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第一楽章 新世界

 ――うるさい。

 授業は終わった。でも一日は終わらない。

 一日が終わった。でも世界は終わらない。

 今という時間は数秒先の今に繋がり、そんなささやかな今の連続が過去から未来まで永遠に続いている。

 ――うるさい。

 今日の授業は全て終了した。あとは担任が帰りのホームルームを終えて、学校への拘束を解いてくれればいい。

 彼は黒いイヤホンを両耳につけて、授業が終わってからずっと自分の席に座っている。右肘(みぎひじ)を机に置いて、右手の上に自分の(あご)を乗せて、興味なさげに教室の中の様子をずっと眺めている。

 彼の席は一番後ろの一番端のほう、最も扉に近い位置にある。だから、嫌でも教室中の様子が目についてしまう。

 彼の席から見えるもの、それは大勢の人。生徒たちの姿だった。そして聞こえるものは、生徒たちの話声。

 ――うるさい。

 彼はこの時間が嫌いだった。

 休み時間が嫌だった。

 授業の時間よりも、何よりも、授業の合間に存在している、この休憩の時間を彼は憎んでいた。

 ――うるさい。

 その理由は、生徒たちの話声にあった。

 生徒たちが楽しそうに話をする。

 生徒たちが互いに笑っている。

 驚いて、笑って、楽しんでいる。

 (いこ)いの一時。

 ――うるさい。

 彼はその音に嫌悪していた。

 話声はうるさくて、ひそひそ話も耳触りで、笑い声はイライラしてきて、大声は迷うことなく騒音に分類される。

 彼は一人で音楽を聴いている。音量は、彼が自分の世界に集中できるまで上げてある。慣れていない人が彼のイヤホンを耳に当てたら、おそらく耳が痛くなって咄嗟にイヤホンを引き()がしてしまうだろう。

 しかし彼には、そんな破壊的な音量でもまだ足りない。周囲の騒音を()き消すためには、さらに大音量の音が必要だった。

 ――うるさい。

 チャイムの音がスピーカーから吐き出される。彼からすれば、そんな規則的なメロディでさえ騒音でしかない。単調で、音質の悪い。時間の区切りを表すためだけに用いられているに過ぎない。それでも生徒たちの話し声は収まらない。

 しばらくして担任が教室に入ってくる。生徒たちの騒音を前にして、担任のほうも騒音を以て生徒たちの制止にかかる。

 ――うるさい。

 所詮は騒音。

 彼の中では変わらない事実。そこに存在する全ての音は騒音でしかなくて、教室の中における意味など、正当性など、どうでもいい。

 ただ、うるさい。

 それはまるで川の流れのように。

「こらっ!おまえらっ!さっさと席に着け!」

 風のように。

「ほら、号令」

 木の根のように。

「起立っ」

 この騒々しい支配は。

「礼っ」

 連綿と続いている。

 担任がホームルームを始める。そのために教室中の音は、先程前よりは静かになっている。もちろん、完全な無など起こり得ないが、担任が連絡事項を述べる上ではそれほど支障は発生しない。

 だが彼の中では違っていた。

 ――うるさい。

 結局変わらない。

 それは騒音。

 担任の言葉の一言一言、生徒たちの中に未だに存在している些細な話声、その全ての騒音から逃れるために自分のイヤホンから流れてくる音楽にのみ、己の意識を集中させている。

 ホームルームの内容など、覚えてはいない。そもそも聞く意志がないのだから、覚えているはずもない。

 どうせ大したことなど、話してはいない。仮に重要な話をしても、周囲の様子から識別することができる。生徒たちにとって関心の高い話は、それ相応のリアクションをとってくれるからわかりやすい。

 彼は始終イヤホンを耳に当てたまま、音楽を流したまま、興味なさげに教室の中の様子を眺めていた。

「起立っ」

 ようやく終わったらしい。

 バラバラと生徒たちが立ち上がる騒音。

「礼っ」

 彼は机から肘を離して顔を手から退()ける。そのまま席を立ち上がって机の横に()げておいた鞄を(つか)む。中身のない(つぶ)れた通学用鞄を肩にかけて、そのまま後ろのドアから静かに抜け出した。

 終わった。

 ようやく解放される。

 そう感じた直後に、彼は一つの音を聴いた。それが聴こえた瞬間、彼の精神は表面上に張り付けた表情のように陰鬱(いんうつ)なものに落ち込んでいく。

 ――またか…………。

 教室を出て数歩歩いたところで、背後から声がした。

「ちょっと、広末(ひろすえ)っ!」

 高い、女子生徒によるものだった。ソプラノの領域だが細い糸のような脆さはなく、明瞭で力のある美しさを持っていた。

「……」

 広末はかまわず歩き続ける。

「待ちなさい!」

 女子生徒が彼の前に立つ。

 広末は彼女のことを知っている。

 ただのクラスメイト、ということだけ。

 それだけの情報では知らないこととあまり変わりがないのだが、社交性に欠ける広末の性格からこれ以上の詮索をするつもりはない。

 だが、広末はこの女子生徒に多少の興味を抱いていた。

 それは最早、抱いていた、という程度のものだった。

 別に目の前に立った女子生徒が好きというわけではない。特定の存在での価値は見出している。物質的な素晴らしさを認めているだけのこと。

 ――声はいいんだけど…………。

 ソプラノの響き、整えられた音色、何者にも負けない力強い声。

 音楽の授業の中で行われる合唱での彼女の声を聴いて、広末はその美的要素を高く評価している。

 広末自身、自分の中に眠る音楽的素養を少なからず自覚していた。いや、むしろ矜持(プライド)すら持っていた。自己の中で目指す音楽というものが確かに存在していて、他者から自己の目指す美に対して些細でも反論的意見が述べられると、広末は静かに嫌悪を覚える。

 そんな広末が認めた声の持ち主。

 広末が見出した芸術の一つ。

 ――うるさすぎ。

 だが広末が評価しているのは、彼女の声だけである。別に、彼女そのものを評価しているわけではない。

 むしろ、彼女の人間性には嫌気がさしていて、彼女を意識するたびに彼女の、広末が考える欠点がちらついて、非常に残念な気分になる。

 広末は社交性に欠けている。それは思春期にある異性に対する気恥ずかしさというものよりも、反抗期という分類(カテゴリー)からきている。

 反抗期に見られる親への反抗、教師への反抗、大人への反抗。それがそっくり社会への反抗となって、広末は今、同年代のクラスメイトに対しても関わりを持とうとしない。いつでもイヤホンを耳に付けて、自分の認めた美の中に浸っている。

 広末の排他的な態度の中で執拗(しつよう)に向かってくるのが、彼女だった。必要以上に自分に向かってくる。親のように小うるさく説教をしてくる。今回も、きっと広末の反抗意識に対するお(とが)めに違いない。

「……」

 広末は冷めた目のまま女子生徒を無視して、彼女の脇を通り抜ける。

 女子生徒は彼の後を必死に追う。

「待ちなさいよっ!」

 ――うるさい。

「広末っ!」

 ――うるさい。

「待ちなさいって言ってるでしょ」

 ――うるさい。

「また掃除サボるの?」

 ――うるさい。

「今週まだ一回も来てないじゃない」

 ――うるさい。

「そんなんでいいと思ってるの?」

 ――うるさい。

「いい加減にしなさいよ」

 ――うるさい。

「最近ずっと掃除に来ないじゃない」

 ――うるさい。

「それに机。今日も運ばなかったでしょ」

 ――うるさい。

「自分の机くらい自分で運びなさいよ」

 ――うるさい。

「わかってるでしょ」

 ――うるさい。

「自分がいけないことをしてるってことぐらい」

 ――うるさい。

「みんな迷惑してるんだから」

 ――うるさい。

「広末のそういう態度」

 ――うるさい。

「みんな広末のやらない分をやらされてるんだから」

 ――うるさい。

「みんなに悪いことしてるってわからないの?」

 ――うるさい。

「どうしてそういうことするの?」

 ――うるさい。

「前まではそんなことなかったのに」

 ――うるさい。

「みんなちゃんとやってるのに、広末だけ何もしないなんて不公平でしょ」

 ――うるさい。

「人として最低限のことはしなさいよ」

 ――うるさい。

「広末はそれができていないの」

 ――うるさい。

「それくらいわかりなさい」

 ――うるさい。

「ちょっと、止まりなさいよ」

 ――うるさい。

「逃げる気?」

 ――うるさい。

「何か言ったらどうなの」

 ――うるさい。

「黙ってたら誰も納得しないでしょ」

 ――うるさい。

「ちょっと、聞いてるの?」

 女子生徒の手が広末のイヤホンに伸びる。女子生徒の姿を視界にも入れていなかった広末には、彼女の行動など見えていなかった。

 女子生徒の(なめ)らかな手が、細く、脆弱(ぜいじゃく)な黒いイヤホンのコードを(かす)る。

 広末の耳から僅かにイヤホンが外れる。

 ――バシッ!

 広末の手が細い女子生徒の腕を素早く払う。

「……!」

 女子生徒は慌てて身を引いた。

 広末の見開いた眼光が、女子生徒の姿を睨みつける。

「………………」

 先程までの気怠(けだる)そうな態度とはかけ離れた形相に、女子生徒とは硬直してしまった。広末に払われた勢いでピンク色に()れた手が、痛みのためか小刻みに震えている。

「……」

 広末は外れたイヤホンを自分の耳にはめ込むと、何も言わずに再び歩き始めた。その顔には、直前までの激昂(げっこう)は微塵も見当たらない。また眠そうな、無関心の表情に戻っている。広末はそのまますたすたと歩いていき、階段を下りて姿を消してしまった。



 蝉たちの合唱(コーラス)が聞こえてくる。

 合唱(コーラス)と言えば響きはいいかもしれないが、今の人々にとってはただの騒音でしかない。夏の風物詩とは昔の話、上昇し続ける温度に汗は止まらず、(わず)かな風も熱気を帯びていて心地良いものとは程遠い。

 ただ暑い。

 純粋な熱気。

 その気温は通常の夏の領域に達している。これが夏真っ盛りの頃になったら、どこまで温度が上昇するのか、もはや考える気力も起きない。

 考えたところで、夏は暑い。その事実に変わるところはない。空気そのものがすでに異常な温度を含んでいるため、室内にいてもあまり救われた感じがしない。

 暑さは身体を掻き(むし)り、全てから解き放たれたい衝動を、粗末な箱の中に押し込められている。加えられる騒音は、さらに人々の精神をすり減らす。身動きができない状態が、この空間の全てを悪化させる。

『えー、明日から夏休みとなるわけですが…………』

 これは校長の言葉。

 咲希(さき)の学校でも一学期の終業式が行われている。体育館の中に全校生徒が召集されて、直立不動で厳かな式典が終わるのを待っている。教師が傍を通るたびに、生徒たちの背筋が一様に伸びる。

「まだ終わんねーの?」

 咲希の周りでそんな言葉が上がる。

 他の生徒が答える。

「まだ始まったばっかっしょ」

「でも長すぎー」

「いつものことじゃん」

 最初に口を開いた生徒はまだ不平を言っている。

 咲希の周りだけではない。

 この手の会話は今の体育館の中ではどこにでも見られる。そのたびに巡回している先生たちが無駄口をきく生徒たちを注意して回っている。

「あーだりー」

 一人の男子生徒がこの長い式典に耐えられなくなって床に座り込む。手にした団扇で風を送るがさほど涼しくなっている様子は見られない。

「扇げ」

 彼は近くの男子生徒に自分の持っていた団扇を差し出す。渡された側の男子は特に文句を言わずに差し出された団扇で床の上に座り込む男子生徒に風を送ってあげる。扇がれている側は、少しは満足しているようだ。

 床に座っている生徒が団扇で扇いでくれる生徒のほうに顔を向ける。

「暑いな」

「そうだな」

 答える生徒は愛想のいい笑顔を浮かべている。

 そこに一人の教師が見回りにやって来た。

「こら、そこ。何してる」

 教師が注意したのは床に座っていた生徒と、その生徒を扇いでいた男子。

 校長先生が話している最中に一人だけ床に座り込んでいるのだから、その生徒が怒られるのは特に不思議はないが、団扇を扱っていた生徒には大した非がないのにこの扱いは、あまり快いものではない。

 自体の一部始終を知らない教師たちから見れば、生徒たちの問題などこの程度の扱いで十分なのかもしれない。

 周囲と同じように立ったまま、床に座り込んだ男子生徒に言われるままに団扇で扇いでいた生徒は特に反論することなく教師の注意を素直に聞いた。

 事情を説明することもできたのだろうが、教師に言ったところでたかが一人の生徒の命令に易々と従っている生徒の言うことなど聞くわけもないし、目の前にいる男子生徒に後で何をされるかわかったものではない。そんな相手だからこそ、その生徒はすんなりと男子生徒の命令を受理したのだけれど。

 一方の座っていた側の態度は積極的なものではなかった。

「ちょっとふらついただけだよ」

 教師に注意された生徒の初めに出た言葉がこれだ。

 教師のほうはまだ譲らない。

「ボタンぐらいはしなさい」

 半袖のワイシャツのボタンは完璧なまでに外れていて、その下に何も身に付けていないために、その男子生徒の筋肉質な上半身は見事に(さら)されている。

 男子生徒は素早く開いたシャツを合わせて、はだけた部分を隠す。

「暑いんだからしょーがないだろ」

 ぶっきらぼうなもの言い。

 対応する教師の顔には明らかな不快の色が見受けられたが、一応立ち上がった目の前の生徒はまるで気にしたところがない。

 その教師は最後の言葉を残して去って行った。

「ボタンは()めておきなさい」

「へ~い」

 安っぽい返事をする男子。

 だがその男子生徒は当然のようにボタンをかけようとはしない。シャツをはだけたまま、むしろ自らはだけさせてそのままにする。

 それどころか、教師が別の場所に向かっていくとすぐに床に座り込んでしまった。そのまま、今度は自分で自身を扇ぎ始める。

「うぜーっての」

 彼の周りにいる親しい生徒相槌(あいづち)のように笑う。流れとして当然のように教師たちへの不満を口にするが、周囲の生徒たちがそこまで教師に対して反感しているかと言えば、それは個人差がある。

 だがここは、大衆の意見が先行する。

 多くの生徒たちは整列体系を崩して、隣人との会話で耐えられなくなった圧迫感から逃れようとしているが、その行為が教師たちに見つかっては注意の言葉を受けている。

 型に(はま)った儀式は、通例どおりに、無意味で、長い。校長の挨拶に、生徒指導、変わらない物語には何の面白味もない。

 周囲から放たれる気怠い空気が、咲希にはわかるような気がした。それは怠惰のようで、眠気を誘い、または怒りのようで、胸が痛く、そして(わら)う声が脳に直接聞こえるようで、何故か悲しくなる。

 咲希は蝉の声だけに意識を集中する。蝉の声は、火輪(かりん)の下で()かれずに空気を震わせている。空を突き抜ける入道雲よりも清んだ声は、(あらが)う命の咆哮に似ている。

 蝉の命は短い。

 その短い一生を、蝉は唄う。

 荒々しい声は、野生的で、無作法かもしれない。しかし、その素直な声は咲希には気持ちが良かった。

 今、この瞬間、誰のためでもない、与えられた命に、真っ直ぐに生きている。その気持ちが聞こえると、不思議な安心感が咲希の胸の中に満ちていく。

「……」

 咲希はその声に聴き入っていた。暑さに負けない、この暑さの中で自分の命を燃やしている(たくま)しい声。

 この声に、今どれくらいの人が気付いているだろうか。勉強に仕事、塾に習いごとに残業に、家にいても家事や育児に邁進(まいしん)する。

 そんな町の暮らし。

 モノばかりが溢れていて、その一つ一つの存在が対照的に委縮していく。

 今、咲希は素直に蝉の声を聴いている。

「咲希ってば!」

 不意に声をかけられて咲希は振り向いた。真奈(まな)が不機嫌そうな顔をして咲希のほうを見上げていた。

「やっと気付いた」

 そう言って真奈は両手を腰に当てる。咲希が周囲を見ると、生徒たちは後ろの玄関に向かって歩いていた。

「もう終わったよ。行こっ!」

 真奈は咲希に笑みを向ける。

「うん……」

 咲希は頷いて真奈と一緒に歩き始める。一歩歩くたびに、周囲の話し声が咲希の耳に流れ込んでくる。

「やっと終わったよ」

「長かった」

「毎回毎回いらない話ばっか」

「校長なんてこのときぐらいしか仕事してないんじゃない?」

「あれで給料貰えるんだから詐欺だよな」

「生徒指導もいつも同じでさ」

「くどいっての」

「ちゃんとしている奴にはいい迷惑だっての」

「あれでまた終わるの遅くなるんだよな」

「いちいち細かくてさ」

「自分のほうがみっともないのわかってんのかな」

「自分はちゃんとしてたのかっての」

 周囲を歩く生徒たちの話し声は、雑踏の中で膨らんで、その意味は人々の群れの中で(しぼ)んでいく。

 蝉の声は雑音の中に入り込む余地がなくなってしまった。蝉の声が聞こえなくて、咲希は少しだけ寂しかった。

「咲希?」

 咲希の目の前で真奈の腕が上下に揺れる。

 咲希は目の前に突き出された手に驚いて足を止めた。真奈はまじまじと咲希の顔を覗き込んでいる。

「どうしたの、咲希」

 咲希は一瞬驚いて言葉が出てこなかった。

 真奈はなおも訊ねる。

「さっきからボーっとしちゃって」

 咲希は慌てて顔を振って笑顔を作る。

「なんでもないよ」

「そう?」

「うん」

 懐疑(かいぎ)を向ける真奈に、咲希は笑顔で頷く。

 真奈はまだ納得していないようだ。

「今日の咲希、なんか変」

「そ、そんなことないって」

 真奈はじっと咲希の顔を覗き込む。咲希のほうは何とか笑顔を取り(つくろ)うとしている。

「…………」

「…………」

 生徒たちの雑踏の中で異質な沈黙が生まれる。

「ならいいけど」

 真奈は咲希から顔を背ける。

 真奈はそれから口を開かない。咲希も(うつむ)いて何も言わない。

「…………」

「…………」

 生徒たちのざわめきの中を、二人の少女はしばらく無言で通りすぎて行った。

「結局来なかったね」

 真奈が唐突に口を開いた。

雨宮(あめみや)くん…………」

「…………うん」

 咲希は俯いたまま頷いた。

 その横顔を、真奈はじっと見つめていた。



 松風(まつかぜ)高校の終業式の二週間前のこと。

 雨宮は一つの教室の前に立っていた。

「……」

 しばらく無言で、雨宮はその場所にただ立っているだけだった。

 今は放課後の時間、授業という枠組みから解放された生徒たちは個人の好きな場所で、好きなようにその時間を満喫している。廊下にも何人かの生徒たちの姿が見られる。

「……」

 雨宮はその教室に入ろうか、迷っていた。そこは雨宮の所属しているクラスではなかった。扉の前の表札には「二年一組」の文字があった。

 雨宮はゆっくりと振り向いた。

「ここ、だよね?」

 雨宮の視線の先には高峰(たかみね)がいた。

 雨宮と高峰の間には一メートルの間隔もない。雨宮の背後に高峰は立っている、とても近いところに。

「……」

 高峰は答えない。

 それは、答えられないから黙っている、というのとは違っていた。高峰の表情には、どこにも苦渋の要素がない。いや、そもそも高峰の表情には感情というものが欠落している。

 普段から笑うことがない。

 悩んだ顔も、困った表情も見せない。

 泣いたところも、怒ったこともない。

 喋ることさえ、滅多にない。

「…………」

 その無言の表情が、否定とも肯定とも取りかねて、雨宮は高峰から視線を外して正面の扉に目を向け直す。

 雨宮の目の前に扉が立ちはだかる。

 雨宮はこの扉を開けることに抵抗があった。雨宮はこの学校に転校してから、今まで一度も他のクラスに行ったことがなかった。特別な用事がなければ、雨宮は自分から他の人のいる空間に行こうとはしない。

 雨宮にとって、自分の所属している教室以外は全て未知の場所だった。自分のクラスとは勝手が違っている。普通の人にとってはそれほど差異はないのかもしれないけれど、雨宮にはその空間に入り込むと強い違和感を感じる。

 ――何で僕が……。

 雨宮は高峰に気づかれないように小さく溜め息を()いてから扉に手をかけた。

 ――ガラガラ…………。

 扉が開いた。実に簡単に。

 雨宮は二年一組の教室に入る。その後ろを、正確に一メートルの間隔をあけて、高峰がついていく。

 教室の中にいる生徒たちの視線が静かに二人のほうへと向いていく。周囲の視線にあてられて、雨宮は内心で強い居心地の悪さを感じた。

「……」

 雨宮は教室の中を見渡す。

 黒板のほうから一番後ろの扉のほうまで、教室全体を眺めてみたが、雨宮の表情はすぐに曇った。どうやら、目的にしていた人物はいなかったようだ。

「あの……」

 雨宮は近くにいた人に声をかける。

「すみません。倉橋(くらはし)くんを知りませんか?」

「あー、あいつ」

 訊かれた男子が答える。

「倉橋ならきっと掃除に行ってる。後ろに書いてあるから、それ見ればわかるよ」

「あ、ありがとうございます」

 答えてくれた生徒に頭を下げてから、雨宮は教室の後ろのほうへと向かう。高峰のほうは、その男子生徒には見向きもせず、黙ったまま雨宮の後ろをついていく。

 放課後ということもあり、教室の中にいる生徒たちの姿は(まば)らだ。雨宮は極力人のいないところを選んで歩いていった。

 そのせいか、何度か机の間を曲がって進んでいく。右に曲がって、そうかと思えば左に。実に効率の悪い動き方をしている。

 その後ろを、高峰はほぼ一定の間隔で、文句も言わずについていく。その表情は、教室に入ったときから変わらない、どこまでも無感情なままだった。

 雨宮は自分の鼓動の音を聞きながら、机の間を抜けて、ようやく教室の一番後ろの位置までたどり着いた。

 それほど速い速度で歩いていたわけではない。人並みか、雨宮の身長が標準の高校男子よりかなり低いこともあって、多少遅い速度だった。移動距離だって、教室の端から端へ歩いたぐらいではそんなに疲れるはずがない。

 雨宮の鼓動の高まりは、単純に、雨宮の異常な緊張からきている。

「はぁ」

 雨宮は小さく一呼吸置いてから、教えてもらった掃除当番表を眺める。男子と女子のそれぞれの出席番号順に書かれた名簿があって、男子の名簿の一番後ろに付けたされるように「倉橋駿(しゅん)」の名前が、他の生徒はパソコンで印刷されたものなのに、倉橋だけはボールペンで書かれている。

 倉橋は松風高校に転校してきたばかりなので、まだ倉橋を含めた正式な名簿ができていないのかもしれない。

 各生徒の名前の横に番号が振ってあって、名簿の隣に、その番号に対応する掃除の分担表が貼ってある。それを見ると、倉橋はこの階の男子トイレの清掃にあてられている。

 雨宮は振り返って高峰を見る。

「倉橋くん、トイレの掃除みたい」

「……」

 高峰は、やはり返事をしない。

「ちょっと待っていて。僕が呼んでくるから」

 雨宮はすぐ近くの扉を開いて二年生の教室から出た。そして前を向いたまま扉を閉めようとした。

 ――がんッ。

 雨宮の手に不自然な抵抗がかかった。

 扉が壁にぶつかるときの軽い音ではなく、何か柔らかくて力のあるものに扉を押さえられた妙な反作用の力がそこにあった。

「?」

 雨宮は不思議に思って、扉に手をかけたまま振り返った。

 高峰と目が合った。

「……!」

 雨宮は驚いてすぐに扉から手を離す。

 高峰はそんな雨宮の態度を気にする様子もなく、先程から変わらない無表情のままで正面を見つめている。

 高峰のほうが雨宮よりも少し背が高いので、雨宮は高峰から見下ろされるような形になるのが普通なのだが、高峰は特に雨宮の顔を見ようとはせず、不自然なほど正確に、正面だけを見据えていた。

「……」

 雨宮は咄嗟に手を引っ込めたまま、動けなくなった。

 高峰のほうも動かない。雨宮が閉めようとした扉を止めた手も出したままで、それ以上の動きはない。

「……あ、あのさ」

 ようやく雨宮が口を開いた。

「僕が見てくるからさ。その…………、ここで待っていて」

 言い終わると、雨宮はすぐに高峰に背を向けて、できるだけ自然に、かつ、できるだけ早足で、歩き出した。

 ――ひたひた…………。

 雨宮の背後で足音がした。

 ――ぴた。

 足音に気付いて、雨宮はすぐに足を止めた。それと同時に雨宮の真後ろをついてきていた足音も消える。

「……」

 雨宮は、ゆっくりと自分の首を後ろのほうへと捻る。

 雨宮の視界の端に見えたのは高峰の姿だった。

「高峰さん」

 雨宮は内心で溜め息を吐いてから高峰のほうに体を向ける。

 そこに、確かに高峰はいた。雨宮が少し前に見たときは二年一組の教室の中にいた、それは覚えている。しかし今、高峰はその教室から出て、廊下に立っていて、そして雨宮の背後に一定の距離を置いてそこにいる。

 雨宮は口を開く。

「僕が呼んでくるから、待っていてよ。ちゃんと倉橋くんに言ってくるから」

「……」

 高峰の返事はない。表情も教室にいたときから一向に変わらない、味気のない無表情の色をしている。

 雨宮には、高峰が納得したのかどうなのか、目の前にしている高峰の表情からは判断がしかねた。

「…………」

 雨宮は困惑していた。このままでは、高峰は男子トイレまでついてくる可能性があった。

 雨宮は小走りに男子トイレへと向かう。走っても高峰が同じように走って雨宮の後を追ってきたらあまり意味がないのだが、雨宮の耳には自分の足音しか聴こえない。どうやら高峰も、走ってまで雨宮の後をついてくる気はないらしい。

 この階の一番奥にある男子トイレにたどり着くと、雨宮はトイレの扉をそっと開けた。

「まだ終わらへんの」

 扉を開けると同時に、関西系の(なまり)を含んだ声が聞こえた。

「まだだよ。どう見たって」

「それより、倉橋も掃除やってよ」

「やってるやんけ。真面目に」

「どこがだよっ」

 男子トイレの中はまだ掃除中のようだ。トイレの中には(ほうき)で床を掃いている生徒と小便器をブラシで磨いている生徒の姿が見えた。

 二人の生徒が雨宮に気付いたようだが、特に何かを言う様子はなく、各々(おのおの)の掃除を続けている。

 雨宮が気まずそうにしていると、別の人の声が聞こえた。

「見ての通り。ちゃんと働いとるやろ」

 雨宮の目の前に個室があった。

 ――ジャー…………。

 水を流す音が聞こえた。大便器の水を流す音だ。

 雨宮は目の前の個室にいる生徒に気が付いた。そこにいたのは倉橋だった。倉橋は開いた窓の縁に座って、和式の便座の水を流すペダルの上に右足を乗せている。

「…………」

 雨宮は咄嗟に言葉が出なかった。

 倉橋が雨宮の存在に気付いて、先に声をかけた。

「よお。海斗(かいと)やないか。どした、何か用か?」

「……何してるの?倉橋くん」

「見てわからんか。掃除や」

「掃除、って……」

 窓に腰かけて、洗剤を使わず、清掃用のブラシすら持たずに、ただ水を流すだけの倉橋の姿は、どう妥協しても、雨宮からは掃除をしているようには見えなかった。

 雨宮の表情を見て、倉橋は大袈裟な声を上げる。

「なんやお前まで!俺が掃除サボっとるとでも言うんか?」

「当たり前だっ!」

 答えたのは小便器をブラシで磨いている生徒だった。

 倉橋は大袈裟に嘆いてみせる。

「なんやなんやみんなして。俺を悪者扱いしよって。今日は真面目に掃除しに来たっちゅーのに、こんな仕打ちあるかい」

「掃除に来るのが常識だろ!」

 同じ生徒が()える。

 しかし倉橋は特に気にした様子もなく、すぐに笑顔を作る。

「ま、なんや用事ができたようやし、そろそろ帰らせてもらいますわ」

「まだ終わってない!」

 倉橋は大仰に手を上げる。

「もう終わりでええやろ。完璧やないけ」

「……サボってた倉橋(やつ)の言う言葉(セリフ)か」

 このまま終わりの見えない言い合いになるかと雨宮が思ったとき、箒を持っていた生徒が大きめの声を出した。

「あー、わかったわかった」

 二人の生徒は口を閉じる。

 箒を持った生徒が続ける。

「俺が先生呼んでくるから」

 箒を持っていた生徒は小便器を掃除していた生徒からブラシを受け取って、雨宮の脇を通って外に出て行った。

 その生徒の後ろ姿に向かって倉橋が手を振る。

「はよしてーな」

 トイレに残ったもう一人の生徒は、何か言いたげに倉橋を睨みつけていたが特に何かを言うことはなかった。

 雨宮は妙な居心地の悪さを感じた。

 ――ギイィ。

 雨宮が掴んでいた扉が不意に開いた。

 雨宮ではない、誰かが雨宮の背後に立っている。

 今先生を呼びに行った生徒が戻って来たのか、それとも別の生徒が入って来たのか。そうだとしても、雨宮は背後に人が近づいてくる気配を感じなかった。

 雨宮はその場で後ろを振り向く。

 そしてその人物を目にした瞬間、雨宮は反射的に扉から離れた。

「うわっ!」

 悲鳴じみた声を上げて、雨宮は扉から離れた勢いで床の上に尻もちをついた。痛みを感じることも忘れて、雨宮は目の前の生徒を見上げていた。

 高峰(あかり)が、気づいたときにはそこにいた。

「なんや灯」

 倉橋が声をかけても、高峰は気にした素振りも見せずに男子トイレの中へ入っていく。

「ちょい待ち灯!」

 倉橋が制止の声をかけても高峰は止まる気配がない。

 雨宮のほうは、床に座り込んだまま何も言えなかった。ただ茫然として、高峰の後を目で追うことしかできなかった。男子トイレにいたもう一人の生徒も、驚愕(きょうがく)の表情のまま完全に固まってしまっていた。

「ここ男子便やで!」

 何度倉橋が言っても高峰は止まろうとしない。一定の歩調で倉橋との距離を次第に縮めていく。

「…………」

 高峰が倉橋の前に立つ。距離にして三十センチメートルくらいのところだ。高峰はその大きな瞳で、いつも通りの無感情な表情で倉橋を見つめていた。

「用事」

 静寂の中で、高峰は簡素にそれだけ言い放った。



「せやけど、なんね、用って」

 靴を履きながら倉橋が二人の元へとやってくる。

「…………」

「…………」

 倉橋の言葉に答える者はいなかった。

「はぁー」

 倉橋はそんな二人を見て溜め息を吐く。

「人呼んどいて用も言わへんってどういうこっちゃ」

「そんなこと言われても…………」

 咄嗟に雨宮が口を開いたが、それ以上の言葉は出てこなかった。

「用事ってなんや、海斗」

 倉橋に訊かれて、雨宮は返答に困った。

「僕も知らない」

「用も知らんのに呼んだんかい」

「だって高峰さんが何も言わないから」

 言いながら雨宮は高峰のほうを見る。高峰は何も言わずに、ただ正面を見ているだけだった。その表情も、どこまでも無感情で高峰の心意が読めない。

 倉橋は高峰の顔を見て溜め息を吐く。

「いつものだんまりか」

 答えない高峰の代わりに雨宮が言葉を探す。

「でも、内容を書いたものがあると思うから、それを見せてもらえば……」

 言いかけて、雨宮はあることに気付いた。

「倉橋くんは何も知らされていないの?」

「わからんから、こうしてついてっとるんやないけ。灯は何も言わへんし」

「そうじゃなくて」

 雨宮は一瞬迷ってから小声で話す。

「……組織のほうから」

 倉橋は即座に答える。

「なんも」

 雨宮は目を(しばた)かせる。

「連絡は、もう届いているよね?」

「かもしれんけど、ようわからへん。いらん広告なんかも混じっとるし」

 倉橋の言っている意味がすぐにはわからなかったが、しばらくしてから雨宮は倉橋の部屋の様子を思い出した。文字通り足の踏み場もない今の倉橋の暮らしている場所では、確かにどこに何があるのかわからなくなっても不思議ではない。

「……少しはきれいにしたら」

「きれいやん。何でみんなあれを汚い言うんや」

「…………」

 雨宮はそれ以上の言葉が続かなかった。

 そのまま三人は黙って帰路へと向かう。

 三人は校門に一人の少女が立っているのを見つけて、足を止めた。

「揃いましたね」

 少女は真っ直ぐに三人の姿を見据える。

 短く切られた髪は滑らかに()かされて、横に長い眼鏡は生真面目な印象を与える。白いシャツに、黒のスカートは膝頭を覆い、茶色い靴と黒い靴下を履いて、襟元(えりもと)紺色(こんいろ)のリボンは小さく少女を装飾している。

 倉橋は引きつった笑顔をしていた。

「委員長はん」

「その呼び方は止めなさい」

 冷たい視線で言われて、倉橋はそのまま凍りつく。

「…………」

 少女は一様に三人の様子を(うかが)う。三人とも硬直したまま動かない。

「それでは行きます」

 短く言って少女は歩き出した。

 どこに行くのか、目的は何なのか、何も話さないで先を行く少女。無駄がないどころか、必要事項すら明らかではない。

「…………」

 三人は少女の後に従う。

 三人がこの不可解な少女の後ろを何も言わずについていくのは、三人ともに少女とは面識があったからだ。

 ――そしてその意味も薄々感じている。

 蝉の声が聞こえる。

 夏が近づくにつれて、日は加速的に長くなる。それに合わせて生徒たちが学校にいる時間も長くなる。

 無論、勉強時間が長くなるわけではない。生徒同士の、遊戯の時間が次第に長くなっているだけだ。

 閉門の時間は夏の時間に入り、生徒たちはともに楽しみを分かち合う。町にも生徒たちの姿がちらほら見受けられ、真っ直ぐ家路に着くものは少なくなる。

 少女は駅に向かって歩き続けていた。そして駅に着くと三人に切符を差し出す。一行はしばらくの間、電車に揺られていた。

 電車の進行方向と平行に設けられた席に腰掛けて、四人はじっとしていた。三人の視線の先には、少女が長い席に一人だけ座っている。少女が何も言わないので、三人も黙り込む。電車の中はひたすら静かだった。

「あの…………」

 雨宮はおずおずと口を開いた。

 その声に、少女は少しも反応を示さない。

「……一条(いちじょう)さん」

 もう一度雨宮は声をかけた。

 それでようやく少女は三人に目を向ける。

「何ですか?」

 短い返事。

 静かな視線が雨宮に向けられる。その細い眼光は、研ぎ澄まされたナイフのように、鋭利で冷たい。

 雨宮は口の中の(つば)を飲み込んだ。

「…………」

 すぐに言葉が出てこなかった。

 少し置いてから、雨宮は言葉を続ける。

「これからどこへ行くんですか?」

「知る必要はありません」

 一条の口調は、ガラス越しの瞳と同じく冷たかった。

「…………」

 雨宮は何も言えなかった。

 一条は素っ気なく付け足す。

「着けばわかることです。帰り道を忘れないようにしていなさい」

「委員長はん、そんな冷たい……」

「その呼び方は止めなさい」

 静かな口調で言われて、倉橋は何も言えなくなった。

「……」

 一条はそれ以上何も言わなかった。四人は黙したまま座っている。電車の中はどこまでも静かだった。

 一時間以上電車に揺られて、ようやく一条は立ち上がった。

「次で降ります」

 三人も一条に倣って席を立った。そして扉が開くまでじっと待っていた。

 ――ガコン。

 目的の駅に着いて、電車の扉が自動で開く。

 冷房のきいていた車内とは違い、電車の外は異常な熱気を放っていた。水気を含んだ熱風は肌をくすぐって汗を誘う。

 四人が下りた町は、村と呼んだほうが適当かもしれない。

 アスファルトを埋め込んだ道路の脇には真っ青な緑が雄大に横たわっている。店屋も幾つか存在していて、そこだけは都会の雰囲気をアピールしているが、若い稲穂は人の心を癒してくれる。

 三人はその穏やかな光景に足を止めた。

「何をしているのですか。早くしなさい」

 一条に促されて、三人は慌てて彼女の後を追う。緊張した面持ちで一条の後に従ったが、三人の目は町では見ることのできない巨大な自然を隅に捉えていた。

 駅から三十分近く歩いただろうか。そこに見える大きな建物の中に、一条は入っていった。どうやらホテルのようだ。清掃されたホテルの中と制服に身を包んだ従業員の脇を通り過ぎて、四人はエレベーターの中に入っていった。窮屈な密室に入っても四人は一言も発しない。全員が扉を見据えたまま動かなかった。

 エレベーターを出てしばらく歩いたところで一条は止まった。目の前の扉を二回ノックすると扉が開いた。姿を現したのは背の高い男だった。

「やあ、いらっしゃい」

 そう言って、男は四人を部屋の中に入れた。部屋はシングルで、机とベッドの間には僅かな隙間しかない。五人も人が入ると互いに与えられる空間がほとんどなくなって、かなり窮屈に感じられる。

「それでは私は失礼します」

 一条は扉の傍で立ったままそう言った。雨宮と倉橋は驚いて一条のほうを見た。一条もこのままこの部屋に残るものだと二人は思っていた。

「ああ、終わったら連絡するよ」

 男は優しい顔を一条に向けた。

 一条は一礼して部屋を出た。三人は男の前に取り残された。

「久しぶりだね」

 男は椅子に座って三人のほうを見ていた。扉のほうを見ていた雨宮と倉橋はゆっくりと男のほうへ顔を向ける。

「高峰くん、倉橋くん、そして、雨宮くん」

 男は三人の顔を順番に眺めていった。

 とても優しい目をしている。顎に(うっす)ら生えた(ひげ)が、()り忘れたように見える。

 痩せてはいるが、痩せすぎとまではいかない、部屋の中でも丸いつばのついた帽子を被った、人の良さそうな男だった。

「さあ座って。疲れただろう」

 男はベッドのほうを手で示した。

 三人はゆっくりと、促されるままに腰を下ろした。

「すまないね、こんな遠くまで。ここしか宿が取れなかったんだ」

 男は苦笑する。

 しかし三人が黙ったままなので首を傾げた。

「どうしたんだい?もっと楽にして構わないよ」

「はー……」

 倉橋はそれだけ口にした。他の二人は、一向に黙ったままだった。男は少し困った表情を浮かべる。

「倉橋くんは元気にしていたかい?」

 呼びかけられて、倉橋は背筋を伸ばした。

「ええ、そりゃもちろん」

 男は倉橋に微笑(ほほえ)みかける。

「君にはすまなかったね。急に移動させてしまって、もう新しい学校には慣れたかい?」

「はい、もう大丈夫ですわ。隊長はんにはいつもようしてもらって、ホント悪いでんなー…………」

 男は苦笑する。

若草(わかくさ)でいいよ。あまり堅苦しいのは苦手でね」

 (なご)やかな会話、とまではいかないけれど、そこそこに会話が成立している。若草なりの配慮が沈黙に()まれかけたこの場所を、ほんの僅かかもしれないが溶かしていく。

 しかしそんな努力もすぐに崩される。

「話」

 二人の会話の途中で、高峰が割り込んできた。

 高峰の表情は、何を思っているのか、何を感じているのかがわからないくらい、静的だった。最早、口を開いた形跡が見られないまでに動きがない。

 倉橋は言葉を止めて高峰のほうに目を向けた。その目が、高峰の瞳と合った。高峰の褐色がかったその大きな瞳にあてられて、倉橋はそのまま固まって動けなくなった。

 若草は溜め息を吐いた。

「そうだね。せっかく君たちを呼んだのに、世間話で終わってしまうのは、ね」

 三人は居住まいを正して男を見る。

 若草の優しい目にも力が入る。

「話を始めようか」



 若草は口を開く。

「君たちがこの前戦った相手、あれはおそらく『トレスト』だろう」

「『トレスト』?」

 雨宮が呟くと、若草は頷く。

「一条くんの報告を見る限り、そう判断できる。君たちでは歯が立たなかったこと、一条くん自身が戦ったときの感想、あれはどう考えてもトレストでしかない」

 あの、と雨宮が遠慮がちに口を開いた。

「トレスト、って何ですか?」

 すぐに返事はなかった。

 一瞬の沈黙の後に声を上げたのは、倉橋だった。

「お前は組織ん中いたとき何してたんや?」

 そのあからさまに呆れたような物言いに、雨宮は身を縮める。

 まあまあ、と言って若草がそれに答えた。

「トレストっていうのは、簡単に言ってしまえばフラストの進化形のことだ。フラストよりも強くて頑丈だから、トレストはMASKS(マスクス)の中でも上位の実力がないと倒せない。トレストはフラストよりもエネルギーが密だから、姿を隠すことは苦手であまり体の世界に居座ることをしない。その代わりに、他人の心の中に住み着いて、時々その人の精神を乗っ取ったり、最悪の場合、心を支配することもある」

 雨宮が納得すると、若草は言葉を付け足した。

「だから君たちが手に負えなかったのは仕様がないことだ。そのことに関して、組織としては何の罰則も、君たちには与えない」

 その言葉を聞いて、雨宮と倉橋は安堵(あんど)の息を漏らす。

 先日、雨宮、倉橋、高峰の三人はフラストと戦い、(あや)うくやられそうになった。

 心の世界から溢れ出した怪物、フラストを退治するために構成されたMASKSは、通常、個人行動を取っている。

 一人で一定の区間内を受け持って、その範囲の中で出現したフラストを狩る。一人で複数のフラストを相手にしなければならないこともある。MASKSとして社会の中で活動するためには、それ相応の実力がなければならない。

 しかし雨宮、倉橋、高峰の三人は現在、一つの学校で生徒として過ごしている。これはすなわち、三人で一つの区間を担当していることになる。

 これは本来なら異例のことである。

 にもかかわらず、三人がかりにもかかわらず、フラストに敗北するということはあってはならないことである。雨宮も倉橋も、自分たちのこの失態に如何なる罰が下されるのか心配していた。

 だが、若草の言葉で、自分たちに何の処置もされないということがわかって、三人は心から安心した。

「だけど――」

 若草の言葉に、雨宮と倉橋の顔が硬直する。

「本題はこれからだ」

 雨宮と倉橋は恐る恐る若草の顔を見た。その表情は硬く、どこか悲しそうにも見える。若草は重い口を開いた。

「最近フラストの発生率が急激に増加している。君たちもそう思わないかい?」

 若草の問いに雨宮は思い当たる節があった。

 雨宮が最初にこの地域に越してきて、初めて新しい学校に登校したその日にフラストと遭遇した。それから何日も経っていないのに再びフラストが現れて、一週間の間に三体ものフラストと戦闘を行った。

 若草は話を続ける。

「ここだけではなく、各地でフラストの異常発生が報告されている。当然ながら、トレストもね。トレスト自体の数は少ないし、トレストはあまり姿を見せたがらない性質だから、現在、組織のほうに報告されているような数は本来なら珍しいことだ」

 若草は一瞬言葉を止めた。

「結論」

 簡素な高峰の言葉が狭苦しい沈黙の中に波を打つ。

 若草は小さく頷く。

「敵が現れた。組織に対する敵が」

 その言葉に三人は硬直する。

「敵?」

 雨宮の言葉に、若草は頷く。

「その人物の名前は、榊原樹(さかきばらいつき)。ご丁寧に組織に対して敵対表明文を送りつけてきた」

「一人でっか?」

 倉橋の問いに、若草は苦笑を浮かべる。

「あくまで首謀者だよ。規模は不明だけど、まさか一人で組織に対して敵対しようなんてことは考えていないはずだ。それに、文書まで送りつけてきたんだから、相当自信があるんだろうね」

 あの、と言って雨宮が遠慮がちに口を開く。

「その人がフラストの異常発生と関係がある、っていうことですか?」

 若草は曖昧に笑う。

「断定はできないけれど、組織としてはその方向で考えている。何せフラストの異常発生が確認されたのは、その人物の文書が送られた後だからね」

 せやけど、と言って倉橋が訊ねる。

「フラストを味方につけとるっちゅーことでっか?そんなことできるんでっか?」

「確かにそんなことができたら、MASKSはお役ご免だね。フラストを操作できれば何も争う必要はない。――でも」

 若草は真剣な表情で言葉を続ける。

「フラストは元々人の心だ。甘い言葉に(そそのか)されて、(だま)されることはある」

「その人は、それができる?」

 雨宮が訊ねる。

 若草がそれに応じる。

「それはわからない。だがその可能性も否定できない」

 アホな、と倉橋が両手を挙げる。

「フラストのほとんどは意識を断片的にしか持ってあらへん。この間のトレストもそうですけど、知恵を持つ奴なんて稀でっせ。会話できるようなタイプは最悪でっけど」

「そう言えば」

 そう言って、若草は雨宮のほうを見る。

「雨宮くんは流暢(りゅうちょう)な言葉を使えるフラストと戦ったんだっけ」

「……え?あ、はい……」

 フラストと戦闘を行った場合、組織に報告することは義務になっている。雨宮も――実際には高峰が――組織に対して報告書を提出している。

 雨宮は以前、MASKSの、組織の秘密を公に仕掛けるという重大な失敗をしている。そのため、当初は高峰とともにフラスト退治の任務を行っていた。

 協力という言葉は表向きで、要約してしまえば高峰監視の下で、雨宮は通常任務を許されている。

 だから、再度ミスを犯さぬように、雨宮が戦ったフラストに関する報告は、全て高峰が行っている。

 若草は言葉を続ける。

「そのフラストはそれまで君が戦ったフラストを生み出した張本人だったと記載されていたけど」

「……はい」

 雨宮は頷く。

 報告書にはMASKSの働きぶりや出現率の統計、そしてフラストの戦闘能力分析を行う意味がある。人間の外見や性格に個人差があるように、フラストの見た目や攻撃方法にもそれぞれ個人差がある。

 単純に肉弾戦しかできないものが多いが、中には特殊な能力を使えるものも存在する。雨宮が以前対峙したフラストも、その特殊な分類(カテゴリー)に入る。

上嶋(うえじま)咲希、という人物が作り出してしまったフラストだと?」

「…………はい」

 頷いてから突然雨宮が立ち上がる。

「上嶋さんを疑っているんですか?」

「あ、いや。そういうわけでは……」

 雨宮が真剣な表情で見つめるものだから、若草は慌てて手を振った。

 雨宮の目は、それでも若草の姿を捉えていた。

「フラストを倒したのは上嶋さん自身だって、そう報告したはずですけど」

「あ、うん。確かに」

「それに上嶋さんは殺されるところだったんですよ」

「あ、そうだったね」

「上嶋さんが組織を潰そうとしてるなんて、そんなの、絶対にあり得ません!」

「…………」

 雨宮は若草に向かって怒鳴りつけた。そのあまりの剣幕にその場にいた全員が硬直したまま雨宮を見つめる。

 その顔はいつもの幼さを含んではいたが、雨宮の目はいつもの柔和を感じさせない真剣なものだった。

 ややあってから、若草は顔を(ほころ)ばせる。

「わかってる。誰も上嶋さんが敵だなんて思っていないよ」

 雨宮の目から力が抜ける。

 それを見て取って、若草は頷く。

「ほら、もう座って」

 笑って手を上下にする若草を見て、雨宮は自分が立っていることに気が付いて慌てて腰を下ろした。

 雨宮の伏した顔が、鮮やかなピンク色をしていた。

「ほんま海斗は彼女のこんになると必死やな」

 倉橋が揶揄(やゆ)すると、雨宮はさらに顔を赤くする。

「か、彼女なんかじゃないよ!」

 まあまあ、と言って若草が止めに入る。雨宮は顔を火照(ほて)らせて身を縮める。倉橋は意地悪い笑顔をしていた。

 若草は微笑む。

「あくまで例え話だよ。フラストを操る方法もない訳じゃないってことさ」



「変」

 高峰は静かに呟いた。

「変、って?」

 若草は優しい顔で訊ねる。

 高峰はその大きな瞳でただ正面を見ていた。高峰の顔には表情がなく、その目線も若草のほうを見ているのか些か疑問である。

 高峰がもう一度呟く。

「誰」

 おそらく、高峰は若草に問いかけているのだろう。しかし、感情のこもっていない、抑揚のない高峰の言葉の意味を断定するのは、難しい。

 若草は首を傾げる。

「誰って、榊原樹のことかい?さっき言ったろう、組織に害()す敵だと」

 その返答に、しかし、高峰の反応はなかった。

 どうも納得しているようには見えない。若草が微笑みかけてはみるが、それにも高峰は無反応だった。

 何も言わずにただじっと前方を見据えている。無言の瞳は、魔力を持っているような妖しい光を放っていた。笑ったままの若草の頬を、一滴の汗が流れる。狭い部屋の中に重い沈黙がのしかかる。

「…………」

 若草は苦笑する。

「わかった。本当のことを話そう」

 そう言ってから、若草の目に強い光が宿る。

「ただし、これは本来君たちにとって知る必要のない情報として組織が判断したことだ。軽はずみに他言(たごん)することのないように」

 反射的に雨宮が口を開く。

「もちろん」

「そ、そりゃ当然のことですがな」

 同じように倉橋も答える。

 真剣な若草の表情に、雨宮と倉橋はすぐに頷いた。高峰も、言葉を発しないものの、深々と頷く。

 それを見て若草は表情を和らげる。

「良し」

 若草は静かに話し始める。

「組織の存在は、知っての通り、口外厳禁。一般大衆には組織のことは認知されていないし、当然ながら、フラストやトレストなど体の世界に害為す心の世界の住人に関する知識はありはしない。そんな得体の知れないものを操作するなんて最初から不可能なんだ。…………普通の人にはね」

三人は若草のその意味深長な言葉に体を強張らせる。

 若草は穏やかな口調で話を続ける。

「榊原樹。元『キルイルク』開発部隊『COSTUME(コスチューム)』総指揮官、及び元独立監査委員の一人」

 長々しい役職名が何を意味するのか、三人は理解していなかったが、重要なことだということは直感が教えてくれた。

「――裏切り者だよ」

 フラストが異常発生しているだけでは、組織はMASKSに対して何の通知もしない。必要な移動を通して、結果的に対処できているか否かを上層部が判断する。

 たとえ組織に対して(あだ)なす存在が現れたとしても、同様に上層部だけで判断が下される。一介の傭兵にすぎないMASKSに、一々移動理由や徴集理由が明らかにされることは、()ずない。

 それは組織の秘密主義体質によるものが大きい。

 ()の独占、という言葉が最もわかりやすい。MASKSは、平たく言ってしまえば「兵器」だ。人の心が生み出した化物を撲滅(ぼくめつ)するために開発された、有能な「武器」。

 そして、それを生み出した組織の壮大な「科学力」。組織だけが保持している貴重な「資源」と言っていい。

 そんな財産を、みすみす誰かにくれてやるようなことはしない。せっかく手に入れた秘密を、自分たちだけの力にしておく必要がある。

「あの……」

 雨宮が口を開いた。

「『キルイルク』とか『COSTUME』って何ですか?」

 ああ、と言って若草は答える。

「キルイルクというのは組織の正式名称、COSTUMEはMASKSと同様に、組織の中にある機関の一つだ。COSTUMEの仕事は武器開発。雨宮くんが持っている銃も、そこで作られたものだよ」

 雨宮は納得する。

 ()いで、倉橋が口を開く。

「独立なんとか、言いますんは?」

 若草は微笑む。

「独立監査委員。組織の中に存在している各機関のトップがこの役職に就くんだけど、わかりやすく言えば学校の代表委員みたいなものだよ。独立監査委員たちで組織の運営や今後の方針を決定している」

 倉橋は納得する。

それと同時に、三人はことの重大さを理解した。

 組織内部による裏切り行為。それは秘密主義体質の組織にとって、許してはいけない愚行(ぐこう)である。

 加えて、その首謀者が組織の中枢(ちゅうすう)にいた人物となれば、組織の機密事項が世間に露呈(ろてい)しかねない。

 若草は真剣な顔で三人を見つめる。

「彼をなんとしても抹消しなければならない」

 それが組織の意志だ。

 知恵を得た害虫は、(ただ)ちに駆除しなければならない。その力が大きくなる前に。故に組織の裏切り者は速やかに消す必要がある。

 若草が表情を和らげる。

「だから君たちの力が必要なんだ」

「俺らの?」

 きょとんとした顔で倉橋が訊ねる。

 若草は頷く。

「もちろん。そのために、今日君たちをここに呼んだんだ」

「せやけど俺らには……」

 倉橋が言葉を(にご)す。

 三人がかりでもトレスト一匹倒すことができなかった。敵の勢力が如何(いか)ほどのものかまだ見当は付かないが、それくらい、いや、それ以上のレベルだと考えておいたほうがいい。果たして今の自分たちに立ち向かえる力があるのだろうか。

 若草は微笑む。

「心配することはない。君たちに無理をさせようなんてことはしない。ちゃんと考えてあるから」

 その言葉を聞いて、雨宮と倉橋はささやかな安堵を覚える。若草の態度は穏やかで、そんな優しい人柄にいつもホッとする。

 若草が再び口を開きかけた。

 そのとき。

――ジリリリリリリリリリリリリリリッ!

 けたたましいベルの音が窮屈な部屋の中に充満した。雨宮と倉橋は驚いて反射的に肩を上下に動かした。

 若草は机の上にあった掌大の鉄色をした直方体の物体に手を伸ばした。音が止み、若草はその機械をまじまじと見つめる。

「もうこんな時間か」

 呟いて、若草は手にしたものを元通りに机の上に戻す。それからベッドの上に座っている三人のほうを見返す。


「今日はここまでにしよう。一条くんとも約束があるからね。――この件は、MASKS全員に把握しておいたほうがいいと独立監査委員会で決定したことだから、君たちにも話した。それだけの理解でかまわない。君たちに向かって、トレストと戦えなんて、無茶なことは言わない。ただ、これから危険なことが起こるかもしれないということだけは、頭の片隅にでも置いてほしい」

 若草の言葉に三人は頷く。

 それを見て若草も優しい顔で頷く。三人はゆっくりと立ち上がった。

「失礼しました」

 倉橋が先ず言って、雨宮もそれに(なら)う。高峰はただ頭を下げただけだった。

「あ、待ちたまえ。…………これを」

 扉に向かう三人に、若草は三つの鍵を差し出した。

「これは?」

 雨宮が問うと、若草は造作もなく言った。

「一つ下に君たちの部屋を用意してある。しばらくここにいてくれてかまわない。学校のほうは心配しなくていいからね」

 若草はいつものように微笑む。

「……」

 三人は素直に鍵を受け取ったが、内心は霧がかかっていてあまり心地の良いものではなかった。



 ドアが二回ノックされた。

「どうぞ」

 ドアが開き、向こう側には一条の姿があった。

「やあ、いらっしゃい」

「失礼します」

 一条は一礼してから静かに扉を閉めて中へと進む。

「まあ座って」

 笑ってベッドを勧める若草を無視して、一条は若草の前で足を止める。

「お話なされたのですか?」

 立ったまま一条は問いかける。椅子に座った若草は、ほとんど同じ高さにある二つの瞳を見つめる。

「ああ」

「予定通りですか?」

「それはもちろん」

「甘いです」

 一条は冷たく言う。

 若草は苦笑する。

「会議で決まった結論を言っただけじゃないか」

「だから甘いというのです」

 一条の冷えた言葉は続く。

「あの子たちを許しましたね」

 若草は曖昧に笑って答えない。

「三人がかりでトレストの一匹も倒せないようなレベルでは使えない」

「でも君のおかげで大事には至らなかったんだから」

 良かったじゃないか、と言うより先に一条が口を開く。

「私が間に合わなければ全滅でした」

「…………」

 若草は再び黙ってしまう。

 一条は続ける。

「トレストを倒せないようでは使い物にならない。施設に戻してプログラムを組み直したほうが宜しいと思います」

「そんな時間はない」

 若草は断言した。そこに、今までの戸惑いはない。

 一条は言葉を止めた。しかしそこに気後れした様子はなく、冷ややかな視線で若草のほうを見つめている。

「…………」

 若草は帽子越しに頭を掻く。

「すでに犠牲者も何人かでている。それは君のような『ホリック』の実力を持つ者もね」

 MASKSの中でもトレストと渡り合える実力を持つ者を『ホリック』という。派遣されるMASKSのおよそ十人に一人はホリックで、その地域の中心を担っている。トレストレベルの敵が現れた場合、速やかにホリックとなるMASKSがトレスト撃退に向かう仕組みになっている。

「ホリックでも太刀打ちできないということは、複数のトレストが相手になった、あるいはトレスト以上の力を持つ敵が現れたということになる」

「私一人で充分です」

「仲間は多いほうが心強いだろ」

「足手まといです」

 若草は渋い顔をする。

一条の目は底冷えするものを持っていた。

「あの子たちでは何もできなかった。あの子たちがいても使い物にならない。私はそう思います」

「…………わかってくれないか?」

 若草は優しい目を一条に向ける。見返す一条の目は変わらない温度を含んでいた。若草は溜め息を吐く。

「MASKSの数は多くない。希少な戦力をさらに削るわけにはいかない。世間で活動するためには、世間で実戦を積むしかないんだ。それに――」

 若草は一条に向かって微笑みかける。

「彼らも今回のことを通して一段と強くなると、私は信じている」

 一条の目は相変わらず冷え切っていた。若草がどれだけ温かい顔を向けても、一条の心は到底動きそうにない。

 眼鏡越しに見える一条の瞳は冷たい光を放っている。

「甘いです」

 若草は苦笑する。

「手厳しいな」

「あなたが甘すぎるのです」

 即答する言葉は、やはり冷たい。

 若草は、苦笑するしかなかった。

「……」

一条は黙って若草を見つめていた。

 その視線を受けて、若草は苦笑することも(はばか)られる。そのまま何も言えず、何もできなくなって静かに固まってしまう。

「――それで」

 一条が口を開く。

「彼らの強化プログラムの実行はいつになさるんですか?」

 その言葉を聞いて、若草は拍子の抜けた顔をする。目を瞬かせても一条は静かに若草の言葉を待つように黙っていた。

 ――わかってくれたのか。

 若草の顔に笑みが戻る。

「早いほうがいい。一週間以内に準備できるかい?」

「もちろん」

「じゃあ頼むよ」

 一条は頷く。

 それでは、と一礼して一条は扉に向かっていく。

「……」

 ドアノブに手をかけようとしたところで、一条は踵を返した。

 つかつかと来た道を戻っていき、若草の不思議そうな顔をよそに、机の上に置いてある直方体の物体に手を伸ばした。掌大のそれを、一条は無造作に掴んで、何も言わずに元来た道を帰っていく。

「……それ、一条くんの?」

 若草が訊ねる。

「そうです」

 一条は振り向きもしないで、素っ気なく答える。

「話の途中でアラームを鳴らさなくても」

「お話がすぎるからです」

 一条はドアノブを回して廊下に出る。

「あなたは甘すぎます」

 一礼して、一条は扉を閉める。

 部屋の中に一人残された若草は、自嘲気味に笑った。


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