おかえり
「なあ零。やっぱお前すげえな」
賞賛する月読命には答えず、酒呑童子の消失を確認するや否や、美影の元へ走った。美影は熱にうなされながらも、上半身を起こして手を伸ばし、零の頬に触れた。
「零くん…⋯よかった……戻ってきてくれて」
「ああ。君のお陰だ。君が居てくれたから俺は…」
美影はゆっくりと首を横に振った。ひどい熱だが、意識ははっきりしている。
「久しぶりに、二人で帰ろう」
「…⋯うん」
零は大切な宝物を扱うように彼女を抱え上げた。彼女の身体は驚くほど華奢で軽く、力を加えれば壊れてしまいそうだ。出来るだけ揺らさないよう気を遣いながら山を下って行く。
美影は苦しそうな呼吸を繰り返しているが、何とか意識は保っている。
約一分で麓まで到達すると、騒ぎを知って駆け付けた両家の関係者が大勢集まっていた。やたら騒ぎ立てる彼らを、零は目の圧力だけで黙らせた。
「やっほー。未読スルーされるもんだから、合コン抜け出して来ちゃったよ」
そんな中でも、飄々とした男が軽口を叩きながら零に近づいてきた。乱れ一つないコバルトブルーの髪に山吹色の瞳が良く映える、零に負けず劣らずの美しい青年。グレーのスーツに付いた白銀の紋章が光っている。
「夾。助かる。…⋯あと、合コンの食事代は経費で落ちないぞ」
紅林夾。零の十五年来の親友であり、遠縁の親戚でもある。零とは正反対で、軟派な女好きだが、神在りとしての実力は確かなものだ。
夾は零の腕に抱えられた美影の様子を見ると、僅かに顔をゆがめた。
「黒条美影ちゃん…⋯だっけ?早く休ませてあげた方が良いよ。この場は俺が良い感じでまとめるからさ、早く帰ってその子の傍に居てあげて。大事な人でしょ?」
「ありがとう。任せるぞ」
「今度ハーゲンダッツ奢ってよ」
「三個までなら許す」
真面目で一途な性格の零と、何事にも奔放な夾。相容れないように思えるが、互いの実力を評価し、心から信頼し合っていることがよく分かる。
夾に託すことを決めた零は、美影を抱える腕に一層力を込め、急ぎ足で自宅へと向かった。
酒呑童子と対峙したこの山から、五分程で零の自宅に到着した。
窓や襖が少ないため開放感があり、家中はどこも風通しが良く心地よい。庭のししおどしから響く清流の音や、優雅に泳ぐ錦鯉、満開を迎えた桜が日頃の疲れを癒す。歴史ある掛け軸、上質な畳や襖、極めつけは庭園を一望できる露天風呂。とても個人の自宅とは思えない、高級旅館のような屋敷だ。
黒条家・桜刃家の当主には確かな地位と名誉の他に、このような屋敷が一つ与えられると決まっている。
「今はとにかく、ゆっくり休んでくれ」
零はなるべく風が当たらない部屋へ向かい、布団の上に美影をそっと下ろした。
この家の空気はとても穏やかで心地良く、零の人柄そのものを表しているようだ。
天然のい草の香りに安心した美影は、消耗し傷ついた身体が休まるのを感じた。
身体が回復したら零と何を話そうかと朦朧とした意識の中で考えていた時、全身を猛烈な痛みが襲った。酒呑童子に鉈で斬られた時の比ではない。美影の全てを支配し、根こそぎ奪い去るような、将に地獄のような痛みだ。
「あああああああ!」
「美影!!どうした?!」
自力で歩けない程辛い筈なのに、美影は突如、頭を押さえて苦しみ出した。
零は心配して彼女に駆け寄った。十年の時を経て、漸く本当の再会を果たしたのだ。
再び記憶を失い、他人同士に戻る事だけは耐えられない。もし再発の可能性があるのなら、今度は手遅れになる前に自分が止めたい。
その一心で、零は美影の手をそっと握った。
「私から離れて!」
美影は零の手を振り払い、そう叫んだ。
そのまま顔を見られぬよう、頭を押さえてうずくまった。
二本の角が生え、両眼も肌も般若のものへ変わり、赤黒い椿が全身に浮かび上がった。
牙も恐ろしい勢いで伸び始めている。
恐らく、美影を知らぬ誰かがこの姿を見れば、異形とみなし、躊躇いなく刀で斬りかかるだろう。
もう美しく可憐な少女の面影は残っていない。
「薄桜之天女」で鬼化を食い止めたつもりだった。が、今回は相手が悪すぎた。
酒呑童子とは力の差が大き過ぎたために、榊の消費を抑え、上手く鬼化を止めることが出来なかったのだ。しかし、問題なのは神代の効果云々ではない。
この姿を、零にどう説明すれば良いのか。
般若は零にとっても、敬愛する師範の命を奪った憎き仇だ。幼馴染がその般若に支配され、且つその事実を何年も隠し続けていたのだ。
彼に拒絶され、嫌われてしまえば、今度こそ本当に居場所が無くなってしまう。その不安と恐怖は拭えないが、命を救ってくれた彼には話す義務があると思った。美影は、全てを投げ打つように、零と向き合った。
「零くん……私は…⋯榊を使い過ぎると般若の姿になるの…⋯だから、零くんの隣にいる資格はな…⋯」
零は怒りを露わにする事も、追及する事もせず、涙を零す美影の小さな身体を優しく抱き寄せた。彼女が背負う全てを包み込むように、美影の頭を撫でた。
「怖かったな。でも、もう大丈夫だ」
零と触れ合ったその瞬間、般若の面影が消え失せた。角も牙を消え失せ、陶器のように白い肌と透き通る撫子色の瞳が戻ってきた。
「零くん…⋯ごめんなさい…⋯」
零は何も言わず、首を横に振った。そして、美影の手をぎゅっと握った。
「もう一人で背負う必要はない。これからは、二人で乗り越えていこう。君が苦しまなくて済むように、俺が般若を追い出して、必ず君の身体を直してみせる」
しっかりと繋がれた手のぬくもりが、長年閉ざされていた美影の心を溶かした。
「零くんの手…⋯あったかいね」
涙を浮かべたまま、美影は零に笑いかける。それに応えるようにして、零も微笑み返した。
「美影。改めて言わせてほしい」
「うん」
「初めて会った日から、ずっと君が好きだ。十一年たった今も、その気持ちは変わっていない。…⋯その……君さえ良ければ、この家で一緒に暮らしていきたいと思っている」
不器用だが、零の言葉は美影への温かい思いやりで溢れていた。美影は途方もなく優しい幼馴染と出会えた幸せを噛みしめながら、ゆっくりと頷いた。
「私も…⋯零くんの隣にいたい…⋯です」
とびきりの笑顔で返事をしたのは良いものの、熱はまだ引いていないので顔色はあまり良くない。
「ゆっくり話したいところだが、今日は休んだ方が良いな」
彼女を横たえ、布団をかぶせた。疲れ切っている美影は、電源が切れるかのようにすぐに眠りについた。零はそんな彼女の手を取り、ぎゅっと握った。
「おかえり。美影」
手を握ったまま、誰にも聞こえない、心からの言葉を小さく呟いた。
穏やかで、何よりも愛おしい二人の物語は、十年の時を経て再び動き出したのだった。




