではない。クローゼットでもない。
一番強く匂うのは――部屋の最奥にある、重厚なマホガニーの本棚だ。
私は本棚に近づき、鼻を押し付けた。
間違いない。この裏だ。
ただの本棚じゃない。
床を見る。
人間なら見逃すような微細な傷だが、魔狼の目にははっきりと見える。
本棚の足元に、何度も引きずられたような半円形の擦れ跡がある。
回転式の隠し扉だ。
(証拠を見つけないと)
私は前足で本棚の側面をカリカリと引っ掻いた。
びくともしない。魔術的なロックがかかっているのだろう。
くそっ、人間の手があれば、本をどかして仕掛けを探せるのに!
このもどかしい前足が恨めしい。
焦りと苛立ちで、ガリガリと爪を立てる力が強くなる。
その時だった。
カチャリ。
背後で、ドアの鍵が閉まる音がした。
「――鼠かと思えば、駄犬でしたか」
氷点下の声が降ってきた。
全身の毛が逆立つ。
ゆっくりと振り返ると、そこにはラドルが立っていた。
手には新しい紅茶のセットを持っている。いつの間に戻ってきたの?
魔狼の聴覚ですら気づかないほど、気配を消していたというの?
彼は無表情のまま、手に持っていたトレイをサイドテーブルに置いた。
その動作は優雅で、日常的で、だからこそ不気味だった。
「困りますねえ、ノワール様。ここは旦那様の愛玩動物が入っていい場所ではありませんよ」
言葉は丁寧だ。
けれど、片眼鏡の奥にある瞳には、一切の光がない。
彼はゆっくりと私に歩み寄ってくる。
「鼻が利くのですか? ……忌々しい獣だ」
彼は本棚を一瞥し、ふっと冷笑した。
「そこにあるのは、ただの『在庫』ですよ。……あの小娘を黙らせるのに使った、残りのね」
(っ!!)
やっぱり。
お前だったのね。
私は喉の奥から威嚇音を出し、身構える。
ラドルは私の反応を見て、さらに目を細めた。
「ほう。言葉が分かるような反応ですね。旦那様の魔力の影響でしょうか。……賢すぎる獣は、長生きできませんよ」
殺気。
肌がチリチリと焼けるような、明確な殺意が放たれた。
彼は右手を軽く持ち上げた。
指先に、どす黒い魔力が収束していく。
無詠唱の攻撃魔法だ。
「ここで処分しても、『誤って毒薬を舐めた』と報告すれば済む話」
やられる!
私は反射的に床を蹴り、横へ飛んだ。
ヒュンッ!
不可視の魔力の刃が、私のいた場所を切り裂き、床板を抉った。
速い。
ただの執事じゃない。この動き、手練れの暗殺者だわ!
「チッ、すばしっこい」
ラドルが舌打ちをする。
その顔には、私を殺したことへの罪悪感など微塵もない。
ただの「仕事」として、私という障害物を排除しようとしているだけだ。
許せない。
私を殺したことよりも、旦那様の信頼を隠れ蓑にして、こんな非道を働いていることが。
私は姿勢を低くし、飛びかかる態勢をとった。
喉笛を喰いちぎってやろうか。
でも、それでは私が処分されてしまう。そうなれば旦那様がまた泣くことになる。
どうすればいい?
この密室で、言葉も話せない私が、どうやって生き延びる?
ラドルが再び指を向けた、その瞬間。
ドンドンドン!!
激しいノックの音が、死の静寂を叩き割った。
「ラドル! いるか!」
旦那様の声だ!
ラドルの動きが止まる。
一瞬で殺気が霧散し、指先の魔力が消えた。
彼は瞬時に表情筋を操作し、いつもの「忠実な家令」の顔を作った。
そして私に向かって、冷たい瞳で一瞥をくれる。
『拾った命ですね』とでも言うように。
彼は扉を開けた。
「はい、旦那様。いかがなさいましたか?」
そこには、肩で息をするクラウス様が立っていた。
彼は部屋の中を見渡し、隅で毛を逆立てている私を見つけると、安堵の息を吐いた。
「ノワール! ……よかった、ここにいたのか」
彼はラドルを無視して部屋に入り込み、私の前に膝をついた。
そして、私の体をくまなく触診し始める。
「怪我はないか? 急に胸騒ぎがして……お前の叫び声が聞こえた気がしたんだ」
(えっ……?)
私は声を出していない。
でも、私の恐怖が、彼に伝わったの?
これが、守護獣のパス――絆の力?
「申し訳ございません。掃除中に紛れ込んだようで」
ラドルが恭しく頭を下げる。
「追い出そうとしたのですが、少々暴れられまして。床が傷ついてしまいました」
嘘つき。魔法で抉ったくせに。
私はクラウス様の影から顔を出し、ラドルに向かって「ワンッ!(大嘘つき!)」と吠えた。
クラウス様は私の頭を撫でながら、ゆっくりと立ち上がった。
その視線が、ラドルに向けられる。
冷たい。絶対零度の視線だ。
「ラドル。……ノワールがこれほど威嚇するのは珍しい」
「はあ。動物というのは気まぐれなものですから」
「ノワールはただの動物ではない。私の魂の一部だ。この子が敵意を向けるには、それなりの理由がある」
クラウス様の言葉に、ラドルの眉がピクリと動く。
場の空気が張り詰める。
「お前を疑いたくはないが……この子の前では、殺気や悪意を隠すことはできないぞ」
それは、長年仕えた家令に対する、精一杯の警告だった。
クラウス様なりに、何かがおかしいと感じ始めているのだ。
私の「胸騒ぎ」を信じてくれたのだ。
「肝に銘じておきます」
ラドルは深々と頭を下げた。
しかし、その伏せた目が、私を睨みつけているのを私は見逃さなかった。
『次は逃がさんぞ』という、冷たい殺意。
クラウス様は私を抱き上げると、背を向けた。
「行くぞ、ノワール。……ここは空気が悪い」
彼は私を抱いたまま、廊下へと歩き出す。
その背中に、私は顔を埋めた。
ありがとう、旦那様。
私を守ってくれて。
腕の中で揺られながら、私はラドルの部屋を振り返った。
閉ざされた扉の向こうに、決定的な証拠がある。
そして、敵はもう私が「ただの犬」ではないと気づき始めた。
次は向こうから仕掛けてくるかもしれない。
でも、負けない。
私には、この人の温もり(愛)があるから。
私はクラウス様のシャツをギュッと前足で掴み、戦う決意を新たにした。




