大妖怪・酒呑童子
「あの…⋯目的地からどんどん離れていませんか?」
男性は首を傾げた。宵月自然公園は街の中心部にあるアウトレットモールに内設された公園だ。しかし、今いるのは建物一つない山奥で、目の前にあるのは浅い川のみだ。間違っているのは一目瞭然なのだが、美影は男性の話に耳を傾けず進み続ける。
「着きましたよ」
「いや…⋯ここ山奥ですよね?僕が行きたいのは自然公園なんですけど…⋯」
訝しげに眼を細める男性に、美影は「少し言いたいことがあって」と、普段よりも2オクターブ低い声で吐き捨てるように言った。
「正体を現せ。何が目的だ?」
美影は隠し持っていた白縹色の刃を鞘から抜き取り、男の首元に当てた。そのまま眉一つ動かさず、目の前の男を見据える。
撫子色の瞳が心なしか黒く見え、奥には静かな殺意を潜めている。精霊のように儚げで華奢な彼女だが、纏う気配は飢えた猛獣よりも恐ろしい。
それを感じ取った男は、「くくく…⋯」と突然満足げに笑いだしたかと思うと、控えめな態度と声色を一変させた。
「はあ~バレちゃった」
伊達眼鏡を乱暴に放り投げ、服を全て脱ぎ捨てた。現れたのは、若草色の髪に少年のような丸い赤色の目をした男。可愛らしい印象をしているが、その眼は焦点が定まっておらず、どす黒い狂気が潜んでいる。
酒呑童子――千年以上生き続ける、日本妖怪の頂点に君臨する鬼。国一つを滅ぼし、名のある神在を虫でも潰すように次から次へと惨殺したことから、鬼の中でも実力は頭一つ抜けているとされている。
江戸時代に一度は退けられ、脅威は過ぎ去ったはずだった。
今美影の目の前に現れたのは、酒呑童子に違いなかった。
美影は珠雪を取り出すと、胡蝶之夢、鬼哭鳴々と続けざまに二度唱えた。民間人への被害を避け、何より珠雪が酒呑童子にどれだけ通用するのかを試しておきたかったのだ。鬼哭鳴々が効けば状況は好転する。
僅かな望みに託したが、やはり甘くない。酒呑童子は「あれ?何かしたの?」と、攻撃が仕掛けられた事にすら気付いていなかった。
「ねえねえ美影ちゃん。いつからボクの正体に気付いてたの~?」
「最初からよ。一般人が私の背後を取る事はできない。でも、あなたは簡単にそれをやってしまった。油断させて殺したいのなら、下手に足音を消さないのが得策だった」
「可愛げないこと言うね~。ていうかさあ、君本当にちっちゃいね」
平静を装っているが、美影はこれまで感じたことのない恐怖と緊張感に襲われていた。
見た目こそ小、中学生のようだが、内から感じる力は凄まじく、美影ですら眩暈を引き起こすほどだ。
また、八岐大蛇のように、美影の実力を見誤って軽い口調で話しているのではない。口ぶりから察するに、彼女の能力を知り尽くした上で余裕を見せていることは明確だった。
「そーだ!良いこと思いついた!美影ちゃん、一つだけお願い聞いて」
「何?」
「ボクと結婚してよ~カワイイから好きになっちゃったー」
美影の胸に渦巻く怒りが呆れへと切り替わり、少しだが落ち着きを取り戻した。
「分かった⋯⋯なんて言うと思ったの?」
彼女の氷のように冷たい声を聞いた酒呑童子は、子供のように丸い目を尖らせる。赤い瞳の奥で黒い渦が巻き、美影への好奇心が純粋で混じり気のない殺意へと変貌を遂げた。
「そっか。じゃあ殺すね」
態度を一変させ、腹の底まで響くような低い声を出した。
「一色 黄泉・黑」
全てを喰らい尽くすような漆黒の炎により、心地よい自然の空気が淀む。同時に、美影は内臓が焼き切れるような熱気に襲われた。酒呑童子とは距離を取っているが、黒い炎の熱は容赦なく襲い掛かってくる。
暑さと緊張で、身体から嫌な汗が滲み出る。炎が周囲の酸素を喰らい尽くし、美影は数秒の間に酷い酸欠状態に陥ってしまった。
この炎の温度は二千度を優に超えている。
長時間この場所にいれば、酸素欠乏による一酸化炭素中毒で死に至る。
酸欠で倒れる心配もあるが、本当に避けるべきはやはり“鬼化”だ。鬼との戦闘で消費する榊は半端ではない。鬼化が進行すればする程、激痛に悶え苦しみ、戦える状態ではなくなる。酒呑童子程の相手ならば、美影がその苦痛に耐える間に致命傷を与え、彼女を再起不能に追い込むことは簡単だ。
もう一つ厄介なのは、鬼が妖怪の中で唯一神在と同じように榊を扱うという点だ。ただし、神在の榊よりもどす黒く、吐き気すら催す邪悪な気配を潜めている。
千年を超える寿命を有する彼らは、全ての時代の神在と死闘を繰り広げ、その度に神在達の戦法や弱点を学習してきた。神在が十数年己を磨こうが、その努力は鬼達の前で無惨に砕け散ってしまう。
美影は“神在”という過酷な道を歩むと決めたその日から、いつかは鬼と相対する日が訪れることを覚悟していた。
防御に徹するのも、最初から攻撃を仕掛けるのも得策でない。僅か0,001秒の間で、美影は酒呑童子の榊に慣れ、その中で鬼化を避けて致命傷を与える方法を探そうと決めた。「いきまーす!」という軽薄な声とともに、酒呑童子は美影の方に一歩近づいてきた。
次の瞬間、美影を取り囲んでいた周辺の木々が瞬きする間に塵介と化した。
ただ燃えたのではない。高温の炎により、完全に焼き切れた――それも一秒にも満たない速さで。
一般人は勿論、並の神在なら目視することさえ敵わないだろう。しかし、美影は違う。白露で受けるのは間に合わなかったが、並外れた勘の良さと天性の身体能力を発揮し、素早く伏せて躱していた。
また、同時に息を完全に止めていた。死に者狂いで己を磨き続けてきたのだ。十五分程度ならこのまま耐えられるだろうという確かな自信が彼女の中にはあった。
「君ちっちゃいから弱いのかと思ったけどすごいね~これまで殺した金色の人はみんな一瞬で死んじゃって面白くなかったんだよ。でも君は楽しめそうだから、ボク嬉しい♪」
何百年に一人の奇蹟と謳われる金色の神在は皆、目の前の怪物によって簡単に命を奪われてしまったのだろう。美影の心は、遊び感覚で人の命を奪う酒呑童子への怒りと、日常では感じることのない恐怖に支配されている―というのも嘘ではないが、実のところ、今は大して怯えてはいなかった。なぜなら…⋯
「自分の力を自慢するのは構わないけど、先に自分の心配したら?」
「偉そうに。ただ避けただけじゃん。何勝ったようなこと言……ウソでしょ」
酒呑童子の頸動脈と左足の太腿の辺りから、鮮血が吹き出した。
太い血管が流れる場所を正確に狙い、白露を使った後の僅か数秒で与えられる限りの深刻な怪我を負わせた。




