ムカデの彼
喉元に彼の歯が触れた。
「っ……」
梓は初めて彼に恐怖を感じた。
「早く、逃げるんだ」
彼は苦しそうに言う。
「俺が自分を制御できている今のうちに……!」
梓には彼氏がいない。生まれてこの方一度もいたことがない。しかし、彼女は恋をしていた。そのお相手は、夢の中だけで会える彼だ。
梓が初めてその夢を見たのは、今から四か月前のことだった。梓と彼は夢の中で出会い、話をするうちに意気投合した。それ以降、その夢を幾度も見るようになった。
彼はすらりと身長が高く、さらりとした髪質で、そして美形だった。夢から覚めると、彼との会話の内容は忘れてしまっていたが、彼が優しい人だということだけは覚えていた。
梓が恋をするのにそう時間はかからなかった。
彼が正体を現したのがいつだったかは覚えていない。
「梓、話があるんだ」
いつだか、そんな風に切り出した彼は、姿を変えた。梓の目の前には、長身美男の彼ではなく、人間ほどの大きさのムカデだった。
てかてかとした体に、たくさんの足。
不思議と気持ち悪さは感じなかった。
「これは俺の本当の姿だ。君に嫌われるんじゃないかと思ってずっと隠していた……済まない」
その時梓には、彼の表情が陰ったように見えた。彼がムカデだと分かったその時も、梓の気持ちが揺らぐことは無かった。
「これからは、その姿の貴方に会いたいな」
梓は彼に向かってそう言った。夢から覚めた後も、その事だけは覚えていた。
その頃の梓は、全身にしびれを感じるようになっていた。ただ、そこまで酷いものではなく、そこまで気にはしていなかった。
そして、現在に至る。
「なん、で……」
梓は彼に対して初めて恐怖を感じていた。このまま噛まれたらどうなるのだろう。普通のムカデの毒だと人命に害はないらしいが、彼の場合はどうだ? 人間ほどの大きさがある。独の強さも増しているのではないか。
それとも、夢の中だから噛まれたところで問題ない?
梓には、そんな風には思えなかった。
(これは夢だ……)
(だけど、此処で噛まれたら私は死ぬ)
恐怖に震えながらそう思った。
「俺はもともと、君の身体を乗っ取るために君に近寄った。君が俺に心を委ねたら、君の身体を貰ってしまおうと――初めはそのつもりだった」
梓の上に乗っかったまま、ムカデの彼は語り出す。夢の中なのに、確かな重みが感じられた。
「でも、そのうち君のことが本当に好きになってしまった。君の身体を貰えば、君が死んでしまう。俺にはそんなことができなかった。でも、俺の身体がそれを許してはくれなかった。だから、さあ、君が俺から逃げてくれ」
「そんな……貴方はどうなるの?」
「君が無事に逃げられたら、俺はきっと死ぬだろう。でも、それでいいんだ。そうしてくれ。君を失ってまで俺は生きたいとは思わない」
喉元にかかる圧力が、少しだけ強まるのを感じた。彼は今、必死に戦っているのだ。梓を殺そうとしている自分と。しかし、それも時間の問題なのだろう。
「それなら、私も貴方を失いたくない」
梓はきっぱりと言い切った。
「何故?! 俺は初めから、君を殺すつもりで――」
「それでも、貴方は私を愛してくれていたのでしょう?」
悲痛な彼の声を遮るように、梓は声を上げた。先程まで感じていた恐怖が、ふっと消えていくのが分かった。
「私も貴方が好きだった。今ここで逃げて貴方を失うよりも、貴方と一つになれる方がよっぽどいい」
梓は心からそう思っていた。彼女の中に他の選択肢はなかった。
「梓……」
ムカデの彼は、自分の下敷きになっている彼女の名を呟いた。自分のことを本気で愛していると言い切った彼女の名を。
そして、彼は彼女から離れた。
「えっ?」
「君に出会えてよかったよ。俺は本当に、幸せだった」
梓の夢は、そこで覚めた。
「……さ、梓!」
梓は母の声に起こされた。目を開けると、カーテンの隙間から差す光が眩しかった。
「全く、いつまで寝ているの! 早く起きなさい」
寝過ごしてしまったか。時計で時刻を確認しようと体を起こすと、ぼたぼたぼた……という音と共に黒いものがベッドの上に落ちた。その音を聞いて不審に思った母親が梓の方に目をやると、ベッドの上を埋め尽くさんばかりの『それ』を見て絶叫した。
「な、何よそれ!!」
『それ』とは、ムカデだった。
大量のムカデの死体。
「もう、どうしようっ! ちょっととにかく、そっから退きなさい、梓」
母親はパニック状態に陥りながらも梓に声を掛けた。
一方梓は取り乱すわけでもなく、ただ自分の周りに転がっているムカデの死体たちを眺めていた。
自然と恐怖や不快感は無く、ただ意味もなく悲しくなっていた。
「……梓?」
気が付くと、静かに頬を濡らしていた。
「そ、そりゃそうよね。朝一番にこんな状況下におかれたら、誰だってショック受けるわ」
母はそう言うが、そういう涙ではないと梓は思った。しかし、何故涙が止まらないのかは、彼女にも分からなかった。
「とにかく、新聞紙かなんか持ってくるから、ちょっと待ってて」
母親が出て行ったところで、梓は一匹のムカデをそっと手に取ってみた。
(なんで、怖くないんだろう……)
尚も涙は止まらない。
と、手の上のムカデが砂となってベッドの上に落ちていった。
それと同時に、ベッドの上のムカデたちも一斉に砂となり崩れていく。そのうち、砂も消えてなくなってしまった。
「梓―……って、あれ、ムカデは?」
ちょうど戻ってきた母親は目を丸くした。
それはそうだ。先程まで居たはずの大量のムカデが、たった数分席をはずしただけで跡形も無くなっているのだから。
「……消えちゃった」
「え?」
「消えて、無くなっちゃった」
読んで下さった方、ありがとうございました。
さて、ムカデと人間という種の壁を超えた二人の物語は、どうだったでしょうか。
この前、道を歩いていたらムカデを見つけた時に思いつきました。足の動きとか案外可愛くね?! って思ったのがきっかけです。これを書く際にムカデの画像を見て見ましたが、案外顔も可愛らしいですね。しかし、噛まれる危険性があるので、家には出て欲しくないものです。