第三楽章 クロとアオ
今の世の中、この世界、どこへ行ったって音は存在する。いつになったって音が消滅することはない。
騒音というものに対して人々がどれほどの認識を持っているのか定かではないが、騒音は人体を害する。
断言して言い。
高速道路、踏切周辺、飛行場付近で生活する人々は、公害に認定していいほどの騒音を日々受けていて、それら騒音による苦痛から精神障害や身体の不調を患い、人為的騒音によってその寿命を削られている。
したがって、音に対する非難は至極当然のことである。良識のある人ならば、その正当性に気付くはずだ。
「……」
ここを一つの部屋と呼ぶ。
広さは、人間四人が食卓を囲むくらい。
人間同士の間隔は充分とれていて、広いと言えば広いのかもしれないが、広末はその空間が無性に窮屈だと感じていた。
その部屋には四人の人間が存在している。そのうち三人はテーブルの周りを陣取るように各々の椅子に腰掛けて、残りの一人は忙しなく動き回っている。
「加奈子。食事の手伝いをしてちょうだい」
広末の母親が、台所に戻りながら言った。
加奈子と呼ばれた広末の妹は、母親には見向きもせず、椅子に座ったまま手に持っている携帯電話の画面を凝視している。
「ちょっと加奈子」
台所に戻ってから、再び母親が大声で広末の妹を呼んだ。
「…………」
しかし広末の妹は携帯をいじることに夢中で、一向に動こうとしない。感心と興味のない、無表情な顔で発光する画面を凝視している。
台所から料理を運んできた母親が曇った表情で広末の妹を見下ろす。
「加奈子、少しは手伝ってよ。ご飯早く食べたいでしょ?」
母親の訴えも、しかし広末の妹を動かすには至らなかった。
「…………」
無反応。
母親のほうを向くこともなく、広末の妹はじっと携帯の画面を見たまま、親指を忙しなく動かし続けている。
「全く…………」
溜め息を吐いて、母親は再び台所へと向かう。
「あー。何やってんだ、下手くそっ!」
広末の父親がテレビを見ながら悪態を吐く。いつも見ているゴルフの試合で気に入らないことがあったらしい。テレビのほうからも、落胆の声がしたのを、広末は聞きたくもないのに耳にしてしまった。
母親は眉に皺を寄せる。
「お父さん。大声出すのは止めて下さい」
「うるさい。おまえは黙ってろ」
父親の怒鳴り声が、部屋の中で騒音を作る。
父親はテレビ画面を見たままだった。次の選手がグラブを振るうところを、父親は真剣な顔で凝視する。
「……」
母親は何も言わずに食事をテーブルの上にのせていく。
「メシはまだか?」
ゴルフの試合に飽きてきたのか、父親は母の背中に向かって大声を出す。
テーブルの上には三種類のおかずが置かれ、各自の前にはご飯も並べられて、すっかり食事の用意が整っている。
母親は四種類目の料理を運びながら答える。
「もうできてるじゃありませんか」
母親はイライラした様子だった。
それでも父親は納得しない。
「箸がないぞ」
母親は料理を置いて、再び台所へと向かう。
「ご自分で出してもいいんですよ」
父親はもう母親の話など聞いてはいない。飽きた手でリモコンをいじりだした。テレビの映像がせわしなく入れ替わる。そのたびに、無秩序な雑音が広末の耳を刺激するが、広末の表情は、まるで全てを無視するように、変わらない。
母親が両手で箸を抱えて戻ってきた。
「はい、お箸」
そう言って、母親は父親の前に箸を置く。
「……」
無言で置かれた箸を眺める。
父親はゴルフの試合にチャンネルを戻して食事を始める。母親は、各々の前に黙って箸を置いていく。
広末は箸を持って食事を始める。黙って食事を始める。いただきますの言葉も、箸を差し出した母親に対する感謝の言葉も、ない。
「…………」
広末の妹は、まだ携帯電話をいじっている。
「加奈子。いい加減にご飯にしなさい」
座りながら、母親は広末の妹に食事を促す。母親の言葉がなければ、おそらく広末の妹は座ったままずっと携帯いじりに夢中になっていただろう。
「…………」
返事はない。
広末の妹は携帯電話の画面を見ながら箸を握り、そのまま箸をテーブルの上の料理に突き刺して、箸に刺さったおかずを自分の口へと運ぶ。おかずを頬張りながら、広末の妹は携帯から目を離さない。
母親の表情が曇る。
「加奈子。ながら食いは止めなさいって言ってるでしょ」
母親が注意するが、広末の妹は携帯の画面を見たまま何も言わない。携帯を握る手の親指は頻りにボタンを連打している。
「全く…………」
母親は小さく溜め息を吐く。
母親も、箸を持って食事を始める。テレビの画面は、すでにゴルフの試合ではなくなっている。どうやら全国各地の名店巡りの番組のようだ。
しかし、誰かがこの番組を見ているわけではない。広末も、広末の妹も、こんな年寄りめいた番組に興味はない。
母親のほうも、目線は食卓に向いたままで、テレビを見る素振りはない。
番組を替えた張本人である父親も、時折横目で紹介された店の様子は見ていたが、真剣に、興味を持って見ているわけではない。
見るものがないから、適当に面白そうなものをただ無意味につけている。だがその実、誰も興味がないから、誰も見ない。
「……………………」
食事は、ただ無言で過ぎていく。
無言の中を、テレビの騒音だけが通り過ぎていく。
「…………………………………………」
会話は弾まない。
そもそも会話がない。
あるのは、誰も見ていないテレビの音だけ。
――リン、ロン、リン、ロン…………。
ベルの音が部屋の中に響き渡る。壁に掛かった時計の音だ。一時間おきに時の経過を知らせてくれる。
ベルの音は、特定のメロディを刻むように響いてくる。広末以外、この曲を知らない。広末だけが、この曲の作曲者を知っている。元の音楽も、広末はCDで持っているし、自室でたびたび聴いている。
しかし、今流れている音は重みの欠けた電子音で、範囲の狭い一フレーズしか演奏されない。本来の芸術を冒涜するような、軽薄な音。
ベルの音と同時に、母親が弾んだ声を出す。
「あら、もうこんな時間。お父さん、リモコンを取ってください」
「…………」
父親は母親を一瞥してから、リモコンを母親に渡す。
母親はリモコンを掴むと、テレビのチャンネルを替える。それは、母親がいつも見ているトーク番組だった。母親は箸を動かすのも忘れて、じっとその番組に見入る。
「……………………」
父親がつまらなそうに画面を見る。
「こんなもの、面白いか?」
母親は、一瞬怪訝そうな顔をする。
「うるさいわね。静かにして」
母親は目を輝かせてテレビを凝視する。
「…………」
広末は席を立ち上がった。
広末の茶碗に盛られていたご飯は、いつの間にかなくなっていた。広末は自分の座っていた席を離れて、黙ったまま歩いていく。
広末の姿を認めた母親が、広末に声をかける。
「広平。自分で食べたご飯くらい自分で片づけなさい」
母親の言葉を無視して、広末は空になった茶碗をテーブルの上に置いたまま、食卓から抜け出した。
広末が部屋を抜け出したところで、母親の笑い声が聞こえた。どうやら今見ている番組が面白いらしい。
「…………………………………………」
広末は静かに彼の部屋まで向かう。
広末は慣れたように、つま先から足を下ろしていく。とても自然な動きで、端から見ても不自然に見えない。普段から広末の動きを見慣れていない人などは、もしかしたら気付かないかもしれない。その神経質な歩き方のおかげで、広末の足音は全く聴こえなかった。
「……………………」
広末は自分の部屋の中に入った。
広末の部屋は基本的には片づいていたが、広末の机の一カ所だけ、膨大な量の本や紙が無造作に山積みになっていた。
本や紙はどうやら楽譜のようだ。そのすぐ傍にはきれいな電子オルガンがかわいらしく置かれていた。
「うるさい」
彼は部屋のドアを閉めると、自分の頭を両手で抱え込む。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい……………………!」
広末の口から吐き出された声が、広末の部屋の中で充満する。しかしその声が食卓の中にいる家族のところまで届くことはなかった。
車一台が何とか通れるくらいの細い道を、雨宮は歩いている。しかしこの道の上を車は通らない。歩行者専用道路兼サイクリングロード、ここは車の進入を禁止されている。道を外れると川に下りるための坂が伸びていて、その斜面には人の足首ほどの高さの緑色の草が一面に生えている。
近隣住民の憩いの場、しかし舗装された道を歩いているのは、雨宮一人しかいない。草地の上にも、川の傍にも、人の姿は見受けられない。
人がいないことはいたって普通のことで、今日は平日の正午前だ。職を持つ人たちは通常仕事の時間、そんな時間にここにいるのは、時間を持て余している暇人だけ、高校に通っている雨宮も、本来なら教室の自分の席に座って二限目の授業を受けているはずである。
だが、雨宮が学校にも行かずに、こんな場所を歩いていられるのには、ちゃんとしたとは言い難いが、一応に理由はある。
――しばらくここにいてくれてかまわない。
若草に言われている。雨宮、倉橋、高峰の三人は、松風高校から遠く離れたこの土地のホテルに滞在することになった。三人が帰れる時期は、わからない。若草の口からは、いつまでホテルのほうにいなければいけないのかは、全く話されていない。
――学校のほうは心配しなくていいからね。
三人がしばらく学校を休むことは、すでに松風高校のほうへ連絡がいっているようだが、雨宮は少しばかり不安を抱いている。
「学校、大丈夫かなぁ……」
歩きながら雨宮は呟く。
「授業についていけるかなあ」
考えごとをしながら歩いている雨宮の先に、一本の橋が現れた。橋の存在に気付いて、雨宮は立ち止まる。
石を積み上げて作られた、現代風の橋だ。街灯も備えられていて、車も通れる広い橋なのに、平日のせいか車も人の姿も少ない。全くないといったほうが正しい。
「ここ、だよね」
雨宮は頻りに辺りを見回しながら、橋に向かって歩き始める。川のせせらぎはとても穏やかで、水面は太陽の光を優しく反射している。
雨宮の顔は、しかし、周囲の情景とは反してやや緊張の色を帯びている。何かを探すように、絶えず周囲に視線を向けている。
しばらくして、雨宮の歩調が急に遅くなった。その表情は僅かに強張って、緊張の色が増していく。
「……」
橋の下、日の光が遮られて薄暗く陰になっている場所、その草の上で、一人の男が両手を頭の後ろで組んで仰向けになっている。
雨宮の第一印象は、黒、だった。
身にまとっている衣服の、全てが黒かった。やや薄暗い場所だったが、その統一された色彩を間違えることはなかった。上はタートルネックに、下はレザーパンツ、丈の短いブーツを履いている。
「あの…………」
遠慮がちに雨宮が声をかけると、仰向けになっていた男は上半身を起こして雨宮のほうへ顔を向ける。光の少ない橋の下でもわかるくらい白い肌をしている。衣服が黒いために、顔の白さがいっそう目立つ。
「何でしょうか?」
男が口を開いた。渋みのある、大人の声をしている。変声期前の子どものような声を持つ雨宮とは、異なる種類のものだ。
「ええと…………」
言葉に詰まる。そんな雨宮の様子を、男は嫌な顔一つせず笑顔で見つめている。
いや、見ているはずだ。しかし一概に断言できない、不思議な表情だ。
細い目、あまりに男の目が細いので、こう暗い場所にいてはどうも目が開いているようには見えない、そんな好青年。雨宮に向けている男の笑顔はとても慈悲深くて、優しい雰囲気を放っている。
十秒ほどの後、雨宮はようやく次の言葉を発した。
「〝クロ〟さん、ですか?」
雨宮の問いに、男はいかにも好青年が放つ笑みを浮かべて返した。
「はい、そうです」
男はすっと立ち上がる。
「クロです」
言葉一つ一つを語るのにも、眩しい笑顔は少しも崩れない。言い終わった後にさえ、清涼感が漂っている。
立ち上がった男は、かなりの長身だった。一五〇センチメートルに満たない雨宮の身長と比較しても参考にならないだろうが、クロと名乗った男の背は一八〇も後半、もしかしたら一九〇センチメートルに達しているかもしれない。すらりと伸びた男の長躯が、慈愛の笑みとともによく栄えている。
「君は?」
雨宮がつい見とれていると、クロの優しげな声が雨宮の耳まで届いた。雨宮は慌てて自己紹介をする。
「あ、雨宮海斗といいます。これからクロさんとチームを組むことになりましたっ。ご迷惑をかけてしまうこともあるかもしれませんが、がんばりますので、よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げる。上半身を九十度に曲げてしまったため、雨宮には黒の表情が見て取れない。いや、それ以前に雨宮は目を瞑ってしまっている。
「こちらこそ、よろしく」
クロは軽くお辞儀する。しかしクロが頭を上げても、雨宮はまだ頭を下に向けて、目を閉じている。
「ニャー」
猫の鳴き声が聞こえて、雨宮は目を開ける。雨宮の目の前に一匹の黒猫がいて、雨宮のほうをじっと見つめている。
「わっ」
雨宮は反射的に上半身を上げて、その勢いで後ろに尻餅をついた。
それを見て、クロが軽快に笑う。猫のほうは興味を失ったように雨宮に尻尾を向けて、クロのほうへと歩いて行く。
「紹介が遅れました。この子はアオといいます」
黒猫はクロの足元まで来ると、体を横にしてニャーと鳴いた。
雨宮は、最初のうちは驚いている様子だったが、黒猫に愛くるしさを感じて、手を差し伸べた。
「僕は雨宮。よろ」
しく、と言い切る前に、黒猫はさっさとクロの後ろに引っ込んでしまい、雨宮の手から逃れた。
雨宮が呆然としていると、クロは再び笑った。
「すみません。アオは人見知りするタイプで、私以外の人にはどうしても懐かないんです」
「あ、そうなんですか…………」
雨宮は少し残念そうに手を引っ込めた。
「ところで――」
クロが訊いた。
「私に何かご用でしょうか?若草さんから、指示でも出ましたか?」
「あ、いえ」
雨宮は咄嗟に両手を前に出して振った。
その意味を解して、クロは表情を和らげる。とても穏やかで、優しい顔だ。
「そうですか」
クロはその場に腰を下ろして、先程のように両手を頭の後ろに組んで仰向けになった。
「…………」
そこで会話が途切れた。仰向けになっているクロの姿は、線のように細い目のせいもあって穏やかな眠りについているように見える。
「……………………あの」
沈黙に耐え切れなくなって、雨宮が口を開く。
「ん」
すぐにクロは応じてくれた。目の大きさはさほど変わったようには見えないが、まだ起きているらしい。
「何をしているんですか?」
「昼寝です」
クロは雨宮に向けた顔を元に戻す。それ以上の言葉がなかったので、雨宮は慌てて言葉を探した。
「これからのお話は、ないんですか?」
「これから?」
クロは上半身を起こして雨宮のほうへと体を向ける。
「と、言いますと?」
「ええっと…………」
雨宮は一瞬戸惑いを感じたが、すぐに言葉を続ける。
「作戦とか、見回りみたいなことは、しないんですか?」
雨宮の問いに、クロはすぐに答えることはしなかった。代わりに、僅かに眉を寄せて不思議そうな顔をする。
雨宮は慌てて付け足す。
「あの、倉橋くんと車谷さんは、作戦会議とかをしたらしいんですけど」
「そうですか」
クロは穏やかに返す。
「でも、私たちには若草さんから特に指示は出ていないんですよね」
「……はい」
「では、しばらくのんびりしていましょう」
言い終わると、クロはすぐにまた仰向けになる。クロのすぐ隣で黒猫が丸くなって目を閉じた。クロは微笑を浮かべてアオの体を撫でてあげた。
「……………………」
雨宮は釈然としないままだったが、仕方なくクロのすぐ傍に腰を下ろした。日陰の草は太陽の光を浴びていないせいでひんやりとする。強い日差しもなく、調度いいくらいに空気が冷えていて気持ちのいい場所だ。
――一条さんや車谷さんとは違うんだな。
雨宮はじっとクロを見た。
雨宮側にある手を頭の下に敷いて、もう片方の手はアオの横腹に軽く添えている。動きはない。顔はとても穏やかで、細目のせいもあってすでに眠っているように見える。
「納得できませんか?」
雨宮は驚いて手を引いた。
雨宮は、クロがもう寝ているものだと思っていた。しかし、クロの口が動いて、確かに声を発した。
自分があまりにも不服そうにクロを見ていたことが知れて、雨宮は自分の顔全体が熱を帯びていくのを感じた。
「戦いたいのですか?」
クロは雨宮に顔を向けて訊いてきた。
咄嗟に言葉が出てこない。
「僕は…………」
顔の熱が冷めていくのを感じながら、雨宮は答えた。
「戦いたくありません」
「それは、仮面の言葉ですか?」
笑みを絶やさずに、クロはさらに訊ねる。
雨宮は、クロの質問の意味が掴めずに、頭の上に疑問符を浮かべる。その様子を見て、クロは言葉を変えて、訊いた。
「本心を隠すための、上辺の言葉ですか?」
クロの瞼が、僅かに上がる。その下から、クロの瞳が覗いて見える。
――金色の瞳。
細い眼球の中央に位置する瞳は、その虹彩の色が暗みを帯びた黄色に色づいていて、内部の瞳孔は独立したように暗黒を放っている。
雨宮は動揺した。クロの言葉もだが、なによりクロの眼の色は異質を感じさせ、眼元が少しも笑っていない。唇は穏やかに微笑んでいるのだが、金色の瞳は感情というものを忘れてしまったように動かない。その瞳に、雨宮は心の奥底まで見透かされているような気さえした。
不意に、クロは瞼を下げる。
「すいません。困らせてしまいました」
金色の虹彩がなくなって、雨宮の緊張は僅かに解けたが、思考はまだ上手く機能してくれない。クロは雨宮への視線を外す。
「――MASKSは、普通の人とは違います」
静かに流れる川を眺めながら、クロは話し始める。
「一般人は体の領域しか触れることができません。しかしMASKSは違います。心の住人を見ることができます。心の声を聞くことができます。そして、心を壊すことも」
クロは一度雨宮に顔を向ける。
「何故MASKSは心の領域に入ることができるのでしょうか?」
「…………心を解放できるからです」
間をおいて答えた雨宮に、クロは頷く。
「ではどうして解放できるのですか?」
雨宮は答えられなかった。
クロは口元を緩める。
「実は一般の人の中にも、心を解放できている人はいるんです」
雨宮がその答えを見出す前に、クロは答えを示す。
「その結果が、フラストです」
フラストは人の心から溢れ出た怪物。本来は心の中で処理されるべき蟠り、悩み、怒り、悲しみ、不満、そういった心のストレスが抑えきれなくなって、心の外に流れ出た感情がフラストであり、人の世界に危害を及ぼす化物だ。
「つまり、私たちもフラストと同じなんです」
その言葉に、雨宮の肩は一瞬震えた。鼓動が高鳴っているのも、自分でわかるくらいに激しい。一瞬呼吸が間に合わなくて、息苦しさを覚える。
確かに、今のクロの話ではそういう考え方もできる。心の領域を放出してでた結果がフラストならば、心のエネルギーを使うことができるMASKSだってフラストと同種ということにはならないか。
「けれど、MASKSとフラストには決定的な違いがあります」
クロは視線を川縁に戻す。
「フラストは、その人が心の中で抑え切れなくなってしまうから出てきてしまいます。勢い良く出てくる水を手で塞ごうとしても、最初は上手く止められていても、そのうち溢れてしまいます。――では、水を止めるにはどうしたらいいでしょうか?」
その質問に、雨宮は咄嗟に答えが浮かばなかった。
十秒ほど経って、クロが答えを出した。
「簡単なことです。――<spantext-transform:uppercase>蛇口<spantext-transform:uppercase>を<spantext-transform:
uppercase>捻<spantext-transform:uppercase>ればいいんです」
その答えに、雨宮は素直に納得した。
クロは説明を続ける。
「MASKSの原理はそれです。莫大なエネルギーを持った心に蓋をしてしまう。あとは必要に応じて、その解放の度合いを調節しているんです」
ここまでの話は、雨宮にも理解できた。しかし今までの話では、最初のクロの質問との関連性が見えてこない。
少し間をおいて、クロは口を開いた。
「では、その蓋とは何でしょうか?」
雨宮はハッとした。
「仮面……!」
「正解です」
クロは満足そうに頷いた。
「私たちMASKSは、フラストと戦うときに仮面を外します。決して、仮面を出しているわけではありません。普段被っている仮面を取ることで、心の領域を外部に放出しています」
「え、じゃあ…………」
雨宮は気付き始めていた。それを見取って、クロは言葉を続ける。
「普段、君は仮面を被っている」
雨宮を支えている腕が震えだした。口は開いたまま閉まらなくなっている。自分が汗ばんでいることに雨宮は気付いた。
クロの閉じた瞼の奥から、雨宮に向かって視線が注がれる。
「MASKSを表現するのに『二重人格者』という言葉が良く使われます。それは、普段の性格と、戦闘時における気性があまりにも違いすぎるためです」
雨宮にも覚えがある。今までともに活動をしてきた倉橋や高峰も、学校生活中の態度とフラストと戦っているときの性格には大きな開きがある。
普段は気さくな、馴れ馴れしいくらいの倉橋が、仮面を外すと急に刺々しく、対立するように。
いつもは無口で、喋ることそのものを億劫にしている高峰が、戦闘時には普通に口を利くし、喋り方も変わっている。
「世間にいるときの顔と、心の奥底に秘めている顔は、違っています」
それは、雨宮にも言えることだ。
雨宮は、クロに言った始めのときの言葉を思い出す。決して自分は戦いたいわけではない。フラストや、フラストよりもさらに強力なトレストと、戦わないで済むのであればそのほうがいい。
――でもそれは仮面の言葉。
「そんな………………」
――ホントウハタタカイタイトオモッテイル。
「違います違いますっ。僕は、僕は…………!」
次の言葉を言おうとして、しかし雨宮の口からは何も出なかった。
クロの瞳と、目が合った。
笑みのない、金色の瞳。全てを飲み込みこんでしまいそうな、異質な虹彩。瞳孔の奥は奈落に繋がっているのかと錯覚してしまいそうに、底が見えない。
充分五秒が経過して、クロは目を細める。
「冗談です」
クロは微笑んで、雨宮に優しい笑顔を向けてくれた。
雨宮の体から震えがなくなっていた。瞼が下りると、クロは最初に会ったときのように、清涼感漂う、慈愛に満ちた好青年の姿に映る。
「仮面も、君の心の一部に変わりありません。どんなに対極的な二つの顔を持っていても、その言葉に嘘はありません。安心してください」
その言葉に、雨宮は返答に困った。そうやって思考を失っていると、急に腕の支えがなくなって、雨宮の体は草の上に倒れてしまった。腕の力が、自分を支えるのに疲弊してしまったらしい。
クロはくすりと笑って、仰向けになる。
「昼寝をしましょう」
川の上を静かに風が通っていった。風は草を揺らして、二人の周りに漂う僅かな熱気も拭ってくれた。
クロの隣で丸くなっていたアオは猫特有の鳴き声で一声鳴いて、クロの傍に寄り添った。それ以降、二人の会話は途切れて、音がなくなった。
――嫌だ。
遠くで、車の音が聞こえる。何十台もの車の群が、一斉に道路を走り回る音。周囲全方向から音が飛んできて、どこから発せられた音なのかわからない。
辺りを見渡しても、車の姿はどこにも見えない。見えるのは人の姿、人の頭、人の顔。人の群でごった返している。
――人混みは、嫌いだ。
頭上には煌々と輝く太陽が一つ、容赦なくその熱気を地上に投げつけている。太陽光を受けて熱せられたアスファルトからは反射的に熱が放出されて、人々の群の中に蔓延している。追い討ちをかけるように、周囲の人間から発せられる体温が空気を熱して、夏の気温に拍車をかけている。
――暑い。
咲希は人混みの中を、ひたすら歩いている。
今は正午を二時間ほど回ったとき、気温が急激に上がる時間帯だ。夏休みに入り、制服よりはずっとラフな服装をしているのだが、真夏の気温の前ではどんなに通気性の良い恰好をしても楽になることはない。
――嫌いだ。
人の流れが止まった。咲希は俯き加減だった顔を僅かに上げる。目の前の歩行者信号が赤を示している。少し先で車の走る音が聞こえるが、咲希の目に映るのは無数の人の頭ばかりだ。黒い頭があったり、茶色い頭があったり、金色に、赤色、緑色の髪も見ることができる。様々な色の髪が咲希の前に並んでいる。
目の前の色が、歪み始める。
最初は色がぼやけてきて、次第に混ざり合って、ドロドロとした、複雑な色になって、真っ白になったり、真っ黒になったり、いろいろな色を混ぜすぎてわけのわからない状態になってしまった絵の具のようになっていく。
――気持ち悪い。
暑さにやられて、目の前が歪んでいく。局所的な蜃気楼が、周囲の光情報をぐちゃぐちゃに再生させる。
――暑い。
人の群が壁となって、一向に風が届かない。人混みの空気は淀み、まるで空気としての媒質を失ったかのように、風の流れを歪めていく。熱気を含んだ対流は、マグマのように濁っている。
――いやだ。
目の前が、ぼやけていく。自分が立っているのかも、わからない。暑さは次第に白昼夢の入り口を開いていき、感覚が遠ざかっているのにも、気付けなくなる。
視界が、白の世界に反転しようとしたとき、体の内側から小さな気泡が上ってきた。それは子守唄のように、咲希の聴覚野を愛撫した。
――ウットウシイ。
咲希はハッとした。
周囲に色が戻る。視界が開けて、目の前の光景が情報として認識される。前後左右を覆う人の群、人の頭、黒い髪や茶色い髪、金色に、赤色に。
咲希の意識が正常に動き出したことを、咲希は改めて理解する。
咲希は左手の指先で、こめかみと眉の上を強く押した。気分がそれほどよくなるわけではなかったが、意識は刺激を受けて鮮明さを維持できた。
――だめ!
目の前の信号が青に変わり、同時に音楽が流れて人の群が一斉に歩行を始める。その波に従って、咲希も道路を横切る。
――だめ!
掌で陰になった左目を閉じて、咲希は左の指先にさらに力を込める。
――そんなこと、考えちゃ、だめ。
咲希は心の中で、何度もその言葉を反芻させた。最初に聞こえた音は、もう咲希の耳には聴こえないが、頭の中で今にもその音が湧き上がってくる気がして、咲希は意識を集中させて念じた。
――よし。
しばらくそうして、咲希は左手を顔から離した。暑さは一向に和らぐ気配がなく、風さえ熱気を含んでいる。
五分ほど人の波に流されて、咲希はビルの並ぶ町の中で、一際大きなビルのあるところまで行って、足を止めた。そこだけは、道の上に屋根がついていて、雨や夏の日差しを遮ってくれる。そのおかげで、ここで足を止める人は少なくない。
ここは、待ち合わせ場所としてよく利用されている。屋根付きということもあるが、このビルの前にはお菓子屋があって、そのマスコットキャラクターがいい目印になるからだ。
咲希はビルの自動ドアのある場所よりも少し外れた、奥のほうまで移動して、携帯を確認する。
「よし、五分前」
携帯をしまって、咲希はそこでしばらく待つことにした。
しかしそう待つ必要はすぐになくなった。
――ぴた。
首の周りに冷たい感触が広がる。
「きゃっ!」
咲希は反射的に悲鳴を上げた。
「だ~れだぁ?」
「……もう、真奈でしょ」
首の周りにまとわりついた手を払って、咲希は振り向いた。まず目に入ったのがツインテール、そこから少し視線を下げると、いつも通りの笑顔を見せる真奈がそこにいた。
「だ~い正解!」
真奈は満面の笑みを浮かべる。
咲希は首の辺りを擦りながら不平を漏らす。
「変なトコ触らないでよ。びっくりするでしょ」
「だって咲希、背が高いから届かないんだもん」
剥れてみせる真奈。
「何よ、それ」
真奈の反応がおかしくて、咲希はつい吹き出してしまった。
「あー、バカにしてるなーっ。これでも伸びてるんだぞぉ」
「違う、そうじゃなくて」
笑う咲希と、むきになる真奈。一様に笑いが収まると、咲希が最初に口を開いた。
「それじゃ、行こっか」
「あ、うん!」
先程までの態度とは打って変わって、真奈は明るく応じた。もう真奈の頭からは、直前の出来事がきれいになくなっているようだ。
今日の咲希の予定は、真奈と一緒に買い物をすること。お盆が終わって、祖父母の家から自宅に帰ったその日の夜に、真奈からかかってきた電話が、そのきっかけだった。
「明後日、買い物に行こうよ」
特に予定のなかった咲希は、真奈の誘いをすぐに承諾した。
「久し振りだな、こういうの」
「何が?」
小声で呟いた咲希に、真奈は不思議そうに首を傾げる。
咲希はすぐに答える。
「買い物、誰かと一緒に出かけるの。中学以来だな、って」
「あー」
真奈は納得する。
「そうだね。私も友達と出かけるの中学校以来かも」
「高校生になって、急に忙しくなった感じで、遊んでる余裕なかったよね」
「そうそう。授業のスピードが中学に比べて急に速くなって、宿題も難しくて一日じゃ終わらないの」
咲希は相槌を打つ。
「あ、でもでも。咲希は塾もあるから大変でしょ」
「まあね。塾のある日にいつも宿題とか済ませるから、その日は普段の何倍も疲れる」
「ひゃー、大変」
「でも塾のおかげで学校の予習はできてるわけだから、学校の授業はまだついていけてるよ」
「私も、予習とかしなきゃマズイのかなぁ?」
咲希は苦笑する。
「少なくとも、英語はね。その場で訳すなんてできないもん」
二人はビルの中の衣料品売り場までやって来た。広々とした店内にはたくさんの人で溢れていた。
「あ、これかわいい」
商品の一角に真奈は駆けていった。色鮮やかな柄のトップスがハンガーに吊るされて並んでいる。
「結構広いね」
辺りを眺めながら、咲希は真奈に近づいた。
「うん、都会、って感じだね」
真奈はにこやかに顔を上げて、すぐに服選びに没頭する。
咲希は苦笑して、真奈と同じく周囲の服を眺めていった。
しばらくの間、二人は衣類コーナーを見て歩いた。互いに気に入った服を見せ合っては試着をして、良かった数着をレジに持っていく。
「いいの買えたね」
「うん」
それぞれに気に入ったものを購入して、二人は衣類のコーナーを出た。
「次どこ行こっかっ?」
弾んだ声の真奈に対して、咲希は苦笑気味の表情を浮かべている。
「ちょっと休憩しない?大分時間かかっちゃったし」
咲希に指摘されて、真奈は自分の腕時計に目を向ける。午後四時五分前、二人がビルに入って二時間くらいが経過している。
「買い物してたら、これくらいかかるよ」
真奈は特に気にしたふうもなく、咲希を見上げる。
「でもさすがに疲れない?どこか座れるところで休もうよ」
咲希に言われて、真奈は思案する顔を作る。
「う~ん、そうだね。おなかも減ってきたし」
そこまで言って、真奈は突然何かを閃いたようにパッと顔を明るくする。
「じゃあじゃあ。私、美味しいケーキ屋さん知ってるんだ。そこに行こう」
真奈の輝いた笑顔を見て、咲希の顔は自然と綻ぶ。
「いいよ」
「よし、じゃあ一回外に出よ」
「えぇ~」
咲希は咄嗟に足を止めた。
「外に出るの?」
ビルの中は冷房が利いているため良いが、一歩外に出ればそこは炎天下、四時になったとは言え、真夏の今ではまだ日差しが強く感じられる時間だ。
先を歩いていた真奈は、立ち止まって、後ろで止まってしまった咲希へと振り向いた。
「だってそのお店、別のビルの中にあるんだもん」
真奈の顔に疲労の色はなく、むしろ晴れ晴れするくらいに、明るい表情をしている。
対する咲希のほうは、外に出るという意識で、急速に表情が曇っていく。折角冷房の利いている室内にいるというのに、わざわざ高温多湿の屋外に出なくてはならないと考えると、どうしても気が進まない。加えて、今は荷物も増えて、動き回って疲れていて、すぐに賛成することができない。
咲希の表情を見て、真奈は慌てて説得を始める。
「でもでもぉ、いく価値はあるよっ。とっても美味しい、ってみんな話してたんだから。ここに来たら一度は行かないと、絶対損するって」
身振りを交えて説明してくれる真奈だったが、咲希の表情はすぐに良くはならなかった。
すると、真奈のほうも困ってきて、次第に表情を暗くしていく。泣き出す寸前の子どものような顔つきになっていく。
真奈の様子を見て、咲希は少しだけ表情を和らげて、小さく溜め息を吐く。
「わかった。行くよ」
その言葉を聞いた瞬間、真奈の顔がパッと明るくなる。
「ホントぉ!」
咲希は頷く。
「ホント。行くから、案内して」
「うん!」
快活に返事をして、真奈は再び先頭を歩き出した。咲希もその後をついていく。
二人はビルの外に出た。町を歩く人の数は一向に減った様子がなく、外の気温も猛暑であることに依然変化はない。
「あっつーい」
真奈が荷物のないほうの手を額の上に翳す。その言葉に、咲希も同調する。
すると真奈は、慌てて振り向いて、咲希に笑顔を向ける。
「でもでも、ケーキのためだよ。少しの我慢。さ、行こぉーっ」
真奈は腕を空に向かって突き上げて、わざとらしく大股で歩き出した。
「まったく」
そんな真奈を見て、咲希は苦笑を浮かべて後を追った。
ビルの屋根付き部分から出ると、強烈な日差しが直接咲希の肌を刺す。明度が急激に上昇して、咲希は顔を顰める。表皮が刺激されて、毛先が疼くような感触が、冷房で冷やされた肌を伝播する。
「あれ?」
日向に出てから数メートルしか歩いていないところで、真奈は足を止めた。
「どうしたの?」
真奈と並んで、咲希も足を止める。
「あれ」
真奈が指差して、咲希はその方向に目を向ける。
そこはビルとビルの間に挟まれて、日陰になっている。真夏日の休憩場所には最適な場所だろうに、清掃が行き届いていないせいで人の数はほとんどない。人の流れから外れて、町特有の明るさを失った影の部分、店々が並ぶ華やかさとは対照的に、暗く、見落としてしまいそうな場所だった。
咲希はその場所に、二人の人間の姿を目にした。
「あ……」
咲希の口から咄嗟に声が漏れる。
二人のうち、一人は見覚えがなかったが、もう一人の、明らかに背の低い男の存在に、咲希は驚きを感じた。
「暑い……」
雨宮の口からついそんな言葉が漏れる。
今は午後の四時近い頃、夏の時期にはまだ太陽が煌々と照りつける時間にある。太陽の高度は下がり傾向に一様あるのだが、気温のほうは一向にそれに合わせてくれない。明るいうちは人の流れも盛んで、人混みがいっそう暑さを象徴させる。
「暑くないですかぁ?」
やや息を切らせて、雨宮は前方を行く人物に声をかけた。
かけた、つもりだったが、先を行くその人は、一向に足を緩めず、また振り向こうともしない。気付いていないのだろうか。
「…………あの」
雨宮はもう一度声をかける。
「クロさん?」
「はい」
今度はすぐに応答があった。クロは足を止め、振り向いて、雨宮を見た。
「何でしょうか」
二人の間にあった距離も、クロが止まってくれたおかげで何とか縮まった。
「暑くないですか?」
少し上がった呼吸のまま、雨宮は訊いた。
雨宮の恰好は半袖に、スリークオーター・パンツ、町中なのでスニーカーを履いている。最初は腕の露出を抑える意味で長袖のシャツを羽織っていたが、あまりの熱さに今はショルダーバックの中にしまっている。
「そんなに暑いですか?」
不思議そうな顔をするクロの恰好は、雨宮が最初にクロと会ったときと、さほど変化がない。素肌にまとわりつくような黒一色。夏場のこの時期にタートルネックでは暑苦しくはないかとも思うが、本人はそれほど苦にしている様子はない。
「夏ですから、このくらいは普通の範囲内です」
答えながら微笑むクロには、炎天下の町中にはそぐわない清涼感が溢れている。
雨宮は縋る思いで訴える。
「でも、一日中この辺りの見回りをしているんですから、少し休憩しませんか?」
雨宮たちの今日の仕事は、外の見回り。組織に敵対する榊原樹、含めその一派、または現在各地で異常発生が報告されているフラストの対処等が、その目的になる。
大勢の人の目に触れられることを嫌うフラストやトレストの類が日中の町中で発生することは考えにくいが、榊原や――まだ報告はされていないが――榊原に与する存在は、その限りではない。
雨宮・クロのペアだけでなく、倉橋・車谷のペアも、各々の担当に当てられた場所の見回りを行っている。高峰のほうでも見回りを行っているらしいのだが、雨宮は高峰の相手を知らない。今まで雨宮が見た上級生はあと一条だけだから、彼女と一緒なのかもしれない。
他のグループが、どういう方法で調査を行っているのかはわからないが、ただ闇雲に町中を歩き回ったところで、榊原樹が見つかるわけでもない。
加えて、午前九時から今の今まで――途中に昼食を挟んだが、それも歩きながら済ませただけで――ずっと歩き通しているので、夏の強力な日差しも手伝って、雨宮は疲労の極みに達している。
休憩を期待した雨宮だったが、クロの言葉は全く別のものだった。
「私たちはこの付近を巡回するように、若草さんから指示されました」
クロは、極当たり前のことを語るような口調だった。
「途中に休息を入れて良い、という指示は受けていません」
クロの表情は穏やかで、優しい色をしていたが、その言葉は雨宮の希望を打ち砕くのに充分な威力を持っていた。
「ニャー」
雨宮が項垂れていると、足元から高い音が聞こえた。人混みの中、その音はとても小さかったが、雨宮とクロはほぼ同時に気付いた。
「どうしました、アオ」
クロはしゃがんで、足元にいる黒猫をじっと見つめる。
クロの飼い猫であるアオは、再び「ニャーォ」と、今度はさっきの倍の時間をかけて鳴いた。
雨宮には、アオが何を訴えているのかわからなかったが、クロにはわかるのか、微笑を浮かべて頷いた。
「わかりました」
すっと立ち上がって、クロは辺りを見回した。長身のクロには、人垣は全く障害にならない。数秒辺りを眺めて、クロは雨宮のほうへと向き直る。
「向こうで一休みしましょう」
その言葉に、雨宮は唖然とした。喜びで声を失ったというよりは、純粋に驚いて反応できなくなってしまった。
それだけ言うと、クロはその場所に向かって歩き始めた。背の低い雨宮には、クロの言った場所がわからず、慌ててクロの後を追いかけた。
クロは普通に歩いているつもりなのだが、これも身長差のせいで、同じ一歩でも、二人には少しずつ距離が開いてしまう。雨宮は早足でクロの後を追う。
――アオの言うことならきくんだ。
雨宮の言葉より、若草の指示を優先するのは正しい。しかし、若草よりも猫の言葉――雨宮にその内容はわからないが――のほうを優先するのは、果たしてありなのだろうか。
「……アオも、暑いって言ったんですか?」
「いいえ」
即座にクロは否定した。
「人混みはイヤ、だそうです」
答えるとすぐに、クロは前に向き直って歩を進める。
――なるほど。
遅れないように、雨宮は早足でクロの後を追った。
クロの入ったのは、ビルの日陰になっている場所、道の上まで被るように鉄筋の屋根が伸びているおかげで、そこだけ太陽の光が遮られている。
照りつける太陽光がなくなって、雨宮は安堵を覚えたが、ここで休んでいる人の姿は結構いて、それほど気温が下がった気がしない。
クロは人混みを避けて、もっと奥のほうに進んだ。人が集団を作っているビル入り口付近ではなく、そこは目の前のビルと隣のビルの間にできた僅かな空間。車一台が通るくらいの隙間があって、ここも隙間になっているのだが、ビルの前とは違ってあちこちに汚れが目立ち、特に理由がなければ好んでいたい場所ではない。
人混みが幾分か減ってきて、前にいるクロのほうを見ると、その先をアオが歩いていた。人の道から少し外れたその場所で、アオは足を止めて、クロのほうへと振り返る。アオの元まで行くと、クロもまた足を止める。どうやら、そこがアオのお気に召した場所らしい。
ようやく追いついた雨宮も、そこで足を止める。
「これからどうするんですか?」
「アオの気分が良くなるまで、ここで休みます」
雨宮の問いに、クロはそう返した。
――よっぽどその子が大事なんだなぁ。
じっとアオを見ていると、雨宮の視線に気付いて、アオはすたすたとクロの影に隠れてしまった。
雨宮は少し驚いて、苦笑を浮かべると、視線を別の方向に泳がせる。
目の前を、人の塊が流れていく。右に行く者、左に行く者、連れを伴っている者、一人だけの者、楽しそうな人に、暑そうな人、目の前の道を人は歩いている。
雨宮は視線をクロのほうへと移す。
クロが身に付けている黒い衣装は、暗澹としたこの空間に溶け込んでいるようで、顔の部分だけが色を帯びてぽっかり浮かんでいるように見える。露出を限りなく避けた衣服のために、肌が灼けることはないが、この気温までは防げないはずだ。事実、クロの首周りは少し汗ばんでいるようだったが、しかしクロの表情は涼しげで、清涼感溢れる顔つきからは暑さを感じているようには見えない。
雨宮は、気になることがあって、口を開いた。
「いつまで見回りをするんですか?」
クロの答えは明瞭だった。
「九時に若草さんへ報告をすればいいので、六時までは見回りを続けます」
つまりあと二時間ほどこの町にいることになる。長いようにも思えたが、午前中からずっと歩き回っていたことを思えばあと少しだと、雨宮は自分自身に言い聞かせることにした。
「でも、どうやって見つけるんですか?」
「気配です」
クロは答える。
「フラストやトレストが現れれば、気配でわかります。人の心の中にいるときは判断が難しいですけど、彼らが活動状態にあれば、この町くらいの範囲ならすぐにわかります」
「そんなに、わかるんですか?」
驚きを込めて雨宮が訊くと、クロは微笑を称えて返す。
「ホリックくらいになるとわかります。君ももう少しすれば、自然とわかるようになります」
優しく言われて、雨宮は自分の頬が紅潮するのを感じる。
雨宮はフラストの気配を読むのが苦手だ。
フラストやトレストは元々心から生まれた産物なので、通常は人の心の中に潜んでいる。まだ人の心の中にいる状態でも、フラストの自我が強まれば、心のエネルギーは僅かだが体の外へと漏れ出す。
多くのMASKSなら、フラストが活動状態になれば、例え外部に出現していなくても、その存在を察することができる。雨宮と同ランクに扱われている倉橋や高峰は、半径百メートルの範囲であれば、その僅かな心のエネルギーを感知できるし、完全に姿を現せば一キロメートルくらいは気づくことができる。
ただ、雨宮の場合、心の中に潜んでいる状態、あるいは宿主の肉体から分離したフラストやトレストが「霧」のようにエネルギーを分散させているときでは、その存在を読み取ることができない。
膨大な心のエネルギーが体の外に流れ出て、フラストとして完全な姿を構築できたとしても、実際に姿を見れる位置までいかないと、雨宮にはわからない。雄叫びを上げてくれれば、百メートル以内なら気づくことができるが、他の二人と比較すると、心の気配を読み取るという技能に関しては遥かに劣る。
組織のほうでは、一応にフラストの気配を読むための訓練は行なっているが、基本方針は実践で身につけていくというものなので、試験時に実際フラストと戦わせて充分な戦果を収めれば合格、そのときの審査基準にどこまでフラストの存在を認識できるか、という項目は設定されていない。
故に、雨宮のように、心のエネルギーが体の領域に漏れ出ても、それを察知することができいなくても、仮面を外せてフラストを倒せれば、MASKSとして社会に出ることは、少なくともできる。
「…………でも」
雨宮が口を開く。
「今回の目的は、組織に敵対する人たちを見つけること、ですよね」
「そうですけど」
雨宮は言葉を続ける。
「でも、その人は、フラストとかトレストとは、違うんですよね」
クロは少しばかり考える素振りをする。
「違います」
雨宮の顔に不安の色が滲む。
「だったら、どうやって探し出すんですか?」
その問いに、クロは思案するように首を捻る。
「どうやって見つけましょう」
雨宮の顔から力が抜けた。
「私は、組織に敵対する首謀者の榊原さんとは会ったことがないので、判断できません」
雨宮の口元が、自然と下がる。頭の中が白紙の状態になって、何も言葉が浮かんでこない。クロのほうはクロのほうで、再度思案するように首を捻っている。
しばらくの沈黙の後、クロが再び口を開いた。
「どうしましょう」
クロは苦笑を浮かべて、雨宮を見る。眼元には普段にはなく困惑めいたものが感じられるが、その顔には普段から板に付いたような清涼感のある微笑の雰囲気が、褪せることなく漂っている。
訊かれて、雨宮はハッとして言葉を探す。
「どうするんですか?」
三秒考えて出てきた雨宮の返答は、さっきの質問となんら大差はなかった。
クロは思案するように五秒ほど黙って、少しずつ考えを口にしていく。
「現状では、フラスト及びトレストが異常発生している、というのが組織の見解です。ここまでは聞いていますか?」
クロに訊かれて、雨宮は頷く。
その様子を受けて、クロは言葉を続ける。
「その要因として榊原さんの名前が挙がっている。ここまでは?」
雨宮は頷く。
「組織の考えが真実ならば、榊原さんはフラストやトレストのような心の住人を――方法は定かではありませんが――操作できる。だったら――」
クロは口元を緩める。
「フラストやトレストを倒していけば、そのうち榊原さんに会えるかもしれません」
クロの眩しいくらい輝いた笑顔がそこにあった。
「――でも」
雨宮の表情は、しかし、あまり心地よい色をしていない。
「そんな簡単にいきますか?」
「上手くいくかいかないかではなくて――」
クロは、変わらぬ微笑を雨宮に向けている。
「それしか方法がない、というのが組織の現状です」
そこでクロは苦笑を浮かべる。
組織に敵対する榊原樹、また彼を中心とした集団は何らかの方法で心の住人であるフラストやトレストを従えている可能性がある。しかし、その方法が明らかでない今、フラストの異常発生を止める手段は、組織にはない。
現在の組織の方針は、榊原樹の抹殺。組織の重役だった榊原が、組織に敵対することを表明した、これは明らかな裏切り行為。秘密主義の組織にとって、彼の裏切りは大きな痛手だ。榊原の地位を考えれば、知識の流出は計り知れないものがある。
――彼をなんとしても抹消しなければならない。
若草も言っていた、それが組織の意思、雨宮もそのことは認識している。
――でも、どうやって。
まずは榊原樹を見つけだす。そして彼を倒してフラスト異常発生をくい止める。
――どこにいるんだろう。
確かにフラストを倒していけば、榊原樹に近づけるかもしれない。仮に榊原が直接フラストの発生に関わっているならば、フラストやトレストのすぐ近くに、榊原樹がいるかもしれない。
しかし、それは安易な推論でしかない。
遠隔からフラストを発生させることができたら。フラストやトレストそのものが、実は囮だったとしたら。そもそもフラスト異常発生に榊原が直接関与していなかったら。榊原の何かしらの行動の副作用として今の異常発生があるだけだとしたら。
考え出したらきりがないが、フラストを倒していきさえすれば組織に仇為す集団に辿り着けるという考え方は、確かなものではないし、真に辿り着ける確率もそう高くはない。
「おそらくは――」
クロが口を開けかけたのと、それはほぼ同時だった。
「あぁ――――――っ!」
叫び声が聞こえて、クロは雨宮から視線を外す。雨宮も、クロの視線の先を追って、振り向いた。
二人の姿を目にして、雨宮は目を丸くする。
「やっぱりぃーっ」
真奈は雨宮とクロのいるところに向かって駆け出した。片手に少し大きめのビニール袋を持っていたが、気にせず走ってくる。そのせいで袋は振り子のように大きく揺れて、真奈の頭のツインテールも楽しそうに弾んでいる。
「雨宮くんだぁー」
雨宮の目の前で停止して、真奈はあどけない笑顔を見せる。
雨宮のほうはというと、驚いたように固まってしまい、一言も口を利くことができないでいた。
「雨宮くん」
もう一つの声を聞き取って、雨宮はビクリとして顔を声の主に向ける。
少女の姿が目に映る。白いシャツは夏場もあって半袖で、短いアイスグリーンのネクタイは白地とあって涼しい色を出している。アイアンブルーのスカートは膝を完全に覆うように整えられている。ロングヘアは特に縛ることもなくて、見慣れた白いヘアバンドが唯一の装飾品だった。
「久し振り」
真奈の後で、咲希は足を止めた。
雨宮はようやく咲希の姿をはっきりと認識して、何か言おうか考えを巡らせていると、雨宮の視界を真奈の無邪気な顔が埋め尽くす。
「雨宮くんも来てたんだ」
真奈の悪気のない笑顔が雨宮の目に映る。
普段学校にいるときは、真奈の笑顔に自然と顔が綻んでくるところなのだが、今の雨宮はそこから反したように緊張した面立ちをしている。
「学校来なくなっちゃって、みんな心配してたんだよ」
口を尖らせて言う真奈。真奈本人はそれほど悪気があって言ったわけではないのだが、雨宮の顔色は、短調に転調したように、暗いものになっていく。
「どうかしたの?」
真奈の素直な問いかけに、雨宮の口元は軽い痙攣を起こして、それ以上口からは何も出てこない。
「君の知り合いですか?」
雨宮のすぐ傍で声が聞こえた。
雨宮は驚いて振り向いた。自分のすぐ隣に、真っ黒な服を身につけた胴部が目に付いて、視線を上げるとクロの爽やかな笑顔がそこにあった。
「わっ、大きい」
ほとんど真上を見上げた真奈は、驚きの声を上げる。
クロの優しげな笑みに見つめられて、雨宮の口は自然と動き出していた。
「あ、はい。学校のクラスメイトです」
「なるほど」
クロは視線を二人の少女たちに向ける。
雨宮も視線を二人に戻すと、咲希のクロを見る目が、普段と違っていることに気が付いた。おそらく、自分より背の高い人を目にして驚いているのだろう、と雨宮は察しをつける。
確かに、咲希の身長は高い。背の低い雨宮と比較しても仕様がないが、同世代の男子と比較してもいい勝負になるかもしれない。
しかし、クロと比較すると、流石の咲希でも頭一つ分ほど届かない。咲希には、クロのような長躯の人間は珍しいのかもしれない。
最も、それはもう一人のほうでも同じことだった。
「雨宮くんの知り合い?」
訊かれて、雨宮は真奈の顔を見た。
高校生というにはまだ幼い、無垢な笑顔。しかし、雨宮はその表情から思い出されるものを感じ取って、頭のなかがボーッとしてくるような感覚に襲われる。
「ええっとぉ…………」
雨宮がどう答えようかと言葉を探していた。
その時に。
――………………。
異変を感じた。
雨宮の顔から困惑の困惑の色が消えて、表情を作るのを忘れた。
何かが違う。
町はさっきまでと同じくそこに存在しているのに、人の群は何も変わらず流れているのに、空気に帯びた熱量は少しも変化せずに淀んでいるのに、世界は何の代わり映えもなく、世界は世界のままここに存在しているのに。
でも違う。
世界が違う。世界が変わる。世界が、作り変えられていく。世界が、塗りつぶされていく。何かに、何かで。
誰かに。
「ニャー」
アオが鳴いた気がした。でも聴こえなかった。
クロは細い目をさらに細めて雑踏を注視する。
雨宮とクロは、同時にその音を知覚した。
――うるさい。
人が、満ちていく。
人で、満ちていく。
――うるさい。
空間が、満たされていく。
空間が、なくなっていく。
――うるさい。
今は午後の四時を十分ほど過ぎた頃、太陽光は依然として白色に輝いて、アスファルトの熱気はなおも地面から湧き上がってくる。
ほとんどの人が夏休みという時間を満喫するために、この町を訪れている。ビルの犇き合うこの場所では、夏祭りという種類のイベントは起こらないが、ビルの中に入れば夏休み企画の安売りや映画などが楽しめる。
夏の娯楽を目的に、人々は町に集い、一通り気分を楽しんだ観客はその余韻を持て余して、町を徘徊する。
だが、一歩外に出れば、そこは灼熱。
「アチー」
雑踏の中から声が上がる。
それは、際立って珍しいことではない。
「うげ、あつっ」
「まだ中にいよーよぉ」
会話は集団の中では、いたって通常の動作。
「あの映画面白かったよねー」
「そうかぁ?」
「ラスト間際のあのシーン!泣けたよねぇ」
「ラストって、どこらへん?」
「もうっ、寝てたでしょ」
どうでもいいことの、繰り返し。
「だって昨日徹夜で遊んでてさー」
「また賭けごとぉ?」
「眠くてさー」
「もうっ、賭けでお金使うの止めてよねぇ。どうせ使うなら、あたしのために使ってよ」
「はぁ?何勝手なことぬかしてんだよ。俺の金をどー使おうと、俺の勝手だろ」
「ダメですよぉー。タクはあたしの彼氏なんだから、あたしの言うこときいてくんなきゃぁー」
――うるさい。
感情が、溢れる。
「次、ゲーセン行こうぜ」
「お、行く行く」
「お前今月金ネーんじゃなかった?」
「余裕余裕ぅ。親の財布からくすねてきてるし」
「ヘー。ヤルー」
「ちょろいもんだって。あいつらバカだもんよ」
「親なんて口ウルセーだけで、頭空っぽだしなーぁ」
「言えてるーゥ」
――うるさい。
不満が、溢れる。
「あー食べた食べた」
「次どこ行くぅー?」
「向こうの通りのアイス食べに行こーよぉ」
「あ、いいねぇ」
「賛成ぃ!」
「え~、まだ食べるのぉー」
「いいじゃん。駄弁ってたら結構時間くっちゃったしさー」
「それに、あそこのアイスは格別だよぉ~ん」
「そんなこと言ってると、太るよ」
「大丈夫だって。あたし太ったことないし」
「デブい奴って、生まれつきデブだから、デブなんだよ」
「そうそう。うちのクラスの豚みたいにさー」
「アハハハハハッ!確かに、あの豚!」
「スカート下の足なんて、マジハムだし」
「顔も油ギトギトだし」
「あんなんに生まれてたら、即死んでるって」
「ラッキーだよねぇー。あたしら美人で」
――うるさい。
中傷が、溢れる。
「ただいまこちらでは抽選会を行っております。こちらで二千円以上お買い上げいただきますと、レシートと引き換えで一回くじを引くことができます。外れは一切ありません。どうぞお試しください」
「商品は六等から一等までございます。一等はなんとっ。三泊四日の沖縄旅行です。夏の最後の思い出作りに。是非この機会をお見逃しなく」
「まだ一等は出ておりません。まだ一等は出ておりません。どうぞお急ぎください」
「おめでとうございます。三等でございます」
「ありがとうございました」
「さあ。商品も残り僅かとなりました」
「お急ぎください」
――うるさい。
言葉が、溢れる。
「こちらでの路上駐車は禁止されております」
「マーくん、ほら行くわよ」
「車でお越しの方は駐車場をご利用ください」
「あれ買ってあれ買って」
「ここは駐車禁止区域です」
「だめですよ。もう家に帰るんだから」
「この先の駐車場をご利用ください」
「あれ買ってあれ買ってあれ買ってあれ買って」
「道が混雑しております。速やかに移動してください」
「ダメよ。わがまま言ってないで帰るわよ」
「この先の駐車場をご利用ください。ご協力お願いします」
「ヤーダヤーダヤーダヤーダヤーダヤーダヤーダヤーダ」
――うるさい。
音が、溢れる。
ただの音。騒音。声は。音に。話し声。奇声に。ざわめきも。囁きも。全部。音。騒音。音響に。木霊して。音律が。歪んで。ただ。騒々しい。喧しい。喧騒。信号。車。エンジン。あるだけで。騒音。響いて。反響して。残響は。満ちて。震動。鼓膜が。病む。朽ちる。音に。麻痺して。汚れる。音が。汚物に。損なう。歪に。変質。音質。失う。響き。音色が。褪せて。神経に。傷んで。音。騒音。劣化。荒廃。廃れる。音。響き。無くなる。亡くなる。なくなる。溢れる。騒音。うるさい。
――うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうる……………………!
「うるさいッ」
口から音が漏れた。
それは水面に落ちた雫が緩やかに波紋を広げる、小さく、ささやかな、音。
直後。
――………………………………………………………………………………………………。
――……………………………………………………。
――………………。
その場から、音が消えた。
人の声も、人の足音も、車の音も、信号の音も、鳥の声も、町に溢れる音楽も。
まるで時が止まってしまったように。色が褪せていくように。無声映画のように。
その場が消音に包まれて、その場に静寂が、沈黙が訪れる。
――………………。
広末は微笑んだ。
やっと静かになった。ようやく平穏が訪れた。無秩序は去り、均衡たる音階が成立して、彼の求める美が、真に美しい芸術が、いま存在している。
――そうとも……。
新世界、誕生。
――ウルサイ。
世界に音が戻る。
――ドオオォ――――――――――ンッ!
爆発が空気を震わせる。
悲鳴が上がった。叫び声が通り抜ける。人々のざわめきが波紋のように広がって、混乱がその場に居合わせた人間一人一人に感染する。
「なんだなんだっ!」
「何いまの音?」
「事故だ、事故」
「キャーッ!」
「ヒデー、ぐちゃぐちゃだ」
「何。何が起こったの?」
「車がビルに突っ込んだんだ」
「人も轢かれてるぞ」
「うわぁ、ビルの中もメチャクチャじゃん」
「誰かぁ、救急車を呼んでくれ!」
音が戻った。
――どいつもこいつも。
広末の表情が一気に冷めていく。
何故喋る。何故騒ぐ。何故喚く。
どうだっていいことだ。世界がどんな色をしていても、自分に無関係なら存在していないのと変わらない。
――ドンッ。
広末の肩にモノの感触が伝わった。だが広末はさほど頓着することもなく、歩みを止めない。
――うるさい。
ただここから出たかった。音で満ちたこの場所から、すぐにでも抜け出したかった。ここは、広末の求める世界ではない。
「おい」
広末の肩に触れるものがあった。振り向くと、そこに三人の男たちの姿があった。あまり物腰の良さそうな雰囲気ではない。
「テメー、人にぶつかっておいて謝りもしねーのかよ」
――うるさい。
「何とか言えよ」
――うるさい。
「ちょっとツラ貸せよ」
広末の肩に手を乗せていた男は、そのまま広末の服を物凄い力で掴んで引っ張った。その後ろを、二人の男がからかうような視線を彼に送りながらついてくる。
――うるさい。
頭の中で、音が溢れそうになる。騒音を、掻き消したい。世界を、消し去りたい。広末の求める音だけを、世界に刻もう。
――ウルサイ。




