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「ぉ…カあ、さ…マ?」
「…?あぁ!」
「お前、冗談だろ!?」
か細い声が静まり返った部屋に落ちると同時に、アルフィが納得したような声を上げる。その様子に思わず杖で殴りかかりそうになったアネリは、一瞬で考え直して何とか手を下したが怒鳴ることは止めることができなかった。
「母さま…?」
その背後でその様子を見ていたセシルは、先ほどまで狂ったように叫んでいた女に思わず呟いた。その女が纏う血染められたドレスが、かつての母のお気に入りにひどく似ていたからだ。いや、もはやそのものだった。
それは母が結婚した後に始めてもらった贈り物で、父が母の好きな花の色の生地を探し出して、流行りのデザイナーに作らせた特注品だった。
普段着には向かない繊細な意匠で、たっぷりとしたフリルに腰回りから裾にかけてあしらわれた花の刺繡は針子たちが、昼夜問わずに作業し続けて半年後にやっと完成したという。普段着に着るにはあまりにも贅沢なドレスだったが、母がしまい込むのを予想していた父は着なければもっと豪華なものを仕立ててやると脅したらしい。気の引けた母は渋々着たが、以来気に入って屋敷にいる時間のほとんどをそのドレスで過ごした。
セシルが物心ついてからもずっと、そのドレスを着ていたはずだ。そんな見慣れたドレスをここで見るはずがない。それを着ているあの女が母であっていいはずがない。いつも優しく微笑み、父を支え、セシルを優しく抱き上げた手があんな血に汚れていていいはずがないのだ。
「すっかり忘れていたけれどあなたもしかしてレティの娘?」
「おかアさマ…?ドこにイタの?」
「ずっとここにいたわよ」
「どうシて置イていったノ?」
「うーん、飽きたから?」
あっけらかんとした返答に亡霊は目見開いて固まる。しかし、数秒後にはまた怨嗟の渦巻く悲鳴を上げ始めた。激しい突風がアルフィの髪の毛を激しく弄ぶ。
「飽き…タ?なぜ?ナゼ?ナぜ?ァなナが居なクなってからワタクシは…ワタシたちは…」
「レティはいい男だったけれど、潔癖すぎて私にはつまらなかったの。でも私が育てるよりあの人のところで過ごした方が不自由なく暮らせると思ったのよ」
血涙を流しながら、アルフィの首に手をかけた亡霊に思わず飛びつく。驚いたアリアやネルの声が背後から聞こえる。
「せ…しル…」
抱きついたまま何も言うことは出来なかった。こちらを見下ろす顔を見れば見るほどその形相は異様だが、振り乱した髪の長さも、血の涙を流す朝焼けの瞳も何もかもが母のものだ。
「ァあ、ワタシの…」
女の手がセシルの髪にそっと触れた。その瞬間に弾けるような音が響き渡り、女は小さく悲鳴をあげて後ずさった。触れた手は黒く染まり、煙が立っている。
「その子は確かにあなたの息子かもしれないが、今のあなたに触れさせる訳にはいかないようだ」
「ワタシの…むす、コにナにヲシタの…」
「身を守る呪いだ。理性はまだあるようだが、弾かれたということは、あなたが息子に害を与える存在になったことを意味している」
杖を持ち直したアネリは、冷静に彼女と距離を詰めた。女は手とアネリを交互に見ながら、体勢を立て直そうとしたが、足がもつれたのか倒れ込む。アリアが駆け寄ってきて、女から引き離そうとセシルの手を引いたが、少年はその場から動かずにじっと女を見ていた。
「ワタシの息子なの…ワタ、シの…」
その悲痛な声はセシルの胸を激しく揺さぶったが、伸ばされた手を取ろうとは思えなかった。呻きながらこちらに近づいてくる女に問いかける。
本当は泣き出したいほど、悲しくて苦しかった。父に政策の助言を求められるほど聡明で、使用人にも茶会で余った菓子をこっそりと分け与えるような優しさを持った母が、あれほど大事にしていたドレスを汚して泣き叫んでいる。その光景がどれほどセシルの胸を締め付けたか、母の形をしたあの女にはもう分からないだろう。
「母様、あなたは何がしたいのですか?」
「あなたを、連れ帰ル…あの、イエに…」
「僕たちの家はもう焼け落ちたのでしょう?」
「い、イイえ…決しテ、そのヨウナ…グッ!」
セシルの言葉を必死に否定し続ける女は頭を抑えて苦しみ出す。
「チェルシー、だったか?あなた方の身に起こった不幸は聞いているが、少し落ち着いてくれないか。あなたの息子のほうが今のあなたよりもよっぽど大人だ」
「?」
「その言い方は少し変だ、僕だってほんとうは悲しいよ、泣き叫びたいくらいに。でもどうしたらいいかわからない。今だって目の前にいるのが本物の母様かすらわからないし…」
「…」
女は息子の言葉にじっと耳を傾けた。吹き荒れていた風もいつの間にか止んでいる。アリアやネル、アネリもかたずをのんで見守っていた。そんな空気に居心地の悪さを感じながらも、ずっと胸にとどめていた気持ちを吐き出せるのはもうこの場しかないことは分かっていた。
「母、さまは…死んダの。父様と、あの屋敷と共にね…そう、セシルの言うとおりね…あなたのことが心配でみっともなくこの世にしがみついてしまったのよ」
呆然としながらもゆっくりと微笑みながらこちらを見上げた彼女の表情は間違いなく母親のものだった。




