第二楽章 サバイバル・マッチ
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――ッ!
銃声が轟いた。
無人島の空に、けたたましい銃声が駆け抜ける。澄んだ空の中には鳥の姿も見られない。広がるのは、途切れることのない青空と空を漂う穏やかな白雲くらいのものだ。
海岸の砂浜に人の姿が見える。海に背を向けて、雨宮と倉橋が少し離れたところに立っている。そしてもう一人、二人の前方五十メートルほど離れたところに男の姿がある。
雨宮の持つサブマシンガンから連続して弾丸が放たれる。両手で握ったサブマシンガンを腰だめに構えて、引き金に右手の人差し指をかけたまま離さない。
「さっさとくたばれぇぇええっ!」
雨宮は険しい表情を正面に向けて叫ぶ。雨宮の顔の右側で、右目が異様に膨らんだ派手派手しい、太陽か花のような、三角形で幾つも右目の輪郭をあしらった奇怪な仮面が、楽しそうな笑顔を浮かべている。
雨宮は、銃弾の向かう先を鋭い目つきで睨みつけている。雨宮の視線の先に、男の姿があった。男は避ける動きも見せず、その弾丸を真っ向から受ける。弾丸が命中するたびに重々しい衝撃音が聞こえ、それに併せて男の体が僅かにぶれる。
「…………」
倉橋は黙って銃弾を浴び続ける男を見つめていた。
常識で考えれば、弾丸を一発でも体に受ければ人間など、易々と倒れてしまう。サブマシンガンのような連射式の銃器の前では、人の命など実に脆い。
しかし男は倒れなかった。銃弾を、生身の体で受けているにもかかわらず、直立のまま堪えている。
倉橋はその場に突っ立ったまま動かない。それは銃弾を受けながらも平然と立ち続ける男に驚愕したのかもしれないが、弾丸が飛び交う中に倉橋が入り込める余地などなかった。
男のこめかみに血管が浮かび上がる。男は右手に持っていた金属バットで、銃弾を思い切り払う。
「この程度かあぁぁぁっ!」
砂地の上を風が駆ける。それも突風だ。倉橋は体勢を低くして、右手で顔を守るように覆う。
男に向かっていく弾丸が、一瞬逸れる。雨宮は男の気迫に押されることなく、男に真っ直ぐ銃口を向けているはずなのだが、バットの風圧のせいか、弾道は男を避けるように抜けていく。
男が雨宮に向かって猛進する。雨宮は銃を乱射し続けるが、男はバットを振り回して弾丸を弾いていく。
「そっらあぁぁぁっ!」
かけ声とともに、男が雨宮に向かって金属バットを振り下ろす。
「っ!」
バットが振り上がるのを見て、回避のために雨宮は素早く横に飛ぶ。地面を一蹴りしただけだが、雨宮の体は先程までいた位置から五メートル以上は離れる。先程まで雨宮がいたところに、男が振り下ろした金属バットが強力な衝撃を与える。
雨宮は銃口を男に向けようとした。が、僅かに身を縮めて守りの体勢にはいる。まるでバットの風圧に押されているように銃声も途切れる。
その僅かな隙をついて、男は雨宮に向かって一歩を踏み込んだ。二人の間に開いていた五メートル以上の間隔が、一瞬でなくなる。
勢いに乗せて、男が雨宮に向かってバットを薙いだ。
男の踏み込みを見た雨宮は、すれすれのところを空中に跳んで躱す。地上五メートルの高さまで舞い上がった雨宮は、男に向かって弾丸の雨を打ち落とす。
――ドドドドドドドドドドッ!
雨宮の体は上空できれいな放物線を描きながら、緩やかに落下して男から距離を置く。
しかし男は雨宮の緊急回避を許さなかった。
「おぉぉおおおおっ!」
気合いとともに、男は雨宮の着地ポイントに向かって一直線に突っ込んでいく。もはや銃弾を避けることも、バットで払うこともしない。
宙を舞う雨宮は男の攻撃を予測できても、もはや避けることができない。ひたすら男に向かって弾丸をぶつけるしかない。しかし男の勢いは止まることを知らない。勢いを得たバットが、雨宮に向かって振り下ろされる。
――ギンッ!
雨宮の体はバットの衝撃を受けて吹き飛んだ。咄嗟にサブマシンガンを盾にしたが、その衝撃は雨宮の身体を三十メートル近くまで運ぶ。
「…………」
その間、倉橋は身動き一つとれなかった。雨宮と男、二人の気迫はすでに殺意の域にまで達していて、不用意にその空気に入ることが躊躇われた。
「どうしたッ!終わりかぁあ?」
男が倒れた雨宮の体に向かって怒鳴りつける。
数秒ほどして、雨宮の体が動いて、ゆっくりと立ち上がる。
「ざけたこと言ってんじゃねーよ……」
雨宮は地面の上でしっかりと直立すると、サブマシンガンを両手で強く握りしめる。
雨宮は笑っていた。
雨宮の体は、先程のバットの一撃で相当なダメージを受けている。立っているだけで辛そうに見える。
それに対して、男は数え切れないほどの弾丸を浴びているにもかかわらず、あまり効いているようには見えない。相互の状態から見て、雨宮のほうが不利だ。
だが、雨宮は笑っている。それはどこか楽しそうだった。
雨宮の笑い顔を見て、男も笑う。倉橋だけが緊張のまま硬直している。
「――殺らなきゃ……」
不意に雨宮が呟く。
「……」
気づいた男が訝しんで雨宮を見つめる。
「……殺られる…………」
雨宮の言葉は続く。
「……殺られる前に――」
雨宮の笑みがいっそう濃くなる。
「ぶっ殺す!」
叫び声とともに、雨宮は引き金を引いた。放たれた銃声はさっきまでより数段大きく、溢れ出す弾丸は先程よりも勢いを増していた。
「……!」
男は何もせずにその弾丸を受けた。一発目、男の身体が一メートル近く後退する。二発目、防御が間に合わずさらに後退を許す。
無限に発射される弾丸を、男は両手を交差させるように顔の前に突き出してガードする。なんとか耐えているようだが、男の体は少しずつその勢いに押されていく。男の足に海水が触れる。このままいけば男は波にさらわれる。
雨宮の反撃に、だが、男は一人口元を緩める。
「そうだーッ!そうでなくっちゃおもしろくねーェ!」
男が吼える。
そして、それは同時に起こった。
空気の流れが変わった。離れた位置にいる倉橋にも、その異変が感じ取れた。目に見えないエネルギーが逆流して、倉橋のところまで流れ込んでくる。
男の様子は一向に変化がない。外見上には、どんな変化も読み取ることができない。
しかし、違う。
肌を伝う感触に、異質な抵抗を感じる。雨宮が放つ銃弾の流れを塞き止めるように、男から常人離れしたエネルギーが溢れ出している。
これを気迫、とでも呼ぶのだろうか。男の周りを覆う、目に見えないエネルギーの塊、それが一気に密度を上げる。
「………………」
倉橋は銃弾を浴び続ける男を見た。
男はその場に踏み止まった。男の足元に波がぶつかり、濡れた足場は踏みとどまるには安定しない。しかし、男は両足でその場に立っている。
――すぅ。
男は右手に掴んだバットを持ち上げて、構える。ガードを解いた男の体が僅かな後退を始める。しかし男は構えを解かず、それどころか上半身の構えは少しも崩れない。
「だああああッ!」
気合とともに、バットが振り下ろされる。
――ブオンッ!
風の唸りを、雨宮は聞いた。
咄嗟に、雨宮は右へ跳ぶ。直後、砂の上を一陣の風が吹く。突風に煽られて、大量の沙礫が宙に舞い上がる。
「!」
雨宮は素早く身を屈めて目を細める。そのせいで、一瞬銃声が途切れる。
「止めんじゃねぇぇええええ!」
雨宮はハッとする。すかさずサブマシンガンを構え直したときには、男との間合いは一メートルもなくなっている。
――バンッ!
激突と同時に、衝撃が走る。二人は意図せず、弾かれたように互いの距離を開ける。二人は勢いを殺すように、砂地に手を突いた。両者が交えたところで、噴煙が上がっている。
男は笑みを浮かべて、感嘆の言葉を漏らす。
「やるじゃねーか」
男の金属バットが雨宮を強打する瞬間、雨宮は手にしたサブマシンガンを盾に使わず、代わりに懐から手榴弾を放った。正確には、自分の身を後退させながら、上着から手榴弾を落とした。
雨宮は爆風の勢いで体を後退させて、男のほうは真っ向から爆発の衝撃を受けて、雨宮から距離を置くように後方へと飛ばされる。
「…………」
雨宮は男の言葉には応えずに、ただじっと口元に笑みを浮かべる男を睨みつける。
――化物め……。
雨宮は男を見ながら思う。
今の爆発の影響は、相手のほうが大きいはずだ。男は、手榴弾に向かって突っ込んで行った。そのダメージは、静止したまま受けるよりは大きい。向かってくる自動車に正面から突っ込んでいくようなものだ。体がバラバラに吹き飛んでも、おかしくない。
一方の雨宮は、爆発の瞬間、後方に退がって爆発から身を遠ざけた。爆発の勢いを利用して後退し、かつ受身をちゃんととった。ダメージは最小限に抑えている。
しかし男は、自分の体に受けたダメージに苦しむどころか、楽しそうに笑っている。雨宮は自分の体に蓄積したダメージを堪えて、口を利く余裕もないのに、対峙している男は苦痛の色さえ見せない。
倉橋は、離れたところにいる二人を見ながら、呟く。
「……強すぎる」
小さく呟いた声は、二人の耳には届かない。
疲弊しきった雨宮を見て、男はほくそ笑む。
「何だ。もう限界か?」
雨宮は呼吸を荒げたまま、ぼそりと呟く。
「……………………ざけんな」
雨宮にはこの一言を呟くのが精一杯だった。
雨宮の言葉を聞いて、男はニッと笑う。
「だよな。これで終わっちまったら、つまんねーからな」
雨宮から二十メートルほど離れたところで男が立ち上がる。爆発の影響で体中砂埃を被って汚れているが、男の動きには全く痛みを感じ取ることができない。今までの戦闘を受けても、ほとんど無傷に等しい。
雨宮も立ち上がろうとした。が、男のようにすんなりとはいかない。サブマシンガンを杖にして、膝を突いて、砂地に刺さったサブマシンガンを支えにして、のろのろと起き上がる。
男から目を逸らさなかったが、雨宮の動きは隙が多い。だが、男は攻めてこなかった。雨宮が完全に起き上がるのを、静かに待っていた。待ってくれていたとしか思えないほどに。
雨宮が立ち上がってから、男はバットを掲げる。
「そら、さっさと構えな」
雨宮はサブマシンガンを腰だめに構える。両足で地面を踏んで、腰を下げて、安定した体勢で銃を構える。
「…………」
倉橋は、黙って二人の姿を眺める。最初から一歩も動いていないその場所で、倉橋は動けないまま二人の戦いを見ていることしかできなかった。
「いくぞッ」
男が叫んだ。
両者が接近する。
直後。
「そこまで」
雨宮と男の間に、いつの間に現れたのか、一人の少女の姿があった。その存在を認めて、二人は動きを止めた。
二人の殺気に挟まれても、一条は顔色一つ変えない。眼鏡の奥には、穏やかで、それでいて冷えた瞳が両者を見つめる。
一条は淡々と続ける。
「本日午前のプログラムはこれで終了です。全員仮面を戻しなさい」
一条の言葉を聞いて、倉橋は自分の顔の左側を覆っている闇色の仮面を左手で掴むと、その仮面を自分の顔に被せる。左腕で仮面を隠すように覆って腕を払うと、そこにはもう仮面はどこにもなくなっていた。
「あなたたちもです。雨宮海斗、車谷徹也」
一条は、目だけで彼女の左右に立った二人を交互に見る。
雨宮と男は数間黙って互いを牽制してから、倉橋と同様に、自分の顔に張り付いていた仮面を正面に戻してから、その手を退かす。二人の顔からも仮面が消えた。
それを確認してから、一条は変わらぬ口調で続けた。
「次は十四時開始です。それまで次の戦闘に備えなさい。以上」
空を見上げると、木々の間から無数の星が見える。もう夜だ。
二人は森の中にいた。森というよりはジャングルと言ったほうが納得しやすい。木々は好き勝手に上空を目指し、地面を覆う草は雨宮や倉橋の腰の辺りまで伸びている。
二人のいるところだけ刈り取られたように草がなく、剥き出しの地面が露出している。その中央にある赤々と燃える炎が、薄暗い森の中を暖かく照らしている。
「は~、しんど」
倉橋はその場に仰向けになった。
「今日も疲れたね」
雨宮は火の前に座って、倉橋を見る。
「やっぱり、車谷さんは強いね」
「そりゃそうや」
倉橋は上半身を起こした。倉橋の顔は活気のある輝きを放っている。
「車谷先輩は最強や。あの力強い攻撃は、他のMASKSには到底真似できへん。バット一振りで、フラストを一撃ケーオーしてまうんやで。それに――」
倉橋が身を乗り出す。
「あの人の力は、まだまだあんなものやないで。もっと凄いことができるんや。あ~、早う疾走する先輩を見たいで。まだ出してくれへんのやもの、待ち遠しくてうずうずするわ」
「倉橋くんは施設にいた頃、車谷さんにお世話になったことがあるんだもんね」
倉橋は頷く。
「訓練のときもせやったけど、普段から一緒におるときが多かったから、車谷先輩のことはよう知っとるで。それに、部屋も一緒やったんやで。俺が施設から出るギリギリまで、同じ部屋や」
「へぇ~、そうなんだ」
「そういや、海斗は部屋、誰と一緒やったんや」
雨宮は考えるように頭を傾げる。
「部屋じゃ、僕一人だけだったよ。それが普通だと思ってたんだけど」
倉橋は咄嗟に言葉が出てこなかった。
雨宮は続ける。
「訓練や実験のときも、僕一人で、他は研究員みたいに白衣を着た人たちだけだったと思うよ。よく覚えていないけど」
「せ、せやったか……」
倉橋の口からは、それ以上の言葉が出てこなかった。
二人の言う施設とは、山奥にあるMASKSを養成するための施設である。正確な位置を、二人も知らない。
現在MASKSとして行動しているもの全員が、過去にその施設で実験や訓練を受けている。一般社会でフラストを撃退する実力が身についたと判断されると、施設から出ることができる。施設から出れば、そのままMASKSとしてフラスト撃退の任務に就く。
倉橋の言葉に、雨宮は頷く。
「だから倉橋くんに会ったのも、試験のときだけだったね」
「……せやな」
雨宮の言う試験とは、MASKSの実力がどれくらい身についたかを試すためのものだ。MASKSの能力がどの程度発動できるか、から始まって、最終的には実践でフラストと戦い、一般社会で機能するかを判断される。試験では、ほぼ同レベルのMASKS候補が集められて、一斉に試験を行う。
倉橋は普段の訓練から他のMASKS候補者たちとグループになって行動していたので、自分以外に同じ立場の人間がいることを別段不思議には思わなかった。
しかし雨宮のように、通常訓練や実験の際に単独で行われる者がいることを、倉橋はこのとき失念していた。
過去の試験のとき、倉橋は雨宮と会話して、雨宮が自分以外にも訓練や実験が行われている人間がいることを初めて知ったという告白を、ようやく思い出した。
「でも――」
雨宮は気遣わしげな視線を倉橋に送る。
「それじゃやっぱり倉橋くんは、車谷さんと戦うのは、嫌だよね」
その問いに、倉橋は首を傾げる。
「?何でや?」
倉橋が本心から不思議そうな顔をするので、雨宮は慌てて言葉を探した。
「何でって、昔から知り合いだと、抵抗あるでしょ」
「嫌、っちゅーかぁ……」
倉橋はしばらく考えてから答える。
「別に嫌なことはあらへんけど、戦い辛いって言うんか、よう知っとる分、どうも踏み出しにくいんや。パワーとか、戦い方知っとるしで」
「そっかー……」
倉橋は訝しんで雨宮を見る。
「なんね、いきなり」
「いや、何て言うか、その…………」
雨宮は困ったように頭を掻く。
「……倉橋くん、戦い辛そうだったから。車谷さんと」
「は~っ?」
倉橋の反応に、雨宮の顔に困惑の色が滲む。
「き、今日も、倉橋くんが戦っているところ、見てないから…………」
倉橋はハッとした。
雨宮の言葉通り、今日の倉橋は一回も車谷と戦ってはいない。主として、雨宮が交戦していただけで、倉橋はその様子を遠目で見ていたに過ぎない。
今日だけではない。
車谷と戦うことが決定してからずっと、倉橋は車谷と交戦できていない。一度でも、車谷の体に触れたことがあっただろうか。
雨宮は言葉を続ける。
「戦うの、嫌なのかな、って」
「何言ってんねん!」
倉橋は勢いよく立ち上がる。炎に照らされた倉橋の顔には真剣で、激したものが映っている。
倉橋の口調と態度に驚いて、雨宮は口を噤む。
倉橋は続けて口を開く。
「嫌なことがあるかいっ。それにこれは試験やぞ。試されとるんやで。逃げたらあかんことぐらい、俺も承知しとるわ。試験を受けた以上、合格せにゃならんのや。戦い辛いなんか理由になるかい。嫌や言うて、やらんわけにはいかんやろ。俺はやっと社会に出たんや。ここで無様に失敗して、またあの何も見えん山ん中に戻されてたまるかい!」
雨宮は何も言えず、ただ倉橋を見上げるだけだった。
「それとも何か」
倉橋の激情を含んだ声はまだ続く。
「俺がビビッとる言うんか?」
倉橋はキッと雨宮を睨みつける。雨宮からの返答を待って、倉橋は言葉を止めた。
「…………」
雨宮は、黙っていた。
倉橋の勢いに押されてか、雨宮は何も言わずに、立ち上がった倉橋を見上げて返すだけだった。夜闇が被さって、雨宮の表情は困惑めいて見える。
雨宮と倉橋は黙ったまま、互いの目線だけを合わせる。沈黙の間を、焚き火がパチパチと音を立てて燃えている。
「どうなんやっ」
待ちきれず、倉橋は口を開いた。その口調には、倉橋の苛立たしげな感情が露わに含まれている。
「答えんかい!」
言葉の勢いに任せて、倉橋は雨宮に一歩近づく。倉橋の靴に蹴られて、乾いた砂が炎の中へ飛び込んだ。火の中で砂の灼ける音が一段大きく響いて、炎の波が揺らめく。
雨宮の目は、しかし、倉橋の動揺に動かされはしなかった。変わらぬ姿勢で、倉橋を見返している。
「…………そんなこと」
雨宮はゆっくりと口を動かす。
「言ってないよ」
雨宮は続ける。
「倉橋くんが強いこと、僕は知っているから」
倉橋の顔から力が失われた。激した色は、闇の中でも見えるくらい褪せてなくなり、予期していなかった雨宮の答えに、倉橋は勢いを忘れた。
雨宮は微笑んで、倉橋を見た。
「変なこと訊いてゴメンね。僕が悪かったよ」
雨宮の顔は、他者を労る優しい笑顔をしている。炎光に照らされて、雨宮の表情が倉橋の網膜に像を結ぶ。
「…………」
倉橋は、その場に座り込んだ。
「……いや」
倉橋は雨宮から顔を背けるようにして、先程とは打って変わった小さな声で呟いた。
「俺のほうこそ、済まんかった」
倉橋はちらと横目で雨宮のほうを見る。雨宮の顔には、まだその笑顔が残っている。気遣うような、穏やかな表情。
「…………」
倉橋はすぐに雨宮から顔を背ける。しかし雨宮の視線はじっと倉橋に注がれて、しばらく黙っていた倉橋だったが、その視線に耐えられなくなった。
「ってか」
倉橋は雨宮を直視して口を開いた。
「何で海斗が謝るんや。悪いのは俺やろ」
雨宮はじっと倉橋の話を聞いている。
倉橋は続ける。
「あー、そうや。この一週間、俺はちっとも戦っておらへん。車谷先輩と二対一の勝負やのに、ずっと海斗に任せっきり、俺は何もしとらんよ。何のために二対一でやっとるのかわかったもんやない。それなのに――」
倉橋の言葉からは、自虐的な響きが感じられる。倉橋は僅かに雨宮から顔を背ける。
「それなのに、事実言い当てられて、図星やからって逆切れして、ちっとも先輩倒せんでいるのに、俺が悪いのに…………」
倉橋は一旦言葉を止めた。下を向いて、両目を両手で覆う。
「最低や」
項垂れた倉橋の姿が、雨宮の目に映る。
「まだ、終わっていない」
雨宮は静かに呟く。
倉橋はじっと伏せていたが、雨宮は言葉を続けた。
「まだ、試験は終わっていない。試験が終わるまでは、僕らは結果を決められない。それまでは、やっていくしかないんだ」
炎に灼かれて木片が爆ぜる音が、雨宮の言葉を際立たせる。
倉橋は顔を上げて、雨宮を見た。
「諦めちゃ、いけないんだ」
倉橋は、雨宮の最後の言葉を聞いた。雨宮は穏やかな表情で、しかしその目には炎と同じ熱の色が映っている。
倉橋は口元を緩める。
「せやな」
倉橋は正面から雨宮を見つめて、気さくな笑みを取り戻す。
「まだ諦めるわけには、いかんな」
八日前のこと。
雨宮と倉橋が無人島で車谷と戦うことになる、前日のことだ。その日、ホテルに滞在していた二人は内線で若草に呼ばれて、二人は若草の部屋を訪れた。
「やあ、いらっしゃい」
雨宮と倉橋は若草の部屋に入った。
「さあ、座って」
若草は椅子に座ったまま手でベッドを示した。二人は導かれるままに腰を下ろす。
部屋の中だというのに、若草は相変わらず丸く鍔のついた帽子を、両目が隠れるくらいまで深々と被っていた。
まず倉橋が訊ねる。
「話、って何でっか?」
若草が答える。
「この前話したように、今我々は重大な局面を迎えている」
若草の話を聞く二人は身を強張らせる。
「そこで、君たちにも協力してもらいたい」
最初に雨宮が口を開く。
「え、それって……」
「俺らも、トレストと戦えってことでっか?」
若草は手を横に振る。
「いやいや。今私が考えている方法は、MASKSを幾つかのチームに分けようと思っているんだ」
ぽかんとしている二人を前にして、若草は話を続ける。
「今まではMASKSの存在、フラストの存在が世間に明るみになるのを防ぐため、MASKSは単独行動を原則としていた。しかし現在組織に送られる報告からは、現状のままで活動を行うのは難しいと判断される。フラストだけでなく、トレストの発生率がここ数ヶ月のうちで異常な数値に達している。それに、先日話した榊原樹、彼の動向も気にかかる。このままMASKSを単独行動に任せるのは、危険が大きいだろう。そこで、これからMASKSはチームを組んで、戦力を上げようというわけだ」
確かに、単独で戦闘を行うよりは、複数集まって敵と対峙したほうが、いくらか心強い。
「せやけど……」
倉橋は懐疑の表情を向ける。
「俺らは三人がかりでもトレストを倒せなかったんですけど」
雨宮も重い気分になる。
「数で対抗すれば何とかなる、というものでもないんじゃないですか」
しかし、若草の顔は笑っていた。
「心配しなくていい。各チームに一人は上級生を付けるから」
上級生とは、トレストとも等しく戦いができる『ホリック』のことを示す。その言葉を聞いて、二人はほっと胸を撫で下ろす。
「ただし――」
若草の言葉を聞いて、再び二人の身体に緊張が走る。
「君たちには軽い能力審査を受けてほしい」
雨宮と倉橋はともに首を傾げる。
「テスト……?」
雨宮が呟くと、若草は頷く。
「うん、テスト。急で悪いんだけれど、明日出発してもらう。場所のほうは一条くんが案内してくれる」
心配ない、という意味の微笑を若草は二人に向ける。しかし二人は突然の申し立てに、しばらく黙していた。
「…………」
「…………」
倉橋がゆっくりとした調子で口を開いた。
「……二人、でっか?俺らだけ」
その意を介して、雨宮も訊ねる。
「高峰さんは?」
ああ、と言って若草は答える。
「高峰くんは、別口だ。彼女にもちゃんと訓練メニューは組んである。私も、君たちに一番いい方法を検討して、こういう判断をしたんだ」
倉橋はまだ納得がいかなかった。
「せやったら、何で俺らは二人一緒なんでっか?」
若草はやはり笑っていた。
「それが一番いいやり方だと、私が判断したからだよ」
そう言って、若草は二人に優しい顔を向ける。
「…………」
「…………」
これ以上聞くのは野暮のようだと、雨宮も倉橋も諦める。
普段から、MASKSに対して正確な任務内容が組織のほうから知らされることはない。もちろん指示はなされるが、その理由や具体的な行動内容まで、逐一指示されることはない。上官に訊いても、それに答えてくれる人は稀であり、むしろ質問することを煙たがる人のほうが多い。
しかし若草は例外だ。
質問をしても嫌な顔をすることはないし、うまくすれば任務の内容やその理由について素直に教えてくれることが多い。
――本来は、絶対にあってはならないことだろう。
今回の若草の発言は、雨宮と倉橋の不必要な検索を拒否したものであり、通常はこれが正当な処置なのだが、普段とは違う態度に、雨宮と倉橋の両者は、これから行われる能力審査に些かの不安を感じずにはいられなかった。
「期限は、後一週間や」
倉橋の言葉に、雨宮は頷く。
「その間に一回でも車谷さんに勝てたら、僕らは合格、だったね」
「せや。俺と海斗の二人がかりで構へん。そんでもって、先輩に勝ちゃーいい」
「うん」
そこまで言って、二人は言葉を区切った。
「……………………」
「……………………」
倉橋は腕を組んで、唸り声を出す。雨宮のほうは、火元を眺めたまま、その童顔には似つかわしくない難しい顔をしている。
しばらくして、まず倉橋が口を開く。
「どないしよー……」
雨宮は現状を分析する。
「僕の銃が全然効いていない。手榴弾も使っているけど、これも大したダメージは与えられていない。やっぱり、トレストと戦えるだけあって、上級生は強い」
倉橋は頷く。
「特に車谷先輩は、上級生の中でも力の放出率が高いんや。それが厄介や」
雨宮が倉橋のほうに顔を向ける。
「どういうこと?」
倉橋が答える。
「お前も戦ってて感じんかったか。ビリビリする感じを」
「それは感じた。でも、上級生ってみんなそんな感じなんじゃないの?」
倉橋は首を横に振る。
「車谷先輩は特にや。あの人は心の領域を限りなくオープンにしてまうんや。車谷先輩が言うには、制御するのが苦手らしいんやけど、逆にそれを使って攻撃力と一緒に防御力も上げてまう。せやから、車谷先輩は強くなればなるほど、守りも堅くなる。結果、こっちの攻撃が効かなくなる。えらい厄介や」
「なるほど」
頷いてから、雨宮は再び考え込む。
倉橋も何か打開策はないかと、熟考を続ける。
「でもさ」
雨宮が口を開く。
「放出率が高いってことは、力の消費率が高い、ってことだよね」
倉橋が不思議そうな顔で雨宮の問いに答える。
「まー、そういうことやが、それがどうした?」
「だったらさ」
雨宮は自分の頭の中に浮かんだ考えを話し出す。
「車谷さんのパワーをどんどん上げさせて、早いうちに力を使い切らせちゃえばいいんじゃないかな」
雨宮の提案に、しかし倉橋はあまりいい顔をしなかった。
「無理やな」
「どうして?」
倉橋は理由を話す。
「MASKSはフラストと違って心だけやのうて、体の力も使えるんや。車谷先輩の体力は半端ないで。長い付き合いだったで、よう知っとる。そんな戦い方したら、俺らのほうが先にばててまう」
雨宮は俯いた。
倉橋も名案が浮かばず、考え込んだ。
「どうしたら……」
「時化た面してんな」
人の声がして、二人は顔を上げた。
森の中に人影があった。二人が座っているところから一メートルくらいしか離れていない。ジャングルのように草が伸び放題になっているので、人が近づいてくれば音などで気付きそうなものだが、雨宮と倉橋は人の気配に全く気が付かなかった。
人影は二人のいるところまで歩み寄ってきた。炎の明かりに照らされて、その姿が薄暗い森の中から浮かび上がる。
草叢からひどく凹んだ金属バットが見えて、雨宮は一瞬身を引いた。
所々穴の開いたジーパンを履いて、袖のない上着を羽織るように身に付けている。前の開いた上着からは鍛えられた肉体部分がそのまま露出して、スポーツ刈りがフレッシュな印象を与える。
倉橋が人影の正体を認めて声を上げた。
「車谷先輩」
その声には驚きとともに、嬉しそうな調子を含んでいる。
車谷は自分の顔のすぐ横に手を上げて、倉橋を見ながら笑った。
「よっ。元気にしてるか?」
車谷だということがわかって、雨宮はすぐに警戒を解く。倉橋のほうは、嬉々として車谷に向かって答える。
「もちろんですわ。元気だけが俺の取得でっから」
その言葉を聞きながら、雨宮は苦笑する。
雨宮も、突然の訪問者に声をかける。
「車谷さん、どうしたんですか?わざわざこんなところまで来て」
雨宮と倉橋がこの島に来てから、二人は毎晩野宿をしている。この島には現在、雨宮と倉橋、車谷と一条が滞在している。他には誰もいない。
戦闘のとき以外、雨宮と倉橋は二人だけでこの無人島で生活をしなければならない。寝る場所も食料の確保も、全て自分たちでやらなければならない。上級生の二人に援助を求めることは許されていない。
故に、戦闘のとき以外に、二人が上級生に会うことは禁じられている。無人島に着いた初日に、一条から言われていることだ。
車谷は破顔する。
「なに、暇だから島の中をちょっと散歩してたんだ。毎晩毎晩素振りしているのも飽きたからな」
車谷は持っていた金属バットを自分の肩に乗せる。
「毎晩でっか?今日もやったんで?」
倉橋の問いに、車谷は即答する。
「おうよ。寝座に戻ってからまた千本くらいやる予定だけどな」
二人は目を丸くして車谷を見上げる。
一日たった二回の戦闘だが、雨宮と倉橋はともに疲れ果てて、明日の試合のために体を休めている。
しかし車谷は一日が終わった後でも、まだ激しい運動をするだけの体力があるらしい。二人は改めて、車谷の果てしない体力を理解した。
二人が黙っていると、車谷は先に口を開く。
「ところで、何の話をしてたんだ。俺を倒す相談でもしてたのか?」
雨宮はビクリとして肩を震わせる。まさにその通りだった。
倉橋は怖ず怖ずと答える。
「……まー、そんなとこです」
なるほど、と言って車谷は頷く。
「で、俺を倒す目処は立ったか?」
雨宮は心配そうに倉橋を見る。雨宮の視線を受けながら、倉橋は緩慢な動作で口を開ける。
「それが………………」
車谷は笑ったまま倉橋を見下ろしている。倉橋の言葉を、実に愉快そうに待っている、そんな印象を受ける。
倉橋は率直に答える。
「……全然」
「か――ッ!」
声を上げながら、車谷はバットを持った右手で自分の額を押さえる。
雨宮は驚いて反射的に肩を震わせる。倉橋のほうは、俯いて燃え盛る炎に目を向けて、車谷から顔を背けている。
それも長く続くわけではなかった。
――ガンッ!
車谷は持っていた金属バットを勢いよく地面に叩きつける。バットは雨宮が座っている目の前――五センチしか離れていない――に激突した。
「!」
雨宮は素早く身を引いた。しかし座っていたために上手く動けず、倒れるように後ろに両手をついて、下半身を僅かに引きずっただけだ。
「何やってんだテメーらはっ?」
車谷は声を荒げる。
辺りを明るく照らす炎が、車谷の顔を下から照らし出して、その不吉な顔に雨宮はさらに身を引いた。
車谷は感情に任せて続ける。
「もう半分過ぎてんだろ。あと一週間しかねーのに、何も考えてねーとはどういうことだ!」
二人は咄嗟に返答ができなかった。
「そんな難しいことじゃねーだろ。俺一人を二人がかりでボコりゃいいことだろ」
倉橋がぼそぼそと呟く。
「…………そない言っても」
途端に、車谷はバットを振り上げて、倉橋の目の前に歪んだバットの先を突きつけた。その距離は、倉橋の鼻先から十センチメートルも開いていない。
「……!」
倉橋は言葉を飲み込んだ。
「ぐだぐだ言ってんじゃねーっ!」
車谷が怒鳴り声を上げる。
「第一、お前はこの一週間、一度でも俺と戦ったことがあるのか?」
「………………」
倉橋は何も言わなかった。
「ねーだろうが、一回も」
「………………」
これにも答えられない。否定しない素振りが、現状の全てを表している。
「戦ってもいねーのに、無理だとか言うつもりか?せめてその体ずたぼろになってから言えよ、そういう口はぁ!」
「………………」
倉橋は俯いたまま黙り込む。雨宮も、何と声をかけていいのかわからず、気遣わしげに倉橋を見るのはいいものの、何も言えないでいた。
――ガンッ!
バッドの先端が地面に向かって叩きつけられる。倉橋の足元から五センチメートルほどの距離、すぐ近くだ。勢いで、同心円上に砂の軌跡が描かれる。かなりの力が加えられたらしい。あと少しずれていたら、倉橋の足に直撃していただろう。
「!」
倉橋は、驚いて身を引いた。両手で地面をついて、多少なりとも距離を置く。しかしその行為は大して役には立たなかった。
「おい!」
車谷は倉橋のすぐ目の前に屈んだ。金属バットを逆手で握って、倉橋から十センチメートルしか離れていないところまで顔を引き寄せる。
「………………」
倉橋はもう逃げられなかった。怒の感情に染め上げられた顔が、すぐ目の前を塞いでいる。何をされるかわかったものではない。
倉橋はこのとき、恐怖以外の感情を覚える余裕などなかったであろう。誰だってこんなとき、よくないことが起こることしか考えられないはずだ。
しかし、その予測は的中しなかった。
「駿」
車谷は倉橋の名前を呼んだ。さっきまでの語気からは想像できないほど穏やかになった口調で、顔色も、怒りに歪んでいた表情筋も、冷静さを取り戻している。
落ち着いた声音で、車谷は続ける。
「お前は役目を果たすべきだ」
「…………」
倉橋は何も言えなかった。
体の緊張が、まだ完全に抜けきっていない。あるいは、意外な車谷の態度に戸惑っているのかもしれない。
車谷はその場に座って続ける。
「何で俺たちの仮面に名前が付いているか、知ってるか?」
倉橋は、びくびくしながら首を横に振った。雨宮の顔も見たが、車谷の視線を受けて、雨宮は素早く首を横に振る。
車谷は倉橋のほうへと向き直って、答える。
「仮面の名前は、仮面を外したときの能力や性格に由来している。俺は『番長』、雨宮は『跳馬』、そして駿は『鉄槌』」
MASKSを育成するための施設内では、彼らを本名で呼ぶことは稀である。施設の職員は、MASKSを部屋番号か、彼らの能力や性格を加味して付けられた仮面の名前で呼ぶことが多い。個々のMASKSを記録している書類にも、そのもう一つの名前が記載されている。
「『跳馬』はちゃんと役目を果たしている。絶えず俺にぶつかってきて、攻撃の手を緩めようとしない。敵を倒すまで、その荒くれ弾を撃ち続ける。――じゃあ、お前は?」
「…………」
車谷はじっと倉橋を見つめている。しかし倉橋の口からは言葉が出てこない。
「『鉄槌』は、その一撃で戦局を引っ繰り返すことができる。どんなに劣勢だろうと、お前の一発を敵に放り込めば、お前の勝ちだ。そうだろ?」
「せやけど……!」
倉橋の口がようやく動いた。そこから出た言葉は、悲観的な音色を放っている。
「俺の力も、トレストには効きまへんでした。焦ってたとか、集中が足りへんとか、そんなんやないんです。ちゃんとやったのに、駄目だったんです」
車谷は黙って倉橋の訴えを聞いていた。
雨宮も、弁護の言葉が浮かばなかった。
――倉橋の証言は事実だ。
雨宮と倉橋がこの無人島に来る前、雨宮と倉橋――そのときは高峰もいた――は、トレストと戦い、負けた。
それがトレストだとわかったのは、若草から話を聞いてからだったが、確かにトレストは強い。通常は雨宮や倉橋よりも上位の実力を有する、ホリックがトレストの相手をする。それ以下のものがどんなに束になっても勝てる相手ではないのかもしれない。
雨宮の銃が効かない。
トレストの一つ下に分類されるフラストにはダメージを与えることができるのに、雨宮が対峙したトレストには、傷一つつかなかった。
倉橋も同様。
倉橋の能力は『鉄槌』。一撃で敵を屠ることができる、まさに神の一撃。
しかし、トレストには通じなかった。一撃必殺を受けても、トレストが崩壊することはなかった。トレストの体に変化は見られたが、それも敵を倒すまでには至らなかった。力尽きた雨宮、倉橋――あと高峰――の元にホリックが間に合っていなかったら、全員それまでだったろう。
そのことを、雨宮も倉橋も充分認識している。
「それがどうした」
車谷は軽い調子で返した。
「一発で駄目なら二発、二発目で駄目なら三発目。ガンガン打ち込んでやればいい」
車谷は続ける。
「何も一撃にこだわる必要はない。一回やってみてダメでしたなんて言って止めちまったら、そこで終わりだ。チャンスがあるなら、結果出るまでやり続けりゃーいい」
車谷はしばらく二人と会話をしてから、森の中へと戻っていく。最後に笑顔でこう付け足して。
「やるだけやれよ」
最終試験の日がやってきた。
雨宮と倉橋が無人島に来て、車谷と戦うことになってから二週間、二人はまだ一度も車谷に勝つことができていない。
最終試験のため、雨宮と倉橋は試験会場に指定されている砂浜に赴いた。そこにはすでに、車谷と一条の姿があった。
「今日で試験は最後です」
二人が到着したのを見て、一条が説明を始める。
「最終日はホテルに戻る関係で、午前中の一試合しか行いません。よって、この戦闘であなたたちが車谷徹也に勝利しなければ、雨宮海斗、倉橋駿、両名は不合格。その後の処分については組織に任せますが、今担当している地区から外されることは覚悟しておくように」
「堅苦しいのは止めようぜ」
車谷は一条を一瞥してから、雨宮と倉橋のほうを見る。
「ようは、お前らが俺に勝てばいいわけだ。負けたときの心配なんてする必要ない」
「だからといって――」
一条が割って入る。
「手を抜くような真似をしてもらっては困ります、車谷徹也」
その言葉を聞いて、車谷は豪快に笑い声を上げる。
「そんな女々しい真似するかよ。どんな相手にだって手は抜かない。いつだって真剣勝負。それが俺のやり方だ」
車谷の言葉に、雨宮と倉橋は同時に頷く。
「はい」
「もちろんや」
三人の言葉を聞いて、一条は溜め息を漏らす。その後で、一条はいつもの冷えた表情で言葉を続ける。
「では双方、戦闘の準備をして、直ちに戦闘を開始してください」
そう残して、一条は森の奥に姿を消した。一応、試合に不正がないか一条が監視しているのだが、その様子は砂浜にいる三人からはわからない。
「そんじゃ、邪魔者もいなくなったことだし――」
車谷は右肩に載せていたバットを砂の上に下ろす。
「始めるか」
車谷は実に愉快そうな顔をしている。これから始めることを楽しみにしているようだ。
雨宮と倉橋はひどく緊張しているようだったが、それを悟らせまいとして頷く。
「はい」
「よっしゃ」
倉橋は、甲の部分に反射シールが貼ってある手袋を右手に嵌めた。指の部分に穴が開いていて、五本の指の関節が露出して曝されている。
雨宮は、ショルダーバッグを開けて、中からサブマシンガンを取り出した。空になったバッグを放り投げて、両手で構えるタイプのそのサブマシンガンを、右手一本だけで支える。右手はトリガーの取っ手を握っている。
「準備できたな」
車谷は笑みを浮かべて二人を見つめる。
雨宮と倉橋は緊張した面持ちで車谷を見返す。
「……………………」
「……………………」
しん、とその場に静寂が訪れる。
空気の流れは穏やかで、風は鳴りを潜めている。青空には一羽の鳥の姿もなく、申し合わせたように島に生息する鳥たちの鳴き声もない。砂浜を往来する波の音だけが、この静寂で奏でられる唯一の音色だ。サーサーと押し寄せては引いていく海の声だけが、遠く、そして近くに聞こえている。
――ジャリ。
雨宮と倉橋は、ともに戦闘態勢に入る。
雨宮は腰を下げて、サブマシンガンを体のすぐ近くに構える。銃弾を発射するときの反動に備える。
倉橋は体の左半分を突き出すようにして半身をとる。右腕を胸元に構えて、その掌を車谷のほうへ向けている。
車谷は歯を剥いた。車谷の笑みは純粋な愉悦を、見るもの全てに感じさせる。その野生的な歓喜は、車谷の本能から溢れ出る、御し難いほどの感性だ。
戦闘行為に、争いに、躊躇のない快楽を見出しているものの顔は、きっとこういう笑顔を見せてくれるのだろう。闘争に身を委ねたことのない人間がこのときの車谷を見たら、咄嗟に寒気を感じたであろう。社会に浸りすぎた人々には、車谷の野生めいた笑顔は刺激が強すぎる。
「……………………」
「……………………」
しかし二人は動じない。
二人はもう、戦場に立っている。二人はすでに、戦うことを決めている。そしてこれからも、自分たちがいけるところまで、戦場を駆け抜けていくことを決心している。
――最終試験。
雨宮と倉橋は、ここで立ち止まっているつもりは、毛頭ない。
――すっ…………。
雨宮と倉橋は、ともに左手を自分の顔の前に翳す。顔を隠すように左手で覆って、二人の表情は見えなくなる。
車谷は、じっと雨宮と倉橋のほうを見つめている。金属バットを砂浜に下ろしてから、一向に動きがない。愉悦の笑みを浮かべたまま、際立って構える素振りを見せていない。
動きがあったのは、雨宮と倉橋が左手を顔の前に翳してから、充分十秒が経過したときだった。
車谷が左手で自分の顔を覆った。その直後、何かを握り潰すように、思い切り左手を、自分の目の前で握り締める。と、力一杯握られた左手の、小指と、親指と人差し指の間から、何かが突き出る。車谷の握力に耐え切れなくて飛び出してきたかのように。
左右に突き出したもの、それは真黒な色をしていた。両端は真っ直ぐ突き出しているのではなく、先にいくにつれて湾曲している。
それを自分の額に押し付けると、問題なく車谷の額に張り付いた。黒曜石のように輝くそれは、サングラスのようにも見える。
「さあ」
車谷が大声で叫ぶ。
「来いよ!」
雨宮と倉橋は、一斉に左手を顔の前から外した。二人が左手を下ろすと、二人とも顔の左側面に――形の異なる――仮面が現れていた。
雨宮の仮面は、右目が異常に大きな笑顔の仮面。
倉橋の仮面は、色を放たない暗黒の仮面。
――ガシャ。
雨宮は両手でサブマシンガンを構える。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――ッ!
銃口から弾丸が溢れ出す。
「死ねぇぇええっ!」
雨宮は険しい表情で車谷を睨む。その目つきと、そしてその言葉からは、ありありとした殺意が感じられる。
車谷が金属バットで空気を薙ぐ。
――ブオンッ!
空気が物凄い力で圧縮されて、吹き飛ばされる音。その音が、例えでもなんでもなく、直に耳に聞こえた。
連射される銃弾の先が、逸れる。突風に煽られて、銃弾は車谷を避けるように流れていく。しかし、それも最初のうちだけだった。
銃弾は車谷の引き起こした風の影響を受けて、歪んだ軌道を描いていくが、車谷に命中しない弾丸は全体の半分程度、残りの半分は、僅かに軌道が逸れるものの、確かに車谷に向かって衝突する。
――ガンッ!
車谷が咄嗟に顔面を左手で守った直後、掌の中央に銃弾が飛び込んできた。
「うおっ」
車谷の体はその勢いに負けて後退を許したが、何とか踏み止まった。左手の真ん中に、直径五センチメートルの弾痕がくっきりと刻まれている。
「この…………!」
車谷は左手で顔を庇いながら、途切れることのない弾丸の猛攻を堪える。左手の指の隙間から雨宮の姿を見つめている。
しかし、ここで車谷はあることに気付いた。
倉橋駿、彼の姿が見当たらない。
戦闘が始まる直前まで、雨宮の隣にいたはずなのに、気が付けばその姿は車谷の前から消えていた。
――どこに……?
視線を周囲に巡らせて、車谷はハッとする。
車谷の真横、左側から倉橋が接近している。車谷が気付いたときには、二メートルの距離。倉橋は手袋を嵌めた右手を左手で掴んで、車谷に向かって駆けてくる。
「!」
車谷は力任せに砂浜を蹴る。直前まで車谷がいた場所に、倉橋は右手を突き出した。
倉橋の攻撃を逃れた車谷は、そのまま雨宮に向かって突っ込んだ。
「おらあっ!」
気合とともに、車谷は雨宮に向かって金属バットを振り下ろす。ギリギリのところで雨宮は右に跳んでその攻撃を躱す。
車谷は素早く地面を蹴って、雨宮に肉薄する。接近戦に、銃は不向きだ。また、銃弾を受けても平気で立っていられるような相手に、咄嗟に引き金を引いても役には立たない。
「逃がすかアアアアァァっ!」
車谷がバットを振るう。
――バンッ!
爆音と噴煙が二人を包む。
「……っと!」
車谷はその場から五メートルほど後退させられる。
車谷のバットが命中する直前に、雨宮は車谷の目の前に手榴弾を放ったのだ。勢いよく突っ込んだので、車谷は爆発の影響を雨宮以上に受ける。
しかしこれで倒れる車谷ではない。
「やって」
くれるな、と言うつもりだった。
――ジャ、ジャ、ジャ、ジャ!
背後で砂の飛ぶ音を聞いた。
車谷は振り向いて、肩越しに背後を見た。
――倉橋駿が肉薄している。
「!」
車谷は咄嗟に身を捩りながらバットを振り切る。
――パンッ!
二人の体が、ともに弾かれる。
――ザザザザザァァ――ッ!
倉橋は砂の上を横転して、低い体勢で起き上がる。車谷は勢いを殺すように、砂地に足を踏み込んで静止する。
「…………」
車谷は左右を見ながら、雨宮と倉橋の二人に注意を払う。
――何だ、今のは……。
車谷は、特に倉橋のほうを注意深く観察する。倉橋は右の手首を左手で掴み、中腰気味に構えている。
――攻撃されたのか?
倉橋の能力である『鉄槌』は、媒介となる手袋を嵌めた右腕に膨大なエネルギーを集めて、そのエネルギーの塊を瞬間的に敵の体内へ流し込む、という性質を持つ。
フラストやトレストといった、体の世界に溢れ出した心の世界の住人の内部に倉橋の心のエネルギーが侵入すると、敵の心と拒絶反応を起こす。敵の体内に混ざりこんだ異物は激しく暴れ回り、最終的にはフラストの体はそのエネルギーの暴走に耐え切れず、破裂する。
パンパンに膨らんだ風船に一気に空気を流し込めば風船は割れてしまう、原理はそんなところだ。
一撃必殺と称される破壊力を持つ『鉄槌』だが、この特性を発動するためには幾つかの条件が満たされなければならない。
一つは、エネルギーの集約。それも膨大な量のエネルギー。
少しくらいのエネルギーが、異なる心に入り込んでも、相手のほうが強いため、拒絶反応はすぐに沈静して効果はない。敵を破壊するためには、それ相応のエネルギーの塊を瞬時に相手の内部に送り込む必要がある。
倉橋の右腕は心のエネルギーを蓄えるのに適していて、仮面を外して心のエネルギーを自在に使える状態で、通常体を均等に覆っているエネルギーを最大三〇パーセントまで右腕に集めることができる。ちなみに、雨宮の銃弾一発は、三パーセントにも満たない。
これだけ莫大な量のエネルギーを瞬間的に放出すると、体が反動についていけなくて一度きりの限定攻撃になることが多いのだが、倉橋の場合、一時的に損失したエネルギーが回復して、再び右腕に集められれば、一度の戦闘で何回でもこの一撃必殺の能力を発動することができる。
倉橋の右腕は心のエネルギーを蓄えることができるが、しかし、これだけでは『鉄槌』の能力を発動することができない。右腕はただ蓄えるだけで、エネルギーを集めることができないのだ。
エネルギーを集める役割、それを担っているのが、倉橋の左手だ。倉橋の左腕は右腕のように膨大なエネルギーを保存する機能はない、代わりに、エネルギーの操作に長けていて、倉橋の体中に点在する心のエネルギーを右手に集約してくれる。その応用で、体にできた傷を塞ぐことも可能で、これに関しては倉橋以外の人間にも同様の効果が得られる。
二つ目の条件は、対象に触れていること。
最も基本的なことになるが、敵の内部に倉橋自身の心のエネルギーを叩き込むには、フラストやトレストの体に、直に触れていなければならない。
距離が離れると、倉橋の攻撃は外に溢れた心の住人の強固な表皮に阻まれて、大したダメージを与えることができない。敵の内部に直接エネルギーを送れるのが、攻撃対象と倉橋の右手とがゼロ距離になる位置、つまり敵に触れていないといけない。
このエネルギーの透過現象は、倉橋の特権的な能力の一つだ。雨宮が銃口を直にフラストに当てて引き金を引いても、フラストの体の内部に銃弾が侵入することは、まずない。
――だが、あいつは……。
車谷は施設にいた頃、倉橋と同じ部屋だったときがある。そのせいかよく話をして、倉橋の仮面の特性を誰よりも理解している。
――触れていない。
車谷のバットと倉橋の右手が触れる前に、二人は弾き飛んだ。突然のことで、目で確認できたわけではないが、そんな手応えだ。
もう一つ、車谷には気になることがある。それは、衝撃の感触だ。
まず、ダメージが少ない。フラストを一撃で屠るほどの攻撃にしては、車谷はそんな重い衝撃を受けていない。さらに言えば、弾き飛ばされることがおかしい。『鉄槌』は内側から敵を破壊する技、エネルギーを流し込まれた対象の中心から等速度で外側に向かっていくため、車谷と倉橋が互いに離れるように、弾き飛ばされるようなことは、まずない。
ここから考えられる結論は、倉橋は車谷のバットを避けるために、バットに触れていない状態で右腕に蓄えていたエネルギーを解放、放出されたエネルギーは車谷のバットに衝突して車谷を吹き飛ばし、その反動で倉橋も後方へ下がった、というところだろうか。
――莫迦な。
車谷が今まで見たことのない攻撃だ。
対象に直に触れて、内側から敵を破壊する。それが倉橋の、『鉄槌』の能力で、その技しか今まで見ていない。ゼロ距離以外からエネルギーを解放するのは、車谷も初めて見る。
「………………」
車谷は注意深く倉橋を見る。自分に向かってきた、倉橋の意志の強い目が見て取れた。
ふっ、と車谷は口元を緩める。
「やるじゃねえか」
――ガチャ。
銃器を構える音。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!
「シカとすんじゃねエエぇぇエエエエッ!」
雨宮が銃を乱射する。
車谷は後ろに跳んで銃弾を躱す。
「そんじゃ――」
車谷は狂喜した笑みを、顔面一杯に広げる。
「俺も本気出さねぇーとなぁっ!」
車谷が叫んだ。
直後。
周囲の気配が変わる。肌を伝わる、空気の感触が違う。異質なことは確かなのだが、上手く言葉で説明できない。周囲を覆っている空気が、不可視の異なる物質に塗り替えられていくような、そんな感覚。
雨宮と倉橋は同時にそれを知覚した。気付いた直後、二人は異変を見た。
――車谷の姿が歪む。
水で満ちた水槽の中にいる車谷の姿を見ているようだった。透明な空気以外の物質が、車谷の周囲を囲んで、太陽光を乱す。
倉橋はハッとする。
「まさか……!」
それが形を成した。
――暴走族の群。
見間違いだろうか。
――ブオン、ブオン!
――パラリラパラリラ!
音までリアルに聞こえる。
過度な装飾と、限界まで改造が施された数々のバイク、二十以上はあるだろうか、バイク一台につき一人ないし二人が跨り、必要以上に吹かしたエンジン音が喧しく、けたたましいサイレンを鳴らしている。
しかし、その光景は現実味を欠いていた。
バイクも、人も、見合った色が付いていない。太陽光に曝されて存在を示しているだけの、半透明な物体。現実に存在するはずのない集団が、車谷の周囲に溢れていく。
車谷の顔が狂気じみた笑みを見せる。
「行くぜぇぇええええ!」
バイクの群が動き出した。
車谷が一台のバイクに乗り込んで向かった先には、雨宮がいる。
「っ!」
雨宮は、瞬時に銃口を色のないバイクの塊に突きつける。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――ッ!
弾丸とバイクが衝突する。銃弾を受けたバイクはその威力によろめいて、数発の後には、無色のライダーとともに崩れて消える。
だが、それでバイクの群は止まらない。
数が多すぎる。
車谷の姿も、全く見えない。
「……っ!」
雨宮は地面を蹴って後退する。通常の人間の身体機能を凌駕する跳躍を見せて、雨宮はバイクの群から距離をとる。が、雨宮の跳躍距離を、バイクの群はあっという間に詰める。このまま下がっても避け切れない。
「……ちっ!」
舌打ちして、雨宮は再度地面を蹴る。雨宮の体は空中に舞い上がる。雨宮が先程までいたところを何台ものバイクが通り過ぎる。
「…………」
雨宮は十メートル近い高度から、バイクの群を見下ろした。この群の中に、雨宮が目標としている車谷徹也がいるはずだ。雨宮は注意深く無色のバイク群の中を見つめる。
「誰を探している?」
反射的に雨宮は振り向いた。
――いた!
車谷が肉薄している。
「おらああああああ!」
金属バットが雨宮に向かって振り下ろされる。
雨宮の体は、バイクの群に向かって叩き落とされる。咄嗟にサブマシンガンを盾にしたが、防ぎきれない。猛進するバイクとの距離が急速になくなっていく。
激突する、直前。
――ゴオッ!
雨宮は衝撃を感じた。だがそれは何台ものバイクに轢かれる衝撃ではない。
数秒ほどして、雨宮の体は砂浜の上に転がった。砂の上に静止して、体の浮遊感がなくなると、雨宮はゆっくりと目を開けた。
「…………」
バイクの群はない。代わりに、雨宮のすぐ近くに倉橋が黙って立っていた。
雨宮は上半身を起こして、倉橋のほうを見た。そのずっと先に、無色のバイク集団は雨宮たちとは別の方向に向かって疾走している。
倉橋は雨宮に視線をよこさずに、口を開いた。
「何をしている」
雨宮は素早く起き上がって、吼えた。
「何しやがるっ!」
「それが助けてやったものに対する態度か?」
倉橋は雨宮に横目を送る。雨宮の顔がいっそう険しくなる。
雨宮も想像はしていた。バイクに激突しそうだった自分が、バイクとは衝突せず、ほぼ無傷で済んでいるのか、誰が自分を危機的状況から救ったのか。
倉橋駿、彼しかいない。
どんな方法で倉橋が雨宮を助けたのか、目を閉じていた雨宮には定かではないが、倉橋の言葉で雨宮の嫌な予感は、まさに当たっていた。
ただ、考えてもいなかった。仮面を外した倉橋が雨宮を助けるなど、仮面を外した雨宮には考えられない。
――考えたくもない。
それを思いついてしまった自分が、いっそう腹立たしい。今の雨宮の考えていることは、ざっとこんなものだ。
「誰が助けてくれなんて頼んだよっ」
「俺だって……」
倉橋は不機嫌そうな表情のまま、雨宮から目を逸らす。
「好きでお前なんかを助たわけではない。ただ――」
倉橋は前方を見つめる。
空に舞い上がった車谷は、重力に従って落下して、砂浜を覆う無色の集団の中に姿を消した。直後、バイクの群は旋回して、雨宮と倉橋のいる方向に向かってくる。
倉橋は呟くように、しかし雨宮の耳にはしっかりと聞こえた。
「バックアップがいないと困るからな」
それだけだ。
それ以上の言葉はない。
「誰がテメーの援護なんかするかよ」
雨宮は起き上がって、二人のほうへ向かってくる無色の集団を見据えた。
――ブオン、ブオン!
――パラリラパラリラ!
次第に音が大きくなっていく。バイクの群が、二人に向かって突っ込んでくる。
雨宮の目が殺意に輝く。口元は先程とは一変して、喜びに満ちた笑みを称えている。
「俺は俺の好きにやるだけだっ!」
雨宮がサブマシンガンを構える。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――ッ!
銃口から、無数の弾丸が弾け飛んだ。轟音がバイクの警笛の音を掻き消す。無色の集団の先頭が、白煙の元に崩れ始める。だが、他のバイクの勢いは決して止まらない。
「ああ、そうだ」
倉橋が右手を拳の形に固めて、その上に左の掌を被せる。力を溜めているようにも見える。
「俺も俺の好きにやるだけだ」
倉橋の右腕が刹那、発光し、直後。
――ゴオッ!
突風が起こり、倉橋の姿がその場から消える。
空気が走り、砂が舞い上がる。砂の軌道が凄まじい速度で無色のバイクの群へと伸びていく。その先、風の先頭に。
倉橋がいた。
光を帯びた右腕を、左手で支えている。右の拳を受けるように、左の掌で覆っている。右腕の肘の後ろ辺りから、勢いよく光が噴出しているように見える。
ブースター化した右腕のエネルギーを受けて、宙に浮いた倉橋の体は、速度を緩めることなく、向かってくるバイクの集団に突っ込んだ。
倉橋がバイクの群に入った。地上から二メートルほど離れたところにいるため、バイクと衝突することはないが、時折バイクの運転手から攻撃を仕掛けられる。無色の人間たちはその手に無色のバットを持ち、自分たちの頭上にいる倉橋にバットを振るう。倉橋は瞬時に飛行する軌道を変えて、彼らの攻撃をやり過ごす。
「いた」
倉橋は見つけた。
色のないものたちの中で、唯一色を持つ人間の姿を。
――ゴオッ!
光が勢いを増す。倉橋の身体が加速する。目標に向かって、一直線。
車谷も、気付いた。
「…………!」
僅かに遅い。倉橋が肉薄している。
倉橋は、右手から左手を離した。右腕から放出されていた光のエネルギーは空気中に散って消えていくが、慣性にのって倉橋の体は車谷への接近を止めない。
倉橋は、右腕を伸ばす。
――バチィッ!
閃光が起こる。二人の体が互いに離れる。
――まだだ。
勝負は、まだついていなかった。倉橋の攻撃を受けて、しかし、車谷はまだ戦闘不能には陥っていない。
倉橋が車谷の右側から攻めてきたことが、車谷には幸いした。車谷が所有している金属バットが、防御に間に合っていた。倉橋はバットを掴み、そこで光を解放した。
物質を介していても、倉橋の攻撃は敵の体内に直接光を送り込むことができたが、車谷のバットには充分なエネルギーが蓄積されていた。右腕全体の心のエネルギーを相殺することには成功したが、物質を介したがためにダメージも少ない。自己の攻撃手段と体勢を悪くした車谷だったが、それは倉橋も同じこと。
『鉄槌』、一撃必殺系のMASKS。一度技を使ってしまうと、エネルギーの充填に時間がかかる。
倉橋の体は重力の影響を受けて、緩やかに落下していく。
――まだだ!
倉橋は、左手で右手を覆う。さっきと同様。直後、倉橋の背後から光が溢れ出た。正確には、彼の右肘から。
――ゴオッ!
倉橋の体が、体勢を崩した車谷の体に飛びかかる。
――届け!
空中で車谷の胴体に馬乗りになって、倉橋は左手を右の拳から手首、腕、肘へとスライドさせる。倉橋の右腕に、光が戻る。
――届けえェ――――――ッ!
倉橋の右手が、車谷の左肩を掴んだ瞬間、光は倉橋の右腕を走って、車谷の体の中を駆け巡る。
空の上から太陽が燦々と輝いている。正午よりは高度が下がっているが、頭上に掲げられた白熱光は直視しがたい明度を持っている。
熱気は上昇の兆ししか見せていない。陽光で加熱された砂地はひたすら温度を上げていき、足元から放出される輻射熱がその場にいるものを蒸し灼きにする。
森の中から車谷が出てきて、海の見える砂浜にやって来た。日の当たるところまで出てきて、車谷は目を細めながら右腕を額の前に翳す。
「……」
ジャングルのような森の中は日の光が少ないので、日向に出ると眩しさを感じる。徐々に車谷の目が砂浜の眩しさに慣れてきて、車谷は歩きながら右手を下ろす。
砂浜に人の姿を認めて、車谷はそちらに向かっていく。
「何だ、まだいたのか」
一条からの返事はない。振り返ることもしないで、じっと海のほうを向いたままだ。
車谷は一条の隣に立った。
「何してんだ?」
「船を待っています」
ようやく返事があった。一条は正面を向いたまま続ける。
「夕方前にここへ来るよう言ってあるので、もう少ししたら来るでしょう」
「へえ」
「で、あなたは今までどこに?」
初めて一条が車谷を見た。僅かに首を動かして、視線を車谷のほうへと送る。眼鏡の奥の瞳は冷たすぎるほど無感情で、一条からすれば自然体なのだろうが、他人の目からは睨みつけているようで居心地が悪い。
車谷は、しかし、何でもないように答える。
「二人のところだ。よっぽど疲れたんだろうな、寝座に着いたらすぐ寝ちまった。船が来るまで寝かせておこう」
「甘いです」
車谷は一条のほうへ顔を向ける。一条はもう海のほうへと向き直っている。一条の目はもう車谷の姿を映してはいない。
「あの程度の戦闘で疲労を見せるなんて情けない。今後の戦闘で使い物になるのか疑問です」
「そんなこと言うなよ。二人とも俺に勝ったんだから、今は休ませてやってもいいだろ」
「それが甘いと言うのです」
一条は少しも譲らない。
「我々MASKSは、一人で複数のフラストを散らせることを必要とされる。私やあなたのようにホリックともなれば、トレストも容易に倒せねばならない。二人がかりでホリック一人を倒せても、あまり称賛できるようなものではない」
車谷は苦笑を浮かべて一条を見る。
一条は前を向いたまま続ける。
「それどころか、今はそれ以上を求められている。フラストやトレストの異常発生。MASKSの損失も数多く報告されています。最悪の場合、トレスト以上の存在が現れている可能性もあります。敵は組織を裏切った榊原樹という男、MASKSに近いものを精製している可能性も、ゼロではない」
「……あのな」
車谷が溜め息混じりに口を開く。
「奴らは今回の試験をクリアしたんだ。それ以外に何を望むんだよ?」
車谷の言葉に、しかし一条は無視をする。拒絶するような雰囲気が一条の周りを覆っている。
「はあー……」
車谷はわかりやすい溜め息を吐く。
「これだから委員長さんは」
「その呼び方は止めなさい」
一条が車谷を横目で睨む。
「あなたがそんな風に言うから、下が真似をするんです」
「だって――」
次に発した車谷の言葉は、一条の心を大きく揺さぶることになる。
「本当のことだろ、元委員長」
刹那、一条の目が大きく見開いて、瞬時に首を捻って真っ直ぐ車谷を睨め付ける。冷たい瞳が一気に熱気を帯びて、鋭利な眼光が眼鏡の奥から覗いている。
「何だ、気にしてんのか」
一条の目に睨まれて、しかし車谷は怯まず応じる。
「雨宮と倉橋だって気にしてるんだぜ。お前もそのくらいわかってんだろ」
車谷はジャージのポケットに両手を突っ込んだ。
「大体、俺は組織のやり方が気にいらねー」
一条は、瞳の温度をマイナスに戻して車谷の言葉に耳を傾ける。
車谷は続ける。
「戦ってるのは俺たちだ。なのに上の対応は何だ」
秘密厳守、世間に組織のことを知られてはいけない。公にした場合、即処罰の対象とする。人事異動は極秘事項、理由は部下に知らせず、異議申し立ては認めない。
「実際に動いている俺たちにはああだこうだと命令しやがるくせに、俺たちの意見は一向に受け付けねえ。そんなのありか?」
「それが組織というものです」
一条が静かに答える。その目からは、先程までの感情的な要素が一切排されて、あるのは寒気を感じさせるほどの、冷めた瞳だけだ。
「上が命じて、下が動く。下は上が望む結果を出しさえすればいい。そもそも、今の私たちの存在理由を与えてくれた組織に、何を求めるのですか?」
「大ありだ」
一条の冷静な言葉に、車谷は真っ向からぶつかる。
「俺は与えられたんじゃねえ。手に入れたんだよ、力をな」
車谷はズボンのポケットから手を出して、右腕を顔の前に掲げる。
「この力さえあれば何だってできる。やり残したことも、やらなきゃいけねえことも」
「それはあなた個人の考えです。そんな個人的な行動が許されると思っているのですか?」
「他人の許可なんて知ったことか。俺は俺のやりたいことをやるだけだ」
「あなただって、組織に救われたのでしょう?」
「助けられる必要はなかった」
車谷は嘲うように言ってのけた。
「この力がなくても、俺はやる」
車谷は左の掌に右の拳を勢い良くぶつける。パンッ、という軽い音が、すぐに海の波に掻き消される。
「あなたの過去に何があったのかは知りませんが――」
一条は一度目を伏せてから、車谷のほうへ体を向ける。眼鏡の奥からその覚めた瞳を真っ直ぐに車谷に向ける。
「結局、あなたも過去に縛られている。だからこそあなたはMASKSなのであり、故に組織から抜けられない」
車谷が何かを言おうとしたが、その前に一条が言葉を続けた。
「あなたが自由になるということは、同時に力を失くすということです」
そこで一条は言葉を止めた。車谷も、反論の言葉を失った。周囲には波の音だけがラルゴを刻んでいる。
しばらくして、車谷は一条に向かって一歩を踏み出す。
「誰が……!」
「船が来ました」
足を止めて、車谷は海を眺める。よくよく目を凝らしてみると、水平線の彼方に何かが浮かんでいるのが見える。まだ遠すぎて船かどうかを判断することはできないが、それを目にして車谷は特に否定の言葉を上げなかった。
「島を出る準備をしておきなさい」
一条は車谷に背を向けて森に向かって歩き始める。
「あの二人も、ここまで連れてくるように」
そこまで歩を緩めず進んでいたが、三メートルほど行ったところで、一条は足を止めた。
「あと――」
何かを思い出したように、一条は振り向いて車谷に視線を送る。
「今の発言は上に報告しておきます。車谷徹也が組織に対して否定的な考えを持っていることを」
「……んだと!」
車谷は咄嗟に腰に提げていた金属バットに右手を添える。
「…………」
それを見ても、一条の表情は少しも変わらない、冷静で冷えた瞳だけがひたすら車谷に向けて注がれている。
車谷のほうは、しかしそれ以上の動きはない。あと少しでバットを握り、今にも一条に向かって飛び掛ろうと身構えているが、それ以上は動かなかった。激情に駆られて表情だけがエネルギーをもって一条に向かっているだけだ。
「それが嫌なのであれば――」
一条は車谷から顔を背けて、再び歩き出す。
「軽はずみな言動は控えるように」




