終曲
広末は暗い廊下を一人で歩いていた。窓のない閉鎖的な廊下には明かりがなく、そのため昼夜に関わらず、ここには一定の闇が淀んでいる。
広末は足を止めた。広末の目の前には扉が一つ、その扉の場所を示す表札には『音楽室』と書かれている。
「……」
広末は無関心に扉を見つめてから、取っ手を掴んで扉を引いた。質量を感じさせる扉がゆったりとした速度で、開いた。
音楽室にいた女子たちの視線が、広末に向かって集中する。
「遅い!」
女子の一人が広末に向かって声を上げる。
広末は黙ったまま無視を続ける。他の女子たちも、広末に向けて口々に声を上げる。
「何やってたの」
「ずっと待ってたんだからね」
「他の男子は?」
広末は低い声で答える。
「来ない」
「は~?」
音楽室の中で、あからさまなどよめきが溢れ出す。
「何よ、それ」
「あんた、何しに行ってきたの」
「ちゃんと呼んできてよ」
「学祭に間に合わないでしょ」
広末の通っている学校では、年に一回、学祭が開かれる。学校行事の一つで、学生の力によって開かれるお祭りのことだ。学祭の初日に各クラスによる合唱が行われる。広末のクラスでは、毎朝ホームルームが始まる前に合唱の練習を行うことが決定されている。
女子たちの中からは、広末に対する非難の声しか上がらない。
「他のクラスはちゃんと練習しているのに、うちらだけだよ、こんなに遅れているの」
「全く、どうする気よ」
「広末はパートリーダーでしょ」
「これで私たちのクラスが優勝できなかったら、広末、あんたのせいだからね」
合唱に必要な四つのパート、ソプラノ、アルト、テノール、バス、これらのパートのそれぞれにパートリーダーなる責任者を決めるのがこの学校の習慣になっている。
パートリーダーと言っても、役割は各クラスの練習場所を決めるための代表者で、主な仕事は職員室から音楽室などの練習場所の教室の鍵を借りる係りで、朝早くから学校に来て、放課後遅くまで学校に残る。ほとんどの生徒がやりたがらない係りだ。
「毎回毎回男子が来ないんじゃ、これじゃ練習にならないよ」
「みんなで決めたことなのに、何で男子だけ来ないわけよ」
「広末、あんたちゃんと男子に声をかけてきたの」
広末は呟く。
「言ってきた」
女子たちの不審そうな視線が広末に向けられる。広末はその視線を無視するように続ける。
「でも、行かないって」
「行かないって、じゃないでしょ!」
その女子を擁護するような声が頻りに上がる。
「他の男子連れてこなきゃ練習になんないじゃん。ほら、もう一回行ってくる」
その意見に賛同する声が、広末の周りを取り囲む。広末は反論も、承諾もしないで、ただ黙ってその場に突っ立っていた。広末の表情からは、気怠そうな色しか読み取れない。
「もうみんなやめなよ」
手を打ち鳴らす音が聞こえて、女子たちのざわめきが遠のくように消えていく。周囲の視線が手を叩いた女子生徒に集まる。倦怠感を顔に滲ませた広末も、声の主に目を向けた。
女子生徒はピアノの横に立っていた。不快と困惑を顔に貼り付けて、女子生徒は一段下にいる周囲の生徒達を見渡している。
女子生徒の口から、疲労感を帯びたきつい声が発せられる。
「広末ばかり責めても仕様がないでしょ。悪いのは練習に来ない他の男子なんだから」
「でもさー」
広末を取り囲む女子の中から声が上がる。
「こいつパートリーダーだよ。ちゃんと責任取らせないと」
広末は感情を殺した目で声を上げた女子を薄く睨む。だがピアノの傍に立った女子生徒はその意見に反論した。
「もう時間もないから、ここにいるメンバーだけで始めよう。ただでさえ朝の練習時間は短いんだから、これ以上は削りたくない」
その意見に、周囲の女子たちは納得したようだ。落ち着かない空気も残っていたが、女子生徒の声が周囲のざわめきを宥める。
「じゃあ、始めるよ。みんな合唱の体系に並んで」
無秩序だった女子たちが、一定の秩序を求めて移動を始める。この部屋の中で唯一の男子である広末は、女子たちの集団から離れるように端のほうへと歩き出す。周囲の女子たちから執拗な叱責の声を受けながら。
「じゃ、お願い」
ピアノの傍に立っていた女子生徒は、ピアノの演奏者と指揮者に声をかけてから自分の整列場所に戻った。
ようやく朝の合唱の練習が始まる。
「……」
広末は楽譜と上着を部屋の隅に置いて、定められた整列場所に立った。広末は音楽室の時計を見た。朝の練習時間は校門が開いてから朝のホームルームが始まる五分前までしかないので、非常に短い。広末が男子を呼んでくる時間と、先程のやり取りもあったから、二、三回通して唱えば、それで終わりだ。
広末は横目で隣に並ぶ女子の集団を眺める。ほとんどの生徒が楽譜を両手で掴んでいる。伴奏が始まったら、楽譜を持った生徒はずっと楽譜ばかりを凝視して、指揮者の動きを見る余裕などないのだろう。
――女子だって、男子と同じだ。
学祭まであと一ヶ月ほどある。とはいえ、合唱ばかりに時間を割いてはいられない。クラス展示の準備や、学校全体の装飾関係もやらなければならない。だからクラス単位の合唱は、早いうちに完成させておく必要がある。
合唱に無関心な男子は、その危機感を持ち合わせていない。だが、女子たちだってそれほど合唱に熱をいれているとは、広末は思っていない。学祭に向けての動きが始まってしばらく経ったが、女子のほとんどがまだ楽譜を覚え切れていない。
――こんなんで、優勝できるわけがない。
学祭当日では、楽譜を持ったまま唱うことなどできない。去年、楽譜を持ったまま当日の合唱に臨んでいたクラスを、広末は見ている。しかし、楽譜を見たまま合唱を行うのは、あまりよくない。理由は、声が出ないからだ。楽譜を見ながら唱うと、どうしても下を向いてしまう。そうすると、体育館全体に響かせる声が出てこなくなる。
合唱では、まず歌詞を覚えないことには話しにならない。楽譜が手から離れるようになってから、細かい唱い方を修正して、初めて完成に向かう。それが、広末が考える理想の合唱、いや個人の唱も含まれる、総じて、音楽というものであり、芸術なのだ。
しかし、学生レベルでは、そんな高貴なものは望めない。
――みんな、やる気がないのだから。
まず、声が足りない。
学校の体育館を満たすだけの、絶対的な音量が乏しいほどに欠けている。
その根本の原因は、大多数の男子が合唱に対して非協力的であること。一部の生真面目な男子しかやる気をみせていない、と言ったほうが適当だろう。練習には参加しない、参加しても小声程度に呟くだけで、とても唱っているとは言えない。
それでもいいほうだ。一応に、唱っているのだから。
中には口パクだけで、声を出さない者もいる。酷い者は、合唱当日になっても、前の人間の頭に隠れて、黙って突っ立っている。唱う素振りさえ見せない。
男子の大概は、こんな連中ばかり。
――こういうときだけ、女は図に乗る。
対する女子のほうは、イベントになると妙に団結して、自分たちだけでことを進める傾向がある。朝の練習をしようと言い出したのも女子たちで、昼休みや放課後でも、女子たちは各パートに集まって練習をしているらしい。
だが、だからといって、女子全員が熱をいれているわけでもない。今だって、朝の練習に参加していない女子がいることを、広末は知っていた。
アルトのパートは一番人数が少ない。広末は、アルトの人数と、誰がアルトなのかを把握している。広末の記憶と、今いるアルトのメンバーでは、明らかに数が不足している。
ソプラノも同様。全ての人間を把握しているわけではないが、練習をサボる者は大体決まっているので、欠けている女子がいることぐらいすぐにわかる。
――女子だって同じなのに。
ピアノの伴奏が広末の耳に届いてくる。正面を見ると、指揮者が最も単純な四拍子のリズムを右手で刻んでいる。
「……」
広末は合唱に備えた。そろそろテノールのパートが始まる。
指揮者が左手を上げる。
同時に、広末は息を吸った。
朝の練習は、いつも通りにことが進む。音楽担当の教師がいないので、生徒たちの練習は、ただ唱うしかない。女子たちは、それでも自分たちは練習ができていると思い込んでいる。数さえこなせば、合唱は上手くなると、そんな単純なものだと、信じて疑っていない。
――無駄な時間だ。
広末は思う。
楽譜を見て、一体何人の人間が正しく唱うことができるだろうか。
楽譜どおりに唱えば、音楽の授業に聞かされた見本テープのように、人の心に残る唱声を出すことができるだろう。
しかし、現実はそんなに簡単なものではない。音符を見て、その音を正確に口から奏でられる者はほとんどいない。できるのは、絶対音感を持っている者に限られる。それ以外の人間は、ピアノの音を参考にして唱うしかない。
だが、それだけではまだ足りない。音の伸ばし方は、休符のとり方は、ブレスのタイミングは。音が出せても、唱い方ができないから合唱の練習をするのだ。唱い方が間違っていれば、練習しても意味がない。
――先生から教わったことが、できていない。
音楽教師のような、音楽の素養がある人間が指揮をとって、誤った唱を正さなければ、いつまでも優れた芸術に達することはない。間違いを直さなければ、それは時間の浪費というのだ。
チャイムの音がスピーカーから吐き出される。元々は有名な曲のはずなのに、機械的な電子音で発せられる音は、あまりにも簡素で、感動もなく、冒涜に等しい。
「あ、時間だ」
女子の塊から声が上がって、それが合図となった。
「やっと終わりー」
音楽室の中で、秩序のないざわめきが溢れてくる。
――うるさい。
朝のホームルーム開始五分前を知らせるチャイムだ。音楽室から教室へ行く移動時間もあるため、すぐに教室に戻らないとホームルームに遅れてしまう。
「じゃあ片付けよろしくね、パートリーダー」
「男子連れてこられなかったんだから、それくらいはしてよね」
何人かの女子が、擦れ違い様に広末に命じていく。
――うるさい。
広末は、無言で女子たちが出て行くのをやり過ごす。もう恒例になった光景だ。
「…………」
音楽室の後ろのほうを見てみる。女子たちのいた後ろの壁には、ペットボトルや紙パック、菓子パンが入っていただろうビニール袋が散乱し、放置されている。
音楽室は飲食禁止に指定されている。こんなゴミが教師の目に付けば、一発で広末が呼び出しの対象になり、広末のクラスはしばらく合唱練習のために音楽室を利用することができなくなる。音楽室が使えなくなって、女子たちから真っ先に文句を浴びせられるのは、広末だ。広末がジュースやお菓子などのゴミを音楽室に持ち込んでいなくても、だ。
「…………」
広末は、隅から隅まで散らかったゴミを、隅から隅まで回収していく。音楽室のゴミ箱に捨ててはまずいので、外のゴミ箱まで捨てに行かなければならない。毎回のことで、量も軽視できるものではないので、広末はいつもゴミ袋を持ち歩くようになってしまった。
外から女子たちの笑い声が聞こえた。広末は奥歯を強く噛む。
「うるさい」
「あ、ごめんなさい」
広末は反射的に振り向いた。広末のすぐ後ろに女子生徒の姿があった。
「……」
広末は数秒女子生徒を見てから、すぐに視線をゴミで淀んだ壁のほうに戻した。
気付かなかった。
音楽室にまだ自分以外の人間がいたなんて、広末は全く気付いていなかった。
広末は彼女のことを知っている。練習を始めるときにピアノの傍で他の女子たちに声をかけた、ソプラノのパートリーダーである女子だ。同じパートリーダーであるために、彼女をよく見かける。
「…………」
「…………」
音楽室の中に、重たい沈黙がのしかかる。外で騒いでいた女子たちの声も、いつの間にか消えていた。
「前原さんさー……」
呼ばれて、前原は広末のほうへと振り向いた。呼んだほうの広末は、壁のほうを向いたまま振り向こうともしない。
「何?」
「何でまだここに残ってるの?」
前原は答える。
「音楽室の片付け。私リーダーだから」
「ふーん……」
気のない返事をしながら、広末は続けて訊いた。
「アルトのほうは?確か、平間さんだったと思うけど」
「詩穂は家が遠いから、朝の練習には来れないの」
「ふーん……」
広末はゴミを袋に詰めて立ち上がる。振り返ると、前原が窓の鍵を確認し終えたところだ。
「他の女子と一緒に帰っててもよかったのに」
「え?」
「これくらい、俺一人で充分だし」
前原ははっきりとした口調で反論した。
「そうはいかないよ。私も広末くんと同じパートリーダーなんだから」
「…………あ、そ」
広末は気のない口調で返しながら、扉へと向かう。
重さを感じる扉を開けて、広末は前原のほうを見た。凛とした目で、前原は広末を見つめていた。広末は生気の欠けた瞳を相手に返すだけだった。
「……終わった?」
「え?」
脈絡のない広末の言葉に、前原は気が抜ける。
「片付け終わったんでしょ。閉めるよ」
「あ、うん」
前原は慌てて扉に向かった。前原が部屋から出ると、広末は扉を支えていた手を離した。そのまま二人は歩き出す。
「ねぇ」
二メートルくらい歩いたところで、前原が広末の前に立った。
「ゴミ、捨ててこようか?」
広末は自分の持っているゴミの袋を無関心に眺めてから答えた。
「いいよ。俺がやっとく」
「じゃあ、鍵は私が職員室に戻しておく」
どちらも、広末一人がやるつもりだった。どちらも大した仕事ではないし、他人に任せるほどのものではないと思っていたから。
断ろうとして前原を見ると、彼女の目があまりにも真剣だったので、広末は次の言葉が出てこなかった。
その隙に、前原が口を開く。
「お願い。どっちかやらせて。広末くんばかりにやらせるのは、何か不公平な気がするから」
広末は仕方なくポケットから音楽室の鍵を取り出して、前原に向かって放った。
「ありがとう。広末くん」
「……あと」
歩き出そうとした前原は、不意の広末の言葉に立ち止まる。
「くん付けは、しなくていい。他の女子と一緒で、呼び捨てでいいから」
前原はしばらく返答に困った。彼女を見返す広末の表情は、相変わらず無感情なままだった。
チャイムの音を聞いて、二人はハッとする。ホームルーム開始のチャイムだ。
「いけないっ。急がなきゃ」
走り出そうとした前原は、一瞬だけ広末のほうへ振り向いた。
「広末も、急ぎなよ」
それだけ残して、前原は駆けていった。
誰もいなくなった廊下で、広末は大きく溜め息を吐いてから、再び歩き出した。




