愛しているからストーカーしたいんです!
「まあ……!」
目覚めた瞬間、彼女は理解した。
これは、神の思し召しだと。
「姫様、お目覚めですか? 今日はお早いですね」
「マーシャ!」
パッと寝台から下りたラーニャリーノは、はしたなくも寝間着のまま侍女のマーシャへ抱き着いた。
(マーシャが生きているわ! なんてすばらしいのでしょう!)
彼女の脳裏に、自分を庇って剣に刺されるマーシャが浮かぶ。
マーシャだけは、最期までラーニャリーノに付き従ってくれたのだ。
「あら……今日の姫様は甘えん坊ですね。この間、八歳の誕生日を迎えたというのに」
くすくすとおかしげに笑いながらも、マーシャがボサボサの髪を優しく撫でつけてくれた。ふわふわのストロベリーブロンドは、丁寧に梳かさないとすぐに絡まってしまうのだ。
(八歳……)
マーシャの言葉で、十五年も時をさかのぼったことに気づいた。
八歳ということは、最愛の人に出会う前である。
(また、もう一度、あのお方に会えるのですわね)
最愛の人を思い浮かべたラーニャリーノの胸が甘くときめく。
会った瞬間に心を奪われた。
この人は、ラーニャリーノの運命の人だと。
「さあ、姫様、朝食の前に準備をいたしましょう。こちらでお顔をお洗いくださいませ」
「……ええ!」
銀のタライに並々と水が注がれていく。
冷たい水を小さな手ですくったラーニャリーノは、そっと顔に当てる。
刹那、ピリッとした痛みが顔中に走る。
「まあ……! くすくす」
「姫様、どうなさいました? 何か問題でも?」
「そうねぇ……」
ラーニャリーノは、ちらりと顔を伏せている侍女に視線をやった。
彼女の手は、小さく震えていた。
自分が犯した罪を自覚しているのだろう。
「ねえ、わたくしの肌は、透き通るように白く薄いけれど、これでも肌荒れ知らずで頑丈ですのよ。シビの葉を漬け込んだ水ごときで、爛れたりしませんわ。シビの葉は、美容としても良いといいますし……。王妃様におすすめしようかしら」
「……ッ。も、申し訳ございません!」
顔色を真っ青にした侍女が額を床にこすりつけて謝罪した。
それだけで、マーシャも悟ったようだった。
「おまえ、なんということをしでかしたの!」
「マーシャ、怒らないで。事情があったのよ。わたくしは、気にしてませんし。それに、この程度のことで気に病んでいたら、命がいくらあっても足りませんわ」
「まあ、姫様。どうなさったのです? いつもでしたら、鞭打ちを百回命じられたでしょうに」
「ふふふ、そういうのはもう飽きたの」
「……さようでございますか」
マーシャは、安堵したように表情を緩ませた。
(マーシャが喜んでいるわ。これで良かったのですわね)
マーシャはいつもラーニャリーノの行き過ぎた振る舞いを窘めていたが、それに耳を貸さなかった。
ラーニャリーノを害する者は死を与えられて当然だし、歯向かう者は一族ごと滅ぼした。
それだけの地位と権力が自分にはあったし、だれにも止められる者はいなかったのだ。
だが、そんな悪行もいつかは終止符は打たれるものだ。
婚約者と婚外子である異母妹が正義を掲げ、王家に反意を抱いたのだ。
それを手引きしたのが、王妃だった。
側妃の子であるラーニャリーノを日頃から疎んでいた王妃は、好機を見逃さなかった。
結果、国王と共に、ラーニャリーノも儚く散っていったのだ。
しかし。
ラーニャリーノにとって、自分の死などなんの問題もない。
ただ、悔やむべきは、すべてを捧げて愛する者が、異母妹の毒牙にかかったくらいだ。
それだけが許さなくて、異母妹に天罰が下るよう死ぬ間際まで祈っていた。
(日頃の行いのお陰ですわね。きっと神が憐れんでくださったのですわ)
運命で結ばれた二人は引き離されるべきではないのだ。
ラーニャリーノの愛する方は、四大公爵家のひとつ、蒼の大公の子息だ。
初めて会ったのは、忘れもしない。
四大公爵家の次期候補者を国王陛下に紹介するために開かれたお披露目会で、彼に出会った。
目が合った瞬間、彼こそが自分の運命だと悟り、すぐに父である国王陛下に彼が欲しいとせがんだ。
『可愛い姫。蒼の公子は、蒼の大公を継ぐ者。王配にはなれぬ。それに、すでに婚約者がいる身。相手に相応しくない。その代わり、翠の大公のところはどうか? お前とは年も近く、有能だというぞ』
国王陛下は、そう言ってラーニャリーノに諦めさせようとした。
親同士が決めた許嫁とはいえ、普段から交流もあり、仲が良かったらしい。
それに、次期大公が王配になることはできない。
だが、ラーニャリーノは認めなかった。
自分の運命が、他の人の手を取ることは許せなかったのだ。
ラーニャリーノの我儘に折れたのは、国王陛下のほうだった。
娘の願いを叶えるべく、王命を出した。
それによって、彼は蒼の大公の候補者から外され、婚約も破棄された。
『――姫様、お恨み申し上げます。決して貴女様を許しはしないでしょう』
婚約者として顔を合わせたとき、彼の顔に浮かんでいたのは笑みではなく怒りだった。
彼はラーニャリーノに向かって数々の暴言を吐き捨てた。
元婚約者である令嬢は、婚約を破棄されたことで心を病み、命を絶ったという。
それだけではない。
次期大公になるべく幼い頃より厳しい教育を受けてきた彼は、その夢を突然奪われてしまったのだ。
それに、彼の弟が次期大公の教育を受け始めたが、次男として奔放に育てられた彼には荷が重かったようで家を出てしまったという。
激昂した蒼の大公は、責任を妻に押し付け、家族もバラバラになってしまった。
それ故、すべての元凶であるラーニャリーノを恨んだのだ。
もちろん、ラーニャリーノはそんな些細な事柄などどうでもよかった。
重要なのは、彼が傍にいることだ。
嫌われていても、恨まれていても、そこにいてくれたら、それでよかった。
「姫様、どちらへ?」
「お父様のところへ蒼の大公がいらしているのよ。会わなければ!」
「あらまあ……大人しくなられたと思いましたが、まだまだお転婆でございますね。では、こちらを大公閣下へお渡しくださいませ。お喜びになりますわ」
マーシャは、お菓子の入った包みを渡してくれた。
王女であるラーニャリーノだけが食べることができる特別なお菓子だ。
散々、蒼の大公の子息に対する愛を語っていたから、ラーニャリーノの目的がわかっているのだろう。
「ありがとう、マーシャ! 大好き!」
「ふふふ、わたくしも姫様が大好きですわ」
ラーニャリーノは、くふふと笑った。
母である側妃はすでに亡くなっており、マーシャがラーニャリーノにとって母と同じ存在だった。
だが、回帰前は、こんなにも心が近くなかった。
(いつも、悲しそうな顔をしてましたわ)
ラーニャリーノが何かをする度に表情を曇らせて、窘めていた。
嫌いな野菜が入れられていたから、料理長をクビにしたとき。
髪を梳かしていた侍女が誤って櫛の先を頭皮へ突き刺したから、手を切り落とすよう命じたとき。
悪口を言っていた令嬢の家に対して、ありもしない罪をでっちあげて、一族を滅ぼしたとき。
ラーニャリーノはこの国の唯一の王女で、次期女王だから、だれも逆らわなかった。
権力をかさに着てやりたい放題だった。
それをラーニャリーノは後悔していない。
(そういえば、あの子は、わたくしと正反対でしたわね)
ラーニャリーノは悪の王女として嫌われていたが、異母妹となった彼女はまるで聖女のごとく讃えられていた。
純粋な王族であるラーニャリーノとは違い卑しい血筋だというのに、平民を気に掛ける慈愛に満ちた姿に人々は熱狂した。
そして、そこに希望を見出したのだ。
だからこそ、反国王派の貴族たちが異母妹を旗頭に掲げ、反乱軍が王都へ進軍した際にも、民は快く門を開け、道を譲ったという。
――無血開城。
(王妃様はさぞ心地よかったでしょうね)
夫の寵愛を奪った側妃を恨んでいたことは有名だ。
その娘であるラーニャリーノのことも……。
彼女は最初の子を流産して以降、もう二度と産めぬ体となってしまった。
それ故、側妃とラーニャリーノのことを殺したいほど憎んでいたのだ。
「おや、これは、これは……王国の小さな月にご挨拶申し上げます」
「ごきげんよう、蒼の大公閣下」
ラーニャリーノは、可愛く見えるようににっこりと笑った。
すでに国王に拝謁したあとだったのだろう。
帰る前に見つけることができてよかった。
(確か、正式に婚約を結ぶのは彼が十四歳のときだったかしら)
自分が八歳ということは、まだ彼は十三歳。
マーシャに探ってもらったが、まだ婚約者はいないと聞いている。
「蒼の大公閣下のお屋敷には素晴らしい庭園があると聞きました。今度、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
ラーニャリーノが邪気なく訊ねれば、蒼の大公がぴくりと片眉をあげた。
蒼の大公の名に相応しい、青銀の髪に、蒼い双眸。
どこか冷たく見える怜悧な美貌は、とても子供が二人いるとは思えない若々しさだった。
(本当に彼とそっくり……)
記憶の中の彼の姿は、目の前の大公とほとんど同じ見た目だった。
彼のことを思い出して、ほんの少し胸がときめく。
「――国王陛下のお許しがあれば、ぜひ、お越しください。ちょうど、王女殿下と年の近い愚息もおりますので、良い話し相手となりましょう」
「まあ、嬉しいですわ」
ラーニャリーノは、頬を赤らめ歓喜した。
ようやく会えるのだ!
「あ、そうですわ。これを……。大公閣下の奥方様が甘い物がお好きだと。わたくしも甘い物が大好きですの。ぜひ、お屋敷にお邪魔した際に、感想を聞かせてくださいまし」
「妻にまで心配りを……ありがたく頂戴します。――名残惜しいのですが、次の会議があるため、これで御前を失礼いたします。聡明なる小さな月が夜空の中でより一層輝けるようお祈り申し上げます」
蒼の大公は、宮廷式のお辞儀をすると優雅に去っていった。