夜に溶ける
昔、好きな女がいた。
髪は顎らへんでばっさり切っていて、黒いおかっぱが黒いタートルネックと溶け合い、夜に沈んでいきそうな女だった。
血のような赤色の口紅をつけて、妖艶に私を揶揄うのに、唇に運ぶ飲み物はノンアルコール。
可愛げと同時に、パタリと本を閉じるみたいに、いつかふっと消えてしまいそうな女だった。
女は、私のことを「好きだった」と言った。
手を握られ、そっと微笑む彼女に、胸は小さな針で刺されたみたいにチクリと痛んだ。
女には、もうその時、他の男がいた。
東京駅で「迷子になっちゃダメだから」と、小さな手で私の手を握って笑う彼女。
大学の談話室で、英語の本に文句を言いながらページをめくる彼女。
思い返せば、私の青春の思い出には、彼女しかいなかった。
彼女は、結婚するんだと、無情にも言った。
私は、友人として「良かったね」と言うしかなかった。
彼女には、白は似合わない。
そう思いながら、私は今日も赤い血のような紅を塗り、重たい女の体を引きずって、新宿のきらめくネオン街に赴く。
彼女の代わりなんて、どこにもいないのに。
それでも私は、ネオンに照らされながら、消えずに歩いている。
彼女のいない世界で、赤い紅だけを頼りに。