ダダと黒めがね
明治から戦争に負けるころまで、西日本の土木業界に名を馳せたヨシユキST郎という男がいました。明るさと侠気、思慮分別と気働きを重ねて、岡山の土建業界の「御大」と呼ばれるようになったST郎ST郎の「とんでもない息子たち」の話です。それぞれに個性的というか、一筋縄では行かない「不良」がいた時代がありました。お気楽に読んでいただいて、笑い飛ばしていただければ幸いです。 拙著ブログ『軽はずみ備忘録』、ブログまとめサイト『WEB版・軽はずみ備忘録』掲載原稿を一部改訂しています。
…………………………………………………
■其の1 妄想劇場 ST郎・歓喜惜別編
…………………………………………………
1枚の写真がわが家に残されています。ふたりの息子を両脇に従えた祖父・ST郎の写真です。中央に座るST郎は、自信に満ちた穏やかな表情。向かって右には、学帽、絣の羽織・着物姿の少年が洋犬(ポインターの子犬)を懐に抱いて立っている。左は、腰掛けに座らされて、床に届かない足をぶらぶらさせている風情の、やはり絣の着物を着た男の子。うりざね顔の右の少年の学帽は丸帽です。彼が進学することになる旧制中学校は、全国でも珍しい角帽で有名でした。ということは小学生。口の端にわずかにたたえた笑み。しかし眼は笑っていない。初めて見たとき、僕はそれを不敵だと感じました。あまりにも大人びているのです。人生のあれやこれやをすでに達観しているかのような小学生。長男・A助です。丸顔・丸刈りの左の男の子は、なぜか不機嫌そうにレンズを凝視している。次男・KN造、僕の父です。おそらく、1916年(大正5)頃に撮られた写真だと思います。とすれば、A助・10歳、KN造・5歳。
ヨシユキと並ぶ草生の旧家・ナリヒロ家から、ST郎は妻OT枝を迎えました。しかしOT枝は、長女・YS子を残して早世してしまいます。前にも書きましたが、ST郎は亡くなった妻の妹・MR代を後添えとして迎えます。待望の長男・A助が誕生したのは1906年(明治39)。ST郎37歳。嬉しかったと思います。待望の男の子、跡継ぎの誕生でした。
「よぅやったよぅやった、MR代、元気な男の子じゃ」
岡山市丸の内。通称「桜馬場」と呼ばれた屋敷街。旧岡山藩の重臣の屋敷を買い取ったヨシユキ組は、A助誕生の祝宴で盛り上がっていました。広間に集められた男衆は、女衆たちが次々にサーブする酒肴に酔いしれていました。
(うみゃあ[美味い]!)
末席に連なるTK原のおじいちゃん(当時はまだ少年+αの世代)は、次々と供される普段は口にできない料理に圧倒されながら、自分に言い聞かせていました。
(いつかはワシも、こんな〈うみゃあ〉飯を食える身分になってやる)
床の間を背にした宴席の中央には、満面の笑みをたたえるST郎。MR代はその横にあって、乳飲み子のA助を抱いて、その穏やかな寝顔をただ慈しんでいる。宴席がはじけて、広間に男衆たちの歌声が響く。その声音に驚いたのか、A助がむずかりはじめます。とんでもない男1号・A助にも、頑是ない時代はあったのです。泣き声は次第に高くなる。
「叔母さん、A助は女中に任せればえぇが!?」
(任せておけばいいじゃない)
男衆の盛り上がりを無表情に見つめていた、長女・YS子の乾いた物言いに、MR代は返す言葉をひとまず呑み込む。女学校在学中の15歳。ST郎が「女として生まれたこと」を後々まで悔やんだ「激しい気性」のYS子は、新しい母・MR代を、事実としての叔母としか認めていませんでした。風雲急を告げる人間関係。けっこうドロドロです。ヨシユキ組は当時上げ潮でした。心身ともに充実したST郎は、鉄道建設、橋梁やトンネル工事といった、得意の分野で実績を積むことに没頭していた時期。実母を亡くしていたYS子は、お付きの女中たちに傅かれて、自由奔放に育っていました。いわゆる〈お姫さま〉。ST郎も娘に弱い父親の典型でした。
「YS子も(女学校を)卒業するんですから、そろそろ嫁ぎ先を決めにゃいけませんね」
「まだ早えぇ(早い)」。閨の耳元で囁くMR代の言葉を否定しながらも、ST郎は覚悟しはじめていました。
(女に生まれた不運じゃ、YS子)
縁談。死語になりつつある「仲人」という人たちが、しかるべき男女を結びつけるべく目を皿のようにして情報収集していた時代です。自由恋愛(うわッ、歳がバレるような古い言い回し!)があたりまえになるまでは、見合いから結婚までを取り仕切る、ある種特別な存在でした。
以下はかなり時代錯誤な話ですので、それを踏まえてお読みください。
「いやです。いやじゃ、いやじゃ」
「女はえぇ亭主に仕えるんが、一番じゃ」
「お父さん! 叔母さんの差し金なん(ですか?)」
「阿呆ぅ! MR代は、いやお母さんは、おめぇ(おまえ)の行く末を案じとるんじゃ」
「私はこの家をでとうない(出たくない)」
「ワシが頼りにしとる人からの話じゃ。えぇから(ともかく)会え! 会わんと許さんぞ」
泣きの涙の仏頂面によってたかって化粧され、晴着に身を包んだYS子は、ST郎に伴われて人力車の人となります。桜馬場を出た人力車は手入れの行き届いた長い松並木を抜け、内堀越しの岡山城天守閣を右に見て坂を駆け上り、後楽園を望む旭川沿いの料亭に到着します。その一室に、見合いの席は設けられていました。
「まぁヨシユキさんのお嬢さま、あんまりおキレイじゃから、どこぞのお姫さまか(と)思いました」
出迎えた女将の世辞を遠くに聴き流して、〈お姫さま〉YS子は見合いの席に臨みます。
「お待たせいたしました」
「おぉヨシユキさん、お待ちいたしておりました。ささこちらへ、お嬢さんもこちらへどうぞ」
仲人に促されて座るYS子。正面の男の顔を見ようともしないのは、意地でした。相手のことなど知るつもりもなかった。女中たちから漏れてくる「お嬢さま、お見合いのお相手は、医学博士じゃそうでございますよ」などいう、いらぬ伝聞も癇に障っていた。
(医学博士かなんか知らんが、30歳の年寄りとなんで私が……)
「ヨシユキさん、中島KS男さんです。中島さん、ヨシユキST郎さんとお嬢さんのYS子さんです」
「本日はご足労いただき、ありがとうございます。中島KS男と申します」
「ヨシユキST郎です。本日はよろしくお願いいたします。YS子、ご挨拶せんか」
「ヨ・シ・ユ・キ・y・s・子……でございます」
場のすべてを頑に拒むかのような、抑揚のないその物言いに、男がくすり、笑ったような気がした。
(失礼な……)
悔しさと恥ずかしさで思わず上げた視線の先に、穏やかに微笑む丸メガネの男がいました。
「失敬。僕、いや私のような男で申し訳ない。ヨシユキさんは、ずいぶん率直な方じゃなぁ思うて」
自分の心のうちを見透かされた恥ずかしさで、YS子の顔がみるみる赤くなる。
「釣書(*1)にもございますように、中島さんは鴨方藩(*2)御馬回り役の家にお生まれになり、第一岡山中学校(*3)から第三高等学校を経て京都帝国大学(*4)医学部に進まれた俊才です。いまや医学博士として……」云々。
滔々たる仲人の口上が、たんなるノイズとして流れていく。「YS子さんは、ヨシユキST郎さんのご長女として……」。自分の紹介はもちろん、男が早くに父親をなくしたこと、母親が苦労の果てに男を大学にやったこと、その母親も先年亡くし天涯孤独の身であることなど、どうでもよかった。気がつけばYS子は、帰りの人力に揺られていた。
「私、いや僕は、ヨシユキさんのような女性にお目にかかれたことが嬉しかった。正直であることは気持ちがえぇ。このような貴重な機会を頂戴して感謝しております。ありがとうございました」
「女性」という、新しい言い回しが耳に残っていた。あの男、いや、あの「男性」は別れ際に、私にそう言った。父親は無条件に愛してくれる。その他の人間は腫れ物を触るように、いまも自分に接している。しかし、自分をフラットに見てくれる人間がいたことが、YS子を激しく揺さぶっていました。
なんか、思春期ものの、下手くそなドラマみたいな展開になってしまいました。反省。ともかく、気位の高い〈お姫さま〉YS子は、「選ばれることなどありえない。相手は自分で選ぶ」ことを決断し、さっさと中島家の人となってしまいました。
(YS子を乗りこなせるんは、あの男しかおらん[いない]かもしれん)
愛娘を手放すST郎も、自分を納得させるしかない結末でした。そしてMR代は、溺愛する息子・A助の約束された未来に想いを馳せていました。
(お姉さんごめんなさい。ヨシユキの家は、私の、A助のものになりました……)
*1 釣書:縁談などの際に取り交わす身上書。(出典:大辞林)
*2 鴨方藩:(以下転載/原文ママ)──江戸時代、備中国(岡山県)浅口郡鴨方に陣屋を置いた岡山(池田)藩の支藩。池田光政の次子政言が1672年(寛文12)備中国浅口、窪屋、小田3郡内に2万5000石を与えられて立藩、以来10代にわたって在封して明治維新に至る。(以下略)──(出典:コトバンク「日本大百科全書」https://kotobank.jp/word/鴨方藩-1292926)。
*3 第一岡山中学校:岡山藩の藩校を起源とする岡山県立の旧制中学校。現・岡山朝日高等学校。
*4 第三高等学校を経て京都帝国大学:第三高等学校は京都にあった旧制高等学校。戦後京都帝国大学とともに、現在の京都大学を構成する母体となりました。
………………………………………………………
■其の2 妄想劇場 まずは、僕と黒めがね編
………………………………………………………
1945年(昭和20)6月29日の早暁、アメリカ軍による空襲で岡山市中心部はあっけなく燃えつきました。岡山駅近く、桶屋町のヨシユキ組の家屋敷は、その只中にありました。祖父ST郎は長女YS子のもとに身を寄せ、母TM子と当時5歳のKRK(初登場。僕の兄です)はヨシユキの故地・草生に疎開。父KN造は岡山に残って組の再建を指揮することになりました。
TM子の実家は旧岡山藩士でした。しかも、剣技を極めることに専心するという特異な選択をした家でした。明治になって、「剣術」から呼び名を変えた「剣道」を生業としていたことは、【御大 壱】で書きました。敬慕されてはいるのですが、決して裕福ではなかった。生き残ってしまった「侍」としての体面は保ちつつも、生活は質素でした。その家の娘が、「御大」と呼ばれ、西日本に名を轟かせる土建屋の親玉・ST郎の息子に嫁ぐことになった。つつましい生活が一転、女中たちにかしずかれる立場になってしまった。しかし、戦争がその様相を一変させました。わが家に嫁いで10年。初めての田舎暮らしでした。
父母を敬い、夫に仕え、子を慈しみ育てる。侍の娘として躾を受け、「良妻賢母」の安定供給を図った戦前の高等女学校教育を受けたTM子は、従容としてその状況を受け入れた。というか、僕が聴かされた話では、母はその事態を楽しんでいた節もあります。いろいろと、あれこれ、なにくれに、けっこう苦労した彼女の強みは、「くったくがない」ことだと、僕は思っています。
忍従=自分を押し殺し、出しゃばることなく、辛さに堪え抜く。明治以降の日本の女に、あたりまえに要求された資質でした。世界史的にも稀な、女の精神的・肉体的自由が担保されていた江戸時代までの「大和の美風」が、幕府とともにあっけなく瓦解した。一気に力を得たのは、歪められた儒教精神と、独善的解釈による禁欲的プロテスタンティズムが融合し、急速につくりあげた「日本の女」像でした。「和魂洋才」ではなく、「和漢洋魂交雑、あげく無才」の果ての負の遺産、男尊女卑です。そのお先棒として、「良妻賢母」という男に都合のよい考え方が形成された。
TM子は「良妻賢母」たる自分を疑ったこともなかったかもしれません。しかし彼女は、根っこにある「くったくのなさ=夢見る少女としての自分」を忘れることはなかった。それを拠り所にしなければ、こころのバランスが保てなかった、と言い換えていいのかもしれません。
「田植えや草取り、稲刈りもしたんよ。もともと色黒じゃったのに、野良仕事を手伝うたから、陽焼けで真っ黒になってしもうた。お百姓の奥さん連中とは、それで仲良うなったんじゃ」。「奥さん、玉子がようけ(たくさん)採れますけぇ、鶏をこうたら(飼ったら[*1])えぇですよ」と勧められて、TM子が庭で飼った白色レグホン(*2)の話は、よく聴かされました。
「よう私に馴れとった。『レグちゃん、レグちゃん』言うて呼んだら、ワァっと寄ってきて餌をねだった。かわいらしかったなぁ」
「くったくのなさ」の裏に秘めざるをえなかった、彼女の心の闇の果てに僕は生まれるのですが、その辺のところはいずれ書くとして、結局疎開暮らしは8年間も続きました。父・KN造は週に1度ほど、当時手に入りにくかった生活物資を抱えて草生にやって来ていたそうです。8月の敗戦後は、それに占領軍から横流しされた闇物資──コンビーフ缶、ベーコン、バター、チーズ、チョコレートなどが加わって、小さかった兄は、それを心待ちにしていました。
「KRKは、熱々のご飯にバターを載せて、醤油をかけて食べるんが、ホントに好きじゃったんよ。じゃから、あんなに大きうなったんかもしれん」
わが家が疎開中に、喘息に苦しんでいた伯父A助の長女・KZ子が、東京から転地療養で草生に一時暮らしていました。KZ子はKRKの5歳年長。育ち盛りの子どもたちでした。
「パパ(KN造です)がこうて(買って)きた『ビオフェルミン(*3)』を、KZ子とKRKが、隠れてガリガリ齧ってしもうて、あれにはあきれたなぁ。甘いもんが少なかったから、思えばかわいそうな話じゃ」
米、野菜、玉子は足りているし、夏には旭川で鮎がウソのように獲れた。秋には鉄砲撃ちが野鴨や雉を届けてくれた。筍や山菜、茸も採り放題。村の人たちに頼めば、庭のニワトリたちは新鮮なチキンに変身もした。岡山の実家にも食料を送ることができた。そして、KN造が持ち込む外国食材は、家族を養うには十分すぎるものでした。飢えることもなく、焼け野原の岡山を見ずに暮らせたことは、ある意味しあわせだったのかもしれません。
この8年間は、KN造にとっては余りある自由な時間でした。実権はKN造に移っていましたが、ST郎は相談役としてなお、ヨシユキ組に大きな影響力を行使していました。76歳。半世紀にわたり、男気と気働きを重ねて築き上げてきたヨシユキ組でした。それが、自分に説明しようのない、理不尽な瓦礫と化した。家屋敷の焼け跡を前にしてついに、ST郎は気力を失いました。
「KN造、後は好きにせぇ。草生にも行かん。ワシはYS子のところへ行く」
ST郎を姉のもとへ送り出したKN造は大胆な手を打ちます。岡山市桶屋町の大部分を占めたヨシユキ組の土地を叩き売ったのです。二束三文だったと思います。同じころ、焼け跡となった岡山市中心部の、まさに二束三文になってしまった土地を買いあさった一家がありました。明治時代に創業し、革新的な製造技術で、国内だけでなく中国大陸にまで販路を広げて莫大な利益を上げた水飴製造会社・HB家です。HB家は、敗戦後も技術革新を続けて多数の特許を取得。澱粉由来の糖質から、有名な甘味料や抗癌剤を開発する、世界的なバイオメーカー、超優良企業に成長しました。最近では、四半世紀にもおよぶ、創業家一族による粉飾決算が発覚し、会社更生法を適用されたことでも有名です。HB家を躍進させる研究・開発を支えたのは、買いあさった不動産による莫大な収入でした。取得した土地は2万坪(約6万6千平米)にもおよんだそうです。
余談ですが、母が愛してやまなかった実弟・奥村NO道はHBカンパニーの役員でした。快活で気さくな叔父でした。わずかな例外を除いて親戚付き合いを好まなかったKN造も、NO道とは気が合った。同族経営によるスキャンダルが発覚するずいぶん前に亡くなったので、叔父にとっては幸いだったと思っています。同じ明治創業の、敗戦までは肩を並べる規模だった会社の選択の違い。経営センスと言ってしまえばそれまでですが、KN造は、ヨシユキ組にひとつの決着をつけたかったとしか思えない。わが父ながら、いまも複雑でとらえどころのない人間です。
まぁそれはそれとして、素朴な疑問。土地を叩き売ったのはいいけど、KN造は岡山で独りどんな暮らしをしていたんだろう?
*1 こうて:岡山弁の「飼う」と「買う」です。ちなみに「かって」は、「買う」のではなく「借りる」という意味です。
*2 白色レグホン:(以下転載/原文ママ)──① 白色レグホン:一般の採卵鶏として有名な鶏です。「白レグ」、「ホワイト レグホン」とも呼ばれています。イタリアで作出され、アメリカで改良を重ねられた品種で、世界的に最も普及しています。白玉鶏(白い殻のたまごを産む鶏)として有名で、わが国の産卵鶏も約80%がこの種類です。(出典:「ニワトリの種類」http://homepage3.nifty.com/takakis2/keisyu.htm)
*3 ビオフェルミン:大正時代に考案された、ビオフェルミン製薬の国民的乳酸整腸剤(武田薬品販売)。乾燥した乳酸菌の香りとほのかな甘さがある錠剤であることは、みなさんご存知の通りです。多量に摂取しても、ひたすら腸が活性化するだけという安全な薬です。
……………………………………………………………………
■其の3 妄想劇場 まずは、僕と黒めがね前史・空襲編
……………………………………………………………………
アメリカ軍の空襲を受け、人口約16万人、中心部に10万人が暮らしていた市街は、焼かれ歪んだ鉄骨をさらす、わずかなコンクリート建築物を残して、真っ平らの焼け野が原になっていました。無差別絨毯爆撃の無惨な現実です。
アメリカ・イギリスを中核とする連合軍は、ドイツに対する空襲には通常爆弾を多用しました。石造りの街を破壊するのは、それが効果的だったからです。ドレスデンをはじめとする諸都市は、それで壊滅しました。一方、木造建築が蝟集する日本には、投下すると即火性の油脂成分を含んだ小爆弾が四方八方に飛散して、辺りかまわず焼きつくす焼夷弾が多用されました。ベトナム戦争で多用されたナパーム弾もその仲間です。
空襲警報を発令する暇もなく、約1時間半(*1)にわたり徹底的に街は焼かれたそうです。ピクニック飛行のアメリカ軍偵察機が撮ったと思われる、焼け野が原になった岡山市の空撮写真を見たことがあります。迎撃する余力なし。制空権なんて言葉もむなしい、敗戦直前の日本の現実でした。無差別爆撃については、その重すぎる結末は承知していますが、僕が、ここでとやかく語る資格はありません。ナチスドイツはロンドンやゲルニカに、大日本帝国も重慶に同様の爆撃を行った事実もあります。
その空撮写真の右上、市街の北東部に、なぜか焼け残った一角があります。一番町~八番町、廣瀬町、上出石町。TM子の実家・奥村家はその中心近く、三番町にありました。僕は空襲を知る由もないのですが、通っていた岡山市立弘西小学校にその残滓がありました。1872年(明治5)に開校した岡山で最も古い小学校のひとつです(現・岡山市立中央小学校)。1936年(昭和11)に鉄筋コンクリートに改築された、レトロで堅牢な校舎を誇る学校でした。
鉄枠にパテでガラスを固定した窓。左右ではなく上下に開け閉めする古典的形式でした。教室の南側の、その窓の上部に「バッテン印」のテープ様のモノを貼った跡が並んでいました。
「なんじゃろう?」と思っていました。
「あれはなあ……」と、有安先生(*2)が説明してくれました。
先生は師範学校在学中に、水島(現・倉敷市)の軍需工場に勤労動員され、アメリカ軍戦闘機の機銃掃射を浴びた経験がありました。いつ襲いくるかもしれない空襲。ガラスが飛散して児童に危害が及ばないようにするために、糊で貼った紙テープの跡だったのです。
少国民(学童)を鬼畜米英から守れ! って、紙テープですよ? そんな、馬鹿げた戦争を誰がはじめたのか! ST郎の野望達成のキーマンだった宇垣一成なら、こんな阿呆極まる事態を回避できたのか? つらいなぁ。軍部のプロパガンダというやつに、多くの国民が浮き立ち、ノリノリ……熱狂的に支持した戦争でした。歴史は巻き戻せない。柄にもなく興奮してしまいました。お恥ずかしい限りです。僕が当時生きていたら、付和雷同して戦意高揚を叫んでいたかもしれないわけですし。
しかし、やりたい放題のアメリカ軍とはいえ、効率的かつ効果的な爆撃は作戦の枢要でした。一地方都市を壊滅させるための、圧倒的な物量に裏打ちされた作戦は、それをカンペキに保証していたはずです。それがなぜか、不思議な無傷の地域を残してしまった。いろいろとググってみたのですが、確証は見つかりません。またまた、母から聴かされた話です。
太平洋戦争初戦の戦果に国中が沸き立ち、空襲なんか、誰も想定していなかったころ(1942年[昭和17]初頭と思われます)。母の実父・奥村TR吉(祖父です)の剣道の弟子である陸軍航空隊の将校が、祖父に語ったそうです。
「軍機ですが、先生にはお伝えしておきます。この辺り(焼け残った地帯)の上空には、乱気流がありましてなぁ、飛行訓練も許されておらんのです。万々が一のことがあったとしても、米英の飛行機は近づけん思います」
その話を信じていたかどうかはわかりません。TR吉は家族を逃がしたあと、真剣を携えて独り自室に籠り、端座瞑目して動かなかったそうです。爆音と炸裂音が交錯する、阿鼻叫喚の業火がすぐそこに迫っている。なんなんでしょうね。軟弱の極致である僕なら、パニックに襲われてますよ、きっと。肝っ玉がすわっているというかなんというか。「もしや」と思います。火が及べば割腹して果てようとしていたのかもしれない。そんな妄想を想起させる、当時67歳。
【御大 壱】に書いた、わが家への嫁入り前夜の母に「離縁されるようなことがあったら、これで喉を突いて死ね!」と、懐刀を与えた人。みごとなハゲ頭に胸まで伸ばした白髭がトレードマークでした。尖った鷲鼻にくぼんだ眼窩の大きく鋭い瞳。わかりやすい顔のイメージは猛禽類です。贅肉を完全にそぎ落とした、ヨガの行者像も近いかもしれない。僕が物心ついたころは、すでに80代でした。遊びに行くと「おぉ、よう来た、よう来た」と相好を崩してはくれるのですが、近づきがたい威厳がありました。子どものころから剣技を極めることしか頭になかった人です。「おじぃちゃん!」なんて甘える雰囲気ではありませんでした。
それはともかく、結果的に、直線距離約350mのところで、陸軍航空隊将校の予言は的中しました。350mとは、弘西小学校と母の実家との距離。校庭の南端に併設されていた弘西幼稚園は、爆弾の直撃を受けて瞬く間に炎上したそうです。小学校の一部にも爆弾は墜ちたようですが、鉄筋コンクリート建築は無事生き残った。校庭を東西に横切るラインが、焼け野が原と、そうでない地域を分けたのです。
思えば、爆撃と猛火の中を逃げ惑いながら幸運にも生き残った父母がいたから、僕もいるわけです。
空襲の夜、母は使用人たちをまず逃がし、76歳のST郎と5歳のKRK(僕の兄)の手を引いて、燃え墜ちる市街をひたすら歩いたそうです。目指したのは、実家のある三番町だったと思います。距離は1.4kmあまり。
母がよく言っていました。
「ザァ~ッ! いう、雨みたいな音が、いまも耳にこびりついとる」
「ザァ~ッ!」とは、焼夷弾が降り注ぐ音です。例が適切ではないかもしれませんが、天空で炸裂して夢のような花を咲かせるのではなく、いったん舞い上がり、しだれ桜のように流れ落ちる花火の音がそれに近いのではないか、と僕は思っています。「……米英の飛行機は近づけん思います」。TR吉から聴いた話が、生死を分けたのかもしれません。炎に追われ、飛び交う流言に惑わされて亡くなった人は多かったと思います。
(三番町にたどり着けば助かる)
TM子は父・TR吉を信じて歩き続けて、ST郎、KRKともども生き延びることができました。
……って、それはいいとして、父・KN造は、どうしてたんでしょう? その夜、KN造はヨシユキ組にはいませんでした。
*1 約1時間半:作戦に投入された戦略爆撃機B─29は約140機。東京の下町を焼き尽くした3月10日の大空襲が300機余りだったそうですから、岡山市などひとたまりもない規模の爆撃です。(以下転載/原文ママ)──(前略)6月28日夜、マリアナのテニアン島の基地からアメリカ軍の爆撃機・B-29、141機が岡山へ向けて発進した。B-29の一団は途中、3機がトラブルに見舞われ、テニアン島へ引き返したものの、残りは紀伊水道から淡路島の南の沼島、小豆島南端、犬島の上空を通過し、旭川河口から岡山へと侵入した。そして、翌29日午前2時43分、138機のB-29による岡山市への爆撃が開始された。B-29が西に飛行しているという情報が岡山を監督する岡山監視隊本部に入ったのは、空襲の3分前の午前2時40分であった。しかしながらその情報は間に合わず、空襲警報が発令されないまま空襲が始まり、市内はほぼ壊滅状態となった。空襲には照明弾と焼夷弾が使用された。焼夷弾は爆風による破壊効果をもつ大型の油脂焼夷弾(AN-M47-A2)と殺傷能力を高めるために猛毒の黄燐が混入された小型の集束焼夷弾(AN-E48、集束弾からAN-M74焼夷弾38本が散開)の2種類が約890t(約95000発)投下され、市街地は一面火の海となり、逃げ場を失った1700人を超える市民が犠牲となった。世界的外科医の三宅速もこの空襲の犠牲となった。(後略)──(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「岡山大空襲」最終更新 2016年5月5日 (木) 04:30 https://ja.wikipedia.org/wiki/岡山大空襲)
*2 有安利夫先生。4年~6年生まで、3年間担任だった先生です。水に恐怖心があった僕を、水泳大好き小僧にしてくれた恩人です。将来志望するべき大学まで想定して、期待をかけてくれた。その思いは、カンペキに反古にしてしまった。申し訳ありません!
……………………………………………………………………………
■其の4 妄想劇場 まずは、僕と黒めがね前史・空襲後日談編
……………………………………………………………………………
「女遊びは男の甲斐性」なんてぇ話がまかり通っていた時代がありました。お江戸から明治、大正、昭和くらいまででしょうか。「女」ってぇましても、街をプラプラしてぇるおねえちゃんたちじゃない。多くの場合は玄人衆。芸者さんやお女郎さんを指していた。芸者遊びや廓通いを「女遊び」ってぇ呼んでたんですな。
お店の旦那衆なんか、贔屓の芸者や女郎を引かせて……身請けってぇやつですな、お妾さんとして囲った。囲ったって、閉じ込めたわけじゃないですよ。黒板塀かなんかで囲われた、小洒落た家を買い与えて、身の回りの世話をする婆やなんかを付けて、お小遣いを与えるだけじゃなく、衣食住すべてのめんどうを見た。
湯ぅ屋(銭湯)で躰ぁ清めて、婆やに髷を結わせ、入念に化粧する。お酒と料理の準備も万端。あとは、旦那を待つぅ~ばかぁりぃ~♪ なんてね。いやぁ艶っぽいってぇか、なんてぇか、道楽者にぁたまらない。そんな世界があたり前にあったんですな、昔の日本には。
まぁ、そんな道楽者の話です。備前の国は岡山に、ヨシユキKN造という、稀代の道楽者がおりました……。
「まくら」、いやいや前置きが長くなりました。ここから妄想の本編です。
1945年(昭和20)6月29日午前2時43分。寝静まった岡山市の空をアメリカ軍の爆撃機が覆いつくしました。140機にもおよぶB─29の波状攻撃でした。ただならぬ様子に、KN造が目を覚ます。妓楼2階の窓からは、街を屠ふる炎が、一気に迫り来る様子が見てとれました。
「どぅしたん、若旦那ぁ……」
「阿呆ぅ! 空襲じゃ! 早よぅ逃げぇ!」
半覚醒で軀をまさぐろうとする馴染みの敵娼を叩き起こす。有無を言わせず寝巻きを羽織らせ、有金を渡して逃がし、身繕いしたKN造は急ぎ楼外に出る。市中心部近く、川湊として栄えた京橋のたもと。旭川の中州だった東中島と西中島に造られた「中島遊廓」も、瞬く間に炎に包まれました。狭い島内に軒を連ねた見世=妓楼からは、火に追われた客や女たちが次々に転げ出る。家々を一瞬に破壊し燃え上がる炎、果てしなく降り注ぎ、軀に貼り付いて離れない油脂を含んだ悪魔の火の粉。悲鳴、怒号。
KN造の黒めがねには、ふんどし一丁の男、全裸半裸の女も混じる路地にひしめく人々が、われ先に、闇雲に逃げ惑い、業火にさらされる地獄絵図が映し出されていました。古代から人の営みの一面に確かにあった聖俗の境界=アジールは、焼きつくされました。KN造自身もどこをどう逃げおおせたのか、記憶は曖昧でした。
桶屋町にほど近い西中山下にあった、軍需工場の社員寮で被災した秋山美津枝さんという方の手記の一部を転載します。(以下転載/原文ママ)
──(前略)逃げた先は京橋の下で、大勢の人で埋まり、
周辺は物凄い勢いで家が燃えあがり、
いつの間にか降り出した大雨が風を呼び、
炎は火柱となって
雨戸とか戸板のような物を渦の中に高く巻き上げて、
バチャンバチャンと川面に叩きつける音と光景は、
この世で起きていることとは思えず、
唯一人で逃げている私を震えあがらせました。
(後略/転載終わり)──
(出典:岡山市ホームページ「戦争・戦災体験記:空襲にあいやっとたどり着いた我が家」)
http://www.city.okayama.jp/hofuku/engo/engo_00073.html
京橋のたもと、難を避けた人ごみの中にKN造もいた可能性があります。この橋は路面電車が通る、頑丈な鉄骨造りの橋でした。
夜が明けても雨はやみませんでした。なおも燃え続ける家々、崩れ落ちた街、かつて人間だった、焼けただれ炭化した物体を眺めながらKN造は歩きました。ふしぎなほど、なんの感情もわき起こりませんでした。炎は間近に浴びましたが、幸いなことに怪我、火傷も負っていませんでした。ヨシユキ組まで2キロ弱。
国が制定した、戦時中の男性の標準服「国民服」をKN造は好みませんでした。
(こんな野暮な[=ダサイ]もんが着られるか!)
なので空襲前夜も、これ見よがしではなく細部に凝った着流し、大好きな裏革の雪駄姿で遊びに出かけたのではないかと妄想します。女道楽に加えて着道楽の34歳。
「今夜は帰らん」
「はい。いってらっしゃいませ」
柄にもなく、前夜家を出る前の妻TM子との短いやり取りが蘇る。TM子の後ろで、女中に抱かれた息子KRKが「パパ(*)、バイバ~イ!」と手を振っていた。
電車通りから、ヨシユキ組があったはずの、廃墟と化した桶屋町に入る。
「御大!」
「おぉTK原、無事じゃったか」
赤銅色のTK原の顔は、煤と泥で真っ黒になっている。焼けこげたトレードマークのハンチング、法被、ニッカボッカが爆撃の凄さを物語っていました。
「お~いッ、御大が戻られたぞ!」
難を逃れた組の男衆、女衆が三々五々戻って来ていました。
「ひでぇかっこうじゃのう、TK原」
「御大こそ、ご自慢の着流しがだいなしじゃ」
そこら中に火の粉で穴の開いた着流しの尻はしょり。粋な若旦那で出かけたはずが、焼け出されたみすぼらしい素町人のような姿になっていました。
「阿呆ぅ、それよりほかの連中はどうなった」
「安否の分からん者はおりますが、ヨシユキ組の人間は攻め方はもちろん、逃げ方もまたよう心得とりますけぇ」
「親父は、TM子、KRKは」
「安心してつかあさい。みなさん三番町の奥村さんの家に無事でおられます。あの辺は焼けとらん。無傷で残っとりますらぁ」
組の本拠は壊滅でしたが、幸い爆撃域のかろうじて外側にあった資材倉庫は残されました。土木資材だけでなく、緊急用の米、味噌、寝具なども確保してあった。自分の家に帰ることのできる者は帰らせること、そうでない者は当座の雨露をしのぐ場所として倉庫を使うこと、また安否の分からない者の確認をTK原に命じて、KN造は三番町に向かいました。
すべて妄想です。
緊急の対応策として、似たようなことは行われたはずです。間違いのない事実は、空襲当夜KN造は、遊びに出かけて戻らなかったということ。呑んで遊んで、どこにしけこんでいたのか。ここでは遊廓を選びましたが、「囲って」いた女の家だった可能性も高い。
KN造の女遊びは徹底していました。成功者として、それなりに遊んでいたST郎も、「あいつのやりようは、常軌を逸しとる」と、完全に匙を投げていた。それでも新婚当初は、多少「おとなしうしてくれとった」とは、母の述懐。しかし、
「KRKが生まれてからは、箍がはずれてしもうてなぁ」
1940年(昭和15)。皇紀2600年の奉祝に日本中が沸き返った年。結婚5年目にして授かった長男の誕生を境に、KN造は「女道」の求道者のごとく遊びまくるようになりました。馴染みの女は多数いたはずです。それでも自分なりのルールはありました。相手は玄人限定。たまに、目にとまったヨシユキ組の女中たちをつまみ食いするのはご愛嬌!? そういう時代だったからしゃあない、というか、かつての日本では特異な例ではありませんでした。KN造は、当時そこら中にいた「道楽者」の一人にすぎません。
ただ僕は、とり憑かれたかのように放蕩を身を投じた、ヨシユキ・KN造という複雑な人間の「とらえどころのなさ」に興味があります。彼を衝き動かしていた「情動」のうしろに、「果てしのない虚無」のようなものを感じるからです。……なんちゃって、僕らしくない話はここまで。父・KN造のこころの内に迫る(迫れるのか!? ホントに?)話は追々書くとして、時間を1945年(昭和20)に巻き戻しましょう。
ヨシユキ組が被った被害は甚大でした。人的損耗もありました。空襲以来、一気に老け込み往時のパワーを失った〝先の御大・ST郎〟は、長女YS子に手を引かれ、彼女の嫁ぎ先、郡部の中島家へ疎開しました。岡山だけでなく、西日本全域の土建業界に睨みをきかせていたST郎の最期が迫っていました。そして、ST郎に仕え支えてきた、古くからの幹部たちとKN造の間に軋轢が生じます。
「桶屋町(の家屋敷跡)を売る」
「そんな。思い直してくださらんか、若……KN造ぼっちゃん。桶屋町は『御大』、いや、ST郎御大が心血をそそいで築き上げたお城じゃ」
「焼け崩れたあんな場所に、意味がある思うとるんか、お前らは」
「ワシは嫌ですらぁ」
腕っ節の強さと地頭の良さ、加えて愛嬌のある性格でST郎に愛されたTK原が、真っ向からKN造に異論を唱える。
「なんなら(なんだ)、その口の聞き方は」
「御大、KN造坊ちゃん、あんたは間違うとる」
「ワシのやり方に不満があるんか。そんなら、辞めてしまえ!」
人の意見など聞く耳はいっさい持たない。一度口にしたら最後、相手が誰であれ、それを否定する者には抑えられない激情が爆発する。善し悪しは別として、亡くなるまで変わらなかったKN造の一面です。
「ほんなら、ワシは草生へ戻りますけぇ」
「おぉ、そうせぇ、かってにせぇ!」
売り言葉に買い言葉。こうしてTK原は妻子ともども、ヨシユキの故地、彼のふるさとでもある草生へ帰ることになります。しかしKN造は、そのTK原に妻TM子、長男KRKの疎開生活を託しました。
(草生なら、TK原なら心配はない)
* 戦時中にもかかわらず、わが家では父母を「パパ、ママ」などいう敵性語で呼ばせるという暴挙(?)がまかり通っていました。
…………………………………………………………………………
■其の5 妄想劇場 まずは、僕と黒めがね前史・岡山占領編
…………………………………………………………………………
KN造は確かに遊びましたが、仕事をしないわけではありませんでした。遊び6に仕事が4。いや「7弱:3強」って感じですかね。ST郎の薫陶を受けた、現場を熟知掌握する古参幹部が変わらず仕えていてくれたわけですから、それに乗っかっていればよかった。仕事の発注元である鉄道省(*1)や県や市の幹部との関係を密に保ち、情報をいち速く摑むこと。入札や突発事項に関して決断・指示すること。あとは「よろしぅ、やっといてくれ」と、紅灯の巷(懐かしい響きですね)に泳ぎ出せばよかった。
しかし、やりにくい一面も確かにあったでしょう。
「ST郎御大なら、こうされとったはず」「……そうはされんかったはず」
「ST郎御大なら……」「ST郎御大なら……」「ST郎御大なら……」
(五月蝿せぇ! くそおやじども!!)
KN造は、彼らを「転がし」ながら日々をやりすごすといった、腹芸、手練手管を好みませんでした。なにより、我慢という概念からひたすらに自由な人でした。TK原のおじいちゃんたち古参の人たちは、居場所のなくなったヨシユキ組から去るしかなかった。KN造を支えるというか、意のままに動かせる新世代の人材も育っていました。新たな働き場所を見つけた人、引退を決意した人。選択はさまざまでした。しかし、そんな「おじさんたち」はなぜか、しばしばヨシユキ組にたむろしていました。
【御大 壱】の冒頭。話の導入に登場したTK原のおじいちゃんは、本意ではない、他の土建会社の顧問をしていたのですが、いつもわが家にいた印象があります。KN造やTM子ととりとめない話をし、年端も行かない僕を膝に抱いて、「先の御大・ST郎」がいかにすごかったか、偉かったかを、せめても語り継ごうとしていた。KN造はそんな「おじさんたち」を、苦笑いしながら受け入れていたのだと思います。
好きなもの(人)は徹底して好き。そうでないもの(人)は一切排除する。KN造は、ある意味わかりやすい人です。その分水嶺は繊細そのもの。ほんの些細な仕草、応対、考え方、言葉遣いが、嵐のような感情の爆発を招きました。「おどりゃぁ、ワシに文句があるんか!(てめぇ、オレに文句があるってぇのか)」。啖呵ですね。窓ガラスを震わせるような大音声で、いまにも片肌脱ぎそうな勢いでした。
ただしそれは、お偉方に対しても、ヨシユキ組の人間に対しても、一族・家族に対してもまったく分け隔てはありませんでした。ある意味公平だった。KN造がこころから忌み嫌ったのは、精神としての「田舎者」でした。権威・権力を笠に着る者、「通」を気取る者、数を頼む者、不実な恥知らず、弱みにつけ込んで人をたぶらかす団体・組織、実のない長口舌等々。
要は、見た目も心根も「美しくない=カッコ悪い」ものたちです。そんなダサい俗物どもは、自分の視界からすべて抹殺したかった。ついでに申し上げておくと、大蒜・生姜・納豆も抹殺したかったはずです(食べ物の話はまた後日)。人間ティラノサウルス(暴君竜)。扱いにくいというか、実に面倒くさい人間です。しかし、煙たがられる、または怖れられることはあっても、なぜか嫌われないという、説明のつかない恩寵に浴していた人でもありました。
誰がそうさせたのか? 神仏の気まぐれ? っていっても、KN造は宗教からは極北にある無信心者でした。「男気と気働き」でのし上がった父・ST郎から受け継いだ、強さとナイーブさの突然変異なのかなぁ? 若いころのKN造を知る同級生のお祖母さんから、「KN造さんは姿も気性も、ぜぇんぶ型がよかった(カッコよかった)。えぇ男じゃったなぁ」なんて讃辞をいただいたことがある。浪人していたころ、かつて水商売をやっていた老婦人から、こんなことを教えられたこともあります。
「ヨシユキのKN造さんの息子さん!? お父さんはお元気かなぁ? あの方はなぁ、岡山の夜の街で初めて『パパ』いうて呼ばれた人なんよ。ほんま(女には)よぅもてたんよ」
KN造のもうひとつの特質は、金離れのよいこと。お大尽の息子だった戦前、なお羽振りのよかった戦後の一時期は当然として、ヨシユキ組が凋落していくことになる昭和40年代後半(1970年頃)にも「しみったれた」ことは大嫌いでした。ただバラまいたのではありません。使いどころと思ったら散財は惜しまなかった。彼の名誉のために書き添えておきます。
ここポイントです。「もてまくった」という事実は、息子としてはうらやましすぎる話ですが、もう一度話を1945年(昭和20)、焼け野原だった岡山に戻します。老父・ST郎、妻・TM子と長男・KRKは、ひとまず安全な場所へ疎開させた。家屋敷を売って、自分なりのヨシユキ組をやっていく形は整えた。「あとは、女どもじゃ」。そう考えたと思います。「囲っていた」もしくは「馴染みの」女たちにも、無差別爆撃の洗礼は及びました。亡くなった人もいたでしょう。焼け出された人もいたはずです。
またまた妄想です。一つひとつ、女たちが直面していた現実に、ひとまず決着をつけた。ツールは「金」です。「常軌を逸する」遊びの達人だったKN造は、大好きな「女」に対して不実であることなど考えようもなかった。国が滅亡するかもしれないその時に、女たちの行く末に現実的な対応をした。KN造は、渡すべきものを渡して、自由を与え、また自由を得ました。間違ってはいないと思います。
8月15日敗戦。占領軍が岡山にもやってきました。「(戦争に)負けるようなことがあったら、米英兵に男・子どもは殺され、女は犯されたあげく殺される」などいう、軍部のプロパガンダに踊らされた人びとは生きた心地もしなかったことでしょう。まずはヤンキー=GI(米兵)たちがジープに乗ってやってきて、チョコレートやガムを焼け跡に立ち尽くす子どもたちにバラまきました。そして、県や市がいち早く「ご用意」した慰安所と呼ばれたSEX処理施設に繰り込みました。岡山市の資料などを見ていても、占領という経験のない事態への、膨大で細部にわたる政府からの対応施策の最優先事項のひとつが「慰安所」の設立でした。裏返せば、大日本帝国軍が占領した中国大陸の諸都市でも同じことが起こっていたはず。
1960年代後半に、いくつかの大ヒット曲を産んだウォーカー・ブラザース(*2)というイギリスのヴォーカルグループがいました。そのアルバムの中に『NEXT』という曲があります。同級生が興味を持ったらしく、辞書とにらめっこしながら歌詞を訳しました。
「『次、つぎ!』いうことじゃ」
「nextぐらい知っとる。それが、なんなら?」
「わかっとらんのぅ、兵隊がテントの外で順番を待っとるんじゃ」
戦地に並ぶ「テント=慰安所」前に若い兵士たちが並んでいる。股間の暴発を抑えきれない彼らは、軍装を解く暇もなく一点集中でことに及び、あっけなく次に交代させられる。第一次世界大戦下のヨーロッパ。膠着した塹壕戦。突撃と退却の繰り返し。いつやむとも思われない冷たい雨が降りそそぐ。寒い。欲望は抑えきれないけれど、一瞬の温もりがほしい。でも……テント前の当番古参兵士たちは声高に叫ぶ。「NEXT! 次のお前、さっさとすませてしまえ!」。
流行歌(懐かしい響き)に、こんなヒリヒリする歌詞があることを初めて知った曲。終わりなき戦場。刹那の快楽。明日の保証はなにもないけれど、いまは確かに生きている。だから、列に並ぶ。戦争のことを書いていると、なんか、やるせなくなってきます。滑稽で哀れで残酷な人間そのものですね……なんて独り言ちていても仕方がない。戦争って、そういうものなのでしょう。
ともあれ、岡山の街に外国人があふれた。ほどなくアメリカ軍が去り、イギリス連邦軍がそれにとって替わりました。知りませんでした。1946年(昭和21)2月から、中国・四国地方は、BCOF(*3)の占領下にあったのです。岡山には第268インド歩兵旅団司令部が置かれていたそうです。イギリス兵、インド兵、そして戦った者を例外なく震え上がらせたといわれる、ネパールの山岳民族で構成された剽悍なグルカ兵が駐屯していた。善くも悪くも「アメリカナイズ」された戦後の日本を見ることに馴れている僕としては、イメージしにくい話です。街中にバグパイプの調べが流れていた可能性もある。不遜ですが、その光景を見たかったと思います。
乙にすました(要は、スカした)風情で口ひげなどを蓄えたジョンブル(イギリス野郎)士官、コックニー(*4)でまくしたてる赤ら顔のイギリス兵、ターバンを巻いたシク教徒のインド兵、寡黙で眼だけををぎらつかせた日本人によく似た小柄なグルカ兵。彼らが、肘を張り掌を返すイギリス式敬礼を交わし、岡山を支配していた。その姿を想像すると実に興味深いものがあります。BCOFの占領は1952年(昭和27)まで続きました。
街は次第に復興していました。KN造のホームグラウンド、歓楽街も息を吹き返す。単身のKN造の時代が復活したのです。そして、出会いがありました。
*1 鉄道省:1943年(昭和18)運輸通信省鉄道総局、1945年(昭和20)運輸省鉄道総局、1949年(昭和24年)日本国有鉄道に改組され、1987年(昭和62)JR各社に分割民営化されました。
*2 イギリスを中心に活躍したアメリカ人グループ(1965年結成)。『太陽はもう輝かない』『孤独の太陽』『ダンス天国』などの大ヒット曲があります。1967年解散。
*3 BCOF:British Commonwealth Occupation Force(イギリス連邦占領軍)の略。総司令部は広島県呉市。(以下転載/原文ママ)──(前略)1946年2月から中国・四国地方はアメリカ軍にかわってBCOF によって占領されたこと、BCOFはオーストラリア人の総司令官の下、オーストリラリア・イギリス・ニュージーランド・インド軍によって構成され、多い時には約37,000名に達していたこと、同軍は作戦上は連合国軍最高司令官の指揮下におかれながら、管理上は独立した軍団として存在したことなどは知られておりませんでした。(中略)中国・四国地方の占領を1946年2月からアメリカ軍にかわってBCOFが担当し、呉市に司令部を置いたということを記した資料の存在は、大変貴重なものでした。(後略)──(出典:「Australia-Japan Reserch Project 豪日研究プロジェクト」http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/Japanese/CCC0C78E0EFF370ECA256BC2001B32F1)
*4 Cockney。ロンドンの労働者階級が使用する言語。気取ったクイーンズイングリッシュ(いわゆる格調高いイギリス英語)と対局をなす、強烈な訛りの英語の一種です。
………………………………………………………………………
■其の6 妄想劇場 まずは、僕と黒めがね・岡山復帰編
………………………………………………………………………
僕は父KN造42歳、母TM子36歳のときの子どもです。いまは、30代後半の出産はあたり前ですよね。でも当時は、男親の年齢はともかく、女親としては、けっこう珍しい例でした。幼稚園や小学校の同級生たちの親と較べると、頭抜けた年長者。ガキンチョは、そんな些細なことで、いろいろと思いを巡らせたりしたものです。
後年、母の問わず語りで、納得というか、もやもやの一端は氷解しました。30半ばをすぎたころだったと思います。父はすでに亡くなっていました。
「あなたができたことは、パパには黙っとったんよ」
「なんで?」
「私は阿呆うじゃから、妊娠したら、正直にパパに言うとったんじゃ」
「ふぅん……」(鈍感な息子の応対)
「パパはなぁ『堕ろせ!』いうて怒って、泣く泣くふたり堕胎させられた。じゃから、あなたのときは〈絶対話さん〉と、こころに決めとった」
さらり。淡々とした、母ならではの告解でした。
「負けとうなかったし」
わが家のいろいろな事情はもちろん知っていました。母の人生のあれこれもわかった気でいました。いい大人になって初めて、母の特質である〈くったくのなさ〉の裏側にある闇っていうやつに巡り会った。僕には兄・KRKとはほかの、母が産んだ兄・姉がいたかもしれない。(そうだったのかぁ……って、おぃおぃ)彼らがもし生を受けていたら、僕は存在しなかった可能性もある。不思議な感覚でした。
高度成長など、まだ思いもよらぬ時代。戦争に負けて8年間。東京裁判(極東国際軍事裁判)、2万人が参加したといわれる戦後初のメーデー、日本国憲法の発布、第一次印パ戦争、ガンジー暗殺、イスラエル建国と第一次中東戦争、下山事件、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争(第一次インドシナ戦争)、中華人民共和国の成立と蒋介石の台湾侵攻、朝鮮戦争の勃発、中国人民解放軍のチベット侵攻と、アジア・極東はなおも沸騰していました。
1952年(昭和27)サンフランシスコ平和条約調印による独立回復。東西冷戦の顕在化に伴う歪な決着だったことは、いまなお日本を苛んでいるような気がしますが、ともかく国際舞台に復帰した。そして隣国の戦乱(朝鮮戦争)特需で経済復興の糸口が見えた。ソニー、ホンダという世界を魅了することになる企業が創立されたのもこの時代。調べると、僕が生まれた12日後に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたとあります。「戦争を知らない」世代なんて思って生きてきましたが、とんでもないですね。
「日本は(戦争に負けた)貧乏国じゃからなぁ」。母によく聴かされた、彼女のいろいろな思いが詰まった言葉だと思います。小学生時代、教科書には「捕鯨と造船は世界一」と記されていました。日本が世界に存在感を示せるのは、そのふたつだけだったのです。
ともあれ、占領軍が撤退して岡山の街がようやく落ち着きをみせはじめていた1952年(昭和27)ころ。妻子を疎開させて、思うまま「女遊び」にいそしんでいたKN造に、大きな変化が訪れます。素人娘と懇ろになってしまったのです。そもそも妻・TM子の眼など気にすることもなく遊んでいた人でした。ただし相手は玄人衆でした(時折のつまみ食いは除く)。暗黙のルールを破ってしまった。よほど好みにフィットしたのか、気の迷いか、それとも真剣な恋だったのか、単身の岡山で、もうひとつの家を構えることになりました。
僕のもうひとりの兄が生まれました。「御大に男の子ができた」。草生に暮らす「のんしゃらん(*1)」なTM子にも、口さがない風聞は瞬く間に伝わります。「負けとうなかったし」という母の言葉は、僕が生まれることになるキーワードです。いやはや、なんとも言いようがないです。感情を爆発させて父と事を構えることなど考えられなかった、母の女の意地で僕は生まれた。それはそれで感謝します。しかし岡山も黙ってはいない。1954年(昭和29)弟誕生。ご安心ください。これで妊娠合戦は終了です。
KN造はまたまた意表をつきます。岡山の男の子たちを庶子にはしなかった。認知ではなく、嫡出子として戸籍に記載しました。TM子は形式上4人の男の子の実母になったのです。母にとっても岡山の女性にとっても辛いことだったでしょう。ただこれは、KN造を語る上で避けられない話だと思っています。長男のKRKが誕生してから12~14年後に、パタパタと年子の男の子が3人できてしまった。母には申し訳ないけれど、なんか笑うしかないって感じ。口にもそぶりにも出さねど、KN造も苦笑いするしかなかったと思います。
(こんなことになるとはのぅ。しかも男ばかりじゃ……)
岡山では、新しいヨシユキ組とわが家の建築が進んでいました。中学生になった兄・KRKは、家が完成するまで、金川から汽車で岡山市立旭中学校(現・中央中学校)に通うことになります。KRKには、岡山大学教育学部附属中学校受験という選択肢もありました。TM子もそれを望まないわけではなかった。しかし、
「パパが『附属(*2)やこう(なんか)行かんでもえぇ!』いうてなぁ。旭中になったんじゃ」
この話も、KN造を語る上で避けられない話です。
僕は1953年(昭和28)7月に御津町立金川病院(現・岡山市立金川病院)で生まれました。厳密に言うと出身は金川・草生ということになるのでしょうが、生後間もなく岡山に引っ越したので、墓参りで訪れる以外、当地の記憶はまったくありません。新しい家は岡山市三番町(現・北区番町二丁目)に建てられました。空襲被害を免れた地域です。TM子の実家・奥村家のほど近く。戦争中に拡幅された、通称「疎開道路」という広い道に面した一角でした。
家の正面は、鉄扉の門がある高いコンクリート塀越しに並ぶ檜の合間から、いま思えばチューダー様式の立派な洋館が望めるお屋敷でした。両備バスの社長、松田基さんの自宅です。松田さんのお屋敷を背にしてわが家を見る。右に母屋に続く屋根つきの門がありました。左は一部二階建てのヨシユキ組です。
ガラスがはめ込まれた、門の重い格子戸を開けると御影石の敷石が奥まで続いています。右は隣家と境をなす板塀。塀沿いに木賊やサルビア、葉鶏頭が植えられていました。左は庭を隔てる焼板塀。庭と母屋の境にはブドウの木。玄関の手前には大きなシュロの木が盛んに葉を伸ばしていました。『週刊文春』の「新・家の履歴書」でもあるまいになにをグタグダ……。申し訳ないです。KN造を語る上でこの家のことも避けて通れない。なにより、一風変わった家でした。
玄関は広かった。記憶はすでに曖昧なのですが、六畳程度はありました。不規則にカットされ組み合わされた御影石が敷き詰められていた。思い出すにおもしろいのは、ドアを含む全面の木枠に大きなガラスがはめ込まれていたこと。アルミサッシなんてない時代です。わが家を訪れる人は、外から玄関を見通せました。開口部・採光部を広くとる。当時の日本家屋にはあたりまえの「雨戸」はありませんでした。明らかにKN造の趣味。その原体験があるせいか、僕は「雨戸」がいまも苦手です。学生時代のアパートにあった「雨戸」も、一度も閉めたことがありません。
母屋南面の庭に面した「サンルーム」はKN造の自慢でした。ここも4連の頑丈な木枠の引き戸には、全面大きなガラスがはめ込まれていた。床は、斜め格子状に組込まれた瓦材でした。規則的に敷き詰められた銀鼠色の瓦のプレートは、夏はひんやり、冬は素足でも温もりを感じる不思議な素材でした。風呂上がりの浴衣の胸をはだけて籐の安楽椅子に座り、KN造は黒めがね越しに、しばしば庭を眺めていたように記憶しています。
「サンルーム」に続く10畳ばかりの居間。雪見障子で区切られていました。床の間の柱も、KN造のお気に入りでした。節のない、思わず撫でたくなるような、磨き上げられた美しい床柱でした。小学校の高学年になるまで、僕はサンルームとこの居間で暮らしていました。台所から続く食堂と称するスペースはあったのですが、そこを使った記憶はまったくない。サンルームの端っこに勉強机を置かれ、食事は居間で摂って、夜は母と布団を並べて寝ていました。春夏秋は、釘もネジも一本も使っていない黒檀の重い和室テーブルが据えられていた。冬は畳一畳分ほどの掘りごたつが居場所でした。
KN造の部屋は居間の奥の廊下を隔てた8畳間。茶室を模した、大人なら少し軀をかがめないと入れない構造。入り口の引き戸は厚い和紙が全面に貼られ、壁は「砂摺り(*3)」の技法で塗られていました。雪見障子越しのガラス窓から淡い光が差し込むシブい空間でした。中央の半畳をはがすと、茶を点てるための湯を沸かす炉がきってあった。子どものころ、炉で炭を焚いてもらってひとり遊んでいたら、頭痛と息苦しさに堪えられなくなったことがあります。あわや一酸化炭素中毒という寸前で母が気がついた。笑うに笑われない話。みなさん、炭を使う際の換気にはご注意くださいませ!
玄関横の階段を上がった2階は2部屋。思えばこの階段も当時としては珍しいものでした。踏板の下に蹴込み板を付ける「箱型階段」ではなく、踏板の奥が素通しになっている、いわゆる〝スケルトン階段〟。階段横の廊下に面した1部屋は季節物とか、不急不要の家財を置く納戸を兼ねた客間。8畳ほどのもう1部屋が兄・KRKの居室でした。いま思えばこの部屋もおもしろかった。床は板敷き。天井はなく、黒光りする太い梁がむきだしの吹き抜け構造。「フローリングに吹き抜け」というのは、昭和20年代には相当珍しかったと思います。南側は物干を兼ねたベランダでした。「バター醤油掛けご飯」だけでなく牛乳をこよなく愛した兄は、180センチ以上という、これまた当時はかなり目立った長身に育っていました。国産のベッドでは躰が納まらない! KN造はアメリカ製のキングサイズのベッドを兄に買い与えました。折り畳むとソファーになるでっかいベッドでした。後年僕も、そこで眠ることになります。
いろいろと個性的な各部屋のもうひとつの特徴は、家具類を完全に収納していたこと。和室なら、タンス類は襖の奥に隠すなどの工夫がされていた。兄の洋間は壁一面が収納スペースでした。部屋にあるのはベッドと勉強机だけ。寝具も衣類も本もすべて、壁奥の戸棚に納められていました。
実体以上の広さを感じる。すべて「癪性の道楽者」KN造の趣味でした。設計したのはKN造本人です。建築を学んだなど、聞いたこともありません。周囲に専門家はいましたが、しょせんは家業の土木に従事してきた人たちばかり。上物(建築)には詳しくなかったでしょう。三次元を構想できる、KN造の器用な一面。嗚呼、またまた、またまた妄想が!
後年事業が立ち行かなくなって、わが家は三番町のこの家を手放すことになります。2年ほど後にKN造はもう一軒、家を造ることになるのですが、またも彼は思うままの家をおっ建てました。もしや、と思います。KN造は、望みもしなかった土木屋の跡取りではなく、違う方向に夢を持っていたのではないか? 生前に聴いておけばよかった。決まり事や常識にとらわれない設計。野放図でしかも、尋常ならざる細部へのこだわり。
*1 nonchalant。フランス語で「無頓着なさま」の意。
*2 岡山大学教育学部附属幼稚園・小学校・中学校を総称する、岡山での呼び方。岡山師範学校附属幼稚園・小学校が、戦後の学校統合・学制改革で改組されていまの形になりました。
*3 砂摺り:すなずり。砂を配合した漆喰で壁などを塗ること。また、その壁。(出典:大辞林)。
………………………………………………………………………
■其の7 妄想劇場 まずは、僕と黒めがね・迷走血液型編
………………………………………………………………………
「あなたには、わりぃ(悪い)けどなぁ」
母・TM子の述懐は続きます。
(はいはい、もう何を言われても驚きませんぜ)
「私は、女の子がほしかった」
(そう言われてもなぁ)
僕には「ふぅ~ん」としか答える術がありません。
「隠しとったお腹が目立ってきたころに、パパに言うたんじゃ。『今度は産みます。女の子のような気がしますし』いうて」
せり出してきた腹を抱えたTM子に、KN造は、それまでのような無理無体は口にしませんでした。
「パパも、女の子がほしかったんじゃろうなぁ」
KN造が「女好き」であったことは、これまで書いてきた通りです。男の業を極めようとしていたのかもしれない「女遊び」の対象、芸者衆、女郎衆、ホステスさん(BAR=いまで言うクラブのお姉さま方)といった玄人衆は当然として、その守備範囲は広かった。
好き嫌いが激しいので、あまねく愛を与えるわけではありません。顔の好みはともかく、性格、所作、言動というか、その人が醸している、説明が難しい「品」というか、「機転」「気風」を重視していたように思います。「品=ひん」という観念は難しい。「お上品」とされている人たちに唾棄するべき下衆な一面が垣間見えたり、「おげれつな俗物」「はすっぱなヤンキー」に、刮目せざるを得ない矜持を見たりすることだってある。出自、来し方は、たんなる偶然にすぎない。
自分を省みても「そねぇなことは関係ねぇ」とKN造は思っていた。拠り所は、自分オリジナルの判断基準「世にあふれる阿呆ぅ(=カッコ悪いヤツら。女には甘く、男の場合は徹底的に選考基準が厳しくなるきらいはありますが)をのぞく人間」でした。「遊び」の対象外の、お気に入りの「女」は、老女から幼女まで区別はありませんでした。ついでに言うと、大好きで飼い続けた犬も雌を好みました。彼女たち(犬もその対象なのは言わずもがな)に対してはおだやかで、ウソのように気も遣っていました。「お気に入りの女たち」に嫌われることは堪えられなかったのでしょう。意味はともかくとして、実に「男らしい」と思います。男と女しかいないのだから、
(女に嫌われたら、生きる甲斐がねぇじゃろうが)
なんか、よくわかるなぁ、その気持ち。前述した、喘息の転地療養で草生に一時暮らしていた姪のKZ子に、KN造は真剣に話したそうです。
「KZ子、もう東京へは帰るな。このままウチの娘になれ!」
KN造の兄・A助の長女。おっとりしていながら利発なこの娘を、KN造は手放したくなかった。手もとにおいて育てたかった。KZ子は5歳で父を亡くし、キャリアウーマンの元祖ともいえる母・AGRの下で育ちました。多数の弟子を抱えて仕事一筋に生きるAGRが、喘息の発作に苦しむ娘を託せるのは、義弟・KN造しかいなかった。
(KNおじちゃんもTM子おばちゃんも、私をかわいがってくれる。KRKちゃんも、やんちゃだけど優しい子だし)
(ママ=AGRは忙しくて私にかまける時間はないよね。まだ小さいRE子だっているんだから。でも……)
喘息の発作に苦しむ自分のことはともかく、4歳下の妹、軀の弱いRE子のことも気がかりでした。RE子が生まれた翌年に、父・A助は亡くなっていました。
(あの子はパパを知らない。私がそばにいてやらないと)
子どもごころに、必死に考えた。結論は「やっぱり東京へ帰りたい」でした。
「そうか……」
小さな、でも決然とした思いを聴いて、KN造は微笑みました。それ以後、二度とその話は蒸し返しませんでした。後年KZ子は女優として名をなします。もしあのとき、わが家の一員になっていたとしたら、どうなっていたのか。少なくとも女優という選択肢は、限りなく小さかったと思います。
それはそれとして、十月十日を経て、僕誕生。
「御大、元気な男の子じゃ。おめでとうごぜぇます」
TK原のおじいちゃんは、欲も得もなく喜んでくれた。母は、久々の出産の至福感にひたっていた。
東京ではつらつとした娘に育った18歳のKZ子が、金川病院の、僕を抱く母のベッド側で微笑む写真があります。ショートカットにゆるかなパーマ。ノースリーブの白いシャツと当時流行だったフレアースカートがまぶしい写真です。夏休みに岡山に来ていて僕の出産にぶつかった。東京のヨシユキの人たちは、なにくれとなく岡山を訪れていました。
「おじちゃん、おめでとう」
「あぁ」
娘とも思うKZ子の言葉に、曖昧に答えるしかない黒めがね・KN造。
(なんじゃ、また男か)
そんなKN造の気分は、僕の命名に現れています。
兄・KRKは、先の「御大」である祖父ST郎が命名しました。国中が奉祝行事にわいた皇紀2600年(1940年・昭和15)に誕生した男の子でした。KN造の後を襲うことになる跡継ぎです。「このめでたい年に男の子を授かるとは!」。ST郎は、考えに考えぬいて、皇紀にちなんだ名前に決めた。一方、僕はといえば、間抜けた順列組合せ、というか、お手軽な三題噺みたいな名前になりました。
「しかし暑ちいのぉ。夏じゃからしかたねぇが……そうじゃ、夏に生まれた二番目の男。『NT二朗』でええじゃろう」
正確には岡山の兄の下の「三番目」じゃないか! と、KN造に突っ込みたくなります。実の兄も腹違いの兄弟も、二文字のすっきりした名前なのに、独り三文字の重ったい名前。別に父を恨んでいるわけではありません。「…三朗」なんておっさん臭い名前にされなくて、ほんとうによかった。「郎」でなく「朗」を選んだことは、父のささやかなこだわりだったと信じたいです。
名刺を渡すと、「ペンネームですか?」と言われることが、ままあります。珍しい名前であることは確かです。「本名なんですよ」と答えると、「なにか謂れが?」と返される。説明は簡単です。「夏に生まれた二番目の……」で、みなさん「なるほど」となって、話は終わり。まぁ、初対面の、話の接ぎ穂になることもある名前にしてもらったことは、父に感謝します。「二」については、母の心情を慮ったというか「TM子の二番目の子ども」という、わかりやすい選択だったようにも思います。
激情のままに生きて死んだ上に、常人にはつきあいきれないセンシティブさと律儀さをを持つ男でした。母・兄と僕が戻った後のKN造の岡山生活は、その一面である律儀そのもの。三番町のわが家と田町のもうひとつの家を、突発事がない限り一日おきに往復していました。感心するほど規則的でした。
「おぃ、出かけるぞ」
「はい」
母は、風呂から上がった父の身繕いを手伝い、札入れに金を補充し、懐紙を入れた紙入れ、煙草・ライターなどを用意して、タクシーを呼びます。KN造が着道楽だったことは以前書きました。その日の気分と当夜の遊びによって、着流し、羽織袴、背広、ジャケット、ポロシャツと、お気に入りを選んでいました。
〈ブ~ッ〉
ブザーが家中に響き渡ります(チャイムはまだありませんでした)。支度のできた父に従って母は門まで出る。門前で待っているタクシー。帽子を取って慇懃にドアを開ける運転手に軽く挨拶して、KN造はクルマに乗りこみます。
「いってらっしゃいませ」
深々とお辞儀して母は父を送りだす。僕が5歳になる年の春、兄は大学に受かって東京に行ってしまいました。なので、父が帰らない夜は、けっこう広い家に母と僕ふたり。ものこごろついてからの記憶の半分(一日おきなので)は、それがすべてです。
「あなたが小さかったころ、『パパは、いつくるん(次はいつ来るの)?』いうて、私に聴くんが、哀れでなぁ」
TM子の述懐ですが、母が思うほどガキは気に病んだりはしない。「一日おき」という規則性を理解する前の言動です。KN造は「A型」だったのか? と思います。いや、律儀と激情という両面性をもつ「AB型」だったかもしれません。残念ながら、僕は父母の血液型を知りません。血液型で人格を云々するのは日本人だけ、という話もあります。ただ、ネイティブアメリカン、われわれと同じモンゴロイドの末裔である彼らの多くが「O型」だったという伝説には興味があります。
テレンス・マリック監督(*1)の『ニュー・ワールド』(2005年製作)という映画。ディズニーのアニメにもなった、有名なネイティブアメリカンの娘「ポカホンタス」の数奇な運命を描いた作品です。美しいとしか言いようのない冒頭シーンに圧倒されます。
深い霧に包まれた、後年ニューイングランドと呼ばれる土地の小湾に、イギリスの帆船が音もなくすべり込み投錨する。誰も手をつけたことのない、太古ままの豊穣な自然が広がります。どこで撮影したのでしょう? 夢のような光景です。自然に対峙・征服しようとする西洋の意識に、まだ犯されていない聖地。海岸近くの深い葦の原から、華麗なタトゥーとあでやかなメイクのネイティブアメリカンの戦士たちが現れる。征服者と被征服者の出会いです。自分たちに害をなすかもしれない乗組員たちを、彼らは客人として受け入れます。
誇り高く大らかなネイティブアメリカンの末路(*2)は、みなさんご存知の通りです。「O型」の悲劇だと思います。しかも、南北含めた新大陸は徹底的に征服されてさらに、銀という莫大な富、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、トウガラシ、カカオ等々という得がたい食料、ゴムという革命的な素材を世界にもたらしました。梅毒やコカインといったアメリカ大陸由来の負の拡散なんか瑣末な話ですね。そして、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘、麻疹、インフルエンザなどの疫病にさらされた、免疫をもたない人びとは、ウソのようにパタパタと死んでいったそうです。巨大な帝国だったアステカやインカが容易く征服されることになった一因です。
もうひとつ重要なのは「タバコ」です。古来から愛されてきた祭祀用の薬草。神々への供物でもあったようです。西部劇にもしばしば登場します。滅び行く運命のネイティブアメリカンと征服者・白人との、つかの間の和平の儀式の最重要アイテムがタバコです。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の、僕の大好きな映画『黄色いリボン』(1949年製作/日本公開は1951年)にも、象徴的なシーンがあります。退役を控えた騎兵隊の老士官とネイティブアメリカンの長老が、無益な戦いを終息させる誓いの証として、古式に則って長いパイプのタバコを呑み交わす。
すでに白人優位の状況は動かしがたい。であれば、これ以上若い戦士たち、兵隊たちを死の淵に立たせる意味はない。命を次の世代につなぐために、「おとな」であるわれわれは「信義」と「誓い」を神の草=タバコに託して共有しよう。理不尽だけど、めちゃくちゃカッコいいシーンです。そんな、5~7世紀ころから育まれてきたという、ネイティブアメリカンの美しすぎる「喫煙文化」を抹殺するかのような、当世の動きはいかがなものか? なんてことをほざくと、炎上しかねないのでもうやめます。単なるタバコ好きの妄言として読み飛ばしてください。
なんの話でしたっけ? そうそう、血液型でしたね。父・KN造はAB型だったのではないかと思います。「こころの闇」の結末に「くったくのなさ」で折り合いをつけた、母・TM子はBO型のような気がする。お気楽人生まっしぐらの僕はB型なのですが、「BO」ではないですね。おそらく「BB」。しかも「蟹座」という、なぜか、特に「A型」の人たちからとやかく言われがちな「血液型+星座グループ」です。
話がとっちらかりました。「女の子がほしかった」両親の、期待を裏切って生まれてしまった「男・僕」とKN造のドタバタは、次に。
*1 テレンス・マリック監督:1998年公開の同監督作品『シン・レッド・ライン』も静かで美しい戦争映画でした。日本軍とアメリカ軍が死闘を演じたガダルカナル島の物語。好き嫌いは別として、この監督の映像は、静謐で艶かしいです。
*2 ヨーロッパとアメリカ大陸の相互関係についてのやるせない結末。「なぜ人は、征服する側と征服される側に分かれることになったのか?」。そのテキストになりそうな、文庫になるのを待っていたジャレド・ダイヤモンド著『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫)を読みはじめたばかりなのですが、たぶん、この話の流れは間違っていないと思っています。
…………………………………………………………………
■其の8 妄想劇場 黒めがね「黄にら」を喰らう編
…………………………………………………………………
黄にらという野菜があります。本来なら青くたくましく育つニラを、土中もしくは日光を遮断した場所で栽培する、いわば「ニラのもやし」みたいなもの。中国料理でよく使われる高級食材。僕がいま住んでいる東京では、高級スーパーやデパートで見かけますが、高価です。「黄にら」を黒めがね・KN造は好みました。その薫陶(?)で、僕も大好物なのですが、岡山では(*1)特に珍しい食材ではありません。一年中手に入る野菜。「青ニラ」と較べると、柔らかくて甘い。しかし「生」の状態では圧倒的に臭いです。
たまに「見切り品」コーナーで捨値になっている「黄にら」を見つけると、僕は必ず買います。本場の岡山ではたっぷりとした束で売られているのに、東京では、下手すると10数本の寂しげなパックです。しかも「黄にら」じゃなくて「これって〝黄緑にら〟じゃん」としか言いようがない場合もあります。本来は淡い黄色と根本の白のグラデーションが美しい野菜です。
「にら(黄にらです)をいれぇ(いれろ)」
KN造が母TM子を促します。黒めがねの奥の目がおだやかです。機嫌がいい。好物を前にすると誰でもそうなりますよね。でも油断は禁物。「なんで? どうして?」って感じの、想定外の些細なきっかけで烈火の如く怒り狂うことがあるので、この人物は要注意です。ともあれ、当夜のわが家のメニューは「肉」の水炊きです。
日本中が平準化・均一化したいまでは考えられないことですが、1970年代(昭和40年代後半)ころまでは、地方がそれぞれの個性を強く主張していました。かつて、岡山を含む西日本で「肉」といえば「牛」を指していました。「豚(肉)」「鶏(肉)」は、その出自を明確にされていましたが、牛肉はただの「肉」呼ばわりでした。西の「牛」、東の「豚」という、歴然とした食文化というか、好みの違いがあったのです。
上京して初めて、そば屋で「肉うどん」を注文したときの失望感は忘れられません。そば屋で「うどん」を頼むというのも西日本人ならではの所業だと思います。「うどん」文化で育った僕は、当時「そば」は苦手だったのです。いまは更生して(?)「そば」「うどん」のどちらも楽しんでおりますが、そのとき出てきた「肉うどん」の「肉」は豚コマでした。
うどんを飾る、切り落としのチリチリとした「牛」を「出汁・麺と一緒にすする!」という、腹減らしの切望は完全に打ちのめされました。「えッ、豚? なんで?」。あの感覚はいまでも忘れられません。少なくとも、その「肉うどん」は美味しく食ったはずです。食い意地がはっている僕ならではの、バカバカしい記憶としか言いようがないですね(他人丼、開化丼も同じ衝撃でした。念のため)。
しかし当時の東京は、貧乏学生が「牛肉」に遭遇するチャンスが稀な街だったことは間違いありません。ビフテキ(ステーキ)やすき焼きなんか夢のまた夢。焼き肉屋は、同級生たちと金を出し合い、たまに意を決して突入して、乏しい資金で購ったわずかな肉を醜く奪い合うという惨状。実は、焼き肉という「牛肉そのもの」の料理を、僕は東京で初めて食べました。そのいきさつは、のちほど書きます。「牛丼」の吉野家は当時もありましたが、暗く湿った地下街にひっそりとたたずむような、地味な店でした。値段は驚くことにいまとそう変わりません。てことは、当時はそこそこの値段。
国電(現JR)の初乗り運賃が30円、最寄り駅から出ていた学バス(都営)は15円、地下鉄を使うと40円。学食のカツ丼。「よくもそこまで肉を薄くできるもんだ!」という、厚い衣にペラペラの豚肉が挟まっている、しかし空腹を満たすのには十分すぎたそれが100円。ランチが120円、洋食風の定食が140円。貧乏人の味方であるタバコ「ハイライト」が80円。コーヒーは100円程度でした。そんな時代の「牛丼」は確か300円。どうしても牛が食いたくなると吉野家に行きました。確かに、旨かったです。
詮方ない懐古譚はともかく、「肉」の水炊きです。昆布出汁に日本酒をダバダバと注いでアルコールを飛ばす。沸き立つ鍋に、KN造が霜降りの、手切りの「肉」を菜箸で投入する。家事を手伝うことなど一切ない男の、めったに見られない晴れ舞台(!?)でした。
「えぇか、肉は火を通しすぎるな。ほれ、食べころじゃ」
脂身が半透明になり、赤身がピンクに変わった頃合いの肉が、KN造の菜箸から僕の器に放り込まれます。ガキだった僕は、おぼつかない箸遣いでハフハフ。牛肉独特の風味が口から鼻にぬける。「しゃぶしゃぶ」なんて洒落た呼び名はありませんでした。すき焼き用、しゃぶしゃぶ用などいう肉の切り方の区別もない時代の話。つけだれは、KN造好みのオリジナル「ポン酢」。たっぷりの大根おろしに、たっぷりと青ネギの小口切りを加え、またまたたっぷりとレモンを搾りかける。各自が好みで醤油を回しかけて味を決めれば準備完了。
最初の「肉」1枚を僕に与えた後は、KN造は本来の姿、ひたすら酒と鍋料理を楽しむ人に戻ります。母TM子は、様子を見ながら肉や野菜、豆腐を鍋に投入する。かつての、日本の妻・母親というのは因果なものだったと思います。父や僕の器に熱々の食材を補充しながらTM子は、自分の器の冷めかけた食材を、おずおずと口にしていた。
「ええから、おめぇも食え」
なんてことを母に口走りながら「にらをいれぇ」と、父はさらに指令を飛ばす。
(今夜はパパの機嫌がえぇ。このままに楽しく終わりますように)
TM子の祈りをのせた(ただの妄想ですので、あしからず)「にら」が、鍋に黄色い花を咲かせます。
「チビ(僕のことです)、にらは湯に泳がせるだけでえぇ。すぐ食うんがうまいんじゃ。ほれ、食え」
父が僕の器に「にら」を入れる。またまたハフハフ。熱くて甘くて、独特の風味(臭み)がたまりません。にらを投入するのは主に鍋物です。すき焼き、肉の水炊き、鯛などの白身魚のちり鍋、そして鴨鍋。黄にらがすごいのは、甘辛のこってりすき焼きでも、淡白な水炊き・ちり鍋でも、野趣あふれる鴨鍋でも、その存在感を失うことなく美味しくいただけること。
──黄にらは確かに旨いが、関東の青ニラも捨てたもんじゃないですよ。
「あれは、JNの負け惜しみじゃ」
上機嫌のKN造が、たまに口にしていました。兄や腹違いの兄弟や僕(息子たち)とはまったく別次元で、こころから愛していた甥・JNN介の話です。JNN介はKN造の兄・A助の長男。1924年(大正13)生まれで、僕にとっては29歳上の従兄にあたります。岡山(桶屋町)生まれの東京(麹町)育ち。1954年(昭和29)に芥川賞を受賞し、僕が物心つくころは、新進の小説家として注目されていました。都会派の作家の代表とも目される存在でしたが、根っこに「岡山=桶屋町・草生」への意識を強く持つ人でした。なにより、僕が5歳~10歳ころには、よく三番町のわが家にいました。
「やぁ、叔母さん」
「まぁJNちゃん、いらっしゃい」
いつも、前ぶれなくふらりと現れる。小さなボストンバッグを携えていたような。いや、身ひとつだったかもしれません。散歩途中に思い立って寄ってみた、という風情でした。「おぅ、NT二朗」と僕にひと声かけて、勝手知ったるサンルームの籐椅子でくつろぐ。ガキをかまったりする人ではありませんでした。
「叔母さん、またやっかいになります」
「どうぞどうぞ、ごゆっくりなさって」
「KN叔父さんは?」
母が、こころあたりへ連絡する。すると、疾風怒濤の勢いでKN造は帰宅します。事故や突然の病気を除く、KN造「岡山律儀生活」の例外中の例外がJNN介の来訪でした。
「やぁ、叔父さん」
「おぅ、JN」
お互いわずかに微笑むだけの、そっけない対面。含羞ってやつなのでしょう。こころのなかでは、強くハグして久々の邂逅を喜びあっていたのだと、僕は思います。それくらいこのふたりは馬が合った。後年JNN介のエッセイに「(一時期)創作に行き詰まったり、私生活のあれこれに苛まれると、無性に岡山の叔父・黒めがね(KN造)に会いたくなって、ふらりと列車に乗った……」といった内容の記述を見つけて、「なるほど、それで」と納得しました。ちなみに父を「岡山の黒めがね」と評して、しばしば自分の作品に登場させたのはJNN介です。
1回のわが家逗留は、長くても1週間程度だったのかなぁ。KN造は、JNN介とかKZ子といった、大好きな例外的身内以外、人を招くとか泊めることを嫌いました。なので、「JN兄ちゃん」は「母と僕のふたり+1日おきの父生活」に大きな刺激を与えてくれる、まさに「まれびと(客人)」でした。相手してもらえるわけもないことは、何気にわかってはいても、ガキの僕は意味もなく高揚していました。
当時のおとなの男のヘアスタイルは、いままた息を吹き返している刈上げ+七三分けか、ポマードてかてかのオールバック、もしくは角刈り、丸刈りが大多数だったのに、JNN介は違いました。サラサラの長髪。眉にかかる前髪、耳を覆いそうな横髪をかきあげるちょっとした仕草。ガキはガキなりに観察している。岡山の日常には存在しない、都会(東京)の風でした。しかもしかも、憂いをたたえた、だれもが認める二枚目でした。さりげなく膝に手を置き瞳を見つめるだけで、百戦錬磨の「銀座のホステスさんたち」が、いとも簡単に「陥落ちる!」 と謳われた、超モテ男でもありました。
今夜もKN造とJNN介は、いそいそと夜の街へ繰り出します。ふたりとも大好きだった鮨屋以外は、その先で何をしていたのかは知る由もありません。食って呑んで遊んで、ご機嫌なご帰還。気が向けば、玉野の競輪、児島のボートレースへ突撃。風俗(ソープランド。当時はトルコ風呂と呼ばれていました)不毛の地である岡山を離れ、四国・高松の競輪と、彼の地で盛んなそれを楽しみに遠征することもあったようです。
「血が噴き出すらしいのぅ」
「そうらしいですなぁ」
タクシーの後部座席。父KN造とJNN介に挟まれて座っている僕。ふたりの会話の中にいた記憶です。その状況になった経緯はまったく覚えていない。路面電車と並行して走る、いまの岡山中央郵便局と電電公社(現NTT)の交差点だったことはなぜか鮮明に覚えています。
(あの話をしとる)
ふたりが話題にしていたのは、公開を控えた映画『椿三十郎(*2)』。当時9歳だった僕も、その映画のすごさは知っていました。わが家は毎週、書店から『週刊新潮』を届けてもらっていました。2階の兄の部屋に登る階段下には、廃棄される前のバックナンバーが積まれていた。字が読めるか読めないかのころのガキも、面白半分に雑誌をパラパラするわけです。スケルトンですが、階段下は、秘密基地めいて居心地のよい空間でした。最初は、巻頭と巻末のグラビアをただ眺めていた。字が読めるようになってからは、難しい漢字は置くとして、記事も読む(見る)ようになりました。
巻頭特集の後に続くミニコラム「TEMPO」。政治経済から社会的な出来事、アートシーンやスポーツ・芸能まで、旬の話題を集めたページです。そこに、『椿三十郎』の紹介記事とともに「血が噴き出す」衝撃のシーン写真が掲載されていた。
(うひゃ~ッ!)
モノクロの小さな写真なのに、血を見るのが苦手な僕には、十分すぎるエグさでした。話がまたまたよれてしまいますが、『週刊新潮』という雑誌はおもしろい。表紙画が谷内六郎画伯から成瀬政博画伯にバトンタッチされ、執筆者も時代とともに変遷してはいますが、基本構造は同じ。僕が子どものころから変わっていません。「TEMPO」はもちろん、「大人のマンガ 読むマンガ」「黒い報告書」といった定番ページが、いまも続いている。
「大人のマンガ 読むマンガ」。「マンガ」というタイトルを頼りにページをめくっても、そこにあるのは活字だけ。世界の艶笑小話と風刺小話。(以下転載/原文ママ)──陣痛を迎えた妻に亭主が言う。 「ぼくのせいでこんな苦しい思いをさせてしまって申し訳ない」 「いいのよ、あなたのせいじゃないわ」 (転載終わり/出典:フランスの艶笑小話 http://claudine.h.fc2.com/oeuvres/droles.html)──とか、「ドイツ人が日本人に言いました。『次は、イタリア抜きでやろうぜ!』……」的な話です。そんな他愛もない話をガキの僕は毎号読んでいました。意味がわかってたのかなぁ?
「TEMPO」でもうひとつ思い出深いのは、映画『卒業(*3)』です。人妻と大学を出たばかりの青年の〝いけない話〟。この映画でデビューしたダスティン・ホフマンが、ズボンのポケットに手を入れて所在なげにたたずむ遠景を横切る、ベッドに座ってストッキングをはく女の、足のアップ。15歳だった僕は、記事はもちろん、ポスターの図柄でもあった有名なその写真にやられました。
「映画行くからお金ちょうだい」
「何を観るん?」
「卒業」
「……あなたにはまだ早い、思うけどなぁ」
一瞬の間があった、母との会話です。これはよく覚えている。母も同じ記事を読んでいた。
(おとなの女が若い男を誘惑する、いやらしい映画じゃ)
でも彼女は僕をとめなかった。(この子も思春期じゃからなぁ。とやかく言うても詮方ない)とでも思っていたのでしょうか。事実、当時『週刊新潮』への僕の興味は「TEMPO」「大人のマンガ 読むマンガ」から、ある意味看板連載である「黒い報告書」にはっきりと移行していました。名だたる書き手が描く、男と女の肉欲にまみれた事件の裏側。息の詰まるようなエロチックな描写と、どろどろした欲望の果ての救いのない結末を、毎週読んでいた。
(女いうんは怖ぇな。男は阿呆ぅばかりじゃし)
で、映画といえば、席を立てませんでした。入れ替え制ではなかった当時の映画館で、3回続けて観ました。とてつもない〝おとなの女〟ミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト)の、背徳的で決然とした、生々しい欲望の深さに打ちのめされました。ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)とエレーン(キャサリン・ロス)の、「この先どうなんの?」的行く末も気にはなりましたが、正直、僕はミセス・ロビンソンが気がかりでした。この映画が好きな人には、同じ感覚を抱いている人も多いのではないかと思います。
挿入曲『ミセス・ロビンソン(*5)』で何度も繰り返されるサビのフレーズが、いまでも頭の中をくるくる巡ります。大意はこうです。──ロビンソン夫人、イエス様はあなたが考えている以上に、あなたを愛している。神は祈りを捧げる者を見放したりはしない。だから……あなたに乾杯!。
背徳と神の赦し的な、非キリスト者にはわかりづらいところのある歌詞だと思います。ただ、「罪も恩寵も関係ない。すでにしてミセス・ロビンソンは神との契約を解除した(された?)人間であって、自分の意志だけを頼りに歩き続けるしかない」という意味がこめられている気がするのは、僕の僻目でしょうか。当時はそういう時代でした。であるなら、ラストシーン、娘エレーンの決断と若いふたりの行く末も納得できるんだけどなぁ。
「えぇかげんにせぇ! わかったような口をきくな、阿呆ぅめ!」
KN造がこころから忌み嫌った精神としての「田舎者」──「通」を気取る者、実のない長口舌──そのもののヨレヨレ話です。反省します。黄にらと鍋の話、続きます。
*1 岡山では:(以下転載/原文ママ)──明治時代から栽培が始まり、太陽光線を遮断して栽培しています。そのため、食感は青ニラに較べ柔らかく、味もほのかに甘く、香りは淡く上品です。岡山では、全国の約7割を生産し、東京を中心に、名古屋、京阪神等広く出荷しています。──(出典:岡山県ホームページ http://www.pref.okayama.jp/page/detail-26757.html)。筆者の実感では、「香りは淡く上品です」は火を通した後の話。生で持ち帰る際には、二重三重にビニール袋で包んでも、周囲に気を使うほど「匂い」ます。
*2 黒澤明監督、三船敏郎主演のアクション時代劇。1962年(昭和37)1月1日公開。ラストの三船敏郎と仲代達矢の決闘シーンは、世界に衝撃を与えました。何度観ても、おもしろい映画です!
*3 卒業:1968年(昭和43)公開の、アメリカン・ニューシネマを代表する映画のひとつ。監督:マイク・ニコルズ/出演:ダスティン・ホフマン、アン・バンクロフト、キャサリン・ロス。サイモン&ガーファンクルのテーマ曲『サウンド・オブ・サイレンス』、挿入曲の『スカーポロ・フェア』『ミセス・ロビンソン』が世界的な大ヒットとなりました。
*4 ポール・サイモン作詞・作曲。
……………………………………………………………………………
■其の9 妄想劇場 黒めがね、さらに「黄にら」を喰らう編
……………………………………………………………………………
「さすがに(遊び)疲れた。今夜は家で鍋でも喰うか」
稀にではありましたが、KN造と岡山来訪中のJNN介が、母や僕も交えてわが家で夕食の卓を囲むことがありました。
「JNどうじゃ、黄にらはやっぱり旨かろう。東京じゃぁ喰えんもんのぅ」
「確かに旨い。ただ、関東の青ニラも捨てたもんじゃないですよ」
さらり、JNN介が言葉を返す。にやりと笑うKN造。
(JNらしいのぅ。負けず嫌いめ……)
ホント、どうでもいいことに意地を張る、おバカな男どもならではのやりとりです。それは、端で見ていたガキの僕もにもわかりました。
(このふたりは、ほんま仲がえぇんじゃなぁ)
それはそれとして、冬になるとKN造は、そわそわしはじめました。同じ感覚を僕は大阪で体験しています。1986年(昭和61)から3年間、僕は以前勤めていた会社の転勤で大阪に住んでいました。強烈で思い出深い大阪についてはいずれ書きたいと思っていますが、まずは生駒おろしの冷たい風が吹きはじめる初冬の話。支社の地元出身の人たちが、なぜか浮き立つ、心ここにあらず的な風情を醸す。
「ヨシユキさんも行かはるでしょう? 人数まとめて予約せなあかんし」
寒風の到来とともに、大阪人の魂を揺さぶる「河豚」の季節の到来だったのです。
(さすが、大阪!)と思いました。
またまた古い話で信じられないかもしれませんが、1970~1980年代の「わが国」の「河豚」地図は、関西と関東で歴然とした違いがありました。関東における「河豚」は超々高級食材で、一部の食通、好事家しか楽しめないというか、進んで食されることのない存在だったのです。大学の同級生たちと流れ流れて、新宿・歌舞伎町のはずれの居酒屋に入った。壁に貼られた品書きを見ていて、格安の「河豚の唐揚げ」を発見した。
「おぃ、河豚が安い。頼もう、旨いぜ!」
「なに! ふぐ(↑)?」
語尾上げが独特な水戸訛りのTK瀬が、(信じられない)という顔をして僕に聞き返しました。
「あぁ、河豚だ」
(お前は馬鹿か[↑]?)という表情、店の人間に聞こえないように、低い声でTK瀬が言いました。
「そんなもん食ったら死ぬぞ(↑)。毒があるのを知らんのか(↑)?」
「なに言ってんだ、食えないわけがないじゃないか。メニューに載ってんだぞ」
(ただし、どんな河豚かは保証できない。素性のしれない雑魚河豚だとは思うが……)
そんな時代でした。
「河豚なんか食うことない。冬は鮟鱇がうまいぞ(↑)」
水戸っぽ(茨城県水戸市出身者の呼称)TK瀬の抵抗を無視して言いました。
「意気地なしめ! 毒味でオレが食うから、だまされたと思ってお前も食ってみろ」
一瞬ためらいながら、TK瀬が言い放ちます。
「あぁそうか、そこまで言うなら、食ってやる(↑)」
(KN造 vs JNN介同様の、おバカな男同士ならではのやりとりです)
おずおずと、おそるおそる、前歯で少しだけ噛み切って、唐揚げを口にするTK瀬の姿が思い出されます。
「旨い!」
結果は歴然でした(どうだ、ざまぁみろ!)。
とはいえ、おとなになって知りました。関東の冬を彩るのは、確かに「鮟鱇」だったのです。バカ高い「河豚鍋」パックは手を出せないし、その気にもなりませんが、「鮟鱇鍋」パックは、店先で「いま買わないと、季節が終わっちゃうよ!」と僕を誘惑します。甘辛の醤油味、もしくは味噌味が関東風なのでしょうが、僕は「鮟鱇」もちり鍋+ポン酢でやっつけます。この魚は「鮟鱇の七つ道具」と言われるほどに捨てるところがない。エラ以外は、ほとんどすべてをしゃぶりつくせる。ぷりぷりとした純白のフィレ肉はもちろん旨いのですが、お楽しみは、骨周辺の身とゼラチン質そのものの皮、内蔵類のそれぞれ個性的な歯触り、深い味わい。そしてなにより、下手なフォアグラは無条件降伏するべき「アンキモ」がすばらしい。ぜんぶ旨いです。
TK瀬、すまん! 当時のオレの愚かさを許せ。鮟鱇は間違いなく旨いぞ!
またまた話がよれた。申し訳ない。話を戻しましょう。かつて、河豚というやつのお楽しみ分布は独特ではありました。本場といわれていたのは山口県や北九州。でも、大阪は河豚王国でした。目の玉が飛び出るほどの値段の高級店から、(ほんまに痺れたりせぇへんやろな)的バカ安店まで、懐具合に合ったラインナップがカンペキに揃っていた。支社にいた3年間、僕は毎シーズン、大阪の台所のひとつである「黒門市場」の、サラリーマンがちょい奮発すれば行ける店で、てっさ(*1)・皮・唐揚げ・焼白子・白子付きのてっちり・ひれ酒、そして身もこころもトロトロに溶かされてしまいそうな、締めの雑炊を舐めつくしました。
KN造も季節が訪れると我慢できなかった。残念ながら岡山は、河豚不毛の地でした。なので、さすがに下関までは行かなかったようですが、馴染みの店があったと思われる広島には、いそいそと足を伸ばしていました。小学校低学年のころ、KN造がようやく見つけたと思われる岡山市内の河豚料理屋へ、兄と僕を連れて行ってくれたことがありました。初めて「河豚刺し」を食べた店です。実は、何度思い返しても、そこで食った「河豚刺し」以上のものに、いまだ巡り会っていません。なにせ相手は「河豚」です。お大尽でも食通でもないので、その体験は儚いもの。長く生きていますが、コストパフォーマンスの高かった大阪を含めても、数回程度しか食ったことないです。でも、その記憶は強烈です。
「ほれ、食ぅてみぃ」
またまたKN造が、半透明の、かざせば先が見通せるのではないかとも思われる薄造りを、2・3枚まとめて僕の取り皿に放り込む。コリコリとした独特の歯ごたえとポン酢の酸味、そこに、えも言われぬ甘みと旨味が加わって、(なんて、美味しいんじゃろう……)と、子どもごころに刻み込まれてしまったわけです。大阪の「てっさ」はもちろん旨かったのですが、こころの奥底に「何かが足らない」という引っかかりがありました。その思いは、同じ大阪で解答を得た気がします。
大阪は「安うて旨いんが、あたりまえや!」という、リアリスティックな街です。町場のなんてことない居酒屋で、「なんで、どうしてこんなに旨いの!?」的な美味に巡り会うことも珍しくありません。
「今日は生きのえぇ、ハゲ(カワハギ)がありますよ」
居酒屋の店主に勧められて注文しました。細切りにしたハゲの刺身を肝で和えた「肝和え」。新鮮な魚でしか味わえない料理です。薄ピンク+薄茶色の生肝をまとった刺身をポン酢でいただく。(河豚とは違いますが、これまた)コリコリとした独特の歯ごたえとポン酢の酸味、そこにえも言われぬ甘みと旨味が加わって……、って、あの時と似てるじゃないか! ハゲ(カワハギ)という魚は河豚の近隣種です。そして毒は持っていない。
(そうか、やっぱり)
あのとき、僕の取り皿のポン酢にKN造がたっぷり溶かし入れたのは、河豚の生肝だったのです。猛毒性の卵巣はもちろんですが、基本的に、肝も各自治体の条例で客に供することを禁止されている危険な部位です。1975年(昭和50)1月、人間国宝で食通としても知られた歌舞伎役者、八代目坂東三津五郎丈が、京都の料理屋で「生肝」を食して中毒死するという事件が起こって、あらためて注目されました。「あらためて……」というのがポイント。僕のつたない経験(*2)でも明らかです。条例は条例として、「旨いもんは旨いんだから、食うのはあたりまえ」という、暗黙の了解が、当時の西日本にはあったということです。うろ覚えですが、「生肝」は、当然のように供されていた。 おかげさまで、肝をまとった河豚刺しで「痺れる」こともなく、いや、
「唇のあたりが少ぅしピリピリするんが、また旨いんじゃ」
なんてことを、確かKN造は口走っていたような。九州某県の一部地域では、いまでも「河豚の生肝を常食している」という話もあるようですが、まぁ二度と口にできないであろう、危険で魅惑的な味を体験させてくれた父・KN造に感謝して……いいのかなぁ。一歩間違えれば、親子消滅の可能性だってあったかもしれない、記憶の彼方のスリリングな一夜。
コリコリ、マムマム。あっという間に大皿の河豚刺しは僕の胃の腑に納まって、河豚ちりがスタート。KN造は黄にらをオプションで注文します。肉の水炊きとはまた違った、淡白なくせに「どうして?」と言うしかない旨味が溶け込んだ出汁に、黄にらがもうひとつのインパクトを与える。河豚不毛の地、岡山でしか味わえない旨さかもしれません。あぁ、また食いたいなぁ! と思うほどに、黄にらは力強い(そうでした、黄にらです。話の本筋を忘れるところでした!?)。
デンジャラスな側面を確かに持つ河豚はともかく、もうひとつの、わが家の冬の楽しみは「鴨鍋」でした。母が「岡山はなぁ、鴨をよぅ食べる土地なんよ」と言っていました。デパートはもちろんですが、中心部のちょっとした肉屋には必ず、そこそこ大きな鴨肉コーナーが、いまもあるような気もします。特徴は、ミンチが大きなスペースを占めていること。ミンチというか、しっかりとすり潰された、濃紫+濃茶色のゲル状、ペーストに近い物体です。
「ミンチとロース、それとモモをちょうだい」
岡山市の古くからのアーケード商店街・表町の入り口近く、上之町と中之町の境にいまもある肉屋で、母は鴨を買っていました。てなわけで、鴨鍋をはじめましょう。
前夜から水に漬け込んでいた、出汁昆布と干し椎茸がたゆたう鍋に火を入れる。沸騰してきたら昆布を取り出して、またまた酒をダバダバ。アルコールを飛ばしたら、ささがき牛蒡と味出しのモモを投入。湧き出るアクをすくって、醤油・砂糖・塩で、適度に淡く味を付けます。「淡く」は重要です。具材を入れるごとに出汁は煮詰まり旨味が凝縮されていくからです。
沸き立つ鍋に、金時人参の千切りと百合根を加える。そして、お楽しみのミンチの登場。深皿の、なみなみとしたペーストにスプーンが3本。鍋奉行のKN造以下、母も僕も、一心にスプーンでミンチを掬っては鍋に流し入れます。ミンチが肉団子に変わる頃合いで、ロースも投入。そしてこの鍋のポイント、香り高い芹と春菊、そして黄にらを山盛りで鍋にかぶせる。野菜たちが鍋の熱に負けて嵩を失うその時が食べごろです。
ミンチ、ロース肉、茶・赤・白・緑&黄の色合いが美しい野菜たちと、その旨味が凝縮されたスープの旨さ。食ってはまた具材を追加してむしゃぶりつく。無我夢中ってやつです。食えば食うほど旨くなる。悪魔のような鍋です。鴨といっても、当然のごとく合鴨です。でも、いまどきの洗練された(?)合鴨とは違う野性味があったような記憶があります。要は「鴨独特の風味」が強かったということです。
おそらく岡山の鴨ミンチには、内蔵や骨髄といった濃厚で味わい深い部位が混ぜ込まれているのだと思います。その野性味を、牛蒡、金時人参、芹、春菊(これまた関東の春菊、京菊菜とも違う、葉が大きく柔らかい、岡山独特の野菜)の香りが包んで旨味に変える。ここでも黄にらの存在感は際立って、鍋の旨さにとどめを刺します。鴨の風味と黄にらの風味が、同時に鼻に抜ける瞬間がたまりません! そんな鴨鍋を、僕は東京で再現しようと足掻きます。でも、鴨は高いし、あのミンチも手に入らない。次善の策は「鶏」で代用するということでした。いま住んでいる三鷹から3駅都心寄りの荻窪に、リーズナブルな「鶏と鴨の合挽」を売っている鶏肉専門店がありました。
(これでやってみよう)
工程、味付けは同じです。味出しに使うのは、鴨のモモではなくて、骨付きの鶏ぶつ切り。野菜は、百合根抜きの、牛蒡、人参(金時がなければ、普通の[西洋]人参でもOK)、芹、春菊(いわゆる関東の春菊で問題なし)、そして青ニラです。ふと、青みの野菜を全部小口切りにして、大きめのボールで混ぜ合わせることを思いついて実行しました。成功でした。合挽団子に火が通る頃合いで、ボールから青みたちをワシっと摑んで鍋に投入する。ほどなく野菜の嵩が失われて、これまた旨い鍋がはじまります。擬似「鴨鍋」の掟はただひとつ。「最後まで(味出しの)骨付き鶏ぶつには手を出してはならぬ」です。ミンチ、野菜を食べつくした鍋には、すべての旨さをまとったスープと「ぶつ」が残される。そこに餅を投入してひと煮立ち。
これは、ホントに旨いです。掛け値なんかありません。
煮立てられ味を吸い取られる代償として、ミンチや野菜の旨味が溶け込む出汁をすべて受け入れた「ぶつ」。皮はトロトロ溶ける、身は箸を入れるだけでハラハラと崩れる。餅の澱粉でとろみのついたスープとともに、僕は「全部舐めたい!」とこころから思います。食い意地の権化です。お笑いください。しかし、頼りにしていた荻窪の店は閉店してしまいました。一度デパートで「合挽」を見つけたのですが、ミンチそのものに味付けされていて往生したことがあります。なので、いまは、オール「鶏」。どこでも手に入る「鶏ミンチ」で1年に1度「鍋」を楽しんでいます。ただし「ぶつ」だけは冷凍ではない、生のヤツでないとつまらないです。
岡山と変わらぬ野菜と肉の響宴。なにを言いたいかというと、「黄にらの旨さは身にしみて知ってる。でも、関東の青ニラも捨てたもんじゃないよ」ということ。ワシっと摑み入れる「青み」の美味さのポイントは、間違いなくシャキっとした「青ニラ」なのです。けっこう似ていると思う「きりたんぽ鍋」と一線を画するのは「ニラ」の存在。
「そんなんは、ただの負け惜しみじゃ」とKN造に一喝されそうですが、生前彼に、僕仕様の「擬似鴨鍋」を食べさせてみたかった。そんなことを思う、今日このごろです。それはそれとして、黄にらの楽しみをもうひとつ、ふたつ。
甘めの味噌汁にみじんに刻んだ黄にらを入れる。実に旨いです。もうひとつ。鰹出汁に、濃いめに赤味噌を溶かし入れ、軽く煮立ったら冷やご飯を投入。頃合いで溶き卵を混ぜ入れ、最後に黄にらを投入する。好みで鶏や豚を加えてもいいのですが、基本の味がそれで揺らぐことはありません。「ソイビーンペースト et イエローリーク・リゾット a la ジャポネーゼ」。阿呆極まる話で申し訳ありません。たんなる「黄にらの味噌おじや」。こんなに熱々、ハフハフで、滋味深い食い物はそうそうないですね。風邪なんか、そのひとくちで吹っ飛ぶ勢いです。
「ほれみぃ(それみろ)、やっぱり旨いじゃろぅが」
KN造の愉快そうな顔が思い浮かびます。悔しいなぁ。でも、旨いもんなぁ、黄にらは、ぜったいに。
*1 大阪独特の呼び名です。「てっさ=河豚刺し」「てっちり=河豚ちり」。「てっ」とは「鉄 → 鉄砲」の省略形だそうです。「鉄砲=当たる=河豚の毒に当たる」。そんな、ヤバいけど食べずにはおれない旨い魚を愛してやまない、大阪人ならではの諧謔ですね。
*2 「生肝」と思われるものを食べた岡山市内の河豚料理屋はいまはありません。
………………………………………………………
■其の10 妄想劇場 ダダ、女に目覚める編
………………………………………………………
父親の急死と家の破産により、12歳で小学校上級科を中退せざるを得なかった祖父ST郎は、家族・親族・縁戚の子どもたちに十分な教育を与えることを自らに課していました。ふたりの例外を除いて、男の子たちは大学、女の子たちは高等女学校を卒業させた。例外は、よりにもよって実の息子たち。長男A助は手のかからない聡明な子どもでした。ただし、その「聡明さ」には得体の知れない一面があった。当時通う子どもはまだ珍しかった幼稚園(*1)、小学校と、神童の名をほしいままにして彼は、岡山一中(*2)に進みます。
(このまま六高[*3]、帝大[*4]へすんなりいきゃあ[行けば]ええんじゃが)
「一中~六高~帝大」といのは、戦前、岡山の男の子が立身出世を目指すための合い言葉、エリートコースでした。「末は博士か大臣か」っていうやつです。しかし、ST郎の不安の種は、度を超したA助の聡明さ。自分の才覚だけを頼りに立身を遂げたという自負を、口の端に乾いた笑みを浮かべて眺めているとしか思えない少年。何を考えているのか判然としない。そして、あらゆる意味で早熟でした。中学生になるかならないころには、すでにして女遊びを覚えていた。
独り寝の居室。障子が音もなく開き、おぼろな影がA助の布団にすべり込む。柔らかい温かいものが?に密着する。
(女?)
耳元へ囁きかける声、吐息。
「ぼっちゃん……ふたりだけの秘密じゃ、えぇことしょ(しよう)」
女に導かれるままの、はじめての行為。
日頃からなにくれとなく視線を感じていた、若い女中のひとりでした。
(あれが色目いうやつか)
乱れた寝衣を整え、女が立ち上がる。薄闇のなか、去り際に振り返り、満足げに女が微笑んだような気がした。
(男はもちろんじゃが、女いうんも……度しがたいのぉ。闇じゃ)
KN造とはまた趣の異なる、A助スタイルの「女」探求のはじまりでした(何組「ふたりだけの秘密」があったかは置くとして。またまた、かなり妄想が入っています)。A助は1940年(昭和15)、35歳で狭心症の発作に襲われ急死しているので、母からの伝聞しかその人となりを知る方策がありません。
「義兄さんはすらりとしたえぇ男じゃった。桶屋町に帰ってこられると『東京の若様が戻られた』いうて、女中たちが浮き足だっとった」
しかし、A助といい、その息子・JNN介といい、そしてわが父・KN造といい、「モテまくった」という伝説があるのが、またまた悔しいなぁ! 同じ血を引く一族とはとても思えません。不肖の「甥・従弟・息子」である僕の哀しさ、でございます。閑話休題(=って、そんな話はどうでもよくて)。面長の整った顔立ちにロイド眼鏡。三つ揃いのスーツだったり、着物だったり、いまはNGと思われる、昔の文人・洒落者が愛用していた頭髪ネット(*5)姿もありますが、残されている写真はぜんぶ、何気に「上目遣い」のような気がします。
やるな、A助! と思います。意識していたかどうかはわからない。モテる人は、決めポーズを自然に身につけている、ということなのかもしれません。中学生にして芸者を揚げ、遊廓に沈む。それ以外のすべてが、きっと、つまらなかったのでしょう。周りにたむろするのは、情欲のおもむくままに鼻を鳴らしてすり寄ってくる素人女、上の学校を目指すための「勉学」というやつだけに囚われた同級生。そして、権威を振りかざす教師、盲目的に自分を溺愛するだけの母MR代、仕事しか興味がなく、さらにはフィクサーとして政財界に君臨しようともがく父ST郎が、見当はずれにあれこれと干渉してくる。
ついでに言うと「A助」という名を本人は嫌悪していました。ST郎が「営々として築いてきたYSYK組の『弥栄』を『助ける』跡取りとなってくれ!」と願って命名した名前。
(字面が第一気にくわん。野暮の極みじゃ)
後に物書きとして生きることになる彼は、名をカタカナ表記の「Aスケ」に改めます。なので、以降は本稿も「Aスケ」に統一します。神童は瞬く間に、町でウワサの「不良」に変身しました。人口10万人弱だった当時の岡山(*6)では、口さがない町奴たちの、恰好のターゲットでした。
「ヨシユキの息子は、中学生のくせして女遊びに狂うとるらしい」
「おぉ、あのくそガキか! ありゃあ、当世の世之介(*7)じゃ」
「ちかごらぁ(近頃は)、得体のしれん連中ともつるんどるらしいで」
「聞いた、聞いた。東京もん(者)の風体の怪しい連れと人力(車)何台もしたてて、中島(中島遊廓)へ繰り込んだいう話じゃ」
「おおけな(大きな)声では言えんが、その連中は『アカ』らしいで。跡取りがそねぇな(そんな)きょぉてぇ(恐ろしい)もんとつるんどるようじゃぁ、ヨシユキ組の行く末も知れたのぉ」
「アカ」というのは便利な言葉でした。アカ=赤=赤旗=革命=共産主義者 ≒ 社会主義者=ぬくぬくとした(と、庶民が信じ込まされている)世間を破壊しようとするはみ出し者=アウトロー・扇動者・テロリスト・悪魔の手先。いわば、ショッカーのような「無辜の民の敵の総体」といった感じで町奴(=庶民)に、意図的に刷り込まれていた感覚だと思います。しかし、A助がつるんでいた連中は、「現実を破壊しようとする……」思いは間違いなくありましたが、いわゆる「アカ」ではありませんでした。
その連中の正体はなんだったのか!?
*1 1884年(明治17)に開設された岡山県女子師範学校附属幼稚園。最初の幼稚園は、1876年(明治9)開設の東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)。明治・大正・昭和初期は限られた子どもしか通えない幼児教育機関でした。(以下転載/原文ママ)──【五 幼稚園の創設】(前略)幼稚園の普及状況を見ると、十三年には幼稚園数は五園(国立一、公立三、私立一)で、幼児数は四二六人(国立一〇五、公立三一一、私立一〇)であったが、十八年には三〇園(国立一、公立二一、私立八)で、幼児数は一、八九三人(国立一六七、公立一、四五三、私立二七三)となっている。(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317591.htm)/【六 幼椎園の整備】明治十九年に四〇園に満たなかった幼稚園は、二十年には六七園となり、毎年二〇ないし三〇の増加をみせ、二十年代の終わりには二〇〇園をこえた。この結果、三十年には、小学校の一年生に入学した児童の約一%が幼稚園を修了している。それ以後も、幼稚園は発達を続けたが、三十年代の終わりごろから私立幼稚園の発達が著しくなり、国公立幼稚園の発達は遅々とした状態であった。(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317625.htm)(以下略)──(出典:文部科学省「学制百年史」)
*2 旧制岡山縣第一岡山中學校の通称。現・岡山県立岡山朝日高等学校。1668年(寛文8)、藩主・池田光政によって開設された日本最古の藩校「岡山藩藩学」を淵源とする珍しい学校です。
*3 旧制第六高等学校。1900年(明治33)設立。旧制高等学校は戦前の高等教育機関。なかでも、一高(東京)・二高(仙台)・三高(京都)・四高(金沢)・五高(熊本)・六高(岡山)・七高(鹿児島)・八高(名古屋)は「ナンバースクール」と呼ばれた最難関校でした。旧制高等学校は現在の大学の教養課程に相当しますが、その教育内容は比較にならないほど高度だったようです。現在の岡山大学の母体です。
*4 旧制帝国大学。北海道(札幌)・東北(仙台)・東京・名古屋・京都・大阪・九州(福岡)・京城・台北に置かれた戦前の最高学府。
*5 髪型を保持するためにかぶる太目のゴム紐で編まれたネット。
*6 当時の岡山:「落書き帳アーカイブズ」を参照した人口です。データの原典は『明治大正国勢要覧』だそうです。(以下同サイト掲載の表組・1位〜5位を転載/原文ママ)──明治・大正期の都市人口のランキングデータが手元にあるので、ご紹介します。(前略)1920(大正9)/1 東京 2,173,201 2 大阪 1,252,983 3 神戸 608,644 4 京都 591,323 5 名古屋 429,997(以下略)(出典:「落書き帳アーカイブズ」明治・大正期の都市人口 http://uub.jp/arc/arc59.html#3295)。100万都市は2つだけ。94,845人の岡山は第18位なのですが、神戸(3位・61万人)が名古屋(5位・43万人)・横浜(6位・42万人)より上位、函館(9位・14万人)が札幌(15位・10万人)より上位に位置する、また福岡ですら10万人に満たない(17位・9.5万人)など、けっこう興味深いものがあります。
*7 井原西鶴作の、江戸文学を代表する草双紙『好色一代男』の主人公。
………………………………………………………………
■其の11 妄想劇場 ダダの話はどこいった?編
………………………………………………………………
「アカ」ではない、Aスケがつるんでいた東京もん(者)の得体の知れない連中。彼らは「ダダイスム(*1)」を体現する「ダダイスト」と呼ばれる人たちでした。「ダダ+イスム=ダダ+主義」「ダダ+イスト=ダダ+主義者」?
語感がすごいですよね。「ダダ」。
パッと思い浮かぶのは「駄々」。たんなる当て字ですが、「堕々」なんていう言い回しも、あながち的外れではないような、そんな人たちでした。余談ですが、『ウルトラマン』シリーズを代表する宇宙怪獣「ダダ」は、「ダダイスム」から命名されたそうです。
(以下転載/原文ママ)──
ダダは、特撮作品『ウルトラマン』を初めとする
ウルトラシリーズに登場する架空の怪獣。
「三面怪人」の別名を持つ。
白黒の幾何学的な縞模様で全身を覆われている怪人。
名前はダダイズムに由来し、
既成概念では理解し難い宇宙生物を意図して
脚本家の山田正弘が名付けた。(後略)──
(出典:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典「ダダ(ウルトラ怪獣)」
最終更新 2016年4月14日 (木) 02:10 https://ja.wikipedia.org/wiki/ダダ_(ウルトラ怪獣))
「既成概念では理解し難い……」って、そんなややこしい人たちが登場した経緯を語るなど、僕のような〝軽はずみ〟な人間には無理。あぁ、なんでこんな袋小路に……と思います。でも、Aスケ=唯一の父方の伯父、その先にあるKN造=父を語る上で避けて通れない存在なので、とりあえず書きます。浅学非才なヨレヨレの惨状を呈するおそれがありますので、ご注意ください。
「ダダイスト」が登場するのには、伏線がありました。共産主義。「アカ」の主体。そのイデオロギーが招いた結末はともかくとして(極東はなお、その負の遺産に苦しんでいますが)、19世紀半ばにマルクスとエンゲルスが著した『共産党宣言』は、連綿として続いてきた人間の「逃れられない暗黒面」、支配する者と、支配され、抑圧され、搾取される者の構造を論理的にあぶり出したことは確かです。
「一つの怪物(*2)がヨーロッパを徘徊している。共産主義の怪物が……」という、『共産党宣言』の有名な一節は、刺激的でロマンティックですね。巧い! と思います。てなことを書いていますが、残念ながら本編は読んだことないです。岩波文庫にありますよね。白帯のそれを手に取ったことすらないです。超々聞き齧りの、わずかな一節しか知りません。まことに申し訳ありません。
とはいえ、プロレタリア(労働者+農民)革命によって「人類誕生以来の、社会の不正、不平等が正される(かも)」という机上のロマンティシズムに、世界中の若いインテリたちは熱狂したようです。インテリが主導し、民衆が尖兵となる構図。とてつもなく不幸な匂いのする話ですが、その最初の結実が、ロシア革命とソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連[*3])の成立でした。世界を震撼させた出来事。1917年(大正6)、A助は11歳、KN造は6歳でした。
ロシア革命が勃発する契機となった第一次世界大戦は、人間が始めて体験した消耗戦・総力戦でした。主戦場はヨーロッパ。NHKスペシャル『映像の世紀』の第2集『大量殺戮の完成 ─ 塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た』(1995年[平成7]5月放送)の冒頭をよく覚えています。オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、大英帝国、フランス共和国(北アフリカ・東南アジア・太平洋地域に領土をもつ実質的帝国)、オスマントルコ帝国といった列強の思惑・緊張が、一気に破裂したヤケクソ的世界戦争。孤立主義を標榜していた(てのはウソです!)アメリカ合衆国(こちらも太平洋・アジアに権益・領土をもつ実質的帝国)の参戦によって、戦況は混沌を極めました。わが大日本帝国も、日英同盟によりドイツ帝国に宣戦布告。ドイツが権益を確保する中国の山東省、南洋諸島を火事場泥棒的に占領しました。
1914年(大正3)8月、大陸に派兵されるイギリス兵たちは「『クリスマスまでには戻る!』と、家族に明るく告げてドーバー海峡を渡った」と、番組冒頭のナレーターは語ります。しかし彼らは、戦死もしくは重篤な戦傷をのぞき、以後4年間母国の土を踏むことはありませんでした。大軍が対峙する古来からの様式に則った野戦がしばし行われ、互いに相当数の兵士の損耗を経て和平が訪れる──などいう人間の常識(戦争のロマンティシズム)はカンペキに覆されました。前述したウォーカー・ブラザースの曲『NEXT』の世界が、そこにはありました。果てしのない塹壕戦でした。飛行機、戦車、重機関銃、毒ガスなどの最新&大量殺戮兵器も登場して、戦場は凄惨極まるものとなりました。
大義なく(そもそも戦争に大義などないですよね)、帝国という幻想に踊らされる人間のバカさ加減だけが突出した無益な戦いに、人びとは倦んでいました。この戦争が終わってわずか20年後に、「想像を絶する」「想像」をさらに「絶する」ジェノサイト=第二次世界大戦を人間は体験するわけですが、「神でない身の知る由もない」っていうやつです。しかし、長すぎますね、前置きが。「ダダ」の話はどうなってるんだ? 書いている自分が思います。浅学非才なヨレヨレの惨状そのものです。話を本筋に戻したい!(戻せるか!?)
世界戦争という人間ならではの、刹那的で綿密かつシステマティックな「共食い」は、過渡期の不安定極まる新・秩序を生み出しました。戦争のメインプレイヤーのなかで、存立基盤があまりにも旧弊だった「帝国」は革命や反乱でバタバタと崩壊しました。そして英米という「勝ち組帝国」(大日本帝国もその一角にあったことが、後々の不幸のはじまりです。フランスは勝ち組ですが、主戦場でもあったため疲弊していました)と、ソ連=共産主義「帝国」が世界秩序の主役に躍り出したのです。ユーラシアに誕生した鬼っ子巨大帝国・ソ連に、あれこれ脛に傷もつ勝ち組帝国は恐怖を感じていました。実体はすぐに明らかになるのですが「民衆が目覚めて、国家というが幻想が紡いできた『収奪』システムが白日の下にさらされる」かもしれなかったからです。しかし人間は、昔もいまも愚かであることに変わりはありません。
共産主義の不幸は、一党独裁という落とし穴にはまったこと。大衆を操りやすいファナティックな支配体制は、権力者にとってたまらぬ蜜の味だったのでしょう、きっと。たぶん。マルクス=エンゲルスの思想の本質が、どこにあったかは知りません。少なくとも、瞬く間に「ヨーロッパを徘徊する〈怪物〉」は、「教条主義」っていうやつに絡めとられてしまいました。自分たち以外を見る・知る必要はない。至高の存在共産党とその教えだけを崇めるべし。共産主義(の名を借りた独善的)革命で世界を解放するのだ! こうなると、もう宗教です。
ともあれ共産主義は、政治・労働運動だけでなく、文化芸術運動としても第一次世界大戦後の世界に大きな影響を与えました。麻疹のように若者たちのこころを捉えた。しかしその徹底した狭量な党派性に絶望した人たち、そもそもそのドグマ(=教条。これまたおどろおどろしい言葉ですねぇ)を冷ややかに見つめていた人たちもまた数多くいました。
(主義者[*4]というのは、どうにも暑苦しくって野暮なヤツらだねぇ)
大正はわずか15年の間に、それまでに日本人が経験したことのない自由な空気と、得体の知れない不安をもたらした時代でした。幕末から明治を支配した価値観は崩壊しつつありました。
「この腐った世の中をぶちこわさなければ!」
いつの時代にもある、若者の通過儀礼といっていい不安・不満は、沸騰点に近づいていました。左(プロレタリア革命を目指す主義者たち)も右(天皇親政=軍部による国家改造を目指す勢力)も思いは同じでした。でも人間は、そんな二者択一で割り切ることはできないですよね。そんな左右のせめぎ合いの中に、忽然として登場したのが「ダダイスト」たちでした。
やったぁ! なんとか「ダダ」にたどり着きました。ヨレヨレの惨状におつきあいいただいて感謝します。 てなわけで、「Aスケ=ダダ」の話は、続きます。
*1 フランス語の「Dadaïsme=ダダイスム」の英語読み(Dadaism)。
*2 「幽霊」という訳文をあてることもあるようです。
*3 ソヴィエト社会主義共和国連邦:革命後の度重なる内乱、ドロドロぐじゃぐじゃの権力闘争を経たソ連邦の成立は1922年(大正11)。
*4 共産主義者を揶揄した言い方。
…………………………………………………………………………
■其の12 妄想劇場 またまた脱線・岡山二中と岡山一中編
…………………………………………………………………………
『岡田純良帝國小倉日記』という、読ませるブログがあります。その2007年11月30日更新「岡山のお調子者たち。」)に、A助とKN造を取り上げてもらっています。「秋も終わり──さようなら、旧制岡山二中不良生徒諸君。」という書き出しではじまる話は、おもしろい。
鈴木清順監督、新藤兼人脚本、高橋秀樹・浅野順子主演のカルト的映画の原作・鈴木隆著『けんかえれじい』(1966年[昭和41]公開)と、無頼派の直木賞作家・柴田錬三郎の青春記『わが青春無頼帖』を基点とした、大正末年から昭和初年の、岡山の中学生たちの「咆哮&彷徨」のエッセンスを感じさせてくれる。しかし、とんでもない話の連続です。
旧制岡山二中(*1)は、鈴木隆、柴田錬三郎の母校です。父・KN造、兄・KRKの母校でもあります(兄は戦後の学制改革で改組された岡山県立岡山操山高等学校[*2]卒業)。ただし、兄以外の人たちはそこで学業を終えていない。『眠り狂四郎』シリーズで有名なニヒリスト〈シバレン〉柴田錬三郎は、岡山の男の子が立身出世を目指すためのエリート主義「六高~帝大」を忌避し、4年生で岡山に見切りをつけて東京に出た。喧嘩修行に明け暮れる南部麒六という快男児を小説に生み出した鈴木隆は、自作の主人公同様に退学させられています。そして、
(以下転載/原文ママ)──
秋も終わり──さようなら、旧制岡山二中不良生徒諸君。
(中略)
同じ岡山でも、
1906年(明治39年)生まれの吉行エイスケは、
アナキズムに夢中になって岡山一中を4年で退学になった。
弟の謙造は地元の中学数校を退学になり、
名古屋の中学を経て立教に進んだものの素行不良という
モノスゴイ理由で大学を退学させられている。
エイスケの生年から勘定すると、何れも1920年代の話だ。
元より無茶な土地柄だったのか。(後略)──
(出典:「岡田純良帝國小倉日記」岡山のお調子者たち。http://punkhermit.jugem.cc/?eid=1952)
JNN介のエッセイにもあります。記憶は曖昧。確か、「母方の叔父たち(AGRの弟たち)は当時流行っていた思想問題(アカ=主義者)で学校を追われかけたが、父とその弟である叔父(A助とKN造)は素行問題で学校を追われた……」だったような。そう書いているJNN介もキャンパスを早々に見限って、学費滞納で大学を除籍されている。なんなのでしょう、この系譜は。ていうか、社会・世間そのものが「傾いていた」感じがします。
ともあれ、ブログ『岡田純良帝國小倉日記』の表題になっている岡山二中について書きます。明治末から大正にかけて、中学校進学者の増加に伴い、全国で公立の「二中」(第二中学校)が設立されました。これらの学校が等しく目指したのは「一中に追いつけ、追い越せ!」でした。おもしろい資料があります。渡辺一弘さん(*3)の論文『戦前期における中等学校文化に関する研究─岡山県を事例にして─』『戦前期における中等学校文化に関する研究─岡山県を事例にして(Ⅱ)─』、『岡山県の旧制中学の校風─岡山一中と岡山二中を中心に─』です。教育社会学を専攻する熊本出身の筆者が、研究対象として興味を惹かれた。「一中・二中」の関係性の典型が岡山にあったのかもしれません。
渡辺さんの論文から抜粋転載します(原文ママ)。以下、同論文からの転載部分の出典は章末注記をご参照ください(*4)。
──(前略)先ず注目したいのは、
両校の制帽が角帽であるということである。
当時中学での角帽は珍しく、また『広辞苑』によると、
角帽は多くの大学生の制帽とするところから、
大学生の俗称としても使われるという。
角帽は学校のプレスティージの高さを
示していたと考えられる。
(中略)
制服については一中は、七つボタンで丈の長いものである。
角帽同様これも非常に珍しいもので
明治38年4月から昭和14年入学生まで採用された。
この七つボタンは先に示した回想から、
角帽とセットで一中の象徴であったことがわかる。
(中略)
一方二中の制服は五つボタンであるが、
ズボンには当初ポケットがなかった。
二中がズボンにポケットを作ることを禁じたのは、
「手を入れて不善をなす」という配慮かららしかったが、
後に生徒の姿勢態度の点と特別のある理由で、
右後ろに唯一ポケットを開けることに決まったとのことである。
(後略/転載終わり)──
論文にもあるように、岡山一中は全国でも珍しい角帽を採用していました。一方二中は同じく角帽でしたが、白線が縁どられ、その違いは一目瞭然でした。この伝統は、戦後の新制高校にも引き継がれました。「学帽」というのを、いま見ることはほとんどないですね。あるとすれば、名門の私立小学校とか、大学の応援団くらい。しかしかつては、さまざまな学校のレーゾン・デートルのひとつともいえるものでした。掲載されている、岡山二中卒業生たちのコメントの一部を転載します。
(以下転載/原文ママ)──
──白線のある角帽はあこがれの的であった。
入学が許可されると早速帽子を買って貰い、
夜寝る時には枕もとにおいて寝た。
(K.T 昭和6年卒)
──合格の発表を見たその晩、
忙しい母を無理矢理連れ出して、
憧れの白線あざやかに光る角帽を買いに行く。
(中略)光る帽子に輝く童顔、
元気に登校した新入生の私は、
何の思考も自制もなく、唯有頂天だった。
(A.T 昭和16年卒)
──わが岡山二中は、大正9年創立されまして以来、
「全人教育」を目標として、
学問、スポーツ、文化活動などに
調和のとれた教育が実践されてきましたことは
周知の事実であります。
(M.H 昭和8年卒)
──二中が創設されて70年になるが
二中以来の伝統である「心の教育」が
今なお脈々として
操山の教育理念のなかに流れている。
(K.Y 昭和13年卒)
──(前略)当時はよく一中と対比されたが、
私は、都会的なエリート校の、悪くいえば、
ギスギスした感じの一中より、
おおらかな農村的な二中カラーの方が好きだった。
(K.S. 昭和19年卒)
──(前略)当時一中は今で云う受験校で、
がり勉で上級校へはいれるといった
空気があったようで、
六高でも私の組の半数は一中卒でしたが、
例外はあっても一般にチャッカリした人が多く、
二中から来た人は数は少なかったが、
のんびり型が多く今からも好ましいように思います。
(O.M 昭和5年卒)──(転載終わり)
対する一中卒業生のコメントの一部。
(以下転載/原文ママ)──
──入学早々に裏川校長から、
イートンスクールの例を引きながら、
「諸君は選ばれた者の自覚を持て。
学校は諸君を紳士として遇する」
という意味の訓示を受けて、
さすが一中だと自尊心を擽られた。
(T.D 昭和10年卒)
──当時の一中生は岡山市民から六高生とは
また違った意味でエリート扱いされていた。
(O.M 昭和10年4年修了)
──天下の三中の一ツだという誇りは
角帽(我々の学年から戦闘帽になって残念だったが)
と共に生徒の心に自信と情熱を与え、
また数多くの思いでと共に人としての
情操も蓄えさせてくれた。
(F.T 昭和20年卒)
──岡山一中は都会的な学校で、
よくいえばリベラル、
わるくいえば各自受験勉強に熱中していて、
昼休みでさえ参考書を
開いている者がいるのには驚いた。
(T.A 昭和20年卒)
──岡山一中は、今日言うところの進学校で、
それなりの矜持があり、比較的自由な雰囲気で
授業時間も短く、
午後1・2時間の授業が終わると帰っていったように思う。
(I.T 昭和20年卒)──(転載終わり)
再度論文から転載します(原文ママ)。
──(前略)先の旧制中学の校風を検討するために
(中略)筆者は1999年以来、
中国四国教育学会研究紀要において、
岡山県を事例にして後発校の旧制中学の学校文化を
岡山二中を通して、
先発校岡山一中の学校文化との比較を
(中略)学校史・卒業記念誌等を中心とした
記述資料を用いて検討した。
その結果、大正中期開校の岡山二中の学校文化が、
明治初年開校の岡山一中に比べて学校の管理が厳しく、
より質実剛健でスパルタ的な雰囲気が強い反面、
ガリベンでエリート的な岡山一中に対して大らかで、
一大家族的な暖(原文ママ)かい雰囲気を
もつことを明らかにした。
(後略)──(転載終わり)
まとめると、岡山二中は「家族的な結束力を核とする草の根主義」、岡山一中は「自主自律と放任のエリート主義」ということになるのでしょう。しかし両校とも、A助とKN造には居心地が悪かったことでしょう。
A助の思い──「一中のガキども、お前らは虚しすぎる。能のかけらもないエリートなんぞ、くそくらえ!」。
KN造の思い──「なにが二中一家じゃ。人とつるむ、衆を頼んで悦に入るなんぞ、くそくらえ!」。
ふたりが抱える、それぞれの屈折の果ての、こころの叫び。
こころも躰も早熟を極めたAスケは、ある種怪物です。そしてKN造は、ときとして血の飛沫が交錯する喧嘩の只中に、ひとり身を委ねていました。ずいぶんと昔の話。映画『けんかえれじい』を初めて観たとき、主人公・南部麒六のモデルはKN造ではないか? とも思いました。母から聴かされていた父の「二中時代の喧嘩生活」が、そこここに符合していたからです。しかしKN造は鈴木隆の8歳年長ですので、それはない。喧嘩騒動のあげく岡山二中を追われた、はみ出し者ならではの共通点、というだけのことでしょう。
またまたまたまた、話がよれてしまいました。……ダダ・A助については持ち越しということで、ひとつよろしくお願いします。
*1 正式名称は岡山縣第二岡山中學校。1921年(大正10)設立。
*2 2002年(平成14)に、岡山の県立高校として初の中高一貫校・岡山県立岡山操山中学校・高等学校に改組されています。
*3 渡辺一弘:別府大学短期大学部保育科准教授。論文執筆当時は広島大学大学院生。渡邉さんの論文によれば、全国の「二中」(第二中学校)」は、1899年(明治32)~1926年(大正15)にかけて、金沢、京都、仙台、東京府立、鹿児島、神戸、沖縄、札幌、横浜、岡山、広島、松本、鳥取、東京市立、浜松、呉、豊橋と順次設立されたそうです。「天下の三中」の記載も含めた出典は本章注記「*4」をご参照ください。(以下転載/原文ママ)──「天下の三中」が具体的にどの学校を指すのかはわからない。しかし恐らく同校が校友会に示した高等学校入学者上位校かつ戦前の欧文社(現在の旺文社の前身)の雑誌『受験旬報』の上級学校進学全国中学ランキング上位の東京一中、東京四中、神戸一中、京都一中と岡山一中が該当するものと思われる。
*4 本章の引用・転載部分の出典は以下の通りです。『戦前期における中等学校文化に関する研究─岡山県を事例にして─』(http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=bk000345 *同画面よりダウンロード)/『戦前期における中等学校文化に関する研究─岡山県を事例にして(Ⅱ)─』(http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/bk010346163.pdf?file_id=6044)/『岡山県の旧制中学の校風─岡山一中と岡山二中を中心に─』(http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/bk0306100.pdf?file_id=6123)。
………………………………………………………
■其の13 妄想劇場 ダッダ、ダダッダダ編
………………………………………………………
僕はこどものころから父・KN造と兄・KRKの母校である岡山操山高等学校(旧制岡山二中。以後、操山と略記します)に行くものだと思っていました。長身の兄の、白線角帽姿も凛々しかった。ついでに言うと、このふたりは大学も同じです。父とはいろいろ確執のあった兄ですが、進学に関しては、父の跡を追うことに違和感はなかった。父は、子どもの進路にあれこれ干渉しない、というか「そんなこたぁ、好きにせぇ」主義でしたが、その結果はそれとして嬉しかったのではないでしょうか。
「あなたは競争が嫌いなんじゃから、操山の方がえぇ」
「ガリベン=弱肉強食(?)の岡山朝日高等学校」(旧制岡山一中。以後、朝日と略記します)より「大家族主義の操山」を、母も望んでいました。「気弱(=へたれ)な息子」を思う母ごころ!? なのに、なぜか僕は伯父A助の母校・朝日に進むことになります。岡山県は、悪名高い「総合選抜」の権化のような高校受験方式を、1950年(昭和25)から1999年(平成11)まで採用していました。合格するかどうかはともかくとして、志望が100%叶えられる保証のない、とんでもないやり方です。
「志望校は一応提出させてやるが、最終的には神の手(県教委の差配?)によって、各学区内の高校に『(建前上)平等』に生徒を振り分けるんじゃ。神の御心に文句ある言うんか、お前ら!」方式。すごいでしょ!合格したものの、志望が叶わず、悔し涙にくれていた同級生もけっこういました。岡山学区の県立普通科高校──兄は朝日と操山の2校、僕は、1962年(昭和37)創立の岡山大安寺高等学校を加えた3校選抜でした(人口増に伴い現在は6校になっています。いまは自由に志望校が選べるようです)。
僕の高校受験に際して、母・TM子は、実は女の意地を通そうとしたふしもあります。「KRKもそうじゃったんじゃから、この子もパパと同じ学校に進ませたい」。そんな母のこころを乱す出来事がありました。KN造のもうひとつの家の、1歳年長の兄が操山に進んだのです。母の一面である「ノンシャラン」な血を受け継いだと思われる僕は、こどものころの思いのまま「操山志望」の届けを提出しました。父の怒りは半端ないものでした。逆上し、興味などないはずの子どもの進路に介入しました。
「操山はやめさせぇ、言うとったじゃろうが! おめぇ(お前=母)は、ワシの言うことが聞けんのか!」
母の気持ちに乗っかっていた自分もあったと思います。対抗心? 反面、「もし合格したら、同じ校舎でどう対処したらえぇんじゃろう? それって、かなりカッコわりぃし(悪いし)、メンドくせぇのぉ……」という気分もありました。KN造の感覚もそれに近かったのではないでしょうか。めったに父に抵抗しなかった母の、ささやかな意思表示。結末はお決まりの古典的夫婦であっても、互いの思いの丈をぶつける貴重な対話の機会だったのではないか、といまは思っています。母は、父の意を受ける形(これは「貸し」ですからね)で中学校の教師に頼み込み、提出した志望校を朝日に変更しました。総合選抜がどんな結果をもたらすかは「神(?)」のみぞ知るですが、力技だったと思います。
「えぇ~ッ、(志望を)朝日にするん? なんで!?」と、当時の僕は思ったはずです。そのへんの記憶はほとんどありません。なにより、受験を目前にしてわが家は、傾きはじめたYSYK組存続のために三番町の家を売らねばならないという、非常事態に見舞われていました。父や母の錯綜する思いをよそにした、軽はずみな僕ならではの意識。「なるようにしかならん。ま、どうでもえぇか」てな感じだったのでしょう、きっと。
結果的に朝日は、刷り込まれていたイメージとは違っていました。僕は、校風とされる「自由な空気(=放任)」を、善くも悪くも字義通りに満喫しました。「学校として与えられるものはすべて、君らに等しく提示する。じゃがのぅ……それをどう受けとめ咀嚼し、どう将来に生かすかは、君ら自身の判断次第いうことじゃで」。受験戦争の頂を目指すことも、奈落を目の前にして墜ちるか踏みとどまるかも、それは生徒個人の自由。そんな学校でした。
「お前は一中か?」
JNN介にいきなり訊かれてびっくり。大学に入って間もないころ。東京・上野毛のJNN介の家を「飯でも食わせてもらおぅ」なんて、お気楽な気分で訪ねたときの思い出です。
「(あわわッ)……そうです。Aスケ伯父さんの後輩です」
「そうか」
話はそこで終わりました。NN介は合格間違いなしと言われていた東京府立一中(現・日比谷高校)受験に失敗し、麻布中学(現・麻布高校)に進学しました。一瞬そのせいか? と思ったのですが、そんなこと関係あるはずないですよね。岡山という土地に強く意識を残していた、と、僕は感じているJNN介の一面です。大好きな黒めがね・叔父KN造の息子とは思えない、線の細い、頼りない、あか抜けないガキ=僕に仮託して、彼は父・Aスケを感じるという荒技を繰り出した!? まったくバカげた話ですが、あのときのJNN介の質問は、いまもって謎です。
昭和を代表する作家であるJNN介が、ひとりの男として客体視できていたはずの父・Aスケ。しかしAスケは、JNN介のこころの奥底に、深く強く執拗に、ざわざわと存在し続けていた。男の通過儀礼ともいえる、精神としての「父殺し」は難しいということなのでしょうね。なんてことをほざいている僕を、泉下のJNN介は苦笑いを浮かべて見ているのかなぁ。「JN兄上、いまだ僕はひと皮むけないガキから脱却できていません!」。
閑話休題、かんわきゅうだい! 不良を極めた果てにAスケがたどり着いたダダイスム。短絡的であるとの誹りは覚悟の上で書きます。「ダダ」って、当時の「パンク」だったのではないか。「ビートニク」もそうかもしれない。20世紀の闇に突き刺さった、世代を超えた突撃プロテスト。メインストリームになろうなどいう無為な妄想から自由な、大衆から理解されることを自ら拒んだ、でも、なぜかこころの片隅にひっかかる、僕みたいな「軽はずみ者」にとっては、ただただ目が眩むばかりの異端ムーブメント。プレイヤーたちの境遇・相貌は、まったく異なっています。乱暴極まるこじつけですが、でもなんか、しっくりする気がする。
唾棄すべきは世界のすべて。しゃかい、せけん、じょーしき、りょーしき、しゃかいつーねん、るーる、どうとく、きはん、りんり、ふんべつ、せつど、おまけに、いでおろぎーなどいう、言葉遊びは終わりにしない? ケンシロウ流に言うなら「お前たち(=世界)は、すでに死んでいる」です。基本的構成要素である「おとことおんな」の関係性がとっくに破綻しているのも、自明の理であることが大前提(?)。
以下、抜粋転載します(原文ママ)。1921~22年(大正10~11)頃にAスケが発表した詩作の一部です。(出典:「詩人の心象風景 まるい空」http://maruisora0.web.fc2.com/poem4-yoshiyuki.html)
【退屈】
ずくし(註・熟柿)に蛙が頭を突き込んでは引いた
四肢のネンマクを切って、青蛙が死んだ
イナビカリが一室に落付いて煙草をふかした
そしたらネズミが蛙を強姦した
ジャ、ラガラガラガラガラガラガ
ずくしを投げつけたら小野ノトウフがウイスキーをのんでいた
チュー、ジャラガラガラガラガラガ
【乳】
さざんかがうなだれてるのは
あじけない夕景色だと
胸をはたはたまどろかして女が云った
可愛いい乳首が急になめたくなって
首にまつれ込んで乳にかじりついた
死んだ様な女さ?
黒けた乳くびからしおからい淋疾におかされた
うすい乳汁が流れた
さざんかがうなだれてるのは
あじけない夕景色さ
【外的肖像】
あまりに外面的にたわやかな人間が
娼家の梯子によろめくと
三味線が逆転した
ほろほろと隣の室に絹ずれがしても
丸窓から月光がさし
娼婦が丸帯をしめているばかし
そしてやわらかい風に送られて
鉄橋の下から鮎舟がすべり
シャラシャメンの音が鉄橋の上にしても
はたまた隣の室からホロヨイ車が押されたて
私にこだわるのは丸帯しめてつむじなおした娼婦ばかし
【すごかれた舌】
とろいローソクの光に
ポツネンと浮き出たフンイキ
赤いカーテンに赤いベッド
投出される性欲の液
ベッドの下にその臭感を立てる猫が
躍動した四肢を
ななめに倒し
性欲の液をなめる
女の赤くただれたネバイ舌が三毛猫の
たれ下った舌を
おろおろととっさに素扱けば
ベッドからころげた三毛猫
(転載終わり)
15歳~16歳ころの、A助の詩作の、ほんの一端です。
★★ ダッダ、ダダッダダ!★★
どないしたん? 男と女なんやから、やることは決まっとるがな。気色えぇことしてんねんから、それでえぇやん! なんぞ辛いこと、あったん? 辛いんとちゃうって!? ふぅ~ん、ダダ、そうなんや!「〈ダダ〉いま戻りました」……って、ちゃうちゃう! なんて、へたな「ノリ突っ込み」でやり過ごすしかない。超絶濃密。この境地・文脈はいったいなんなのでしょう。
詩作(*1)以外のAスケの作品=小説は、「青空文庫」で10数編読むことができます。『バルザックの寝巻姿』なんて、実に小説らしいものもありますが、大半は極彩色の幻惑的なテクストの洪水。男と女の閨の匂いが充満する、アジアとヨーロッパの意識の交雑。無軌道とも言える、デカダンな心象の乱舞です。無為無益。意味を喪失した言葉を「殺す」には、それが最短コースだったのかなぁ。
どうでもいい話ですが、僕はあまたあるJNN介の小説を読んだことがありません(教科書に載っていた『童謡』は除く)。なんか「照れくさい」んです。自意識過剰なのかもしれません。出版されると献本が送られてきていたので、実家に全著作は揃っていました。しかし、小さなころから知っている人の、こころの奥底、内蔵の襞、細胞にまで分け入る覚悟を要するものは、昔もいまも苦手です。エッセイ・対談集なら平気で読める。妙なもんです。でも、Aスケの小説はフラットな気持ちで読めた。伝聞でしか知らない人だからなのでしょう。
またまた、「国立国会図書館デジタルコレクション」で発見がありました。Aスケの『新しき上海のプライヴエート』という著作がスキャン保存されていたのです。1932年(昭和7)3月、先進社という出版社から発行された本です。2002年10月、ゆまに書房から『文化人の見た近代アジア・第10巻』として復刻刊行されたときの、たったひとつのカスタマーレビューがAmazonに掲載されています。
(以下転載/原文ママ)──(前略)
本書は著者が五・三○事件以前の、
華やかな上海での体験を綴った追憶の書である。
本書に描かれるのは、銀相場に翻弄される経済都市であり、
あらゆる国籍の人間が暮らす国際都市であり、
阿片・売春・ギャンブルが溢れる犯罪都市もある、
モダン/魔都上海の姿である。
YSYKが『魔都』の作者村松梢風と違うのは、
定番コース以外の、上海裏面に入り込み、
夜の街の隅々を描写している点であろう。
この時代の上海を知るには、最適の書であろう。
──(転載終わり[*2])
東洋の魔都・上海の喧噪と闇のなかをさまようA助が、見て触れて感じたこと。興味深くもおもしろい本です。後半の、上海体験を基にした何編かの小説は、ダダな空気がむんむんと漂っています。そして──、いや、びっくりしました。不遜かもしれませんが、笑っちゃいました。『上海のメーデー前後』という、やるせない結末の掌編が終わった最終ページ。そこに、鉛筆の殴り書き(*3)が残されていました。消しゴムで消してはまた書き連ねたと思われる痕跡が生々しい。
(以下転載/原文ママ)──
インチキ文士吉行 ホームレ!!
革命的中国プロレタリアートに對する日本大衆のニン識を
桃色の淫夢にごまかさうとする
無意識的反動吉行エイスケをまっ殺しろ。
──(転載終わり)
★★ ダッダ、ダダッダダ!★★
「野暮な主義者の世迷い言も、いいじゃないか」。ダダな不良は、「得たり」とほくそ笑んでいるような、気がします。
*1 Aスケの詩は『吉行エイスケ作品集1・2』(文園社/絶版)などでも読むことができます。
*2 出典は「Amazonカスタマーレビュー「投稿者 アジアの息吹 投稿日 2005/8/4」(https://www.amazon.co.jp/文化人の見た近代アジア-10-復刻-新しき上海のプライヴェート-エイスケ/dp/4843307076?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0)。また、カスタマーレビュー冒頭の「五・三○事件」は、中国の反帝国主義運動のきっかけとなった大事件。(以下転載/原文ママ)──1925年5月30日、第1次国共合作の時期に上海の租界での中国人労働者殺害事件から発した大規模な反帝国主義運動。きっかけとなった事件は「五・三○事件」という。1925年5月、上海で日本人経営の在華紡の工場でのストライキ中に日本人監督が中国人組合指導者の一人を射殺した。それに抗議した学生が抗議行動をおこなって多数が逮捕された。5月30日その裁判がおこなわれる日に青島でも日本資本の紡績工場で争議中の労働者が奉天派軍閥の保安隊によって射殺される事件が起き、抗議行動が一気に爆発し1万人の市民・労働者が集まった。上海南洋大学の学生を先頭にした「上海人の上海を」や「租界を回収せよ」と叫ぶデモ隊と上海租界のイギリス警官隊が衝突、警官隊の発砲によって13名の死者が出た。この事件を契機に上海総工会(労働組合)ではゼネストを指令、イギリス・日本・アメリカ・イタリアの各租界当局が陸戦対を上陸させ弾圧した。運動は香港にも広がり、ストライキを弾圧するイギリス・フランス軍により52名の労働者が殺害された。香港のストライキ(省港スト)は翌年10月まで続き、香港は麻痺状態に陥った。(出典:「世界史の窓」http://www.y-history.net/appendix/wh1503-053.html)
*3 出典:国立国会図書館デジタルコレクション『新しき上海のプライヴェート』[コマ番号・145]http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268517