8.もう眺めることは叶わないけれど
「はっ、はっ」
今日はあまり上手く時間配分ができなかった。気づけば窓の外は既に赤と黒の狭間の色。
しかし地味に毎日続けてきたランニングをここで終わらせてなるものかと百合は重い腰を上げ今に至る。
「あらっ」
鍛錬場にはまだ何人かの騎士がいたようだ。その中に見知った人物を発見し私の歩みは自然と緩くなり柵へ近づいていく。
彼は、いつもの軍服ではなく、深いグリーンの制服だ。指導しているのか時折交わす剣が止まり相手に何かを伝えているようだ。
遠目なのに見つけてしまう自分が恐い。
「グライダー副団長が気になりますか?」
「あ、いきなり立ち止まってごめんなさいね」
「いえ。城内であれば陛下の居住区以外はお好きに動いて構いません」
夕方から護衛してくれているクラリス君は、息の乱れもなく真面目に教えてくれる。私の体力がつくのはまだ先かな。
「好きなのですか?」
「ん? 私が副団長さんの事をってこと?」
「はい」
クラリス君に再び尋ねられた。自分から話しかけてくる事が少ないのに珍しいわと思いながら柵の上に腕を乗せ離れた先にいる彼を眺める。
「気にはなる。でも、こうやって眺めるだけでいいわ」
未だに副団長さんの素顔を見たことがないのだけど。少しだけ分かってきた。
彼は、仕事大好き人間で口調は丁寧だけど冷たい。だけど、周囲への気配りや私が疲れた時になどに一番に察するのが早い。
「護衛してもらうとじっくり観察できないのが残念だわね」
「今、話し掛けても大丈夫だと思います」
剣の音が止みクラリス君が気を利かせようとしてくれる。ホント優しいわ。
「邪魔したくないし、それに眺めるのが好きなの。あと少しだし、ちょっと見るだけなら大目にみてもらえるかなぁ」
ほら、別視点からみると迷惑なおばさんは、ストーカー扱いになってしまうかもしれないし。
「ユリ様は、此処を去るおつもりですか?」
彼の動きだけに気を取られ背後のクラリス君をあまり気に留めていなかったが、彼のあまりにも暗く震えそうな声に驚いて振り返った。
「どうしたの?」
下を向いたクラリス君は、今にも泣きそうな気配が漂っていた。
「最初は書庫に行くことが多かったのに最近は違ってきました」
そう。まず知らない場所で衣食住が安定していたら誰でも思うだろう。このいる場所の事を知りたいと。私は、城内の書庫だけではなく、街にある古本屋からも本を取り寄せた。
歴史などは正確に書かれているか分からないから。ならば、ひたすら気になる本を選び読んでいくしかない。
「ユリ様の借りられた本の分野は、多岐に渡りました」
「確かに端から見ればチグハグだったかも」
私の選んだ本は、この国の歴史だけではなく近隣諸国の状況から、農業や魔法に最近はやっている小説など雑食もいいとこだ。
貪欲に頭に詰め込むのもそろそろ終盤を迎えた。次に進まねばならない。
「好み一つとっても皆違う。あくまで私の考えは、失敗して恥かいて、惨めになって挫けそうに、いえ、挫けてからまた進む」
知識は経験してこそ活かされ、それがまた自分の知識に繋がる。
「とはいっても、凡人だしね。スローペースだろうけど。うわっ」
いきなり後に体が傾いた。
「すみません。何処かへ去ってしまいそうで」
軽く引いたつもりだったらしい。
「腕の中に収まってしまうくらいなのに、ユリ様には敵わないと思ってしまうんですよね」
いや、いい体してるわとひっくり返りそうになった驚きでまだバクバクしている。後に倒れるってけっこう恐いわ。
それに、クラリス君はいい香りで体に寄りかかる体制になっている。
うん。流石におばさんも落ち着かない。
自分の汗が気になる。頭とか臭くないかしら?子供は汗をかくと頭の匂いが動物の匂いと同じだった。
あとね、ちょっとやっぱり。
「ごめんなさいね。嫌ではないけど手が痛いのよ」
握られている手が痛い。
「あ!申し訳ございません!」
「えっ」
完全に寄りかかっていた壁が無くなった。安心しきっていた私は、再び後に傾いていく。
「あぶなっ」
「ふぅ。セーフ。ふふっ」
危ないって言おうとしたのかしら。普段より砕けているから、本当に焦ったんだろう。そしてガシッと支えられた。いや、力が入り過ぎですよ。
「あはは」
何故私達は、コントみたいな事をしているんだ。なんか可笑しくて楽しくなってしまった。
「ユリ様? 申し訳」
「なくないわよ。大丈夫。しかし、なんだっけ、思い出したわ。草食系だ。クラリス君は草食系男子かと思っていたけれど騎士さんだし鍛えてるのねぇ」
優しくて脱いだら凄いって、私の元の世界ではモテそうだわ。椿の彼氏にクラリス君なんていいわねぇ。いや、椿は気が強いから彼がかわいそうね。
「クラリス君みたく、走っても俺にとっては散歩ですみたいな状態までいきたいわ。もう少し走ろっかな」
百合は、足に力をいれ地面を蹴って走り出す。
「あ、お待ち下さい。草食系って何ですか?」
「え、そのまんまよー!」
おばさんと若い騎士は走り出す。
彼らを遠くからじっと見ていた副団長に全く気づかないまま。
***
その夜、百合は珍しく部屋から抜け出しといっても隣室の空き部屋のバルコニーで空を眺めていた。
「この時期の夜は冷えます」
近すぎる位置からの声にビクリとしてしまった。そして肩に何か掛けられた。どうやら軍服の上着らしい。随分重たいのね。
着ていた人の温もりが、なんだか気恥ずかしいとうか。
「嫌かもしれませんが」
少し悩むような口調に後ろを振り向けば、やはりそこに立つのは副団長さんだった。
「嫌じゃありませんよ。ありがとう」
掛けられた軍服から微かに香るシトラスの香りになんか酔いそうになるわね。
ふと、昔に読んだ古い本を思い出した。
「月が綺麗ですね」
考えるより口から流れ出る。
おばさんなんだから仕方がない。
「ツキ…ですか?」
「ふふ。忘れて下さい」
夜空には天の川のような沢山の星に土星のようなものが空に青く輝いている。
この世界に月はない。
でも、言いたい気分だった。
──伝わらなくていい。