2.正気に戻りはしたけれど
「何かございましたらお呼びください」
「はい。ありがとうございます」
夕食も終わりやっと一人きりになった。
「なんか気がはっちゃうなぁ」
自分にとって人が常に近くにいる状態はかなりストレスなのかも。
「さて、今日も開くか」
部屋の角に置かれている机に向い両手を小さく広げれば、一冊の本が手の上に出現した。いまだ何も無い空間から現れる現象に馴れない。
「いや、全てにおいて駄目だわ」
燻し銀と聞こえはいいが、錆びた銀色に縁取られた古めかしい装丁をそっと撫でる。
「ねぇ、女神様とやら。喚ぶなら人選ミスですよ? 私は、まだ納得できない」
つい愚痴が口から漏れ出てしまう。
「何を尋ねよう」
これは実は本ではなく交換ノート。表紙を捲ると見開きに箇条書きがされている。主にノートの使い方ガイドが簡素に記されている。
いざ次に進むと以前に書いた文字が並ぶ。といっても最初の数ページは椿、ちこ、それがエンドレスで殴り書きされている。紙が皺になるほどに。
椿は私の娘でちこは飼っている犬の名前。
この世界に来た当初、今から約三週間前、私は突然この世界に来た。鍾乳洞みたいな場所に全裸で膝には何故かこの交換ノートがあったらしい。
「…あまり覚えていないのよね」
正気にかえったのは、確かこのノートが映像をみせてくれた時かしら。暗闇の中、壁に映し出された、娘とちこ、夫がいた。夕食の時間なのかご飯をテーブルに置いている私の姿。なによりデジタル時計に記されていた日付は、私が記憶しているより一ヶ月も過ぎていて。
その時、ノートに光る文字が浮かんで書かれていた。
『小鳥遊 百合は、魂が二分された。あなたは私の世界で隠し味の存在である』
意味がわからなかった。
ただ、映された映像が本当ならば私が今も変わらず子供と夫と普段どおりに暮らしている。そして今、ここに存在する私は同じだけれど別のモノ。
後は記憶が曖昧で再び意識がはっきりしたのは、シンプルだけど何故か顔の上部に仮面のような物を被る若い女性の悲壮な声。
『どうか、どうか一口でも召し上がって下さい!』
そして誰かに身体を抱き起こされ唇に触れた金属のおそらくはスプーンと。
『無理やり入れたくはない。口を開けて下さい』
必要以外会話をしなくなった夫の声とは明らかに違う低い響く力強い声。
そこから徐々に意識がはっきりしだして今に至るわけだけど。
「私の半分は、ちゃんと元の生活を過ごしていてなんの影響もない。そして残り、今この世界にいる私は隠し味。いるだけで気象状態を安定させ、ひいてはこの世界の環境に役立つ。ただしゆっくりと」
あとは。
「小さな祝福、ちょっとした怪我や事故、病気の助けになる力がある」
三週間で分かったのはこれくらいか。
あ、あともう一つ。
ノックの音が控えめに部屋に響く。
「はい」
「申し訳ございません。明日の式典での確認が漏れていたとグライダー副団長が面会を求めております。遅い時間ですが、どうされますか?」
侍女のビオラさんが済まなそうに伝えてくれる。
「お会いします」
「ではここは寝室の為、隣の部屋に通します。ゆり様は何か羽織るものを」
「椅子にかけてある上着で失礼にならないですか?」
大丈夫だとOKが出たのでロングカーディガンに腕を通し隣接の扉を開く。
「夜分に申し訳ない」
既に案内された副団長が姿勢よく立っていた。もういい時間なのに服装は一切乱れがないように見える。
磨き上げられた黒い靴にネイビーの色の軍服。袖には銀色の太いラインが三本。重そうな剣を帯刀していて胸には鷹のような生き物の刺繍に袖のラインと同色の釦が二列に並び詰め襟の両サイドに小さな…石かしら。
そしてたどり着いた顔には、上部を覆った青みを帯びた仮面。
そう、私が未だに戸惑うものの一つ、この世界は美醜逆転で醜いと判断された者は仮面をつけている。
「構いません。お座りください」
この世界では、一重で平坦の特徴のない私は美人さんらしい。
「それで、明日の式典について何か変更があったのでしょうか?」
百合という名前負けしているこの顔が美人とはね。私は、心の中で乾いた笑いをしながら話を促した。