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暖かい手袋を頂戴

作者: 重カ


 手袋をなくした手が、どうしようもなく冷たい。指先の感覚は、とうに消えていた。

 うすら色落ちしたエコバックを肩から下げて、伸びた影を踏んづけながら帰路にく。無邪気な電信柱に通せん坊をされて、交差点の赤信号に趣味の悪いナンパをされて、誠実な青信号に助けてもらって。何とはなしに、横断歩道の白線を踏まないで歩いた。袋の中の冷凍食品が私の腰を凍らせようと頑張っている。音割れしている赤とんぼは、私の耳に馴染むことを知らない。

 家に帰れば、暖かな布団が私を待っている。この上なく幸せな日常で、そしてさいな今日この頃。

 悪く言うと、地味。もっと悪く言うと、つまらない。もっともっと悪く言うと最悪な日々。ちょっとだけお世辞を言うと……平穏ですね。アップリケの付いた膝を見下ろし、その情緒じょうちょを噛み締める。スニーカーの靴ひもが、足元で踊った。

 坂を上った先の、小さなパン屋さんの前で、おせっかいが一つ花開く。

「お嬢ちゃん、ひとりでお使いかい? 偉いねえ」

 赤地に白い花柄のシルバーカーにくっ付いた、手作りのストラップが可愛いおばあちゃんに声を掛けられた。知らない人だと身構えて、目の焦点をずらした会釈をする。ひとりでお使い? はい。 偉いねえ、いいえ。言おうと思った、けど。

「そうだ、飴玉をあげるわ。ちょっと待っててねえ」

 まだ私が声を出してもいないのに、おばあちゃんはズボンのポケットから飴玉を取り出した。シルバーカーから手を放し、こちらへヨロヨロと歩いてくるので私は慌てて、おばあちゃんの傍へ近寄る。

「えと。大丈夫ですか」

 フワリ、おばあちゃんの背中に手を当てると、柔らかな香水の匂いがした。重そうなコートからは古い匂いじゃなくて、花の匂い。違和感が私の胸をくすぶって、身体の芯に突き刺さる。持ち物がコロコロ変わるあの人の、唯一変わらなかった煙草の匂いが、しない。

「あらあら、冷たい手! とっても頑張っているのね」

 気が付くと私の手は、飴玉と一緒に、おばあちゃんの手の中へすっぽりと包まっている。おばあちゃんの手は、白くて、左手の人差し指に小さな傷跡があった。私と同じくらい小さな手だった。そして、飴玉はかわいそうな事に板挟み。

「そんな、貰えませんよ」私がそう言って離れようとしても、おばあちゃんはしばらく手を放さなかった。とても、暖かい手だった。飴玉の硬い感触と、手のフニャフニャした感覚がおかしくて、私は眉を下げる。

「はいはい。分かった、分かった」

 おばあちゃんはもう二、三度、私の手を握ると、ニッコリと笑った。「ほーら、もう暖かいわ」私もつられて、破顔した。「この飴はね、私の苦手な味なのよ。良かったら貰ってくれない?」こう言われては、貰わない方が失礼な気がした。

「そういうことなら」しぶしぶ、飴玉を迎え入れてあげた。「ありがとうございます」

 おばあちゃんがくれた飴は、イチゴ味だった。


 どうして、スイカの種は食べるとお腹からスイカが生えてきてしまうのに、イチゴは生えてこないんだろうなんて考えながら、アスファルトを蹴る。

 私の甘いため息は、白くなって空に溶けた。真っ黒な肺をしていたであろうあの人からも、白い息が出ていた気がする。共通点がまた一つ増えたようで、増えていないようで。ポケットの中で、飴玉の包み紙がカサっと暴れた。

「にゃあ」

 ふと、猫の鳴き声がした。振り返ると、黒猫だった。あ、違う。尻尾の先が白いや。白い尻尾は、ゆらゆら揺れると路地裏に消えた。暗い路地裏だったけど、別に白い部分が目立つわけではなかった。

「にゃあ」鳴き声が、遠くでもう一度だけした。

 飴は、どんどん小さくなっていく。

 さっきは地味だと言ったけれど、やっぱり人の味覚みたいに、生活の好みはそれぞれなわけで。私は薄い味噌汁よりも、塩辛いスープが好きなんだろうな、なんて妙に俯瞰して思う。足りなくて後悔するより、多すぎて飽き飽きする方がマシ。

 そんな私は、塩辛いスープを残してばかりだった気がするけれど。


 また冷えてしまった手を、今度はため息ではない白い息でおおった。少しだけ暖かくはなったけど、一瞬だけだった。


 ふと、視界が広くなる。この緩やかな下り坂の先には、踏切があったはずだ。イチゴ味の飴を噛んで、噛んで、飲み込んだ。真っ直ぐ進むか、右に曲がるか。

 迷って迷って、丁度私が行った時に、踏切が通れるようになっていたら、真っ直ぐ行こうと決めた。

 でも私が到着した途端、見計らったかのように遮断機が下りてしまった。……結局待って、踏切を渡る。この決断力の弱さは、あの人に似なかったのだと心の底から思う。

 点字ブロックより攻撃的で、良心的でない砂利道を、靴底のすり減った運動靴でまっすぐ進む。コンクリートと違って、チクチクと足の裏で違和感が。もしかしたら靴下に、穴が開いていたかもしれない。そっと確認したけど、穴は開いていなかった。もちろん私の足にも、靴底にも。守られたうえでできた傷と、守られていない状態でできた傷は大きく違うと思う。主に、精神面で。

 ザクザク、ザクザク。雪が降っていなくて本当に良かった。赤チェックのマフラーで顔を隠す。せっかくここまで来たのに、オトナの人に帰りなさいと注意されたくない。

 ザクザク、ザクザク。こんなに遠かったっけ。景色が単調で、記憶が曖昧だからちょっと不安。あの手袋は、まだあるだろうか。

 ザク、ザク。太陽が沈んでしまう。暗くなる前に、見つけてしまわないと。

 ザク、そうか、道を間違えたのかもしれない。もう一本、前の道だ。

 手袋をなくした手が、私の頬をつねる。冷たい、痛い。間違いない。


 ザク、ザク。見つけた。私の、手袋。


 ザク、窓も電話機も無かった私の家は、もう見つからないけど。手袋なんか無くても暖かかった、私の手を包んだ大きな手はもうないけど。

 ザク、文字が読めるようになって、初めてあなたの名前を知った。あなたは、一度も私を連れて出歩かなかった。あなたが、買い物帰りにレシートやレジ袋を持ち帰ってきた事はなかった。

 冷たい、冷たい。派手な事が好きだったのに、今は他の人と変わらない。新しいものが好きだったのに、古くからの形式にあてはめられている。

 無鉄砲さは直してほしかった。ルールは守らなくてよかったから、私を守らないでほしかった。

 あなたの遺族に、私はなれなかった。

 あなたの上に、偉そうに立つ石の柱は、悲しむ女の子を温めてくれるような紳士的な技を知らない。手が、どうしようもなく冷たい。あなたの仕事は何だったの? あなたはどうして、私を助けたの?

 きっと、汚くて本当のことを言えないなと笑うのでしょう。私は知っていたの。知っていて、直せなくて、大嫌いで、幸せだった。

 形見にしろと渡された手袋は、あなたの上に置いてきた。知ってた? あれ、サイズがちっとも合ってなかったんだよ。私の手、もうあんなに小さくないんだ。

 私は自分で、自分の手を温める方法を知りたくない。寒い、冷たい。


「こんな地味な生活、私だって嫌だよ。ばーか」

 わがままだと叱ってほしい。何が不満なんだと、諭すような目でもう一度、見つめて欲しい。汚い言葉遣いはあなただけにしろと言われたから、私は誰にも心を開けない。墓石は、寡黙である。

「自分の幸せが一番大事だ、それは人間の汚い所だ、って笑ってたじゃん」

 あの踏切を、私はもう一度渡れるだろうか。私が守られた二回目の場所を。

 手の感覚が、少しづつ消えていく。塩辛いスープを、今度は残さず平らげて、あなたに美味しくないと文句を言いたい。私の目の前は、真っ暗だった。


【あとがき】



 優しいと思うものが正しいとは限らず、好きでないものが悪にならない悲しさ。


 男が、買い物帰りにレシートやレジ袋を持ち帰ってきた事はありませんでした。

 男は、派手な事が好きで、無鉄砲でした。


……これは、万引き犯かつ、誘拐犯の男に助けてもらった女の子のお話です。


 でも男は、踏切で女の子を助けました。スイカの種が、お腹の中で芽を出すと女の子をからかいました。言葉遣いは丁寧にしろと教えました。夕方に流れる曲が、赤とんぼだと教えました。そして、サイズの合わない暖かな手袋を、女の子にプレゼントしてあげました。


 信号のルールも教えましたが、踏切の仕組みは教えませんでした。女の子を踏切の近くに近寄らせないためです。


 それは、何故でしょうね。

 女の子は、門限を守れずに施設の大人たちに叱られてしまうことでしょう。



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