第1話 氷の公爵が溶ける夜
熱い。
喉が、焼けるように熱い。
豪奢な調度品に囲まれた新婚の控室。
私の指先から力が抜け、優美なカットが施されたワイングラスが滑り落ちる。
ガシャン、と硬質な音が鼓膜を叩いた。
赤い液体が、純白のドレスの裾を汚していく。
まるで、血のように。
(ああ……やっぱり、そういうことですか)
薄れゆく意識の中で、私は妙に冷めていた。
私の夫となった人――ベルンハルト公爵クラウス様。
「氷の公爵」と恐れられる彼は、結婚式の間中、私と一度も目を合わせなかった。
誓いのキスの時さえ、どこか遠くを見るような冷たい瞳をしていた。
貧乏騎士爵家の娘なんて、邪魔だったのだろう。
北方の守護者たる公爵家に、魔力も持たない「平凡」な妻など不要だったのだ。
呼吸ができない。
視界が黒く塗りつぶされていく。
無念だ。
せっかく実家の借金を返すために、覚悟を決めて嫁いできたのに。
父様、母様、ごめんなさい。
エリスは、初夜を迎えることすらなく、ここで――。
プツン、と世界から音が消えた。
***
「……リス……ッ!」
誰かの声がする。
遠く、深い場所から響くような、必死な叫び。
「……ワール! おい、しっかりしろ!」
体を揺すられている。
激しく、乱暴に。でも、そこには火傷しそうなほどの体温があった。
(私、生きているの?)
鉛のように重いまぶたを、無理やり押し上げる。
視界がぼやけている。色はなく、モノクロームの世界。
最初に映ったのは、見覚えのある黒い革靴だった。
……革靴?
おかしい。私はソファに倒れていたはずだ。
なぜ、こんなに視点が低いのだろう。
まるで、床に這いつくばっているみたいに。
「グルルッ……」
何か言おうとした私の喉から出たのは、低く唸るような獣の声だった。
(え?)
思考が停止する。
慌てて自分の手を見る。
そこにあったのは、白いレースの手袋をした人間の手ではない。
艶やかな黒い毛並みに覆われた、太く逞しい前足だった。
鋭い爪が、高価そうな絨毯に食い込んでいる。
「ワフッ!?」
嘘でしょう!?
叫んだつもりなのに、間抜けな鳴き声しか出ない。
私はよろめきながら立ち上がり、部屋の隅にある姿見へと走った。
体が軽い。信じられないほど速く、力強く動ける。
鏡の中にいたのは、私ではなかった。
闇夜のような黒毛を持つ、一頭の巨大な狼。
額には三日月のような白い模様。
知っている。
これは、ベルンハルト家が代々飼育している守護魔獣――魔狼。
名前は確か、ノワール。
クラウス様が溺愛している愛獣だ。
(どうして私が、ノワールの中に?)
混乱で頭がパンクしそうになる。
まさか、死んだ魂が近くにいた犬に乗り移ったとでも言うの?
鼻が利く。
血のようなワインの匂い。微かな残り香。
そして――近づいてくる、乱れた足音。
バンッ!!
部屋の扉が、壊れんばかりの勢いで開け放たれた。
「エリス!!」
悲鳴のような叫び声と共に、長身の男性が飛び込んでくる。
黒髪に、アイスブルーの瞳。
私の夫、クラウス様だ。
けれど、その様子は私の知る彼とは全く違っていた。
いつも一糸乱れぬ軍服姿の彼が、今は上着も着ていない。シャツのボタンは掛け違えられ、胸元がはだけている。
整った髪は振り乱され、顔色は紙のように白い。
その瞳には、狂気じみた焦燥が浮かんでいた。
「どこだ……どこにいる!?」
彼は血走った目で部屋中をさらった後、私が倒れていたはずのソファへ駆け寄った。
そこには、誰もいない。
床に落ちたワイングラスと、赤く染まった絨毯だけが残されている。
(……私の死体がない?)
私は部屋の隅、観葉植物の陰から息を潜めた。
誰かが死体を片付けたのだろうか。
だとしたら、仕事が早すぎる。匂いすら残っていないなんて。
クラウス様は床のシミを見て、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
震える指で、ワインで汚れた絨毯に触れる。
「毒……か」
呻くような声。
部屋の空気が一瞬で凍りついた気がした。
彼から溢れ出す魔力が、ビリビリと私の毛皮を逆立てる。
怒りだ。純粋で、爆発的な殺意。
(やっぱり、彼が犯人じゃなかったの?)
私がそう思った瞬間だった。
「くそっ……! 私が目を離したばかりに……!」
ダンッ、と彼が拳を床に叩きつけた。
分厚い絨毯が裂け、床板がひび割れる音がした。
拳から血が滲むのも構わず、彼は何度も床を叩いた。
「エリス……すまない、すまない……っ!」
え?
私の耳がおかしいのだろうか。
あの「氷の公爵」が、子供のように泣きじゃくりながら謝っている?
彼は床に爪を立て、獣のように低く吼えた。
「誰だ。誰が彼女を奪った。……殺してやる。私のエリスを傷つけた奴は、一族郎党、地獄の果てまで追い詰めて根絶やしにしてやる!」
ゾッとするほどの憎悪。
けれどそれは、私に向けられたものではない。
私を害した「誰か」への怒りだ。
彼はよろめきながら立ち上がると、狂ったように部屋の中を探し始めた。
クローゼットを開け、ベッドの下を覗き、バルコニーへ飛び出す。
「エリス! 返事をしろ! 隠れているだけだろう!? 頼むから出てきてくれ!」
その必死な形相に、私は言葉を失った。
嫌われていると思っていた。
政略結婚の道具として、無関心に扱われていると思っていた。
でも、今の彼はまるで――。
「……半身をもがれたみたいに痛いんだ……」
部屋の中央で立ち尽くし、彼は胸を鷲掴みにした。
その鋭い瞳から、一筋の雫が零れ落ちるのを、私は見てしまった。
(泣いて、いるの?)
信じられなかった。
あの冷徹な男が、出会って間もない妻のために涙を流すなんて。
放っておけなかった。
私は観葉植物の陰から歩み出た。
カツ、カツ、と爪の音が響く。
クラウス様がハッと顔を上げる。
私(魔狼)の姿を見て、一瞬だけ絶望したような顔をした。人間ではなく、獣だったことに落胆したのだろう。
「……ノワールか」
彼は力なく膝をつき、私の方へ手を伸ばした。
私は迷った末に、彼の手のひらに鼻先を押し付けた。
温かい。
そして、ひどく震えている。
「お前は……ここにいたのか」
彼は私の首に腕を回し、すがりつくように抱きしめてきた。
強い力だ。骨が軋むほどに。
彼の顔が、私の黒い毛並みに埋められる。
「なあ、ノワール。お前は鼻が利くだろう?」
濡れた声が、耳元で響く。
「探してくれ。エリスを。私の妻を」
彼の涙が、私の毛並みを濡らしていく。
熱い滴が肌に触れるたび、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
「まだ何も伝えていないんだ。愛していると……一目見た時から、どうしようもないくらい惹かれていたと……!」
(え――?)
今、なんて?
一目惚れ?
愛している?
思考が真っ白になる。
結婚式で目を合わせなかったのは?
冷たかったのは?
全部、私の勘違いだったということ?
「守りたかった。政敵の目から隠すために、わざと距離を置いて……それが裏目に出るなんて」
彼は声を詰まらせ、懺悔を続けた。
「私が愚かだった。彼女を一人にするべきじゃなかった。……頼む、ノワール。彼女を見つけてくれ。彼女がいなくなったら、私はもう生きていけない」
その言葉は、命令ではなかった。
ただの、弱々しい懇願だった。
誰にも見せないはずの王国の重鎮の、あまりにも脆い本音。
私は動けなかった。
彼の腕の中で、心臓が早鐘を打っている。
旦那様。
私はここにいます。
あなたの腕の中、この黒い毛皮の下に。
伝えたい。
「私は生きています」と。
「あなたの気持ちは届きました」と。
けれど、口を開いても出るのは「クゥーン」という情けない鳴き声だけ。
言葉を持たないもどかしさに、胸が張り裂けそうだ。
私はせめてもの慰めになればと、彼の濡れた頬をざらりとした舌で舐めた。
しょっぱい味がした。
クラウス様が顔を上げ、潤んだ瞳で私を見る。
その瞳は、やはり氷のように青いけれど、今は熱を帯びて溶け出している。
「……いい子だ。お前だけが味方だな」
彼は私を強く抱きしめ直すと、涙を拭い、決意を秘めた低い声で呟いた。
「必ず見つけ出す。たとえこの国中の土を掘り返してでも」
その瞳には、昏い炎が宿っていた。
愛ゆえの、狂気にも似た執着の炎が。
(……はい、旦那様)
私は彼の胸に顔を埋め、心の中で誓った。
犯人が誰かは分からない。
私の体がどこへ消えたのかも。
でも、これだけは分かった。
私は絶対に、この人を一人にはしない。
元の姿に戻って、その涙を拭いてあげるまでは。
私は魔狼ノワール。
今日からあなたの、最強の番犬になります。




