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「遅かったな、パンケーキは私が頂いたよ」
「え、そんなぁー」
中に入るなり、台所から聞こえてきた言葉にアリアは思わず床に手をついた。涙を吞んで立ち上がると、軽い感触が頭に触れる。
『お夕飯の時間だから仕方ないわ。明日作ってもらいましょ?』
「うん…分かった」
透き通った不思議な手は微かな温もりを持って頭を撫でている。その感触はとても心地よかったが、今は家に帰ってきた瞬間に鳴り始めたおなかをなだめるのが先だ。
皿と料理を食卓に並べながら、師匠は会話に参加する。
「また不思議なお友達か?羨ましいなぁ、私も彼女と話してみたいものだ」
「リウはあんまりおはなししないよ」
「でもな、二百年生きてて知らないことに遭遇するってのは楽しいもんだぞ」
「かいぼうはやめてね」
『…!』
元々魔法の研究に凝っていたアネリは興味深い道具を直ぐに分解する癖がある。それが自分に直せるものかどうかはともかく、とにかく自分の目で全てを確かめないと納得しない質だった。物騒な発言にリウは動揺したように体を揺らしてスっと消えた。
「あー、行っちゃった」
「彼女にも怖いものがあるんだな」
「師匠のせいだよ」
「解剖って言葉を出したのはお前だろ」
二百歳と八歳とは思えぬ軽快なやり取りの中、夕食のシチューが完成した。さらに盛り付け、食卓につくと、食前の祈りなどなく二人ともそのまま食べ始める。
人間の世界では何やら食前にお祈りをするそうだが、魔法使いや魔女は何者にも縛られない。ましてや神などという曖昧な存在に頼ることもない。なぜなら、それに近しい振る舞いをできるのが魔法使いだからだ。
黙々と食べていると、師匠がふと手を止めた。
「そうだ明日、私は出かけるが、お前は留守番だ」
「えぇー!やだ、いっしょに行きたい!」
「他の用事なら考えてやったが、これはダメなんだ。魔法の自主練をして、暇になったらリウに遊んでもらえ」
アリアはむくれたが、いつもはどこにでも連れて言ってくれる師匠がここまで言い含めるものは黙って聞く以外の選択肢がないことも理解はしていた。師匠は月に何度か一人で出掛ける日がある。その後は大抵一週間ほどの遠征に行き、家はアリアとリウ二人だけになる
「遠征はこないだやったから、別の事だと思うがもしかするからさぼるんじゃないぞ」
師匠の忠告に渋々うなずきながら、少し冷めてしまった残りのご飯を食べ終える。夕飯を食べ終わった後は、魔法で風呂を済ませる。風呂だけではなく掃除にも応用できるため重宝される魔法だ。日常生活に欠かせない魔法だが、力のコントロールが難しいためアリアはまだ師匠にやってもらうほかない。本物の風呂に入るのは一週間に一度、夏になると一ヶ月に一回だけだ。
今は春だが、冬場になると二日に一度入る日もある。今日は湯船に入らない日のため、手早く寝巻きに着替えて、寝室に向かう。師匠と一緒に寝るベッドは本当は一人用のものなので二人並んで寝れば、もうそれだけでいっぱいになってしまう。
「ほら、早く寝ろ」
「…はやくかえってきてねー」
乱暴な手つきで毛布をかけたアネリに引っ付いたアリアは眠い目をこすりながら小さく言った。その言葉を聞いたアネリはわずかに笑みを浮かべながら彼女の頭を撫でる。
「そんなに心配しなくていい、お前は連れて行けないけど、そんなに時間はかからないはずだからな」
「こんどこそ…パンケーキ…」
言いながら夢の世界へと旅立った食いしん坊を見て、アネリは苦笑した。かつて、彼女にとっての子供はやかましく鬱陶しいものだったが、アリアが来てからは噓のように苦手意識が取り払われ、今では他の魔法使いの弟子に注意を向ける余裕さえできた。
アリアが寝返りを打ってずれた布団を直して目を瞑る。考え事は尽きなかったが、気づけば眠りに落ちていた。