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百妖の桜巫女 ~神宿し乙女は、愛を知る~  作者: 今際ゆき
春、初恋が舞い落ちる

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途切れた初恋

二〇一四年。

平穏であたたかい、当たり前のようで特別な春の日のこと。


緑の間から顔を出す蒲公英やシロツメクサに、桜の花びらが舞落ち、道端に小さな花畑をつくっていく。


『零くん見て!これ私がつくったの!』


桜色の髪に撫子色の瞳がよく映える、ふわふわした雰囲気の少女――黒条美影が、大好きな零の元へ駆け寄った。


彼女は四つ葉のクローバーをガラス玉に閉じ込めたペンダントを見せた。

まだ五歳の美影が、零の笑顔が見たい一心で手づくりしたものだった。


「かわいい……本当にもらっていいの?」

「もちろんだよ!零くんがさびしくなった時は、これを見て私のことを思い出してね」


零は頬を微かに赤く染め、口元を綻ばせた。

大好きな美影からの初めてのプレゼントが堪らなく嬉しかった。


『ありがとう。……あのさ、美影ちゃん』

『どうしたの?』


首をかしげる彼女に、零は勇気を振り絞って伝えた。


『俺さ、ずっと隣にいるから。だから、美影ちゃんが辛いときは俺のこと呼んで。その時は……すぐ会いに行くから……』


美影は零の手をぎゅっと握った。


『私もずっと一緒にいるよ!』


小さな二人は互いを見つめ、微笑み合っていた。

変わり映えのないこの日々は宝物であり、堪らなく愛おしかった。



「懐かしいな……」



二〇二五年。

二十一歳を迎えた零は、幼馴染で初恋相手の美影と話した桜の木の下で一人、彼女と過ごした時間を懐かしんでいた。


夜空を落とし込んだような紫紺色の髪が、紅梅色と翡翠色の二色の瞳との調和を生む。その美しさのみならず、何事にも動じない冷静沈着さが、見る者を惹きつけている。


仕立ての良いスーツが似合う立派な男性に成長した零だが、彼女から貰ったペンダントは十一年がたった今も変わらず大切にしている。


「美影。……今迎えに行く」


零は涙を堪え、首元のペンダントをそっと握った。


妖しく美しい二色の瞳は、春の暖かさと対照的に、灰色の影を映していた。






九時四十五分。

「朝からしんどかった⋯⋯」


私立春光学園の一年三組の教室にて。

一限目の授業を受け終えた美影は、疲れて机に突っ伏していた。


遡ること一時間前。

八岐大蛇と戦ったことで次の電車を逃してしまい、美影は再び途方に暮れた。


もう仕方がないので、学校まで走ることに決めた。


妖花山から一向に速度を落とさず、自転車やバイク、車を追い越す程の速さで走った。

ただ、ありとあらゆる道を間違えて夜叉に「しっかりせえ!」と突っ込まれ、十分もタイムロスをしてしまった。


結果、学校に着いたのは一限目の数学の授業が始まって十五分が経過した頃だった。


災難は続き、担当の数学教師から文句を言われ、美影をやたら指名してきた。


降りる駅を間違え、妖怪を倒し、鬼化を防ぎ、授業でいつもより多く指名される。


今日は厄日かもしれないと美影は思った。



「とりあえずお疲れ~!ココア買ってきたからゆっくり飲んでよ」


カールのかかった金髪に、藤紫の瞳を持つ長身の少女が美影に缶入りのホットココアを差し出した。

華やかなピンク色のアイシャドウとリップがよく映え、丈を短くしたスカートはモデル顔負けのスタイルの良さを際立たせている。


「おはよう夢奈(ゆめな)。会いたかったよ~」


美影の表情がぱっと明るくなった。


城崎(しろさき)夢奈。

美影の中学時代からの友人で、良き理解者でもある。


美影が桜なら、お洒落で華やかな夢奈は薔薇や向日葵といった色濃く鮮やかな花に喩えるのが相応しい。


「改めてだけどさ、美影と同じ高校……しかも一緒のクラスになれてマジ最高だわ~」

「高校入試受かった時は本当にうれしかったよね」


二人で同じ高校に行こうと約束し、中学三年生の時に励まし合って受験を乗り越えた。

美影と夢奈は互いに唯一無二の親友と呼べる貴重な相手だ。


「同じクラスになれた記念にさ、駅前のクレープ屋さん行かない?」

「私も夢奈と行きたいって思ってた!」

「よし!じゃあ帰りのホームルームが終わったらすぐ行こっか。……逆方向行くなよ~!」


夢奈は美影の頬を軽くつまんだ。



親友との他愛もないやりとりを楽しんでいた時、不意に美影のスマホが鳴った。

画面を確認すると、「麗佳(れいか)叔母さま」と表示されている。


『学校が終わり次第、すぐに帰って零様に出すお料理を作りなさい。

あと、私の姪だなんて名乗るんじゃないわよ。

貴方のような恥晒しが身内だなんて……ああ恐ろしい……』


その心無い文章に、美影の表情が曇った。

近しい親戚だというのに、一切の思い遣りが感じられない。

短い文章の中にも、彼女の性格の悪さが現れている。


「何なのこいつ……美影の事何だと思ってんのよ!」


夢奈は怒りをぶつけるように、両手で机を叩いた。


神在のことは知らないが、美影に何らかの特殊な事情がある事に夢奈は薄々気付いている。

それでも美影を友達として大切にし、美影の為に本気で怒ってくれる彼女に、美影は何度も心を救われてきた。

夢奈の存在がなければ、妖怪退治という危険な仕事や、鬼化の恐怖に打ち勝つ事は出来なかっただろう。


「美影。いつでも私に電話して。美影からの電話ならいつでも大歓迎だから」

「……うん。ありがとう夢奈」


思い遣りにあふれる親友との高校生活が一日でも長く続くことを、美影は祈った。







授業が午前中で終わり、美影は急いで家路についた。


美影の生家である黒条家は、家といっても一般の家庭とはわけが違う。


高層ビルが林立する現代ではかなり珍しい、何百年もの歴史を感じさせる和風の屋敷。堂々と(そび)え立つ松の木、錦鯉が優雅に泳ぐ池、紅い太鼓橋、雪見灯籠が揃った趣深い日本庭園が広がっている。


飛び石が並んだ通り道を歩いていき、格子戸に手をかける。美影の表情は、学校に居る時とは打って変わって暗く、いつもの笑顔も消え失せている。

ガラガラという音と共に格子戸を引き、重い足取りで中へ入った。上質な畳と鶴や燕子花(かきつばた)が描かれた襖が目を引く、書院造の上品な和空間が広がっている。

掛け軸や古代の刀、歴代当主の肖像画までが飾られ、将に「やんごとなき一族」の住処だ。



黒条家と桜刃家は神在の二大名家であり、歴史に名を残す優秀な神在を数多く輩出してきた。


美影は黒条家の血筋で、世間一般で言う「お嬢様」だ。



ひとまず厨房に向かおうと屋敷の廊下を歩いていた時、美影の頭に硬いものが投げ付けられた。ティッシュを丸めたものなのだが、榊が込められている為小石並に硬くなっている。



「ごめんなさいね、美影さん。それ、ゴミ箱に捨てといてくれる?」



先の心無いメールの相手である叔母の麗佳が美影を見下し、敢えて白々しい言い方をした。主に悪役として童話に登場する、厭らしい性格の女狐のような目をしている。



「美影ちゃん、可哀想なくらい貧相⋯⋯」

「まあでも、料理出来るから便利だけどね」


美影を馬鹿にし、指を差して甲高い声で笑った。


親戚とは昔から折り合いが悪い上に、実力がない()()をしている為、美影は見下されている。


家での居心地は最悪で、美影はいつも憂鬱な表情で帰り道を歩いている。


本来の戦闘能力を発揮すれば、皆の態度は一変し、優秀な神在として持て囃されるだろう。


しかし、美影は底意地の悪い親戚から褒められ、可愛がられた所で嬉しくも何ともない。


――鬼化の秘密を死守したい。


実力が認められれば、自然と注目を浴びる。

同時に、鬼化した姿を誰かに見られるリスクが増すことになる。


鬼化を隠すことが出来るのなら十分だと美影は考えていた。


十年間辛い修行に打ち込んできた美影には、悪口など造作もないものだった。




「それよりさ、零様ってどれくらいイケメンなのかな〜?」

「確か左右で目の色が違うんだって!」


女性達の話題の中心が、美影から桜刃家の当主へと移った。


今日の式典は、新当主の挨拶が主だが、見合いも兼ねている。

今の時代、黒条家と桜刃家の間での政略結婚は流石に行われていない。

しかし神在というのは特殊で一般人には理解し難い職業であるため、必然的に大半の者が同業者を結婚相手に選ぶ。


今回は地位も実力も備えた美青年が当主の座を継いだということで、女性達は色めき立っていた。


「美影ちゃん。さっさと着物持ってきて。ちなみに、あんたの分の着物はないから」

「⋯⋯はい」




美影は彼女達に敬語を使い、常に下手に出ているが、内心では怯えるどころか「私にかまっている場合なの?」と呆れていた。


また、別の部屋の前を通った際は、屈強な男達から指をさして笑われたので、落ち込む素振りだけは見せておいた。


一定以上の実力を備えていれば多少の威圧感が漂うものだが、美影からは一切感じないため、一族の者は彼女を見下している。


彼女は弱いのではない。極端に榊を制限しているために力が弱く()()()()()の間違いだ。もし榊を解放すれば、屈強な男達ですら腰を抜かして倒れてしまうだろう。



――全て、鬼化の秘密を死守するための演技でしかない。




「あの…⋯美影お嬢様。無理に手伝って戴かなくても大丈夫ですよ。学校での時間をもっと大切にしてください」


令嬢だというのに自ら進んで台所に足を運び、料理の支度をする美影の身を案じて、使用人達はそう促した。


「私は嫌々やっているわけではありません。むしろ、子供の頃からお世話になっている皆さんと同じ時間を過ごせるので楽しいです。あ、ちらし寿司は任せて下さい」


この家の中で、使用人に対して敬意を払い、横柄な態度を取らないのは美影一人だ。美影にとっても、彼女達は家の関係者の中で気を許せる貴重な存在で、幼い頃からの心の拠り所だ。


美影は手際良くちらし寿司の準備を始めた。


卵は太さが均等に揃うように切り、酢飯と合わせた際の味をよく考え、砂糖の量が多すぎないように仕上げる。

黒酢は酸味が強すぎないものを厳選し、最後の一口まで飽きない素朴だが上品な味を自己流で作っていく。細かく切った人参と椎茸の後に海老を加え、最後に彩りを考えて桜でんぶを振りかける。


「夜叉。味見してくれる?」

『ええでー』


誰もいない厨房で夜叉を呼び出すと、ちらし寿司をスプーンに載せて夜叉に手渡す。


『うわ美味しい!天才やん。全部食べてええかな?』

「怒るよ」

『すんません』

「美味しいなら良かった。盛り付けて零様に持っていかないとね」


牡丹の花が描かれた和皿を取り出すと、見栄えを崩さないように細心の注意を払いながら丁寧に盛り付けていく。


『なあ美影はん。頭に投げつけるとか流石にひど過ぎへん?』

「全く問題ないよ。すぐに気付いたから頭を榊で守っておいたの。それに、学校でみんなと一緒にいられたら私は楽しいから」


夜叉は彼女が強がっていることに気付いている。


美影の表情は(もや)がかかったように暗く、学校とはまるで別人だ。美影の戦闘能力は極めて高く、黒条家の中で彼女より優れている者はいない。


が、彼女はまだ十六歳。精神面まで強いとは限らないのだ。


美影は料理の準備に、他の面々は自分を着飾ることに注力する内に三十分が過ぎ、式典の時間がやってきた。

高級な老舗旅館のように洗練された黒条邸の中でも、最も広く豪華な大広間に黒条家、そしてもう一つの名家である桜刃家の親戚一同、およそ百人が集っている。

全員が珠雪と、色が違う百合の胸章を身に着けている。

(しろ)(がね)色、桔梗(ききょう)色、藤色、(はね)()色の順に貴賓席から近い所に座っている。


一般的な仕事に様々な役職が存在するように、神在には階級が存在する。

上から順に金色(こんじき)、白銀、桔梗、藤、朱華と定められており、仕事の危険度と報酬は付与された称号によって大きく変動する。


戦闘が許可されるのは桔梗以上の神在のみで、藤と朱華の者は後方支援に徹することしかできない。

美影は朱華すら獲得できない弱者を演じているが、彼女の実力なら本来は白銀を獲得できる。


また最上位の金色は、「五百年に一人の奇蹟」と呼ばれる程獲得するのが難しい。一人で妖怪の最上位である鬼を難なく倒すことができる者にのみ与えられ、現在は桜刃家の新当主のみが有している。


「私、この間桔梗に昇格したの。女性で持ってる人は少ないから、チャンスね」

「それを言うなら私も治療の仕方覚えたの!」


全員が今日のために用意した、品のある着物や袴を身に付け、正座をしている。朱華、藤、桔梗の女性は、桜刃家の方も新当主の目を引くために、華美な着物を着ている者が大多数だ。

実力は並みかそれ以下だが、自分の魅力には自信があるようだ。


そんな中、着物を渡されず、制服姿での出席を余儀なくされた美影は、出席者全員から嘲笑うような視線を向けられていた。女性は、「ライバルが一人減ってラッキー!」、「あの子は論外でしょ」と喜んでいる。


料理を運ぶのを手伝うことは素晴らしいのだが、黒条家の令嬢として褒められたものではない。弱いフリをしているのだから仕方がないか、と気まずさを紛らわせていたその時、襖が開く音がし、大広間の空気が一変した。



執拗に力を誇示していた者も、美影の陰口を肴に盛り上がっていた者も、皆一挙に口を閉ざした。


地球上ではたらく重力の大きさはどの場所でも一定なのだが、この部屋だけは重力が倍になっているような、そんな感覚に全員が襲われた。

先の勢いはどこに行ったのやら、屈強な男達が畏怖のあまり冷汗を流している。

八岐大蛇の前でも顔色一つ変えない美影でさえ、背筋が凍りつくのを感じた。




「本日より第五十四代目当主を継承する運びとなりました。(さくら)()(れい)と申します」




襖を閉じて一礼したのは、左右で瞳の色が異なる、息を呑むほど美しい青年。夜空を落とし込んだような紫紺の髪に、右目は梅の花を溶かしたような紅梅色、左目は透き通る硝子玉を連想させる翡翠色という浮世離れした容姿が男女問わず人目を引く。

また、上質な漆黒の羽織袴が彼の凛々しさとの調和を生む。


彼こそが、桜刃家の新当主・桜刃零だ。


二十一歳という若さで当主を引き継いだ秀才で、史上最高の神在との呼び声が高い。


「零様!私は昨年桔梗の称号を獲得しました!私の榊は零様と相性が良いと思います!」

「私だって来年には白銀を獲得できるはずです」

「零様、お花にご興味は?」


女性達が我先にと零の元へ向かい、自分をアピールする中、配膳を終えた美影は静かに大広間を後にした。



――零の紅梅色と翡翠色の瞳が、美影の姿を映していることに気付く筈もなく。





「あったまるな⋯⋯」


約一時間が経過した頃。

式典が終わり、黒条邸には静けさが戻っていた。

後片付けを終えた美影は、縁側で一人、自分で点てたお茶を飲んでいた。


お茶は渋く上品な抹茶色で、ほどよい苦味が疲れた身体に染みわたる。

ししおどしの清流の音や、松の木を微かに揺らす風の音が心地良く、庭園の緑が心を和ませる。


お茶を飲みながら庭園を眺めるというのは、美影のささやかな楽しみであり、至福のひと時でもある。


縁側は、この家の中で意地の悪い親戚と顔を合わせずに済む数少ない場所なので、学校から帰ってきたらなるべく縁側に行くようにしていた。


「隣……座っても良いか?」


夢奈に電話をしようか考えていた時、どこか神秘的な男性の声が静寂を切り裂いた。


紅梅色と翡翠色の二色の瞳と、紫紺色の髪を持つ浮世離れして美しい青年。

そんな美貌を持つ人物は一人しかない。


「零様?!」


美影は慌ててお茶を置いて立ち上がり、男性――桜刃零に美しい礼をした。

抜けの多い彼女だが、礼儀作法に関しては流石の一言に尽きる。


「そんなに緊張しないでくれ。ただ君と話がしたいと思って……会いに来てしまった」


式典の時は眉一つ動かさすにいた零が、別人のように優しく微笑みかけた。

見目麗しい彼の笑顔に、美影は一瞬、息をするのを忘れて見惚れてしまった。


緊張でぎこちない態度を取る美影を愛おしそうに見つめ、零は隣に腰かけた。


彼が、なぜ大した接点もない美影に会いに来るのか。

理由はよく分からない。

ただ、不思議なことに、彼の纏う空気はとても心地良かった。


「久しぶりだな」

「そう…⋯ですね」

「一つ言わせてほしい。あの時は本当にありがとう」

「お礼をして頂く程のことをした覚えがないのですが…⋯」


零は目を優しく細め、戸惑う美影に笑いかけた。



「君にとっては些細なことかもしれない。しかし、俺にとっては大切な思い出なんだ」



三年前の春。中学に入学したばかりの美影は、家族と顔を合わせないように一人で庭に佇んでいた。特殊な家系に生まれた自分はクラスに馴染めるだろうか、と漠然とした悩みと密かに向き合っていたその時、不意にスーツ姿の美しい青年の姿が目に入った。

恋愛に無関心な美影ですら一瞬で目を奪われるほど、彼は整った顔立ちをしている。

黒条家に足を運ぶのだから、桜刃家の関係者だろう。

だが、本当に気になったのは容姿でも家柄でもない。

零は腕と足に相当な怪我をしている。恐らく、強力な妖怪と遭遇してしまったのだろう。心配して様子を見ていた時、彼が痛みに耐えきれず倒れてしまった。


「大丈夫ですか?!」


慌てて駆け寄ると、零は苦しそうに顔を歪めながら「大丈夫だ…」と答えた。が、無理をしている事は明らかだ。


「俺を庇ったせいで…⋯親友が大怪我をしたんだ。そいつは今⋯⋯集中治療室にいる。この程度で苦しんでいるようでは駄目だ…⋯」


無力感に苛まれる零の姿が、幼い頃の自分の姿と重なった。家族が命を懸けて戦っている中何も出来なかったあの頃の自分を見ているようで、胸が締め付けられる思いがした。


力を使えば鬼化した姿を曝す羽目になるかもしれない。


力を解放する事を躊躇った美影だったが、傷ついた彼の前で自分を優先している場合ではないと考え、迷わず「七色 蓬莱」と唱えた。

霞がかかった蓬莱山と共に、一面に棚引く金雲や龍が出現した。小さな三匹の龍が彼に近づくと、瞬く間に彼を苦しめていた深傷が跡形もなく消え去っていった。


「すごい…⋯もう痛みが消えた。それよりも、治療は体力を使うものだ。君は大丈夫なのか?」

「心配ありません」


人の治療に榊を用いる場合、施す側の体力は相当削られるのだが、美影は全く疲れた素振りを見せない。幸いにも、鬼化が始まることはなかった。


「あの⋯…僭越ながら一つよろしいでしょうか?」

「どうした?」

「ご友人は、きっと優しい貴方が本当に大好きなんだと思います」


零は困惑し、少し疑わしげに美影を見る。


「貴方はご自身よりも、初対面の私の体を気遣って下さいました。こんなに優しい方に、私は出会ったことがありません」


彼女の心からの言葉を聞いた零は、涙で目を潤ませた。罪悪感は消えていない。心にかかっていた靄が晴れたような、そんな心地がした。

「あ、あの…申し訳ありません。余計なことを…⋯」

慌てふためく美影に、零は「本当に…⋯ありがとう」と何度も礼を言った。


「俺は親友の元を訪ねてみようと思う。それから、もう一度仕事へ行く。…⋯改めて、本当に助かった。君のお陰だ」


立ち去って行く零に美影は慇懃に頭を下げる。


「どうかお気をつけて。無事を心から祈っております」


風に吹かれた桜が、彼女に降り注ぐように零れ落ちた。高級な糸を束ねたような桜色の髪、透き通る薄い撫子色の瞳、彼より頭二つ分は小さい体。桜のように儚く、精霊のように華奢だが、芯の強さを確かに持っている。彼を見つめる瞳は、芽吹いた春の花と彼女の優しさを映し出していた。



そんな彼女に、零は()()()()恋をした。



零は、彼女の笑顔の奥に潜む重大な秘密にも気付いていた。


が、彼女の記憶は戻る見込みがない。


どれだけ愛しても、記憶を失った彼女にとって、零は幼馴染でも何でもない只の他人だ。

彼女の人生に台本があるなら、零は名もない脇役で、エキストラでしかない。

そんな相手に「大丈夫か?」と心配されても、迷惑でしかない。

愛しているからこそ、迂闊に会いに行くことが出来なかった。想いを告げると決めた今日の為に、零は己を磨き続けた。



「私は尊敬する家族の教えを守ったまでです」

「君は優しいな。優しすぎて心配になる」


翡翠色と紅梅色の瞳が、温かな光を反射する。零は少しの緊張を孕んだ声で率直な思いを告げる。



「君が好きだ。一緒に桜刃家へ来てくれないか?」


ただ真っ直ぐに、想いを伝えてくれる人は今までにいなかった。

目の前の彼と真剣に向き合いたいと思った。


が、鬼化した姿を見られてしまう恐怖がどうしても拭えない。


「…⋯少しお時間を頂けないでしょうか?まだ決心がつかなくて…⋯」

「勿論だ。何年でも良い」


曖昧な返事しか出来なかったが、零の声色は途方もなく優しいままだ。


「すまない。そろそろ仕事に行く。またゆっくり話そう」

「はい」


立ち去る零の背中を眺める美影の頬を、一筋の涙が伝う。


「これで良い…⋯あの日決めた筈だろ」


零は彼女の方を振り返り、今度は寂しげに目を細めた。




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