彼氏が甘すぎて困っています
美影と零の再会から三か月が過ぎ、七月を迎えた。一心不乱に鳴く蝉の声が、炎天下に絶え間なく響き渡っていく。眩しすぎる日差しは「容赦」という言葉を知らない。
桜刃邸の庭では青、紫、桃の紫陽花と朝顔が天空を見据えて咲き誇っている。縁側から届く、微かな風鈴の音が優しく心を撫で、鈴が揺れる度に硝子に描かれた紅い金魚が違った表情を見せてくれる。
「せっかくの夏休みだ。何かやりたいことはあるか?」
風鈴の音を聴き、見頃を迎えた紫陽花と朝顔を眺めながら、二人は朝からずっと手を繋いでいた。
美影の学校が夏休みを迎え、零の仕事も段々と落ち着きを見せてきた。景色を眺めながら他愛もない話をする時間は、どんな日でも愛おしく感じられるものだ。
「⋯⋯一つだけあるかな」
「何だ?遠慮せず言ってくれ」
美影は恥ずかしそうに下を向いて、いつもより小さい声で言った。
「こんな感じで……零くんと一日中一緒に過ごしたい」
勇気を出して言ったものの、途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。そう思ったのは本当だが、素直に言い過ぎてしまったと心の中で猛省した。
「あ、そうだ!麦茶持ってくるね!」
麦茶を言い訳に台所へ緊急避難しようと立ち上がった。が、零は美影を引き寄せて膝の上に乗せた。かなり体格差があるので、華奢な美影は零の腕に簡単に収まってしまった。
「零くん⋯⋯?!急にどうしたの……?」
「離れたくない」
零は美影を抱きしめ、桜色の髪を撫でた。同じ家で暮らしているとはいえ、ここまで彼と距離が近づいたのは今日が初めてだった。突然の事に、美影の頬が一気に赤く染まった。硝子玉のように透き通る紅梅色と翡翠色の瞳が、恥じらう美影の姿を映す。
「少しの間だけ…⋯このままでも良いか?」
「⋯⋯うん。でも、最近の零くんは私に甘すぎるよ」
「美影が可愛いから仕方がない」
「ちょっと⋯⋯!」
至近距離で甘い台詞を囁かれ、顔を背けたかっのだが、離してくれる気配がないので諦めた。
二人の生活が始まって早三か月が経過し、零が随分と自分に甘くなったと美影は感じていた。最初の二週間は、胸の高鳴りよりも、年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすことへの緊張が勝っていた。が、今は長年付き合った恋人同士のように距離が近い。
「ねえ。スイカバー取ってきたらダメ?」
「駄目だ」
「もう……じゃあ、甘えてもいい?」
「可愛いお願いだな」
美影を愛おしく思う気持ちが溢れ、零は彼女を抱き寄せた。この世で一番安心できる腕の中で、美影は幸せそうに表情を綻ばせた。
本当は小さい頃からずっと、不器用で優しい零が好きだった。
記憶を無くした後も零は自分を想い続け、また逢いに来てくれた。鬼化した美影さえも受け入れ、多忙な日々の中でも二人で過ごす時間を大切にしてくれた。
今も、零は美影一人を想い、大好きな声で名前を呼んでくれる。
本当に世界中の誰よりも幸せだと感じた。
「…⋯好きだ」
「私も大好きだよ」
目を瞑り、互いの唇を近づける。あと数センチで唇が重なるという所で、突如零のスマホから通知音が響いてきた。加速する心臓の音と赤く染まった顔を隠すように、二人は顔を背けてしまった。戦場に出れば基本的に負け知らずの二人だが、恋愛には全く耐性がないので、中々ファーストキスに辿り着かない。
「美影。その……続きは…⋯また今度…⋯」
「…⋯は、はい」
少女漫画のような甘い時間を過ごした二人は、目を合わせず、ゆっくりと体を離した。そして、両手で顔を覆った。初々しい彼らが距離を縮めるには、まだまだ時間が必要だ。
「何でまた…⋯!」
画面を見るや否や、零は頭を抱えた。僅か数秒の間だったが、彼の顔付きは格式高い桜刃の当主のものへと変わっていた。
「妖花山でハイキングを楽しんでいいた中学生十五人が、がしゃどくろに襲われたらしい」
大叫喚地獄に住むがしゃどくろは八岐大蛇に匹敵する巨体のみならず、高い知性まで持ち合わせる難敵で、零でなければ対処は不可能だ。
「三十分で戻る。安心して待っていてくれ」
「うん」
美影の頭を優しく撫でると、零は資料を確認しながら足早に玄関へと向かい、すぐに家を飛び出して行った。




