第10話 最強の妻と番犬
肺に新鮮な空気が満ちた感動も束の間、強烈な吐き気が私を襲った。
「ごふっ……!」
喉の奥から、どす黒い血がせり上がってくる。
そうだ。時間は動き出した。
ということは、心臓を止めていた猛毒も、活動を再開したということだ。
焼けるような痛みが全身を走り、視界が明滅する。
せっかく戻ってきたのに、また死ぬの?
意識が遠のきかけた、その時。
「飲め! エリス!」
クラウス様が懐から小瓶を取り出し、蓋を弾き飛ばして私の口に押し当てた。
躊躇なく流し込まれる、清涼な液体。
それは喉を通り、胃に落ちた瞬間、爆発的な輝きとなって全身の血管を駆け巡った。
王家秘蔵の『万能解毒薬』だ。
どんな猛毒でも即座に浄化する、伝説の秘薬。
「……ん、ぐ……」
痛みが、嘘のように引いていく。
体内の毒素が光に浄化され、代わりに心地よい魔力が満ちてくるのが分かった。
荒かった呼吸が整っていく。
「よかった……間に合った……」
クラウス様が私を抱きしめたまま、安堵のため息を漏らした。
その手は小刻みに震えていた。
「……手際が良すぎます、旦那様。まるで、私が生き返ることが分かっていたみたい」
私が安堵と疑問の混じった声で尋ねると、彼は首を横に振った。
泣き腫らした目で、私を見つめる。
「分かってなどいなかった。君の遺体を見つけた時、もう使う機会はないのだと絶望した」
彼は空になった小瓶を、祈るように握りしめた。
「だが、あの日――君がいなくなった夜から、私はこれを片時も離さず持っていたんだ。もし君がどこかで倒れていたら、一秒でも早く助けられるように。……君が生きて見つかるという、一縷の望みに縋り付くためのお守りだった」
胸が熱くなった。
彼は最も絶望していた時でさえ、私を救う準備だけは捨てていなかったのだ。
その執念深い愛が、今、奇跡を起こした。
「ありがとう……クラウス様」
彼の腕に力がこもる。
その温かさに包まれながら、私は確信した。
ああ、この人はもう大丈夫だ。
氷の公爵は溶けて、ただの「愛妻家」になったのだと。
***
その後、事態は怒涛の勢いで収束した。
生きたまま氷漬けにされたラドルは、騎士団に引き渡された。
解凍された彼は、公爵家の資産横領、殺人未遂、違法魔導具の所持など、数えきれない罪で告発された。
長年仕えた家令の裏切りは社交界を震撼させたが、クラウス様の迅速かつ冷徹な断罪により、公爵家の権威が揺らぐことはなかった。
彼の背後にいたミランダの実家――ローゼンバーグ侯爵家も、ラドルとの闇取引の証拠(借用書)を押収され、取り潰しが決まった。
ミランダは修道院送りになり、二度と華やかなドレスを着ることはないだろう。
そして、数日後。
私は公爵邸のテラスで、柔らかな日差しを浴びていた。
体調はすっかり回復し、肌ツヤも戻った。
足元には、黒い毛並みの立派な狼――ノワールが寝そべっている。
「ノワール、お手」
私が手を出すと、ノワールは「やれやれ」といった顔で、しかし素直に前足を乗せてきた。
肉球の温かい感触。
少し前まで、私がこの中にいたなんて信じられない。
「グルル(相変わらず人使いの荒い女だ)」
ふふっ、文句を言いながらも付き合ってくれるのね。
ありがとう、相棒。あなたが体を貸してくれたおかげで、私は戻ってこられた。
あと、旦那様の寝顔の可愛さも共有できたしね。これは二人だけの秘密よ。
「エリス」
背後から、甘い声がかかる。
振り返ると、クラウス様が立っていた。
もう軍服のボタンを掛け違えてはいない。完璧な身嗜み。
けれど、その瞳は氷のように冷たくはなく、春の陽だまりのように優しい。
「顔色が良くなったな。……安心した」
彼は私の隣に座り、自然な動作で腰に手を回してきた。
距離が近い。
犬の時は嬉しかったけれど、人間の姿だと心臓に悪い。
「旦那様、その……近いです」
「クラウス」
「え?」
「名前で呼んでくれ。……君が犬の姿だった時、心の中で呼んでくれていただろう?」
ドキリとした。
バレてる。
魔力パスが繋がっていた時の思考は、ある程度筒抜けだったらしい。
もしかして、「ずるい人」とか「まつ毛が長い」とか思っていたのも……?
彼は悪戯っぽく笑い、私の耳元に唇を寄せた。
「それに、これからはもっと近くなる。……今夜こそ、本当の初夜を迎えたいのだが」
ボッ!
私は顔から火が出るほど赤面した。
初夜。そうだった。毒殺騒ぎで有耶無耶になっていたけれど、私たちはまだ夫婦としての一線を越えていない。
「……嫌か?」
彼が不安げに眉を下げる。
卑怯だ。その捨てられた子犬みたいな顔は、私(元犬)に効果抜群だと知っていてやっている。
「い、嫌じゃありません。……クラウス様」
私が蚊の鳴くような声で答えると、彼はパッと顔を輝かせた。
そして、私を軽々と横抱きにする。
「部屋へ行こう。……もう、誰にも邪魔はさせない」
「きゃっ! まだ真っ昼間ですよ!?」
「関係ない。私は妻との時間を、公務より何より優先する」
彼は堂々と廊下を歩いていく。
すれ違う使用人たちが、顔を赤くして目を逸らす。
ノワールが呆れたように「ワフッ(ご馳走様)」と吠えた。
寝室の扉が閉まる。
そこはかつて、私が犬の姿で忍び込み、彼の涙を見た場所。
インクまみれの足を拭いてもらった場所。
彼は私をベッドに下ろすと、愛おしそうに頬を撫でた。
「愛している、エリス。……君がどんな姿になっても、私の魂は必ず君を見つけ出す」
その言葉に、偽りがないことを私は知っている。
だって、この人は私の「文字」の癖一つで偽物を見抜き、獣の瞳の奥に私の魂を見出してくれた人だから。
「私も……愛しています、クラウス様」
私は彼の首に腕を回し、口づけを受け入れた。
毒も、陰謀も、すれ違いも、もうない。
ここにあるのは、甘やかな体温と、未来への約束だけ。
私はベルンハルト公爵夫人。
氷の公爵を溶かした、唯一の太陽。
そして、時には夫の背中を守る、最強のパートナー。
私たちの幸せな生活は、まだ始まったばかりだ。




