第四楽章 崩れゆく世界
「ほら、もっとてきぱき歩け」
広末は大柄な男に首元を掴まれて、引き摺られるように歩かされる。その後から、二人の男がともに薄気味悪い笑みを浮かべながらついてくる。
「…………」
広末は、黙って、先頭を歩く男に引かれるままに、歩いた。その顔には、仏頂面に等しい無感動な表情が張り付いている。
広末は後ろ向きに歩いている。別に前を向いて歩くこともできたが、男が勝手に誘導してくれるのでそのままにしている。単純に前を向くのに要する労力を面倒がっているために、今のような非常に歩きにくい恰好になっている。
後ろを向いているおかげで、広末の視界には後ろからついてくる男たちの姿が嫌でも入ってくる。
一人は坊主頭で、片方の耳に複数のピアスを付けている。小さめのピアスが一つの耳に群がって、うじゃうじゃとまとわりついて光っている。
もう一人は耳を隠すくらい髪を伸ばしていて、目の前にまで髪がかかっている。加えて、口から鼻にまで覆うマスクをかけているために、その男の顔つきは全くわからない。
「…………」
あまり柄の良い連中ではないと、広末は初見で判断する。
後ろの二人が小声で何やら話をしているようだ。何を話しているのかまでは、広末の耳にも入ってこない。時折、二人は小さくせせら笑うような素振りを見せる。
「…………」
どうでもいいことだ。
広末は無感動に、後からついてくる二人の姿を漠然と、視界に納める。これから、あまりよくないことが起こるであろうことは、想像できる。
――ただ肩と肩が触れただけ。
どちらのせいでぶつかったのか、どちらからぶつかったのか、広末にはわからない。気付けば肩に衝撃を感じて、気付けばこの三人から因縁をつけられた、ただそれだけのこと。
大多数の人間ならば、勝手な因縁に不満の声を上げるか、人数の差と柄の悪さから恐怖を感じて、声が出せなくなるか、そんなことを感じるのだろうか。
「…………」
しかし、広末の表情からは、そんな感情を読み取ることができない。
どこまでも無感動で、どことなく不満そうな表情を顔全体に貼り付けたまま、なすがままに引きずられていく。その不機嫌そうな表情は、恐怖からではなくて、もっと別のところからきているように思われる。
「おらっ」
広末を引っ張る首周りの力が、僅かに上がった。瞬間的に、広末の体は前方へと放り出される。
――ガシャン。
広末は背後に衝撃を感じる。
――ギシギシ…………。
背中に当たっているものが軋んでいる。コンクリート製の壁の類ではない。おそらくは、金網かなにか。
――ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……………………。
背後のほうから震動が伝わってくる。どうやら線路の近くのようだ。太陽光を直接浴びる一般道とは違って、薄暗く、けれど湿度のせいでそれなりの温度を含んでいる。
広末の真上には、車が並行して三台くらいが走れるような大きな橋が架かっていて、そこだけ僅かに暗い印象を受ける。橋の真下は、長年の風化や周辺の車などの排気ガスの影響で、あちらこちらに黒い汚れが目立つ。
ビルが犇めき合う表通りから外れて、活気の褪せた、薄汚れた雰囲気があたりに立ち込めている。大型ビルから排出されるゴミの類が入った大きな暗黒色の袋が、一塊に、複数放置されいていて、ビルの職員用の裏扉は、光を失ったように影を帯びている。
ビルとビルの間にある、少し陰になっている壁には、スプレーで書き殴った奇形な紋様が描かれている。ピンクや黄色といった、派手派手しい極彩色で彩られた絵画には、絵画と呼べるかどうかも不明なほど、奇怪で、無秩序で、意味不明で、俗物なだけで、美意識が感じられない。
「おいっ」
大柄な男の分厚い手が広末の肩を押し付ける。
「シカトこいてんじゃねーよ」
広末は、視線を目の前の男へと向ける。
体格がいい、というのは褒め言葉で、要するに肥満体型、または超肥満体型。腕の太さだけ見ても、広末の腕の二倍かそれ以上はある。半ズボンを穿いているせいで、見事にまで肥えた足が良く見える。膝関節以外の至るところに肉が付いていて、丸みを帯びている。
上は袖のないジーンズ一枚、前を完全に開けているために、膨らんだ下腹部が嫌でも目につく。へそ周りが特に脂肪で固められていて、近距離なために腹の皮に浮き上がった粒状の脂がグロテスクに見える。
顔は肥満体型によく見られる丸顔で、余分な肉の付き過ぎで瞳がとても小さく見える。薄暗い中、本人は睨んでいるつもりなのだろうが、瞼の開かないつぶらな瞳からは、それほど危機的な気迫が感じられない。
「テメーな」
巨漢が口を開く。
「誰にぶつかったと思ってやがる」
「……………………」
広末は答えない。
巨漢は唾を撒き散らしながら続ける。
「テメー、人にぶつかっておいて詫びの一つもねーのかよ」
「……………………」
「謝れよ」
「……………………」
「土下座して謝れよ」
「……………………」
「おい」
「……………………」
「謝れって言ってんだろ」
「……………………」
「何とか言えよ」
「……………………」
「テメー」
「……………………」
「ふざけてんのかよ」
「……………………」
「あぁあ!」
「……………………」
巨漢の右手が、広末の肩から首元へと移動して、広末のシャツの首元を捻り上げる。同年代男子の標準体型にある広末の体が、僅かに持ち上がる。つま先はまだ地面についているが、踵が数センチメートルほど浮遊する。
巨漢の小さな目が広末を睨みつける。
「……………………」
広末の気怠そうな目が、肉で膨れた男の顔をぼんやりと眺め返している。
「ひっひっひ…………」
品のない笑い声が聞こえて、広末は目線をそのままの状態で、奥の二人へと目をやった。巨漢の背後で、二人のチンピラが楽しそうに話をしている。
「あいつ、ビビッて声が出せねーでやんの」
「ホント、だっせー」
――ひっひっひ…………。
二人の男たちの、軽薄なせせら笑いが、広末の耳介を刺して、耳孔の奥の鼓膜を不快に振動させる。
――うるさい。
広末の奥底、暗闇よりも奥深い深淵の地で、音が生まれた。体の奥底、体の世界よりもずっとずっと奥に潜む、そこは心の領域。
そこで、生まれ始める。
――ガシャン。
広末の体が勢いよく押さえつけられる。
――ギシギシ…………。
金網が衝撃を受けて軋む。
「痛い目見ないとわからねーらしいな」
巨漢の腕に、さらに力が加わる。首の辺りを押さえつけられているせいで、気管が圧迫されて息苦しい。
押さえられて、溢れ出す。
――うるさい。
「あぁあ?」
「ウルサイ」
満ちていく。
満たされる。
世界が崩れて、世界が創造される。
――……………………。
目の前の巨漢が何かを叫んでいる。あるいは、喚いている。
しかし何も聴こえない。音はない。巨漢の肉で固められた顔が憤怒を形作ろうとしている。小さな瞳が睨みをきかせている。
巨漢が、空いている手で拳を掲げて、広末めがけて殴りかかる。
――パン。
顔面から五センチメートルの位置で、広末は右手を出して拳を受けた。
音はない。衝撃音も、金網の撓む音も、列車の音も、二人の男たちの嘲い声も、巨漢の喚き声も。何も、聴こえない。
「!」
巨漢の顔が、驚愕に滲む。
巨漢の体が邪魔をして、状況のわからない二人の男は、依然ヘラヘラとした軽薄な笑みを浮かべている。
巨漢はさらに拳に力を込めるが、広末に受け止められたまま、一向に動かない。
「…………」
広末は静止画のような表情のまま、拳を受けている手の指をゆっくりと折り曲げて、巨漢の拳に添わせる。
――グチャ。
巨漢の拳が爆ぜた。
「――――――――っ!」
血飛沫が散った。巨漢の脳髄を激痛が貫いて、巨漢の口から悲鳴が吐き出される。
しかし何も聴こえない。拳が潰れた音も、巨漢の悲鳴も。
状況の見えていない二人の男たちは、いっそう楽しそうに笑っている。おそらく、広末のほうが殴られているものだと思っている。
巨漢の体が小刻みに震えだす。足元が戦慄いて、膝が折れる。
巨漢の背後にいた二人が、ようやく異変に気が付いた。
――おい、どうし……。
坊主頭のほうが何かを言いかけたようだったが、その声すら聴こえない。
そして、状況を見た二人の顔から笑みが消えた。
地面に蹲った巨漢の、左腕の手首から先がなくなっていて、挽き肉状の崩れた肉片からは赤黒い液体がとめどなく滴っている。
――あ、あ、あ、あ、あ…………。
巨漢が呻いている。音はなく、巨漢の口から出てくるのは油汗に塗れた涎ばかりだ。
「…………」
広末は感情の欠落した目で蹲る大男を見下ろして、小刻みに痙攣しているその体を、蹴りつける。
軽く蹴ったようにしか見えない、その一撃で、男の巨躯は後ろの男の顔の高さまで持ち上がり、かなりの勢いをもって、五メートル先の壁に激突する。
――ピチャ。
硬直した二人の男の足元に、赤黒い塊が転がり落ちた。その塊は血を欲したように、規則正しく蠢いている。
坊主頭の男が、音のない悲鳴を上げて、広末から逃げるように走り出した。
「……!」
が、すぐに足を止めた。
巨漢の姿が目に入った。
脂肪で膨れ上がった豊かな腹部の、胸部からはカーディナルレッドに染め上げられたパイプが突き出ている。先が欠けて鋭利に尖ったパイプの先端には、大量の液体が付着して、滴り落ちている。
――ひっ……!
巨漢の首は九十度近く曲がって、だらしなく開いた口と瞼からは、男のものと思われる体液が溢れて流れ出ている。
坊主頭は無音の悲鳴を上げ、反対方向へと駆け出した。少しでもここから離れようと、半狂乱になって走っていく。
自分のいた場所から離れようとして、すぐに奥のほうの行き止まりに辿り着く。それでも、逃げ出したい一心で金網をよじ登り始める。すぐに登りきってしまいたいのに、手先や足先が震えてしまって、思うように登れない。
坊主頭は喚きながら、激しく首を振る。
「…………」
広末の、感情の欠落した鉛色の瞳と、目が合った。
――ひいぃぃ!
三十秒くらいの時間をかけて、ようやく金網を乗り越えて、坊主頭の男は恐怖に顔を歪ませて、一目散に駆け出した。
――キキキキキキキキイイイイィィィィィィィィ……!
――ギャアアアアアアアアアアァァァァァァァァアアアアアアアアア――――――――ッ!
走行スピードを維持した列車が線路を横切る。その影に隠れて、線路に飛び込んだ男の姿はどこにも見えなくなった。
「…………」
広末は、五秒ほど男の見えなくなったところを眺めていたが、興味を失くしたのか、視線を目の前の、マスクをかけた、最後の男へと移す。
男の目と、広末の鉛色の目が、互いの瞳に映し出される。
――ビクっ!
マスクの男の背筋に冷たいものが走る。男の体は、反射的に後退する。
――ジャリ。
一歩。
――ジャリ。
二歩。
――ガクン。
「!」
足が縺れて、男はその場に尻餅をつく。
――いてっ。
男は急いで立ち上がろうとして両手を地面につけた。
「…………」
男の周囲の明度が、僅かに下がる。気付いた男は、ゆっくりと顔を上げる。
広末が、自分を見下ろしている。
――あっ…………。
頬には巨漢の返り血が付着していて、その奥の瞼の奥からは、感情の失せた瞳が、冷たく男を見下ろしている。
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
男の腕は戦慄いて、立ち上がることも忘れて、必死に体を引きずって後退する。その後を、広末はゆっくりゆっくりと追っていく。
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
「……………………」
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
「……………………」
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
「……………………」
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
「……………………」
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
「……………………」
――ドス。
背中に何かが当たる感触を覚えて、男は咄嗟に振り返った。
行き止まりだ。
――あっ。
――ピチャ。
「……!」
掌に触れる感触がある。液体状で、少し粘ついている。
――……………………………………………………………………………………。
ゆっくりと、感触のある手のほうへと顔を向けた。
巨漢の、変わり果てた姿がそこにある。
「――――――――っ!」
日に灼けた太い腕は力なく垂れて、胸部を貫いたパイプの下は、自らの血で赤黒く濡れている。
――うわああぁぁああああ!
反射的に体を仰け反らせたが、その勢いで背後の壁に強か頭を打った。
「……………………」
視線を感じて、男は痛みを感じるのを忘れた。
――……………………………………………………………。
男は顔を正面に向ける。
「……………………」
黒い人影が、自分のすぐ目の前を覆っている。
――あっ…………。
影が、一歩近づく。
――あっ、あっ…………。
緩やかな歩調で、距離を縮めていく。
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
そして、止まる。
――あっ、あっ、あっ、あっ…………。
黒い影が自分を見下ろしているのがわかる。
――あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
鼓動が高鳴る。体中が熱くなって、息苦しい。
――あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
影は膝を曲げて、目線が合う。
――あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
広末の目が、感情の抜けた鉛の瞳が、自分を見ている。
――あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
広末は、すっと腕を伸ばしてくる。手が、自分に向かって伸びてくる。
――あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
逃げたい。けれど体が動かない。呼吸ばかりが速くなって、体がそのスピードにあっていない。
――ピタっ。
頬に、手が触れた。
――…………………………………。
息が止まった。背筋が一気に冷めていく。音のない世界で、全ての生が一斉に消滅する。心臓の音さえ、なくなってしまったような、無音の世界。
――……………………………………………………………………あ。
――ウルサイ。
――コツっ。
広末は素早く顔を上げた。人影が目に付いて、広末はすっと立ち上がる。鉄橋の影になって薄暗い路地裏に、二つの影が侵入してくる。
広末と十メートルほどの距離を置いて、二人は立ち止まる。
「なかなか、状況がよくないです」
長身のほうが口を開く。
長躯の男の視線の先には、頬に返り血を浴びた広末と、広末の隣には胸部を尖ったパイプで貫かれた肉塊のような男と、そして広末の足元で仰向けになって、耳と目から赤い液体を流している人間の姿が転がっている。
長身の男の隣の、腰の辺りほどの背丈の少年は、脅えたように顔を歪ませている。
長身の男は、涼し気な顔をして、広末に目を向ける。
「君が、やったんですか?」
「……………………」
広末は答えない。限りなく無感動に近い冷静な目を、長躯の男に向けるだけだ。
「――白を切ろうとしても、無駄です」
長躯の男は、微笑を称えたまま、続ける。
「君には気配があります」
頭上の鉄橋が揺れている。絶え間なく流れる車に押しつぶされて、汚れ塗れで黒ずんだ橋が軋んだような音をたてる。
「お前ら――」
数秒の沈黙の後、広末は口を開く。
「MASKSか?」
その単語を耳した瞬間、長躯の男の隣にいた小柄な少年の肩がビクンと震えた。少年の顔に、見る見る驚愕の色が拡がっていく。
長躯の男は、驚きと言うよりは意外そうな表情をして広末を見つめる。
「どこでその名前を知ったんですか?」
「今訊いているのは俺だ。まずは俺の質問に答えろ」
五秒ほど間をおいて、長身の男は口を開く。
「はい、そうです」
そこには、先程までの愛想のよい微笑へと戻っている。
「なるほど」
広末は無感動な目で目の前に並ぶ二人の男たちを眺める。
「俺は広末広平。お前らは?」
「私はクロ、彼は雨宮くん」
「ニャー」
猫の鳴き声が聞こえた。クロと名乗った長躯の男の足元に、一匹の黒猫がいるのに、広末は気が付いた。
「そして、この子はアオです」
「ふーん」
広末は興味なさそうな瞳で二人と一匹を交互に眺める。
「クロ、ってのは本名か?」
クロはくすりと笑う。
「一応、本名です。元々名前がなかったので、私が自分でつけました」
「ふーん」
広末は興味なさそうな瞳でクロを見る。
「ところで――」
クロは微笑んだまま、ゆっくりと瞼を上げる。
「誰からMASKSの名前を聞いたんですか?」
色素の抜けた金色の瞳が、広末を薄く見据える。
広末は、なんでもないように、すんなりと答える。
「榊原から」
雨宮は驚いたように目を丸くする。
「そうですか」
クロは納得して、瞼を下げて、元の細い目元に戻す。相変わらず人のよさそうな笑みを浮かべている。
「榊原さんは今どちらにいますか?」
クロの問いに、しかし広末は答えない。代わりに、周囲を見渡して表情を暗くする。
「――騒がしくなってきた」
その言葉を聞いて、雨宮はキョロキョロと辺りを見回す。
午後四時を幾分か回った頃だが、夏季の日は長く、鉄橋の真下にいては日も当たらない。薄暗くて、活気がなくて、濁っていて、湿っぽい。
人の姿も、ここにいる三人以外は誰もいなくて、聴こえるのは鉄橋の上を走る車の音くらいで、他に際立ったものもない。
強いて挙げるとするならば、雨宮たちの背後の表通りから雑踏のざわめきが遠くに聴こえて、隣の金網の向こうを覗けば、そこに一台の列車が止まっている。元々、走行中の列車のようで、乗客もいるみたいだが動く様子がない。
特に騒がしいとは、雨宮は感じない。
しかし、広末の表情は明らかに不機嫌そうなものを含んでいる。
「場所を変える。ついて来い」
広末は振り返って隣の金網を一瞥して、少し屈んだかと思うと、気付いたときには、フェンスの上に乗っていた。
「!」
驚いて、雨宮は目を見張る。どうやら跳躍でそこまで飛び移ったらしい。
――そんな…………!
考える余裕もなく、広末の姿は消えて、今度は線路を飛び越えた、向かいの建物の上に移動して、そこから二秒もせずにまた違う場所に飛び移り、終いには雨宮の視力の及ばぬところまで行ってしまった。
「私たちも行きましょう」
隣から声が降ってきて、雨宮は我に返った。見上げると、クロの優しい笑みがそこにある。
「はい」
雨宮は頷いて、反射的に顔の前に右手を翳そうとする。
直前、雨宮の肩に触れるものがあった。
「待ってください」
クロが雨宮の行動を引き止める。
雨宮は困ったようにクロを見上げる。長身のクロがすぐ隣にいては、一五〇センチメートルに満たない雨宮はほぼ垂直に頭を上げるしかない。
「二人も心を解放すると、周囲のフラストやトレストを刺激してしまいます」
クロは、すっと右の掌を自分の右の頬に添える。血色が悪いわけではないが、色白なクロの頬に、年上の男性とは思えないほど白く、そして養分を失った小枝のように細長い指先が、クロの短い睫毛を優しく撫でる。
この瞬間。
雨宮たち、対フラスト集団には、条件反射になってしまった行為。
――仮面を外す。
クロは右手で自分の顔を覆って、素早く払った。
しかし、そこに雨宮が予感していたものはなく、いつも通りの、慈愛に満ちた優しい好青年の笑みがあるだけだ。
雨宮が感じたときには、クロの右手は膝頭の辺りまで移動して、円運動を描いて、クロの足も通り過ぎる。
と。
――たんッ。
クロの足元で静かにしていたアオが、突然飛び上がる。その姿が、クロの腕と重なる。
一瞬、炎が上がったのかと錯覚した。色はわからない。そもそも本当に炎が起きたのかどうかすら、怪しい。
そんなことを考えるより先に、雨宮は目の前のモノの姿を見てまず自分の目を疑い、思考が止まった。
――だんッ!
高さは雨宮の目線とほぼ同じくらいで、全長は二メートルを超えている。体毛は紫黒を帯びて、引き締まった胴体がすらりと伸びて、脚部の筋肉は逞しく隆起している。足先から伸びる爪の厚さだけでも、雨宮の拳と同じくらいの大きさがありそうだが、最も特徴的なのが上顎から生えている、長さ五十センチメートル近い二本の鋭利な犬歯だ。加えて、顔上半分、額から鼻先にかけて、バッファローの頭蓋骨の形をしたアッシュグレーの装具が装着されている。
――太古の昔に絶滅したサーベルタイガーを思わせる獣。
雨宮は反射的にその獣から一歩距離を置いた。
クロのほうは、親しみを込めて紫黒色の獣の背中を撫でてやる。
「この子に乗って行きましょう」
長身の割りには身軽な動作で、クロは巨大な獣の背中に跨った。
「………………」
雨宮は、肩に提げたショルダーバックがずり落ちないように両手で握り締めたまま、その場に硬直している。
「さあ」
優しい笑みを浮かべてクロが声をかけるが、雨宮は一向に動こうとしない。
「大丈夫です。今のアオは逃げ出したりしません」
――むしろ僕が逃げ出したいっ!
心中の思いとは裏腹に、雨宮の足は一歩も動いてはくれない。
虎、というよりは豹を思わせる毛色をした獣は、じっと雨宮を見つめている。野獣の頭蓋骨を模した仮面の下からは、宝石にも匹敵するような、ディープブルーの瞳を覗かせている。
雨宮がその瞳に気付くと、獣はついと視線を外した。
「早く乗れ」
「!」
その音を聴いたとき、雨宮は当惑以外のどんな感情も抱かなかった。
「あいつがどんどん離れていく。あまり離れすぎると、正確な位置を見失う」
雨宮の体中から冷や汗が溢れ出す。夏場のせいか体も熱くて、心臓が大きく脈打っているのがわかる。
目の前を見る。今ここにいるのは、雨宮とクロ、ただそれだけで、他に人の姿は見当たらない。クロのほうはというと、アオらしき、豹のような巨大な獣の上に跨って、いつもの優しい微笑を浮かべている。
口を開いた素振りは、ない。
――つまり。
雨宮の直感が脳裏に囁く。
――アオが喋った。
頭の中には、その言葉が巡るだけで、雨宮の思考はほとんど機能していない。
しかし雨宮の体は、その音を聴いた瞬間から少しずつクロの元へと近づいていって、彼に向かって右手を差し出していた。
雨宮の手をクロは掴んで、左手一本で雨宮の体を持ち上げる。雨宮は一瞬浮遊感を覚えて困惑したが、気付いたときにはアオの背中に跨っていた。
「しっかり掴まっていてください」
クロの言葉に、雨宮は無意識にクロの腰辺りに手を当てていた。
直後。
――ぐわッ!
「うわあぁ!」
体が急激に持ち上げられる感覚を覚えて、雨宮は咄嗟に悲鳴を上げた。反射的にクロの背中にしがみついて、目を閉じてしまったので、今自分がどうなっているのか全くわからない。
「…………」
衝撃が、止んだ。体にかかる無理な圧迫感はなく、アダージョに二拍子を刻む体の上下運動と、真夏にそぐわないひんやりとした風が頬を伝う感触が、雨宮の緊張を少しずつ解してくれる。
雨宮は、非常に緩慢な動作で瞼を押し上げる。視界に景色が広がる。
――ビルの群を遥か下界に見下ろす上空に、雨宮はいた。
「――――――――っ!」
声にならない悲鳴、まさにそんな声で雨宮は喚いた。
「落ち着いてください」
クロが雨宮に向かって何かを言っているが、そんな言葉も雨宮の耳には届かない。
足元を見れば地面はなく、靴の下は空気以外に触れるものがない。クロの服の裾を掴んでいるだけで、他に自分を支えてくれるものは何もなくて、特に高所恐怖症というわけではないが、雨宮は完全に混乱している。
「静かにしろ」
音が聴こえて、雨宮の体は自然と凍りついた。
「うるさくて集中できん。黙ってろ」
アオの声――たぶんアオの声だと雨宮は思う――は、耳から、というよりは直接脳の聴覚野に届いてくるみたいで、不思議な響きを持っている。クロの声と酷似しているような気もするが、含んでいる温度は対極するように底冷えがする。
「……………………」
雨宮は黙った。そのまま体も硬直して、ピクリとも動かない。アオの声には、有無を言わせない強制力があった。
「落ち着いてください」
クロの優しげな声が聞こえた。
「今のアオは心の領域を解放しているため、普通の人には見えにくく、記憶にも残りにくい状態にあります。まず一般人には気付かれないでしょう。しかし君の声は別です。これだけの高度があれば聞こえることもないでしょうが、念のため静かにしていてください」
目の前にはクロの背中しか見えないが、雨宮は俯いて、それきり何も言わない。
「アオ、追えますか?」
下のほうから、すぐに返答があった。
「大丈夫だ。まだ見失っていない。スピードもこちらのほうが速い。そのうち追いつく」
「お願いします」
十分くらい、そうやって飛行していた。雨宮は緊張と申し訳なさで、時間の感覚を見失っていたけど。
アオは、その表現通り、空を飛んでいた。鳥のような翼はなかったが、空の中を自在に駆けることができた。
そして十分ほどの後、アオから音が聴こえた。
「見つけた」
直後、アオは唐突に急降下を開始する。
「……!」
雨宮は声を上げそうになったが、何とかそれを飲み込んで、クロの背中に必死にしがみついて目を閉じた。着地の瞬間の衝撃を予想した。が、意に反して、大きな衝撃はなく、一瞬ふわっとした無重力状態を体感した後には、空中にいたときの微細な上下震動もなくて、雨宮の体は静止していた。
十秒くらいの間をおいて、少し離れたところから声が聞こえた。
「ここでいい」
その声は、クロでも、アオのものでもない。もちろん、雨宮が発した声でもない。
「……」
雨宮は目を開いた。
ビルが犇めき合う町中に、ぽっかりと開いた広大な空間。周囲を見渡せば、そこかしこに緑が目に付く。足元も、整備されたコンクリートと違って、より柔らかい材質を使用している。
町の中に存在する、憩いの場、安らぎの公園。子どもたちの遊び場となる遊具はなく、ベンチの数もそんなにないが、ただ広くて、そして、無性に静かな場所だ。
クロは軽やかにアオから降りて、微笑んで雨宮に手を差し伸べる。
「もう降りていいです」
雨宮が手を差し出そうか、考えあぐねいていると、豹に似た獣は一瞬身震いをして、その反動で雨宮は地面に振り落とされた。
「いてっ!」
雨宮は打った場所を擦りながら起き上がる。顔を上げると、目の前十メートルほど先に、一人の少年の姿が目に入って、雨宮の顔は咄嗟に真剣なものへと変わる。
クロは興味深そうに周囲を眺めていたが、そこに緊張の表情はない。
「ここはどこですか?」
「俺のお気に入りの場所だ」
広末は周囲に目を向ける。
「ここはいい。何もなくて。何より、静かだ」
「確かに、そうです」
クロはしげしげと周囲を見渡して、ゆっくりと顔を正面に立つ広末へと向ける。
「ところで、榊原さんはどちらですか?」
「ここにはいない」
突き放すような物言いで、広末は返す。
「お前らを榊原に合わせる気もない」
「そうですか」
少し寂しげに言うクロの表情は、しかし微笑を崩さない。
「榊原は――」
広末は続けて口を開く。
「言っていた、新世界を作る、と。だが、そのためには組織が邪魔だと」
「それは、残念です」
言葉とは対照的に、クロの表情は慈愛の笑みで満ちていた。
「だから、消す」
ずしりと、響く、重い声。先程から二人を拒絶するような言い方だったが、この一言は特に重みが違った。
「邪魔なものは、いらないものは、全部……!」
ギリッ、という音が聞こえてきそうだった。広末は強く自らの奥歯を噛み締める。その表情は、苦渋とも、憎悪ともとれる。
広末の口元から、途端に力が抜ける。しかしその顔は未だに険しい。
「仮面を外せよ」
向き合う二人に向かって、言った。
「MASKSは仮面を外さないと、心を使えないんだろ?さっさと、外せ」
「わかりました」
クロは頷いて、視線を隣にいる雨宮へと移す。その顔に、仄かな苦笑が浮かんでいたが、クロの清々しい印象までは崩せなかった。
「君の嫌いな、戦いになりました」
その言葉に、雨宮は胸の奥がずきんと痛むのを感じる。クロの顔を見上げて、その真意を読み取ろうとしたが、クロの変わらないいつも通りの印象には、まだ何か壁があるように感じられた。
「仮面を外してください」
そう、クロは微笑む。
「…………はい」
雨宮は頷いて、ショルダーバッグを地面に置く。ファスナーを開けて、中からゴツゴツとした、重みのあるサブマシンガンを取り出した。小柄な雨宮には、少し大きすぎるような気もする。
そのサブマシンガンを、雨宮は左手一本で支えて、右手を自分の顔の前に、添える。背後でアオの唸り声がした。
「またはぐらかされたぁーっ!」
真奈が駅の入り口の前で大声を上げる。周囲を歩く何人かの人々が、怪訝そうに真奈を見ては通り過ぎていく。
追いついた咲希が真奈に声をかける。
「真奈」
「逃げられたぁーっ!」
咲希を見るなり、真奈が再び大声を上げる。両手をパタパタと振って、その場で地団駄を踏む。
周りからの視線を感じて、咲希は小声で真奈を宥める。
「わかったから、他の人が見てるよ」
「んーっ」
まだ納得がいかない様子で、真奈は頬を膨らませる。
しばらく動きそうにない真奈をなんとか説得するために、咲希は頭を巡らせて言葉を探す。
「それより、真奈お勧めのケーキ屋さんに行こうよ。真奈、案内して」
真奈は渋々、といった感じで、ようやく歩き出した。二人が来た道を戻るのかと思ったのだが、真奈は駅の入り口前を通り過ぎて、そのまま真っ直ぐ歩いていく。
「そっちでいいの?」
追いついた咲希が訊く。
「ちょっと遠回りになるけど」
答えた真奈の表情は、玩具を盗られた子どものように不機嫌そうだ。
「雨宮くんに会えるかもしれない」
そう言ったきり、真奈は何も言わず、ひたすら前を向いたまま歩いていく。普段より、かなり早足で歩いてはいたが、身長差もあってか咲希はそれほど急ぎ足になることもなかったが、真奈の真剣な様子に、声をかけるタイミングをそれっきり失ってしまった。
「………………」
さっきまで、真奈と咲希は雨宮ともう一人背の高い男の人を見かけて、真奈が一方的に雨宮に話しかけていたのだが、唐突に雨宮ともう一人の長身の男が走り出して、人混みの中に消えてしまった。
――行きます。
長身の男の言葉がきっかけだった。
――はい。
雨宮は頷いて、真奈と咲希にこう残していった。
――ゴメン、ちょっと急用ができちゃった。
長身の男が走り出して、その後を雨宮が追っていった。
真奈は突然のことに驚いて後を追いかけて、咲希も真奈を見失わないように駆け足でついていった。そして、駅の入り口まで走ってきて、二人を見失ってしまった。
真奈と咲希が雨宮と会ったのは、今日で一ヶ月ぶりだった。学校が夏休み期間に入ったのだから、クラスメイトと会うことは滅多になくなるのだが、雨宮は夏休みに入る一週間以上前から学校に来ていなかった。だから今日ここで会えたことは、本当に久し振りだった。
雨宮が学校に来なくなって、クラスでは心配する声が上がっていたし、中には雨宮がこのまま転校してしまうのではないかという話さえ持ち上がった。
理由もわからなく、様々な憶測が飛び交ったが、咲希には思い当たる節が一つだけあった。
――MASKS。
人の心から溢れた異形の化物、フラスト。フラストを倒すために結成された『組織』、その中で直接戦闘に関わる集団をMASKSと言い、雨宮はMASKSの一員である。
同じクラスで、雨宮と同じMASKSの高峰、彼女もまた雨宮と同じ日を境に姿を消している。クラスの中では、高峰のことはあまり話題に上らなかったが、雨宮と高峰の二人が学校に来なくなって、咲希はMASKSに関わることだと確信していた
――じゃあ、何故ここにいるの?
そう思いかけたとき、真奈が大声を上げて立ち止まった。
「あ――――――――っ!」
突然の出来事に、咲希は足を止める前に真奈の背中にぶつかった。
「どうしたの?」
「あれ、あれあれっ」
真奈が慌てた様子で指差す先を見ると、たくさんの人だかりができている。その奥から、黒い煙が絶えず上がっている。
咲希も驚いたように声を上げる。
「何かあったの?」
「わかんない」
二人は人混みのほうへと駆け寄った。あまりにも人が密集しているので、奥まで入るのは難しい。
状況がわからなくて、真奈が不服の声を漏らす。
「あー、見えないぃー」
背の高い咲希は、人の頭の上から奥の様子を見ようとする。ビルの前にガラスの破片が無数に散乱していて、ショーウィンドーらしきガラスには大きな穴が開いていて、その奥でグシャグシャになった車から煙が上がっている。
「咲希ぃー、見えたぁー?」
「うん、事故みたい」
店の中にも人の姿が見えて、そこにいる人たちも外にいる人たちと同様に、かなり驚いている様子が窺える。
「どんな感じぃー?」
真奈の不安そうな顔が咲希を見上げる。
事故の様子に目を向けながら、心の内では咲希は別のことを考えていた。
――さっきのは、何だったんだろう…………。
雨宮ともう一人の青年が姿を消す直前に、咲希は異変を感じていた。それがなんなのか、咲希自身にもよくわかっていない。
――もしかして…………。
ある考えが頭の中に浮上して、しかし咲希はそれ以降の思考を中断させて、真奈に答える。
「かなり酷いね。余所見運転でもしてたのかな」
右手を顔の前から払い、サブマシンガンを両手で構えて、引き金を引く。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――ッ!
銃声が轟いた。
「おらああああぁぁああああああッ!」
雨宮の叫び声と、銃声が重なる。雨宮の瞳は殺意に輝いて、顔の右側では右目が異様に膨らんだ、派手な輪郭で彩られた奇怪な仮面が、楽しそうに揺れている。
雨宮が銃口を向ける先、そこに一人の少年の姿がある。
――広末広平。
自らをそう名乗り、そして、言った。
――榊原。
榊原樹を知っている。つまり、広末はその仲間。今まで榊原の仲間の存在は、組織に報告されていないはず。広末を見つけられたことは、大きな収穫だ。生かして捕らえて、情報を引き出したいところだが、雨宮は手加減する素振りも見せず、真っ直ぐ弾丸を広末に向けて乱射する。
「ちっ」
広末は右に飛んで銃弾を躱す。地面を一蹴りしただけなのに、広末の体は五メートル近い距離を移動する。
――ドドドドドッ!
雨宮はサブマシンガンの銃口を広末に向けて乱射する。広末の後を、無数の弾丸が追いかける。
広末は雨宮から離れるようにして回避行動をとるが、どんなに遠くへ離れても、銃器にはあまり意味がない。
広末の表情が、徐々に険しいものになっていく。
不機嫌そうな表情が、激昂に歪む。
「うるさい」
吐き出された音。
直後。
――…………………………………………。
周囲から音が消えた。
空間を覆っていた喧しい銃声も掻き消され、辺りには何の音も聞こえない。
「…………」
異変を感じて、クロは眉を寄せる。
後退していた広末は、木々の中に姿を消した。
――ドド…………ッ!
目の前を駆けていた銃弾が消えた。
――待ちやがれェ!
叫び声を上げて広末の後を追う雨宮、だがその声は消音の中に押し潰されて周囲に響かない。
雨宮が雑木林に入ろうとした、直前。
――ブオンッ!
雑木の一本が雨宮に向かって飛んでくる。
――がッ!
雨宮の体は衝撃に押されて、反対側の木々の中に押し潰される。激突の瞬間、音の消えたこの場所からは何も聞こえなかった。
――この……!
普通なら複数の大人が集まってやっと動かせるような木片を、しかし雨宮は無造作に払いのける。
――ヤロォォオオオオ!
雨宮は体を起こして、再度広末が消えた林の中に突っ込んだ。
「……」
二人の姿が、視界から消えた。クロは黙って同じ場所に立っている。さっきまでの微笑はなく、やや考え深い表情をしている。
「…………」
クロは首を捻って雑木林に目を向ける。
木々の中から、鳥たちが空に向かって飛び立つ姿が見える。林の中から薄茶がかった煙が見えた気がして、何本かの木が宙に舞い上がる様子が、一瞬だけ見えた。
音は、ない。
鳥の鳴き声も、羽ばたきも、木々がへし折られる音も、大木が舞い上がって、落下する音も、雨宮が乱射する銃声も、何も聞こえない。目の前に広がる光景は無声映画のように、現実味に欠ける。
――駄目です。
クロは心中で呟く。
――位置が特定できません。
MASKSはフラストや同じMASKS同士、心の領域に踏み込んだものの気配を少なからず察知することができる。心のエネルギーを解放していれば、多少距離が離れていてもその存在を認識して、距離が近ければその正確な位置まで特定できる。
MASKSの中でも上位の実力を持つホリックであるクロならば、フラストが姿を現せば半径数キロメートルは感知できるし、さらに一キロメートル内であれば正確な位置まで割り出すことができる。経験上、クロもそのことを良く知っている。
上空から見た限りでは、この公園内にいれば敵がどこにいようと、その位置が判明できるはずだとクロは踏んでいた。
しかし、今のクロには広末の位置は愚か、雨宮がどこにいるのかもよくわからない。二人がこの広い公園内から出た様子はなく、園内のどこかにいることはわかるのだが、何か見えない靄のようなものに周囲を囲まれているみたいで、感覚が極端に鈍っている。
――ドオンッ!
クロの背後の林から、大量の土煙が吐き出された。クロの後ろにいる紫黒色の肌をもつサーベルタイガーのような巨大な獣が、不意に後を振り向いた。
獣の動きに呼応するように、クロも背後を見る。巨木が粉々に砕けた破片が辺りに散乱していて、濃い土煙の中に一つの人影が見える。
――くそッ!
咳払いをしながら、雨宮は起き上がる。
身に付けた衣服は埃に塗れて汚れていて、露出した肌は切傷か打撲の痕で所々赤くなっている。
雨宮の顔は、しかし、殺意に溢れて、怒気に歪んでいる。頻りに周囲に目を向けて、何かを叫ぶように口を動かすが、無音に支配されたこの場所にはどんな言葉も、音すら聞こえない。
――どこだッ!どこ行きやがったあぁ!
雨宮が忙しく辺りを見回しながら、音のない声を張り上げる。
と。
不意に紫黒の獣が空を仰いだ。獣の様子に気付いて、クロも同じように空を見る。
――広末が、そこにいた。
地上から百メートル近い高さ、そんな高度な場所で、広末は両手で地面から直接引き抜いたように無数の根を生やした、広末の身長の実に四倍近い巨木を振り上げている。
咄嗟に、クロは雨宮に向かって叫ぶ。
――上だ!
その声は、しかし無音の壁に阻まれて、雨宮の耳には届かない。辺りを警戒そうに見回しているが、広末の存在には気付いていない。
広末が動く。大木を雨宮に向かって投げつける。
――まずいです。
クロが思った、直後。
――だんッ!
紫黒の獣が駆け出した。
クロから雨宮のいるところまでは少し距離がある。今からクロが走り出したとしても、おそらく間に合いそうにない。その間を、紫黒のサーベルタイガーは猛スピードで走行する。雨宮との距離が、あっという間に縮まる。
雨宮と衝突する、そのほぼ同時に、獣は頭を振り上げて、頭の装飾具に雨宮の体を引っ掛けて、そのまま走り抜ける。擦れ違うように、直前まで雨宮がいた地面に大木が深々と突き刺さり、バラバラに砕けた木片を周囲に撒き散らす。
何とか、激突は免れた。それを理解して、クロは表情を和らげる。
次の瞬間、クロの姿がそこから消える。一方、空中にいた広末は緩やかな軌道を描いて、地面に着地をする、直前。
――クロが肉薄している。
「!」
スピードにのったクロの流れる一撃が、広末を捉える。咄嗟に防御をとった広末の体が、十メートル近く飛ばされる。
地面を転がり、素早く身体を起こした広末の前に、すでにクロが迫っている。
クロは左手の指先同士を密着させた状態でピンっと伸ばし、刃物のように広末に向けて振り下ろす。
僅かに距離をおいて躱し、続けざまの連攻も、広末はギリギリで躱して距離をおく。
「……」
クロから離れた広末は、再び林の中に姿を消した。クロは一瞬の間をおいて、広末の後を追う。
林の中は、それほど木々が密集していなくて、クロは走って広末の後を追うことができたが、そのスピードは常人のそれとは比べものにならないくらい速い。木々の間を縫って、クロは走る。
――ザッ…………。
不意にクロが立ち止まる。たくさんの木々に視界を阻まれて、広末の姿を見失ってしまったらしい。
「…………」
クロは注意深く周囲に気を配る。
雑木林の中は木々が障害となって独特な風が吹いている。優しく、木の葉を揺らす、静かな風。肌に触れる感触で、風が吹いていることはクロにもわかる。しかし無音に守られたこの場所では、そんなささやかな音すら、聞こえない。
――ザッ、ザッ……。
どこからも、音はない。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ…………。
何も、聴こえない。
――ザッ!
クロの背後から、広末が襲いかかる。飛び上がり、拳を構えて、広末の後頭部に照準を定める。
瞬間。
クロは上半身を勢いよく前傾させ、反動で右足が一気に上がる。背後への、回し蹴りだ。
「……!」
目では見えていても、どうすることもできない。広末の頭部に重い衝撃が走る。攻撃のために上げた手が運よく衝撃を受けたおかげで、頭への直撃は避けられたが、不意の攻撃で広末の体は木々に激突して、三本もの大木を粉々にした後、四本目でようやく衝撃が収まった。広末の体は、その木に食い込むようにして静止した。
――がはッ!
広末の口から赤い液体が外気に向かって飛び散る。
衝撃が止まったとは言え、体に大きなダメージを受けた広末、しかし休んでいる暇はなかった。広末の視界で、すでにクロは動いていた。
広末は舌打し、急いで大木に食い込んで自らの体を脱出させる。間一髪、広末は体を大木から剥がして、クロの攻撃を躱した。クロの攻撃は違わず先程まで広末が挟まっていた大木の窪みに、右腕を突き刺す。細く、直線的に伸ばしたクロの腕は、易々と大木の幹を貫通して、その先には向こうの景色が覗き見える。
幹から手を抜き出して、クロは広末に攻撃を仕掛ける。広末は回避行動に徹して、林の奥へと姿を消す。
大分走ったところで、広末は背後を流し見る。人の影はない、どうやら撒いたようだ。広末は手近な樹木に拳をぶつける。樹木の半分以上が削り取られ、不安定になった大木が傾いでいく。広末は幹を両手で抱えて、辛うじて根元と繋がっているところから引き千切った。
広末は両手で大木を抱えながら、木の上に飛び移る。一度の跳躍で、広末の体は雑木林の天辺近くまで持ち上げられる。木々を伝って、広末は移動を開始する。
しばらく行ったところで、広末は一本の木の上で足を止める。
「…………」
じっと雑木林の中に目を凝らすと、十メートルくらい離れたところに一つの人影が見える。ゆっくりと歩きながら、周囲に目を配っている様子が広末の瞳に映る。
広末は再び移動を開始して、その人物の背後、十メートル程度の位置の木の上で止まる。黒一色に統一された衣服を着た青年の後頭部が見える。青年は周囲を警戒しているようだが、木の上にいる広末までは気付いていないだろう。
「……」
広末はその場から飛び上がって、両手で抱えた大木を振り上げる。視線は下にいる青年に向けて、狙いを定める。
空高く舞い上がり、これからクロ目掛けて落下する、その瞬間に、広末は何かに気付いたように、ハッとして顔を上げた。
雑木林の上、広がる緑、そこには何もなく、果てしない景色が広がるだけだ。
広末は、サッと顔を真上に上げて、それを見た。
――前顎から伸びた大きな牙が特徴的な、巨大な豹。
太陽光を背にして、紫黒のサーベルタイガーが空中から、広末を目指して一直線に突っ込んでくる。
「……!」
広末は持っていた大木を、突如現れた獣に向けて振り回す。獣は、構わず広末に激突する。衝突の勢いで、両者が弾き飛ばされる。
――くっ……!
茂みの中に落下して、土煙が舞い上がる。大木の下敷きになるような恰好で、広末は目を開ける。視界の中で黒い影が向かってくるのが見えた。
「……!」
広末は反射的に、未だ両手で握り締めたままの大木を振るった。
――その木が途中で両断される。
鋸で切っても、これほど綺麗には切断されない。もっと鋭利な刃物が一直線に振り下ろされたように、広末の振り上げた大木が二つに裂けた。その余波か、広末の右肩付近の服に一筋の亀裂が入る。
しかし広末はそんなことには気付いていなかった。目の前の光景がスローモーションのように、ゆっくりと流れているような気がした。
大木の上半分は、宙に浮いたまま緩慢な動きで回転を始める。裂けた空間が徐々に広がり、その隙間から人の姿が覗く。黒服に包まれた、色白なクロの微笑がそこに現れる。
広末は胸前付近で両手を離し、体を捩りながら右足で地面を蹴る。直前まで広末がいた空間を、クロの右手が薙いだ。広末は体を地面に着地させ、その瞬間から体感スピードが元に戻った。
クロが広末に向かって攻め入る。手刀を連続して広末に向けて振り下ろす。広末は回避を続けるが、動きに慣れてきたのか、何発かを躱した後、広末はカウンターでクロの中段に蹴りを入れる。
クロは広末の蹴りをくらったが、反対の手が防御に間に合い、何とか踏み止まる。一瞬、クロの攻撃が止む。
その隙に、広末はクロの懐に飛び込む。背の高いクロの中段、腹部の辺り目掛けて拳を振るう。
クロは反射的に身を捩ってそれを躱し、右手で広末の拳を流した直後に、右足を踏み込んで、右の肘を広末の顔面に打ち込む。
攻撃を受けた広末は、その勢いで雑木林を抜ける。さっきまでとは違う、しかし雰囲気的にはまだ公園の中にいるはずだ。おそらく反対側にでてしまったようだ。
広末はゆっくりと体を起こす。雑木林からクロ、そして空からサーベルタイガーに酷似した紫黒の獣が舞い降りてきて、広末は素早く構えの体勢に入る。
クロが攻めてくるかと思ったが、実際には微笑を称えたままじっとしている。クロに倣うように、後ろに控える獣も広末を睨みつけたまま動かない。
両者は硬直したように動かず、じっとしていると、しばらくしてからクロの口元が動いた。
――君の特性がわかってきました。
広末は構えを解かず、クロの口元に目を向ける。
――君の特性は、音を消すことです。
広末はじっとしたまま動かず、それには構わず、クロは口を動かす。
――おそらく心の領域を外部に解放して、そのエネルギーが及ぶ範囲内で発生するあらゆる音を消します。音がなくなるので、背後から接近されても気付けない、それに、心の領域を周囲に解放するため、君の正確な位置を把握することもできない、こんなところでしょう。
――じゃあ何で……。
広末の口が動く。
――お前は、お前らは、俺に気付いた?
クロは人のよさそうな笑みを浮かべる。
――私の仮面の名前は『猛獣使』。この子と、アオと意識を共有することです。
そう、クロは答える。
――心のエネルギー、領域すらも共有して、お互いの思ったこと、感じたことを共有します。多少離れていても、お互いが思っていることを相手に伝えられます。それに、考えだけでなく、感覚、五感まで共有することができます。
クロとアオは心で結びつく。自分の考えていること、思っていることをもう片方に伝えられる。それは、自分が見ているものの情報も送ることができる。それだけではなく――。
――君の本当の特性は、単純に音を消すのではなく、人間の可聴領域の音のみを消すこと、だと思います。
広末はハッとする。
――猫が聞こえる音は、聞こえる。
――そういうことです。
五感の共有、それはモノに触れる感触から、視覚、嗅覚、そして聴覚まで。猫の可聴周波数は人間よりも遥かに高く、人間が聴き取れないような超音波も聴くことができる。
――だから私には君の、音を消す特性は効きません。
広末は、しばらく驚愕の表情を浮かべていたが、ややあってから元の無感動な顔に戻って、構えも解いた。
「ちっ」
広末が舌打すると同時に、周囲に音が戻った。
肌に触れる風の音が、優しく鼓膜を揺する。他には何もない、鳥の鳴き声はなく、その姿も見えない。戦闘の影響で、どこかへ逃げてしまったようだ。
「どうしますか?」
音の戻った世界で、クロは広末に微笑みかける。
「榊原さんのところへ、案内していただけませんか?」
その言葉に、広末は答えるわけでもなく、応じるわけでもなく、無感動な瞳はクロの姿すら映していない。
「お前には――」
ようやく呟いた言葉は、しかしクロに向かってというよりは、独り言に近かった。
「静寂の美が理解できないか」
広末は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、何やら取り出した。クロは興味深そうに、それに目を向ける。
広末は左右の耳にイヤホンを付けて、手にした黒い掌大のアイポッドを腰の辺りで弄る。準備が整ったのか、そこから視線を外して、アイポッドをポケットにしまい直す。
「交響曲第五番」
広末はアイポッドのプレイボタンを押す。
――音が世界に溢れた。
「――――――っ!」
クロは咄嗟に耳を塞いだ。
暴力的な音量を含んだ音が、公園内に満ちていく。騒音、というにはあまりにも生易しい大音量が周囲を震わして、木々に、大地に、音のダメージで亀裂が走る。
「くっ…………!」
クロは片膝をついた。
周囲を取り囲むように音が満ちていく、辺りを包むように音が溢れていく。車の警笛とは比べものにならない、工事の騒音も遥かに超え、空港で蔓延している飛行機の滑走、離陸の音よりも、もしかしたら酷いかもしれない。暴力的な音量が、広末を中心に拡散して、園内を覆い尽くす。
破壊的音量に囲まれて、クロは身動きが取れない。背後にいる紫黒のサーベルタイガーも、あまりの騒音に体勢を崩し、苦痛の表情を浮かべている。
「世間では――」
広末が歩き出す。この騒音の中で、広末の声はクロの耳には届かない。広末の動きは察知できたが、あまりの騒音に視界が歪み、クロは広末を直視できない。
「『運命』という名で知られている、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの名曲」
膝を折って、身を屈めるクロに向かって、広末はゆっくりと歩み寄る。その顔には狂気じみた愉悦が広がっている。
「でも、知っているか?」
広末はクロの目の前、五十センチメートルの位置で足を止める。
「この交響曲第五番を『運命』と呼ぶのは日本人だけで、正式にはそんな表題をベートーベン自身はつけていない」
クロの視界の隅で、広末の足元が映る。
「っ!」
立ち上がろうとしても、体が動かない。顔すら、上げられない。危機が迫っているのがわかる。動かなければと思うのだが、体が上手く機能しない。圧倒的な音量の前に、クロの体は硬直している。
「…………」
目の前で屈んでいるクロを、広末は黙って見下ろす。そして、右手をゆっくりとクロに向かって差し出す。
――獣の咆哮が聴こえた。
広末が振り向いた。サーベルタイガーが広末に向かって襲い掛かる。
回避に間に合わず、広末は片手をガードに使ったが、獣の巨躯をそんな細い腕では防ぎきれない。五メートルほど突き飛ばされて、獣に押し倒される。
このまま、その鋭利な犬歯で引き裂かれてしまうかと思われたが、現実には違っていた。広末はガードした手を、そのまま獣の鼻先に持っていき、逆にその獰猛な頭部を地面に押さえつける。獣の体格からして、広末の腕一本で獣が抑えられることは考えにくいが、獣の表情は真剣であった。いや、苦しそうにもがいているようにも見える。
獣は、必死に起き上がろうと、何度も吼える。
「うるさい」
アオの体の中で、音が膨張する。
――オオオオオオオオオオォォォォォォ――――――――ッ!
悲鳴を上げて、アオの体が痙攣を起こす。
「ああああああアアアアァァァァああああ!」
同時に、クロも跪いて痛烈な悲鳴を上げる。体を丸めて、強く耳を塞いで、あまりの力に指先が白く変色する。
完全に動かなくなったアオを、広末は無造作に蹴飛ばした。起き上がって、強烈な激痛に苦しむクロを見下ろす。
「不便なものだな。感覚を共有するというのも」
広末の顔には愉悦が、強者が弱者を甚振るときにも似た、快楽の笑みが浮かび上がる。
騒音が溢れた世界、そこに。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――――ッ!
銃声が轟いた。
広末の周囲に、弾丸の雨が降り注ぐ。
「……!」
ハッとして、広末が顔を上げる。
「見つけたぜぇぇエエエエっ!」
雑木林を超えて、サブマシンガンを乱射させた雨宮が、広末に向かって猛然と突っ込んでくる。
「くっ……!」
弾丸の雨から、広末は素早く距離を置く。
着地した雨宮は、地面を蹴って広末との距離を詰めていく。
「逃がさねええェェエエエエ!」
広末も地面を蹴って、飛ぶように後退する。最初の場所より広いため、避ける空間はいくらもあったが、飛び道具が相手ではやや不利だ。
「お前には――」
広末の顔が怒気に歪む。直前までの笑みはすっかり消えて、屈辱に押し潰された、激しい感情が広末の体を包み込む。
「この芸術が理解らないのかぁぁああああ!」
「ごちゃごちゃうるせーよっ!」
銃器の前に、広末は回避を続けながら後退する。敵を逃がさないように、雨宮は追いかけながらサブマシンガンを乱射させる。
まだ両手で耳を塞いだまま、クロは顔を上げて状況を見た。
――どうして…………。
クロの頭の中で疑問が生まれる。
――どうして、雨宮くんはこの騒音の中で平気なんですか?
人間の耐えうる限界を遥かに超えた騒音が周囲に溢れている。アオと感覚を共有しているクロは、普通の人よりもさらに広範囲の音まで聴き取れてしまうため、そのダメージは大きい。いくら両手で耳をふさいでいるとは言え、あまりの破壊的な音量に立つことすらできない。
音に苛まれて、大抵の人間は苦痛を覚えるだろうが、雨宮は違っている。騒音のダメージを受けている様子もないし、平然と音の中心へと向かっていく。
騒音の音量をもつ音楽と、轟然と続く銃声が、広大な公園の中を満たしていく。
――もしかして…………。
クロは一つの仮説を思いつく。
――雨宮くんは、騒音に耐性があるのかもしれません。
クロは雨宮の姿を注視する。雨宮のMASKSとしての特性は、サブマシンガンを媒介として心のエネルギーを解放する。心の力は弾丸となって具現化され、雨宮の持つサブマシンガンから発射される。
――きっと、銃声を聞き慣れているから、でしょう。
銃器は凄まじい破壊力をもつが、同時に使用者に相応の反動を与える。そこには、聴覚を痛める轟音も含まれる。
単発式の銃を扱うにしても、その一発で耳を劈くような銃声を放つ。雨宮の使用している武器はサブマシンガン、乱射式の銃器では銃声も連続して発生する。音によって受けるダメージも大きくなる。
銃器を扱う関係で、雨宮は銃声に抵抗力を持っている可能性がある。その結果として、騒音に対してもいくらか耐えられるとも考えられる。現に、普通の人ならすぐに参ってしまうような騒音の中にいても、雨宮は何も感じていないように通常通り活動できる。
――若草さんが、クロと雨宮を組ませたのは偶然でしょうけど、広末さん相手には、なかなかついています。
広末の特性は、現在わかっているもので二つ。
一つは、周囲で発生するあらゆる音を無にする、消音の特性。
もう一つは、周囲に破壊的な音量で音を発生できる、騒音の特性。
片方だけでも、相当な脅威となりうる特性だ。音を失ったら、敵を見つける手段が一つなくなる。それを利用して、背後から、または目の届かない高いところから狙われたら気付きようがない。音を出されたら、あまりの騒音に戦闘どころではなくなる。少しずつ体力が削られて、感覚も鈍っていく。
しかし、クロには消音の特性は効かないし、雨宮のほうでも騒音の特性は通用しない。お互いが片方を補うような形でサポートできる。
――これなら、もしかしたら…………。
雨宮が一方的に攻撃して、広末は反撃の機会すらない。広末がギリッと奥歯を強く噛む。
「お前も…………」
激昂する広末の耳から、青墨色の半固形の物質が滴り出る。スライム状の物質が、広末の耳からイヤホンにまとわりついて、コード全体を包み込む。耳から流れ出たその奇怪な物質は、広末の頬を伝って、首筋を通って、肩を経由して、広末の腕を這い、両手の指先まで覆い尽くす。
「お前も、世間の奴らと同じだ。音楽には無頓着で、芸術を理解ろうとしない」
青墨色のスライムは、特に広末の両手に蓄積して、手全体が膨らみを帯びる。
「この、美を……!」
広末が右腕を突き出して、掌を開いた。掌には、スピーカーに見られるような無数の細かい孔が浮かび上がっている。
一瞬、右手の前の空気が揺らいだ。
一際大きな音が発せられ、巨大な音波を放つ。
右の掌の孔から発せられた膨大な音が空気を激しく震動させて、巨大な音波の塊が雨宮に向かって放たれる。
「……!」
雨宮は咄嗟に地面を蹴って回避する。直前まで雨宮がいた地面が深く抉られる。削られた地面は風に乗って舞い上がり、雨宮は顔を腕で覆う。
「感受するがいいッ!」
広末は左手からも音波の塊を放出する。
後退して躱しながら、雨宮は素早く銃を構え直す。
「調子に乗るんじゃねぇええエエっ!」
雨宮は広末に向けて銃弾を乱射する。
広末は目の前に手を翳し、音波の塊を解放する。広末に命中するはずだった弾丸が、一メートル手前で停止する。音波の壁に阻まれて、拮抗するように進行を妨げられている。
「冒涜だ」
広末が呟いた。
――ボゴ。
直後。
――パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパン………………ッ!
防がれた弾丸が、内側から膨張するように破裂していく。
「ぶっ殺してやらああああああ!」
雨宮が広末に向かって駆け出す。
広末はもう片方の手で音波の塊を雨宮に向けて放つ。
「冒涜だ冒涜だ冒涜だ冒涜だ冒涜だ冒涜だ冒涜だ冒涜だ…………!」
右手から発せられる音波で弾丸から身を守りながら、左手から放たれる衝撃波で雨宮を攻撃する。巨大な音の波に阻まれながらも、雨宮は半ば強引に広末への接近を試みる。向かってくる音波をギリギリで躱しながら、突き進む。音波の余波が雨宮の体に触れて、そのたびに引き裂かれるような痛みが雨宮の神経を刺激する。大地を抉る破壊力を有する音の塊を身体に受けながら、それでも雨宮は前進を止めない。
「ああああおおアアアアアアッ!」
少しずつだが、確実に雨宮と広末との距離が縮まっていく。弾丸の威力が増しているのか、広末は徐々に乱射される弾丸を防ぎきれなくなっている。弾丸の押さえられる位置が次第に広末に近づいて、破裂スピードも遅くなっている。
終に、二人の距離が五メートルを切った。
「くっ……!」
広末は左手の音波も防御に回す。両手で雨宮の攻撃を防ぎ切ろうとする。
雨宮の動きが鈍り始める。音波の壁に圧迫されてか、思うように進行できなくなった。それでも、ほんの少しずつでも、雨宮は前進を続ける。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!
――パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンッ!
破壊的な旋律が流れる中で、二つの衝撃音がぶつかり合って弾け鳴る。
「冒涜を……!」
不意に、広末は音波を解いた。力の均衡が突如に破れて、雨宮は前のめりになりそうなのをなんとか堪える。
瞬間に、広末が雨宮との距離を詰める。広末の動きを視界の端で捉えた雨宮は、引き金を引くのを再開しながら、左手を自分の懐へと伸ばす。
乱射される弾丸に構うことなく、広末は雨宮に向かって突っ込む。銃弾を体に受けながらも、雨宮の距離をあっという間に縮めていく。
あと少しで雨宮に届く、位置で広末が左手を突き出した。サブマシンガンの銃口の前に広末の掌が覆い被さる。
――空気が揺れた。
甲高い音が響いて、音波の壁が銃口を遮る。
「っ!」
反動で、サブマシンガンが腕ごと押されて、雨宮の体が僅かに後退する。
地面を踏みしめて、雨宮はなんとか大音量の波を堪えたが、広末の左手ばかりに意識を集中していた、そのために、気付くのが遅れた。
――広末の右腕が雨宮に向かって伸びる。
視界の隅で広末の動きを見て取って、雨宮は左手を抜き出して懐から手榴弾を放った。
――ボンッ!
爆音と煙を撒き散らしながら、雨宮と広末の間に衝撃波が生じる。雨宮の投げた手榴弾が二人の間の僅かな空間で破裂する。近距離からの爆発を受けて、両者はかなりのダメージを受けたはずだ。
「………………」
土煙が舞う中で、二つに人影が浮かび上がる。銃声が止み、大音量の音楽が流れる中で、両者は睨み合うように、そこにいた。
広末の右手が、雨宮の左の上腕をしっかりと掴んでいる。
――いけません!
その光景を、クロは見た。
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作」
広末の口が動く。
雨宮の体の中を、音が満ちていく。
――ビクンッ!
雨宮の体が痙攣を起こす。体全体が大きく跳ね上がり、末端の指先では小刻みに震えている。がくがくと震える両足が崩れて、雨宮はその場に両膝をついた。手の力までも抜けて、サブマシンガンを持った右腕がだらりと垂れる。
悲鳴はない。苦しみもない。ただ、一瞬で膨大な量の音楽が雨宮の体の中を駆け巡る。雨宮の両目が大きく見開いて、空を仰いだ。日の長い夏の日に、ようやく空は茜色に染まり始めて、入道雲は赤橙色を帯びている。
大音量の交響曲第五番をBGMにして、雨宮の瞳から生気が褪せる。ゆっくりと体が傾いでいって、地面に横たわる。
広末がぽつりと呟く。
「葬送曲」
雨宮の動きが停止する。瞼は開いたまま、虚ろな瞳を覗かせている。
雨宮を見下ろしていた広末は振り返って、クロのほうへと歩み寄る。
「獅子は死んだ」
歩きながら、広末は独り言を呟く。
「罪あるものは裁きを受けて、主の光に照らされる。世界は地獄から解放されて、世界は天に祝福される」
クロの前に立ち、広末は立ち止まる。
「音楽の起源は、神に捧げる祈り。故に作曲家は協会に属し、聖職者として人々から崇拝される。音楽とは――」
広末の表情が急に険しくなる。
「そうあるべきだ。音楽は完成された芸術。優美で、崇高で、絶大な存在。それが今は…………」
広末の語気が強くなる。
「うるさいだけで、騒がしい。旋律も、メロディも、音一つ一つでさえ軽薄に扱う。美も廃れ、形式も廃れ、単なる思い付きだけに留まり、創造しない。こんなものが………………!」
唐突に、広末は言葉を切って空を仰いだ。クロは園内に溢れる大音量のせいでいまだに耳を押さえて、膝を折っている。
広末が、愉悦とも憐憫ともとれる表情で、クロを見下ろす。
「お前には理解できるか?」
広末の両耳から溢れた青墨色のスライムが脈打つ。イヤホンのコードを伝ってズボンの中へと伝播する。
――世界を覆っていた音楽が、別の曲で塗り替えられる。
「……!」
破壊的な音量に、クロは耳を塞ぐ両手に力を込める。
「アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク作、交響曲第九番『新世界より』」
苦痛に苛まれるクロの姿を見下ろしながら、広末の表情が凶虐の愉悦に滲む。禍々しい笑みを浮かべて、口元からは微かな笑い声が漏れる。
「――世界は変わる。変えられるべきだ。今の汚物で汚れた概念を破壊して、新世界を創造する。そのためには、まず……………………」
広末は右手を広げて、その腕をクロに向けて差し出す。クロの頭上に、伸びる。
「無知な罪人を消すしかない。美を失った世界を壊して、完璧な世界を再構築する」
クロは苦痛に耐えながら、顔を上げて目の前の光景を見る。広末の掌に浮かぶ無数の孔がグロテスクに光り、クロの視界を覆っている。音波にやられて、クロの目に映るもの全てが歪んで押し潰れている。
アオが受けた攻撃、感覚を共有しているクロは、広末の攻撃をなんとなく理解している。
――音を直接脳へ送り込む。
鼓膜や振動という媒質を用いずに、直接音楽データを相手の聴覚野に送信する。広末が聴いているのは交響曲という種類の音楽で、一時間を超えるものが普通だ。膨大な量の音のデータを流し込まれれば、人間の脳は処理しきれなくなって、パンクしてしまう。
――触られたらいけない。
アオを介しても、そのダメージはクロの体を大きく蝕む。直接攻撃を受けたら、アオや雨宮と同じ結末を辿る。
「…………っ!」
しかし、周囲を取り囲む大音量の中で、クロの体は強張ったまま硬直している。
あと少しでクロに触れる、手前で広末の腕が突然止まる。背後で、何かが動く気配を感じた。振り向くと、雨宮の身体が動いている。
「!」
両手で自分の体を支えて、雨宮が起き上がろうとしている。
広末の顔色に、サッと怒気が広がる。
「……このォ、死に損ないがアアァ…………!」
広末が左腕を上げて、掌を起き上がろうとする雨宮に向ける。
刹那。
――シュッ!
クロの手刀が一閃する。
イヤホンとアイポッドを繋ぐコードが、二つに両断される。コードを覆っていたスライム状の物質の切断された面から墨色の液体が滴り落ちる。
直後、公園全体に響いていた大音量は消え失せて、打って変ったような静寂が世界に戻る。
「……!」
驚愕に満ちた広末の顔が、切断されたコードを覗き込む。
「…このォ…………」
驚愕が、次第に憤怒へと変わって、広末は目の前で片膝をついたクロを睨みつける。
「よくもォ!」
――ガチャ。
ピクリと、広末の動きが静止する。クロに右手を差し出したまま、硬直したように動きを止める。
「動くな」
振り返ろうとした広末に声がかかる。広末は言葉の通りに、動きを止めた。
十秒くらいの静寂をおいて、広末が口を開いた。
「いいのか?」
広末の言葉に、誰も答えない。広末はなおも続ける。
「お前が引き金を引いたら、その前に俺がこいつを殺す。俺は結構耳がいいんだ。見ていなくても、引き金を引こうとすればすぐにわかる」
「じゃあやってみろ」
挑発的な言葉が背後から聞こえた。
「やってみろ?」
「やれるもんならやってみろ。俺は構わねーぜ」
「構わない?」
広末の顔が驚いたように歪む。訊き返す声は、僅かに震えていた。
「構わないわけがないだろ。お前の仲間だろ?」
「関係ねーな」
背後の声は迷いがなく、はっきりとしている。
「俺はいつでも独りで戦っている。誰の助けも必要としていないし、誰の指図も受けない」
「だが、一緒に戦って……」
「倒す敵が一緒なだけで、別に一緒に戦っているわけじゃない」
広末は絶句した。
「そういうことです」
別の言葉に、広末は視線を正面へと向ける。
クロは、微笑っている。痛みの苦痛も、追い詰められた恐怖もない、誰もが目を奪われそうな、爽やかな笑みだった。
「私たちMASKSの基本は単独行動です。今は諸事情でチームを組んでいますが、本来は他人に頼らず、一人だけの力で敵と戦っています。だから――」
クロの慈愛に満ちた笑みが、広末の視線をしっかりと受ける。
「そんな脅しに、意味はありません」
広末の顔が一気に歪んでいく。怒りとも恐れとも判断できないような、焦りを滲ませている。
「…………お前」
クロの目の前で小刻みに震えていた広末の右腕が振り上げられる。
「うるさ……!」
広末の言葉が最後まで語られることはなかった。
クロの手刀が正確に広末の手首を切りつける。骨がなく、血管を守る肉の少ない、人体で最も弱い部位の一つ。
「……っ!」
怯んだ広末に、クロは続けて拳で広末の鳩尾を打ち付ける。
広末の体に激痛が走り、一瞬呼吸が止まる。
「ゲホッ、グ……!」
「申し訳ありませんが、君にはもう少し生きてもらいます」
広末は、顔を上げることすらできない。クロの言葉が広末の耳に流れてくる。
「君からは、色々聞きたいことがあります」
「それまで寝てろやあぁッ!」
雨宮が叫んだ直後、銃声が園内に響き渡る。銃声の中に、音が埋葬される。
――ウルサイ。




