至高の枕
リーベルフィア王国。大まかに見ればその国土は巨大な星の形をしていて、北は鉱山と森林地帯、西は巨大な河川、東は湖、そして南は海という豊かな自然に囲まれている。
西の国境線としても利用されているリリエティス川は、学院や国立の大音楽ホール辺りで大きく二又に避けており、城の近くを通りながら、大陸の南、へこんでいるところに出来ている海岸へと注いでいる。
国土の北側は大森林と鉱山が広がるため、残念ながら利用できないでいるようだけれど、それ以外の場所、北と東へ放射状に広がる商業地帯、及び広場や学院、音楽ホールや競技場のある西側は、どこもかしこも大賑わいらしかった。
挨拶の原稿の読み合わせや、感謝祭開催に関する打ち合わせは、式次第から有事の際の対応まで事細かに決められていて、僕がそれをすっかり頭に入れる頃には、すでに朝日が顔を覗かせていた。
「おはようございます、ユースティア殿‥‥‥おや、どうなさいましたか、顔色が優れないようですが」
朝食の準備が出来ましたと呼びに来てくださった料理人の方や、こんな日にまで熱心な魔術師団の方々、歩いているときに横切った庭園の手入れをなさっている庭師の方、もちろんお医者様にも同じ心配をされた。
「ただの寝不足ですから‥‥‥」
それらに加え、王子様、お姫様の護衛を務めるというプレッシャーから、気を抜いたら倒れてしまいそうだったけれど、僕はなんとか笑顔を作って挨拶を済ませることに成功した。
この程度の演技ならば問題はないはずだったし、実際、ほとんどの人には有効だったのだけれど、賄いを頂いて部屋に戻ろうとしていたところで、ナセリア姫様に掴まってしまった。
「ユースティア」
まだ朝日も昇ったばかりだというのに、すでに準備を整えて起きていらしたナセリア姫様の宝石のように綺麗な金の瞳は、じっと僕の事を見つめており、ひんやりとした人形のように整った顔で声をかけられて、その声に込められた力に、僕は立ち止まることを余儀なくされた。もちろん、そうでなくとも、姫様方に呼ばれれば、たとえ大きく重い荷物を運んでいたり、他に急ぎの用事があったとしても、何を置いても立ち止まるのだけれど。
「何か御用でしょうか、ナセリア姫様」
別に何かを運んでいたり、火急の用事があったわけでもなかった僕は、振り返って膝をついた。
「少し、いえ、大分疲れている様子ですけれど、ちゃんと睡眠と食事はとっているのですか?」
ここで首を縦に振ることは簡単だった。感謝祭は明日以降も続くようだけれど、僕の重大な用事は今日の挨拶と姫様方の護衛だけだ。今日だけならばどうとでも乗り切ることは出来るだろう。
しかし、ナセリア姫様の本当に僕の事を心配してくださっているような表情に、嘘をつくことは出来なかった。
「食事はいただいておりますが、睡眠の方はここ数日で3時間くらいといったところでしょうか。覚醒の魔法を使いますから姫様方の護衛の方は問題なく務められます」
「ユースティア。あなたのお部屋に案内してくださいますか?」
なぜナセリア姫様が僕の部屋へ訪れたいとおっしゃるのか、理由は分からなかったけれど、姫様に言われれば僕はそれに従うだけだ。
「こちらのお部屋をお借りしております」
部屋に案内して欲しいというのだから、当然中に入るものだと思っていた僕は、扉を開いたのだけれど、姫様は扉の外から見つめたままで中々中へ入ろうとはされなかった。
「ナセリア姫様‥‥‥?」
僕が声をかけると、ナセリア姫様はびくっと肩を震わせて、
「は、はい、何でしょうか?」
ぎこちなく僕の事を見上げた。
「いえ、こちらが僕がお借りしている部屋になりますけれど‥‥‥」
「そ、そうですね‥‥‥」
ナセリア姫様はおずおずと緊張した面持ちで部屋へと足を踏み入れると、中を見渡して大きく深呼吸をなさった後、こほんと小さく咳払いをなさった。
そのまま静々と大きなベッドのところまで歩いて行かれると、靴を脱いでからベッドに上がられて、ぺたんと腰を落ち着かせられた。
「どうぞこちらへ」
ナセリア姫様に言われるまま、僕は姫様のすぐ隣に腰を下ろす。
「さあ、あまり時間もありませんから、早くお休みになってください」
ナセリア姫様はぽんぽんと、自身のドレスの折れそうな腰の部分の下辺り、折れ曲がった太ももの上辺りを、小さな手で叩かれた。
「あの、ナセリア姫様‥‥‥?」
姫様のなさっていることがよく分からなくて、僕は困惑していたのだけれど、
「お父様がお疲れになっていらっしゃるときには、お母様はこうしてご自身のお膝の上にお父様の頭を乗せられていて、こうすると疲れもすぐになくなってしまうとおっしゃられています。ですから、ユースティアも私の膝を枕代わりに使えばすぐにその疲れも吹き飛ぶのだと思います」
それは、あなたのお父様とお母様だからであって、きっと子供には言えないようなことが関係しているのではないかと言いかけたけれど、それは一体なんですかと聞かれても答えられないので、僕は黙って立ち尽くしていた。
答えるだけならば出来るだろうけれど、それをナセリア姫様の耳に入れたことが知られれば――確実に知られるだろうけれど――海の底に沈められるか、まあ、確実に生きてはいられないだろう。
「さあお早く。時間もありませんから」
結局、僕にナセリア姫様に逆らうことなど出来るはずもなく、ナセリア様の小さな膝の上へと頭を倒れ込ませて、目を瞑った。
天国ではないだろうかと錯覚するような柔らかさに包まれて、言ってしまえば、この世に存在するであろうどんな枕よりも究極の枕を敷いていたのだけれど、残念ながらというか、幸せ過ぎたというべきか、僕は全く休むことは出来なかった。
ただドレスの上から頭を乗せているだけで、ナセリア様にどうこうとか、そういう気持ちが、全く思うことはなかったと言えば嘘になってしまうけれど、とにかく僕の心臓は早鐘を打ちっぱなしで、背中には変な汗を掻いてしまうし、ナセリア様のことを汚してしまうのではないかという不安に駆られていた。
うわー、なんて柔らかいんだ。これが子供の膝枕というものなのか。もうなんていうか、ここへ来てから使わせていただいている枕に勝るとも劣らない、至高のぬくもりがそこにはあった。つい感触を確かめてしまおうと、無意識のうちに指を伸ばしかけて慌てて自制した。
いけない。集中して寝なければ。寝ていれば気にもならなくなるし、大丈夫なはずだ。そう、これは枕なのであって、ナセリア姫様の‥‥‥って考えちゃいけない。
「――っ!」
そう思っていたところで、身じろぎしなくなった僕が寝てしまったのかと思われたらしいナセリア姫様の指が僕の髪を柔らかく撫でているのが感じられた。
それはたしかに極上の気持ち良さだったのだけれど。余計に意識してしまって、もう本当に休むどころではなくなってしまった。
もちろんナセリア姫様は僕が寝ていると思われているのだろうから、僕は精々自分の動悸と息遣いを平静に保つのに苦労しなくてはならなかった。