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第二章 リムーヴ②

 暗くて寒い大河の世界を本能のままに進んでいると、しばらくして行く手に何かがいることに僕は気が付いた。冷たい大河の空中に、妖しげなものが浮かんで揺れているのだ。それは最初、靄のように思えた。暗く、輪郭の定かでない何か。だが、歩みを進めるにつれ、次第にそれの外形がはっきりと感じられるようになった。

 何かとても――とにかく、異様としか言いようのないものがそこにあった。忘れていたはずの体の震えを感じる。それは寒さからではなく、畏怖から来るものだ。

 『それ』は死んだ僕を迎えに来てくれた天使だろうか。いや、聖なるものという感じではない。

 『それ』は死んだ僕の魂を食べようとする悪魔だろうか。いや、邪悪の権化という感じでもない。

 『それ』は美しいものかと問われれば、僕は「はい」と答えるだろう。『それ』は醜いものかと問われれば、やはり、僕は「はい」と答えるだろう。美と醜の二つが絶妙に配合された存在がそこにいた。

 『それ』の口が動く。

「あなたはあなたの血を私に与えるか?」

 『それ』の顔と上半身の造作は女の子の姿だった。少女の形を持った人形と言った方が正確だろうか。体温を感じさせない白磁のような白い肌が覆う顔は無機質な無表情で、ガラス玉のような黒い瞳が填まっていた。その瞳はぽっかりと開いた穴のようにも見えて、僕をうすら寒い気持ちにさせる。その瞳は何も映していないはずなのに、その視線を感じずにはいられない、そういう妖しく美しい少女人形を思わせる双眸だった。

「もしあなたがあなたの血を私に与えるならば、私はあなたの過去を改変する事が出来るだろう」

 この不思議な世界で、『それ』の声は僕の心の中に直接響いて聞こえるようだった。鈴を転がすような声というのはこういう声を言うのだろうか。きれいに整い過ぎていて、逆に、寒気がするような声だった。

「あなたは死に至る程度の血を体外に出した。故に、もしあなたがその全ての血を私に与えるならば、私は、あなたが血を流し終えた瞬間を起点として過去の出来事について、改変することが出来るだろう」

 空中に浮かびながら、『それ』は言葉を続けた。背に蝶のような羽が生えているのだ。暗い橙色の地色の上に、漆黒と純白で、目のような紋様と古代文字のような紋様が描かれている。見る者を不快な気分にさせる毒々しいデザインだった。

 僕は『それ』の存在感に圧倒されていることもあり、『それ』から紡がれる言葉に追い付くことができなかった。『それ』は僕の理解を待つように、暗闇の中に浮かんだまま一旦口を噤む。

 強い風が吹きぬける感覚があった。『それ』の長い黒髪と、菊の花紋様の真っ赤な着物が、風になびくようにさわさわと揺れた。ふと『それ』の顔かたちは誰かに似ているような気がしたが、それが誰かを僕は思い出すことができなかった。

「か、過去の出来事を改変って……?」

 声に出して尋ねたつもりだったが、音声が口から発せられた実感は得られなかった。しかし、『それ』は僕の言葉を受け取ることが出来たらしい。僅かに頷くと、口を開いた。

「もしあなたがあなた自身の血を私に与えるならば、その血が流れ終わった瞬間を起点とし、過去三年の出来事について、私はあなたの選ぶ任意の出来事を一つ修正することができる。また、血の量は死に至る以上である必要がある」

 感情のない美しい声が淡々と続いた。美しいのに、聞いただけで心が縮み上がるような声だった。

 僕と『それ』の間には、何か、圧倒的な異物感、断絶のようなものがあるように思えた。僕は『それ』が怖いと思った。目の前にいる少女の顔をした『それ』の言葉は、そして『それ』の存在は、僕のいた世界とは全く別の成り立ちなのではないかと心の奥の方が訴えていた。

「余談ではあるが、もしあなたがあなた以外の人物の血を私に与えるならば、その血が流れ終わった瞬間を起点とした未来三年間について、私はあなたの任意の要望を一つ実現する未来へと橋渡しをすることができる。血の量は死に至る程度以上である必要がある」

 冷たい声で『それ』は語る。『それ』の話す内容は普通の世界にいればとても信じられる内容ではないけれど、今この世界にいる僕はそれを絶対に嘘だと言い切れないように思えた。

「……き、君が、僕の願いを叶えてくれるってこと……? 例えば、僕が死んだのを無かったことにもできる……?」

「そのとおりだ。あなたが自殺した際に流した血の全てを私に与えるならば。ただし、あなたが私に要望しないという選択肢も存在する。あなたはあなたが何を選択するのかを答えなさい」

 僕を見つめる『それ』の目が、値踏みするように細められた。僕は猫に追い詰められた鼠のような気持ちで、震えたまま一歩後ろへ下がった。

「それは私に要望しないという意思を示すのか?」

 僕には『それ』の目が闇の色を増したように見えた。

「私はあなたに要望を強制することは出来ない。しかし一つ情報を与えることはできる。ここはあなたたちの言う死という概念の次元だという情報を。それでもあなたがこの死の次元に留まるのであれば、私はそれを止める性能を与えられていない」

 『それ』の目と声から滲みだす冷気が、空間を凍らせてしまうのではないかと思えた。僕は震えながら、僕の最期を改めて思い出した。傷の痛み、呼吸の苦しさ、ぐらぐらと頭が揺れる感覚、そして、走馬灯のように呼び起こされた今朝の父と母の記憶。

 僕は、また情けなく涙を溢した。僕の体はこの世界でそのような反応をできていないかもしれないけれど、心は確かに泣いていた。

「ぼ、僕は死にたくない……。僕は自分で自分を刺したことを後悔している」

 『それ』の目がすっと満足げに細められた。その様は優しさではなく、ひどく打算的なものである印象を僕に与えたが、それでも構わなかった。

「僕が僕を刺したことをなかったことにしたいんだ!」

「ならば」

 『それ』がわずかに笑みを含んだ形で口を開いた。

「あなたが改変を願う出来事について、その出来事の時間と場所を指定し、あなたがどのような改変を私に望むのかを私に伝えなさい」

「じ、時間? 正確な時刻は……僕が僕の喉を刺したとき……」

「伝え方はそれで構わない。それによって私は時間の座標を確定することができる」

「じゃ、じゃあ、場所は、僕の学校の旧校舎裏――僕が僕を刺した場所だ」

「何を望むのか?」

 冷え冷えと深い闇色の目が僕を射抜いた。僕はごくりと唾を飲み込んだ――平常の体であればそうしただろう。

「ぼ、僕はあの時、あの場所で自殺をしなかったことに――自分自身を刺さなかったことにしてほしいんです!」

 詰まりながら僕がそう言うと、『それ』は初めてにこりと笑った。

「あなたがあなたの自殺において旧校舎裏で流した全ての血を、私に与えることに異存はないか?」

 僕はどきりとした。こんな、よくわからない化け物みたいなやつを相手に、こんな取引みたいなことをして本当に大丈夫なのだろうか。

――いや。何を迷う必要があるんだ。これより下に行くことなんかないだろ。

 僕は『それ』に頷いてみせた。僕は生きたいのだ。

「成立した」

 『それ』が恭しく宣言して笑みを消すと同時に、『それ』の下肢が蠢き出した。

 驚いたことに、『それ』の足は蛸や烏賊のような軟体動物の触椀の形状をしていた。紅い着物の下から、吸盤のついた何本もの足が這い出てくる。

 僕は気色の悪さに鳥肌が立ち、吐き気を覚えた。

 足は着物の裾をはだけ、もぞもぞと蠢きながら僕へ向かって急速に伸び出した。ぐにゃりぐにゃりと不気味な角度で動きながら僕の首に近づき、巻きつこうとしている。その様子は海底で獲物を見つけて飛びつこうとする蛸の動きと同じだった。

「うわ……や、やめろ!」

 反射的に飛びのこうとしたが、この世界の大河の中で僕は思うように足を動かすことができない。必死に手をかざすが、意味がない。振り払っても、振り払っても、次々と別の足がやってくるのだ。

「ぐわっ!」

 ついに僕の手をすり抜けて、一本の足が僕の首を絡め取られた。そして何重にも巻きついたかと思うと、その足の先端が僕の喉元に入りこんだ感覚があった。それは丁度僕がナイフで刺した場所のようだった。

「うわああああ!」

 僕は声にならない声で絶叫した。

 『それ』の気色の悪い足は僕の喉元を突き破って喉の奥へ侵入したが、不気味なことに、その部分からは血の一滴も噴き出すようなことはなかった。痛みもないし、息苦しさもない。しかし、脳味噌を掻きまわされるような不快さを僕は感じた。

「や、やめろ!」

 出ない声で僕は叫んだ。

 突き刺さった足を引き抜こうとしても、巻きついた足を引き離そうとしてもびくともしない。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 そんな僕を見て、『それ』はまたにこりと微笑む。

「私はここのあなたを媒介して指定された時空のあなたの血を受け取った。私はあなたの要望を実現しよう」

 その瞬間、僕の意識がふっと遠のいた。それと同時に、真っ暗だった世界が一瞬で純白に塗り替えられる。

 僕の喉からやっと『それ』の足が引き抜かれる感覚があり、その足には赤い液体がこびりついていた。薄れゆく意識の中で目を凝らすと、『それ』の他の足が競うようにその足に絡みつき、それぞれの吸盤が赤いものを吸い取り、あっという間にきれいになっていった。

 僕は自分の喉に手をやってみたが、傷の感触も、血の感触も得ることが出来なかった。ほっと安堵したのも束の間、僕は急に眠たくなった。瞼が鉛のように重くなる。それは、あの死に際の感覚に少し似ていた。

 そういえば、確かあの時、クラスメイトの棗がいて、声をかけてくれて――。

 もう限界だ。眠気のせいで、何かを考えるのも億劫になり始めていた。僕は目を瞑り、意識を保つ努力を放棄する。

 意識が途切れる瞬間に、『それ』の呟きが僕の心に響いた。

「私はあなたの他の要望を実現することもできるだろう。もし、あなたがあなた自身、あるいは、他の任意の人物の血を私に与えるのならば。私はあなたと再会できることを期待している」

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