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結婚初夜、暗殺されました。  作者: 秋月 もみじ


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第2話 知らなかった「大好き」


 鼻が、ムズムズする。

 焦げたような、油が腐ったような、不快な匂い。


 翌朝。

 公爵邸の空気は最悪だった。


 私は魔狼ノワールの体で、屋敷の廊下をパトロールしていた。

 四つ足歩行にも少し慣れてきた。視界は低いけれど、そのぶん聴覚と嗅覚が驚くほど鋭敏になっている。


「聞いた? 奥様、初夜の前に逃げ出したんですって」

「やっぱりねえ。貧乏貴族の娘だもの。公爵様の重圧に耐えられなかったのよ」

「他に男がいたんじゃない?」


 すれ違うメイドたちが、ひそひそと囁き合っている。

 彼女たちの体からは、どす黒いすすのような匂いが漂っていた。

 これが、魔狼が感じ取る「悪意の匂い」なのだろうか。


(……失礼しちゃうわね。誰が逃げるもんですか)


 私は心の中で反論し、彼女たちを睨みつけた。

 喉の奥から「グルル……」と、地を這うような低い音が漏れる。


「ひっ! ノ、ノワール様!?」


 メイドたちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 ふん、いい気味だ。

 私は尻尾を高く上げ、堂々と胸を張った。


 今は犬(正確には狼)だけど、心は公爵夫人よ。

 旦那様の名誉のためにも、私がこの家の規律を守らなきゃ。


 でも、肝心の旦那様は――。


 ***


 重厚なオーク材の扉の前で、私は足を止めた。

 クラウス様の執務室だ。


 ここから漂ってくる匂いは、悲痛だった。

 雨上がりの森のような、静かで冷たい、孤独の匂い。


 昨晩、彼は屋敷中を探し回り、明け方になってようやくここへ戻った。

 一睡もしていないはずだ。


 私は前足で扉をカリカリと引っ掻いた。

 開けてください、旦那様。


「……入れ」


 中から、砂利を噛んだようなれた声がした。

 私は鼻先で器用にドアを押し開け、中へと滑り込む。


 部屋の中は、死んだように静かだった。

 分厚いカーテンが閉め切られ、朝の光を拒絶している。

 書類が山積みになった机の奥に、その人はいた。


 クラウス様は、椅子に深く沈み込んでいた。

 昨晩のシャツのまま。無精髭が伸び、目の下には濃いくまができている。

 あの完璧な彫像のような美貌が台無しだ。


 彼は手の中にある、私のショールをきつく握りしめていた。


「ノワールか」


 私が入ってくると、彼の虚ろな瞳にわずかに光が戻った。

 力のない手招き。

 私はタタッと駆け寄り、彼の膝元に頭を擦り付けた。


 甘い匂いがした。

 昨日のような激しい感情ではない。凪いだ湖のような、でも底知れないほど深い哀しみの匂い。

 彼の匂いを吸い込むだけで、胸が締め付けられる。


「……何の痕跡もなかった」


 彼は独り言のように呟いた。

 大きな手が、私の頭をゆっくりと撫でる。


「裏門を使った形跡もない。転移魔法の反応もない。まるで煙のように消えてしまった。……私の管理不足だ。あんなに警備を固めていたつもりだったのに」


 自責の念。

 やめてください、旦那様。悪いのはあなたじゃない。

 私は必死に尻尾を振って、彼の膝を鼻で小突いた。

 元気を出して。私はここにいるから。


 クラウス様は、ふっと自嘲気味に笑った。


「お前は優しいな。……あの子も、動物が好きだった」


 彼はふと思い出したように、机の一番下の引き出しに手をかけた。

 そこには、厳重な魔術鍵ロックがかけられている。

 公爵家の最重要機密でも入っているのだろうか。


 彼は指先から魔力を流し、鍵を開けた。

 キィ、と小さな音を立てて引き出しが開く。


 中に入っていたのは、古びた書類……ではなく。

 色とりどりの、美しい封筒の束だった。


(あれは?)


 私は思わず後ろ足で立ち上がり、机の上を覗き込んだ。


 封筒の宛名は、すべて同じ。

 『愛する妻、エリスへ』。


 えっ。

 私への手紙?

 一通も、受け取った覚えはないけれど。


 クラウス様は一番上の封筒を手に取り、愛おしそうに指でなぞった。


「渡せなかったな」


 彼は封を開け、中身を取り出した。

 便箋には、几帳面すぎるほどの角張った字で、こう書かれていた。


 『エリスへ。

  今日の君のドレスは、春の空のような色だった。

  とても似合っていた。

  声をかけようと思ったが、君が友人と楽しそうに話していたのでやめた。

  私の顔を見ると、君が緊張してしまうから』


(……何これ)


 私は目を丸くした。

 それ、先月の夜会のこと?

 あの時、クラウス様はずっと不機嫌そうな顔で壁の花になっていたはずだ。

 遠くから睨まれていると思って怖かったのに……まさか、話しかけるタイミングを計っていただけ?


 彼は次の手紙を手に取った。


 『エリスへ。

  北の冬は寒い。君が風邪を引かないか心配だ。

  最高級の暖炉用の薪を手配させた。

  それと、君の故郷で流行っているという菓子を取り寄せた。

  君の笑顔が見たい。

  ……でも、直接渡すのは気恥ずかしいので、使用人にことづけておく』


(あのお菓子、旦那様からだったの!?)


 記憶がフラッシュバックする。

 あの日、お菓子を持ってきたのは家令のラドルだった。

 『領民からの献上品です。旦那様は甘いものを好まれませんので、奥様が処分してください』

 そう言って、無造作に置いていったのだ。


 嘘つき!

 旦那様のプレゼントだったんじゃない!


 次々と出てくる、未送信の想いたち。


 『君が庭で転んだ時、すぐに助け起こせなくてすまない』

 『君の髪は、陽だまりのような色をしている』

 『愛している。どうすれば、この気持ちが君に伝わるだろうか』


 読んでいて、顔から火が出るかと思った。

 犬の体でよかった。人間だったら、きっと茹でダコみたいに真っ赤になっていたはずだ。


 なんて……なんて不器用な人なの。

 「氷の公爵」?

 誰がそんなあだ名をつけたのよ。

 この人はただの、口下手で、慎重すぎて、妻への愛が重すぎるだけの――愛すべき旦那様じゃない。


「馬鹿だな、私は」


 クラウス様は手紙の束を胸に抱き、天井を仰いだ。

 その瞳が、また潤んでいる。


「言葉にしなければ、伝わらないのに。……守るために距離を置くなんて、ただの臆病者の言い訳だった」


 違う。

 あなたは私を守ろうとしてくれた。

 ただ、少しだけ方法を間違えてしまっただけ。


 そして、それを利用した誰かがいる。

 私の手紙を握りつぶし、旦那様のプレゼントを自分の手柄にし、私たちを引き裂いた誰かが。


 猛烈な怒りが湧いてくる。

 でも、今はそれ以上に、目の前の彼を慰めたかった。


 私は机に前足をかけ、彼の腕に頭を押し付けた。

 クゥーン、と甘えた声を出す。

 泣かないで。自分を責めないで。


 クラウス様は驚いたように目を見開き、それから静かに微笑んだ。

 氷が解けるような、儚くも美しい笑みだった。


「慰めてくれるのか? ……ありがとう、ノワール」


 彼は私の頭に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


「お前の温もりだけが救いだ。……不思議だな。お前からは、エリスと同じ匂いがする」


 ドキリとした。

 心臓が早鐘を打つ。

 やっぱり、気づかれそう?

 でも、魔狼の姿で「私が妻です」なんて言っても、信じてもらえるはずがない。狂ったと思われるのがオチだ。


 今はまだ、正体を明かす時じゃない。

 私は彼の手をペロリと舐めた。


 コンコン。

 控えめだが、冷徹なノックの音が、二人の時間を遮った。


「旦那様、捜索隊からの報告書が届いております」


 扉の向こうから聞こえたのは、家令ラドルの声だった。

 穏やかで、忠実そうな老紳士の声。


 瞬間、私の鼻がひくりと痙攣した。


 扉の隙間から漂ってくる、強烈な腐臭。

 生ゴミのような、ドブのような、吐き気を催す悪意の匂い。

 さっきのメイドたちとは桁が違う、濃厚な裏切りの香り。


(……見つけた)


 私は牙を剥き出しにし、扉を睨みつけた。


 この匂いだ。

 私のワインから漂っていた微かな匂いと、同じ根っこを持つ悪臭。


 クラウス様は瞬時に「公爵」の顔に戻り、手紙を乱暴に引き出しに押し込んだ。

 涙の痕跡を拭い、冷徹な仮面を被る。

 部屋の温度が、一気に数度下がった気がした。


「入れ」


 扉が開く。

 完璧な礼儀作法で入ってきたラドルに向かって、私は喉の奥で低く唸った。


 よくも抜け抜けと。

 旦那様の心を弄び、私の命を奪おうとしたのは、お前ね?


「おや、ノワール様。気が立っていらっしゃるようだ」


 ラドルは眉一つ動かさず、私を冷たい目で見下ろした。

 その目は言っていた。

 『たかが畜生風情が』と。


 上等じゃない。

 その油断が命取りよ。

 私は心の中で、戦闘開始のゴングを鳴らした。


 待っていなさい。

 旦那様の愛(手紙)を盗み見た罪、たっぷり償わせてあげるから。

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