僕の大切なもの
名前も知らない街の、名前も知らない通りの、さらに外れた暗い路地裏を、小さな魔法の光を頼りに僕は歩いていた。沈みかけの夕日の残照が、わずかに辺りを赤く染めている。
辛うじてこの国がオーリエンスと呼ばれているのだということは知っているが、それはこの国に暮らしている人たちが知っていればいいのであって、この土地に生きてはいても、この国に暮らしていない僕たちにはあまり関係のない、正確に言えば、重要ではない話だった。国で暮らしている人というのは、権利を保障され、生きていることを認知されている人たちの事であって、親兄弟どころか自分の本当の名前すら知らない、犯罪でさえなければ何をしていようと、いつ死んでも誰も気にしたりしない僕たちは、そんなどうでもいいことを気に出来るほど余裕のある生活をしてはいない。
今の僕に重要なのは、ポケットに残ったわずかな硬貨と、両の手で抱えきれる程度の、日雇いの賃金で買ったパンと少しの野菜の事であった。
「ふぅ」
家族が待ってくれているだろう場所までもう少し。僕は辺りを見回して誰の眼もないことを確認すると、念のため、索敵、探査の魔法で本当に周囲に人がいないことを確認する。万が一、他人に、魔法を使えることを知られたら、僕だけではなく、あの子達まで危険な目に遭いかねない。それは絶対に避けなければならなかった。
「よし、誰もいないな‥‥‥」
壁にもたれかかり安堵のため息をついた僕は、食料を宙に浮かせると、手の中に水を溜め、それを一気に飲み干した。続けてもう1杯。
本当は今すぐ浄化の魔法を使ってとりあえず身体を綺麗にしたいところだったけれど、皆より先に僕だけそんなことをするわけにはいかないから、べとつく髪と服はぐっと我慢する。食材にはばれないように保存と保護の魔法をかけてあるので、どうにかなってしまうことはないだろう。
「あー、あー」
声が枯れていたりしないことを確認する。わずかにでも、これ以上不安がらせる要素は残したくない。痣や傷こそ残していないけれど、聡い彼女たちはもしかしたら気付いてしまうかもしれない。もっとも、家族の皆は僕が魔法を使えることを知っているので、それ程心配もさせずにいることが出来ているのだけれど。
喉を潤し、曲がり角を曲がると、足音で気づいていたのか、色素の薄い髪を短く整えた弟と、短い黒い髪を丁寧に梳かした弟が待ちきれないとばかりに走って来た。血は繋がっていないけれど、それを残念なんて思ったことはただの1度もない。それ以上の親愛と絆で繋がっていると、誰もわざわざ口にしたりはしないけれど、僕たちは皆そう思っている。
「おかえり! 飯!」
「飯!」
2人は揃ってきらきらと瞳を輝かせて、くぅくぅとお腹を鳴らしながら両手を差し出す。
「ただいま、ヒギンズ、ルディ。待たせてごめん。だけど、ご飯は手を洗ってからだよ」
僕は足元にじゃれついて来る2人の相手をしながらゆっくりと歩く。
「おかえりなさい、ユースティア」
僕と同じような金髪の女の子が地面に敷いた古びた布切れから立ち上がり、ヒギンズとルディを僕から引き離した。
「ただいま、ティノ。皆いい子にして待ってた?」
「ええ。リィトも、ロレッタも、ユユカももう戻ってきているわ」
僕の視線の先では、地面に敷いた布の上にくたびれたように座る茶髪の男の子と、波がかった黒髪の女の子と、その髪に櫛を通している薄紫の髪の女の子が一斉に僕の方へと顔を上げて、手を振っていた。
「おかえり」
口々に言われるおかえりに、心と身体から疲れが抜けていくように感じられる。それだけで十分報われた気持ちになれるし、こうして皆が揃っていられることに幸せを感じられる。
「ただいま。今日も待たせちゃってごめんね。すぐに出すからね」
僕は手に持っていた食料を布の上に置くと、目を輝かせて、待ちきれないという様子で手を差し出す皆の前でしゃがみ込み、音を立てないように、けれどあまり余計な魔法は使わないように細心の注意を払いつつ、手の先から水をちょろちょろと溢れさせた。
「わーい!」
「気持ちいいー」
全員の手を水で流し終え、皆が口をゆすぎ終えると、暖かい風を起こして、濡れたまま行儀よく待っている待っている皆の手を乾かす。
「もういい? もういい?」
僕が頷くと、リィトにヒギンズ、ルディ、ユユカにロレッタは、待ちきれなかったのだろう、我先にと、競うように今日手に入れてきたパンに手を伸ばす。
育ち盛りの皆には全然物足りない量だろうけれど、皆文句の1つも言わずに一心にパンを頬張る。
僕が、崩れた壁から頂戴したレンガで作った簡易的なかまどに、枯れ木の枝と草をくべて火を付けると、その上にティノが黒いでこぼこの使い古した鍋を置き、あっという間に皮を剥いて切り終えていた野菜を投入した。
肉や油は勿論ない。
偶に、極稀に良い仕事にありつけると肉を手に入れられることもあるのだけれど、今日の稼ぎではそれは難しかった。
魔法を使えるおかげで、新鮮な水にだけは困らないのが助けだった。
「あ、そうそう、ティノ」
僕は忘れないうちにポケットの中の硬貨をティノに渡しておく。
僕が買い物をするのはその日の仕事帰りだけで、基本的に僕たちのお金はティノが管理している。
「ありがと、ユースティア」
ティノは大事そうにそれを受け取ると、硬貨を入れている箱をそっと開いた。
中に見えるのはいくらかの銅貨と、もっと少ない銀貨だけ。まともに考えたら、僕たちが子供だけとはいえ、7人で暮らしていけるような貯えではない。
「明日はお肉が買えそうね。私が買っておくわ」
にも拘らず、溜まった硬貨を数えながらティノが笑顔でそう言うと、肉という言葉に反応したのか、皆が一斉にこっちを向いた。
「肉! 明日は肉が食えるのか?」
リィトがさっきよりもさらに瞳を煌かせる。肉を食べられるのは何日ぶりか、ティノなら覚えているかもしれないけれど、生憎僕は覚えていなかった。
「何日ぶりかなあ?」
ヒギンズも指を折ってはいるが、まだ上手く数が数えられないため、横でユユカに教えて貰っている。
「そうね、19日ぶりよ」
ティノが壁に刻んだ線を数えながら答える。特別な標があるわけではないけれど、刻んでいる本人には、どこが何の日だったか、位置や形で覚えていられるのだろう。
19日ぶりと言われても、普通の人では感覚的にはよく分からないだろう。
「お肉屋のマッシュさんは気前がいいから、おまけしてくれるといいわね」
ここから最も近い肉屋を営んでいるマッシュさんは、野菜を販売しているカティさんや、パン屋のギーザさん達と同じように、僕のような、他の人たちと比べてみすぼらしい格好の子供にもちゃんと商売してくれる親切な人だ。
「ええ、ユユカ。任せて」
「ティノは可愛いからきっと大丈夫よ」
「そう? ありがと」
髪を梳かされながら気持ちよさそうにしているロレッタに、ティノが笑顔で答えている。お金はなくとも、心までは貧しくはない。
本当は皆にもっと良い暮らしをさせてあげたいのだけれど、それが難しいだろうことはよく分かっているし、僕はわりとこの暮らしも気に入っていた。
もちろん、いつまでもこんな風に暮らせるとは限らないし、良くなる保証なんてこれっぽちもないけれど、こんな風に楽しく暮らせて、皆が幸せならそれだけで僕は十分幸せだった。
「じゃあ、皆お休み」
体力を使うのは日中だけで十分だ。日中、僕たちが働いている間、路地裏を元気いっぱいに走り回っているヒギンズやルディはもちろん、稼ぎに出ているリィトにユユカ、ロレッタも、横になるとすぐに寝息もたてずに眠りについてしまった。
「ユースティア、お疲れ様」
「ティノ、君もね」
皆を間に挟むようにして、ティノが眠りについたことを確認すると、僕は壁に寄りかかりながら目を閉じた。