序曲
物心付いたときには光が見えていた。
人間は光で区別することができる。
普通の人間には、あまり光はない。手や足や頭などの、体のほんの一部分に薄い光を持つだけだった。
世の中には光を放つ人間がいる。体全体から眩いばかりの光を放ち、他の人とは次元を逸脱している。
強い光は眩しい。
目を開けていられない。
近づくこともできない。
体中から強烈な光を放つ人たちは偉い人なんだということを、子どもなりに理解していた。輝いている人たちは特別な存在で、何より他の人たちが光を放つ存在を慕って称えていたから、強い光を持っている人ほど、偉い人だということが理解できた。
僕は光に憧れた。
それは夜の中でしか生きられない醜い蛾が、街灯の明かりに恋をして、寄り添い、貪るように光を求めるのに似ていた。
だけど、僕は決して光にはなれなかった。
(こっち来んな!)
どこを探しても光はなかった。
僕は光を持っていない。
(お前臭いんだよ!)
自分がとても小さくて、醜くて、卑しい、どうしようもないダメな存在であると、そう思っていた。
(臭いのが移る!)
そういうふうにみんなが言うから、僕はそう信じた。
(えー、こいつと同じチームヤダー)
だから僕はみんなから指を指されるんだ。だから僕はみんなから煙たがれるんだ。
(お前のせいで負けたんだぞ!)
だから僕はみんなに殴られたり、蹴られたりするんだ。だから僕はみんなから物をぶつけられるんだ。
(こいつと一緒にいるとろくなことがない)
だから僕はみんなから嫌がられるんだ。だから僕はみんなから白い目で見られるんだ。
(弱虫ー泣き虫ー)
だから僕はみんなから名前で呼ばれないんだ。だから僕はみんなから命令されるんだ。
(それちゃんとやっとけよ!)
だから僕はみんなから無視されるんだ。だから僕はみんなから仲間外れにされるんだ。
(お前には関係ないの)
だから僕はみんなから邪魔者扱いされるんだ。だから僕はみんなから悪口を言われるんだ。
(あいつホントウザいよねー)
みんなの前に出れば、嫌というほど自分のダメさが露呈する。勉強はできないし、運動もダメだし、人前に出ると緊張して何も話せない。
全てにおいて、自分はダメな奴だった。
何をやってもみんなの足を引っ張る。どんなに頑張っても、どんなにみんなのために努力しても、全部がみんなの役に立たない。
やること全てがみんなの邪魔になる。
僕がいるだけでみんなを不快にさせる。
生まれつき、僕はダメだった。
こんなダメな人間は、最初から生まれてこなければ良かったのに。こんなダメな奴は、最初からみんなの前に出てきちゃいけなかったのに。
自分のことを考えると、みんなのすごさが痛いほどわかる。頭のいい子はいるし、スポーツが得意な子もいるし、いつもみんなに面白い話をする子がいる。
みんなは何でもできる。
何をやってもみんなはすごい。
みんなは輝いている。
すごい人は、きっと生まれたときから才能を持っていて、当たり前のようにみんなにはできないことを平気でやってしまうんだ。
できる人間というものは、生まれる前からその能力を身につけていて、だから他者よりも優れていることが当然のことで、光を放って輝いているのは、当人の優秀な才能を示す証なのだろう。
それに比べて、僕には何もない。
真っ暗だ。
光すらない。
どんな人よりも劣っていて、全ての人間の中で一番出来の悪い子どもで、みんなの中で最悪の存在。
そんな自分に泣きたくなって、誰にもバレないように、誰も来ないところで、こっそりと涙を流していた。
泣いている自分は嫌だった。
自分がダメなことは当たり前なんだから、自分がダメなせいで泣いたり、みんなのすごさを羨んだり、みんなの言葉に悲しく思うのは、とても傲慢で、自分勝手なことだから、泣くような自分は最悪だ。
もっと、自分の存在を思い知ればいいのに。
家に帰れば誰も、いない。それは僕があまりにもダメな子で、見るのも嫌だからなのか、近寄りたくないからなのか。
両親はいつだって家にいなかった。仕事が忙しいから、先にご飯を食べて、先に寝ていなさい、ってそう言われていた。
だから言われたとおりに、ご飯を作って、お風呂に入って、夜更かしはしちゃいけないって言われていたから、なるべく早く寝るようにしていた。
人よりダメな自分は、ちゃんと人に言われた通りにしていないと、いつもダメなことばかりしてしまうから、できるだけ人から言われたことはちゃんと守るようにしていた。人の言うことは正しくて、絶対だから、間違いはないから、間違いだらけの僕は、みんなの言いつけを守らなければいけない。
両親のためにいい子にならなければと思うから、家の中の灯りを一つだけ点けて、お菓子を食べながら、テーブルの上で勉強をする。テストでいい点を取るために、両親を喜ばせるために、両親から与えられた勉強道具を片っ端からやっていく。
だけど、やってもやってもドリルはなくならない。それは僕の努力が足りないからだ、そう思った。
だから、学校のない日は必死でドリルをやった。休日でも、両親の姿を見ることは少なかった。
光が消え始めたのはいつだっただろうか。
その人の目の下に、小さな点があることに気付いた。
いつもみんなの中心にいて、最も光に溢れていて、僕が最も畏怖していた存在だった。僕がその人に突き飛ばされたとき、初めてその人の顔に黒子のような黒い染みがあることに気が付いた。
最初はただの点だった。
それが日を追うごとに、ものすごい勢いで成長していく。
その人が僕に近づくたびに、黒い染みは徐々に広がってゆく。黒い染みはその人の頬を覆い、片目を隠し、髪までも染みの黒に変色していった。
初めて僕が光の中から黒いものを見つけてから、一週間もしない頃だった。
(おいっ!×××××)
放課後の教室で、僕が帰ろうとしていたときに、僕は呼び止められた。
それは僕の名前ではなかったけれど、僕を呼ぶときの記号として、よく使われていた。正確には、その記号でしか僕は呼ばれていなかった。
僕は振り向いた。
呼んだのはその人だった。
みんなが大きな笑い声を上げた。その人もきっと笑っていた。でも僕には気付けなかった。わからなかった。僕はその人を見て、心臓が止まりそうになるのを感じた。
――…………………………。
顔がなかった。
目はない。見えない。鼻も、口も、皮膚の色も、髪の色も、すでに本来の髪の毛とは違う色をしていた。
黒いもので、その人の顔は完全に侵されていた。
――…………ダメだ。
その人は僕を呼んで、他の人と一緒に僕を別の場所へと導いた。
誰も来ない、学校にいるみんなも、先生たちでさえやって来ることのない、物置のような空き教室。
そこに滅多に人が来ないことを、僕は知っていた。だって、そこは僕がよく連れて来られる場所だったから。連れてこられて、他の人が来ることがなかったから、ここは僕のダメさを思い知らされる場所なのだと、僕は認識していた。
――ダメだ。
光に囲まれて、僕の体は動けなくなった。
みんなは光を持っている。
大小や、光の強さには個人差があったけれど、光を持っていない人はいなかった。僕以外の人間は例外なく、何らかの形で光を持っていた。
僕以外はみんな優秀で、僕だけが最も劣悪で。
光が僕に向かって飛んでくる。
光の中から笑い声が上がる。
僕の体のいたるところに光がぶつかる。光が当たるたびに、僕の体は熱くなって、あまりの熱さに意識がボーっとしてくる。
いつもなら、途中で意識を失う。大勢の光の前に圧倒されて、僕は自分をこの場所に留めていられなくなる。
でも、その日は違った。
光の中に、墨のように淀んだ、黒い塊がちらついていた。
光のない穴が、僕をじっと見ているのがわかる。僕は恐怖を感じて、そこから目を離せなかった。
――ダメだ!
その人と僕は二人だけになった。気付いたときには、黒い染みはその人の首の根元まで侵食していた。きっとそのうち、光を奪う黒い染みはその人の体全体を呑み込んでしまうだろう。光を失って、その人はただ黒いだけの、穴の開いた存在になってしまう。
僕は恐れた。
怖れた。
懼れた。
畏れた。
言いようのない恐怖が、僕の体に満ちていく。
――ダメだっ!
何とかしなければ。
そう感じたとき、僕の目に光を放つものが見えた。
人以外のもので光を感じたことはなかった。この瞬間が初めてだった。その強烈な光が、僕の頭の中を明るく照らす。
大丈夫、今僕が君を助けてあげる。
君から光を奪わせたりなんかしない。
君の光を返してあげる。
君の光を守ってあげる。
僕は静かにその人に近づいて、近くにあったのこぎりで、光を奪うものを、その人の首の根元から切り取った。