幸せが壊れた日
二年が経過し、美影の小学校への入学が近づいていた。
期待に満ちた表情で、新品の赤いランドセルを眺めていた。その日は、美影以外の全員が仕事で不在だったため、使用人たちと留守番をしていた。全員が忙しそうに掃除をしていたので、自分でオレンジジュースを取りに行こうと部屋を出て、冷蔵庫のある台所まで歩いて行った。
―その時だった。屋敷が轟音とともに半壊し、明らかに人でない女が侵入してきたのは。
「あらまあ。女の子一人と…⋯残りはゴミ同然じゃない。黒条将彦が居るって聞いたから来たのに」
生気の失せた白い肌、色濃く鮮やかなピンク色の長い髪、爬虫類を思わせる鋭い青色の瞳。
赤黒い椿の紋様が浮かんだ手の爪は獣のように長く、その手に握られた漆黒の弓と鋭い矢が何よりも恐ろしい。
目の前にいるのは般若。最も有名な酒呑童子に匹敵するほど強力な妖怪であるとされている。
――逃げろ。
本能がそう叫んでいるのにも関わらず、恐怖で足どころか指先すら動かない。使用人たちは命に別条はないようだが、皆意識を失って動けずにいる。
「邪魔だから消えてね」
般若は髪を掻き上げると、弓矢を構えて容赦なく美影を狙って二回撃った。一本は小さな手を掠め、二本目は彼女の身体を風圧で飛ばし、美影は後頭部を強打した。
「痛いよお!」
両手から血が流れていき、頭を打った衝撃で視界がぐにゃりと歪む。痛みで頭がおかしくなりそうだった。
「あら、外しちゃった。次は良い所に当たるでしょうけど」
狂気的に微笑みかけると、再び弓矢を引いた。今度は美影の心臓を一撃で貫くつもりだろう。般若の手が矢から離され、美影に襲い掛かってくる。もう無理だと、目をつぶって衝撃を待っていた。
「一色 九重」
当たる寸前で白縹色の刃から繰り出された九つの斬撃によって弾かれ、矢の軌道がずれた。
「美影!大丈夫か?!」
将彦が大慌てで駆け寄ってきた。安心感に包まれた美影の目から涙が零れる。
「お兄ちゃん…⋯」
「ごめんな。遅くなって。痛かったよな」
小さな身体を震わせる妹の手を固く握ると、将彦はしっかりと目を見て告げる。
「美影。兄ちゃんが言うことをよく聞いてくれ」
「うん」
「アイツは兄ちゃんが引きつける。その隙に桜刃家まで走って、この状況を伝えてくれ。出来るか?」
「怖いよ……」
六歳の少女がこの状況で冷静に動く事は極めて難しい。しかし、美影を巻き込むのを避けるには最善の策だった。
「怖いよな。でも、美影が帰ってくる頃には怖い事は全部終わってる。約束する。だから、それまで安全な場所で待っていてほしい。入学式、絶対行こうな!」
「分かった。頑張る」
泣く泣く兄に背を向け、夢中で駆けだした。将彦の無事を祈りながら、一心不乱に数百m先の桜刃家を目指した。途中で、美鶴と宏に会った。我が子を不安にさせないよう、笑顔で手を振って一人で般若と対峙する将彦の元へ急いだ。「一緒にいて」と言いたい気持ちをぐっと堪えて走り続けた。
――そこから先の記憶は殆どない。
家族と零との大切な思い出が詰まった生家が全壊し、大勢が暮らす本家への移動を余儀なくされた。
覚えているのは、粉々に砕かれた将彦の愛刀と居合わせた人々の悲鳴だけ。
それから将彦は百目鬼総合病院の妖神外科に運び込まれ、即座に手術が行われた。しかし、医者達は「もう手遅れです」と、悔しそうに唇をかんだ。
美鶴と宏は頭部の損傷が激しく、将彦に至っては内臓が原型を留めていなかったと、美影の親戚たちに説明をしていた。
事件の翌日、美影は医師たちによって霊安室へと案内された。六歳の美影には、横たわる三人がもう戻ってこないのだという悲惨な現実を受け入れることが出来なかった。目に大粒の涙を浮かべながら、届かない声で語り続けた。
「またみんなで一緒にご飯食べようよ……私、九九も言えるようになったし、歌も覚えたの。それから漢字も少しだけ書けるようになった。ちょっとお姉さんになったんだよ…⋯?
ねえ、お兄ちゃん、お父さん、お母さん。おきてよ……一緒にかえろうよ……」
我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出した。そのまま膝から崩れ落ち、慟哭した。何も考えられず、ただただ意識が途切れるまで泣き続けた。
「美影ちゃん。これからは俺が支えるから」
彼女を心配して病院に駆け付けた零が、美影の肩を抱きよせ、手を優しく握った。零も心から慕っていた将彦を失った痛みで胸が張り裂ける思いがしたが、美影の前では感情を抑えていた。しかし、美影の返事はあまりに残酷なものだった。
「あなたは誰なの…⋯?」
頭を打ちつけた衝撃で、美影は記憶障害を起こしてしまった。事件による大きすぎるストレスも重なり、四~六歳までの記憶が完全に抜け落ちてしまった。美影のカウンセリングを担当した精神科医からその事情を聞いた零は、両親の前で覚悟を決めていた。
「師範の代わりに俺が金色になって美影ちゃんを迎えに行きたい。
でも、幼馴染だってことは絶対に言わない。
一から関係を築いていこうと思う。」




