第一章 リセット②
結局、僕は彼女たちに言われたとおりに、放課後、校舎裏へ重たい足を向けた。
「きゃははははははは」
「超うけるんですけど」
「なにこれ、キモーい」
秋の終わりの寒さに浸食され、枯れ草と落ち葉の目立つ旧校舎裏には、女の子たちの無邪気な笑い声が響いた。そして、その合間に僕の嗚咽が漏れる。
「こんなことで泣いてんじゃねえよ」
「あ、明日からもそのセーラー服で来なよ」
「じゃないと、この写真どこで晒されるかわからないからね」
そんな捨て台詞と共に彼女たちは去っていった。今撮ったばかりの画像をスマートフォンのディスプレイに表示させ、それをこれ見よがしに僕の方へ向けながら。
残された僕は涙を流しながら放心していた。多分、死んだ魚のような眼をしていただろう。彼女たちに露出させられた陰部をそのままにして。
僕は力の入らない手でセーラー服と下着を整えた。制服についた木の葉や砂を震える手で払う。
僕には今起こったことが信じられなかった。恐れとか怒りとか焦りとかの色々な気持ちが渦巻いているせいで手と心が震えて、うまく着衣を掴めなかった。もとに戻すまでに普段の倍くらいの時間がかかったと思う。
何故こんなことに? 何故こんなことを? 気持ちが整理できない。
僕は震え、頭を抱えて、地面に突っ伏し、悲鳴のような泣き声を漏らした。彼女たちはあの画像をどうするつもりなのだろう。
僕がおとなしくしていれば、本当に公に晒すようなことをしないだろうか。
もし公開されるようなことがあったら、僕は生きて生けない。もう死ぬしかない――死ぬしか……。
…………。
そっか、死ねばいいんだ。そうだよ。死ねばいいんだ。
あっけないほど、その考えは僕の心の中にすとんと納まった。
涙で視界がぼやけた僕の目は、地面に転がった鞄を捉えた。濃紺色の学校指定仕様。彼女たちに服を脱がされる時に放り投げられた僕の鞄だ。
鞄の中にはペンケースが入っていて、その中には鉛筆を削るためのナイフが入っている。切れ味がよくて使いやすいナイフ。僕はそれを震える手で取り出した。きらりと刃先が光り、その煌めきがとても綺麗だった。
「あはは……あはははははは……あはあは!」
僕は涙と鼻水を流したまま笑った。なんで笑っているのかは自分でも分からなかった。
「あはははは! あはははははは!」
目を見開いて笑い続けた。
ナイフの柄の部分を両腕で持つ。切っ先は自分の喉元に向けた。なんとなく、手首よりもそっちの方が確実そうだったから。
――死んでやる! 死んでやる! 死んでやる!
僕が死んだら彼女たちもさすがに堪えるのではないだろうか。学校の奴らや近所の人達に「優月が自殺したのはあの子たちがいじめたせいなんだよ」なんて噂されて、居たたまれない状態に追い込めるかもしれない。もしかしたら新聞沙汰になって、ネットに写真や実名が流出するかもしれない。
いい気味だ!
僕はニヤリと笑った。喉元にナイフを向ける手はぶるぶる震えていたが、口からは笑い声が溢れていた。
「あははっはははっはははははは! あははははあははあは!」
笑い声と共に唾と鼻水と涙が飛び散ったが、そんなことはもうどうでもいい。
僕は最大の力を込めてナイフを喉元に突き刺した。そこから真横に裂いてやろうと思ったのに、思いの外硬い感触で、刃が動かない。仕方がないので、引き抜いた。
ちろちろと赤くて綺麗なものが流れ出る。
もう一度、今度は致命傷になりそうな右の首元を刺した。続いて左の首元。
で、それぞれぐちゃぐちゃに掻き回した。
「がはっ」
笑おうと思ったけど、笑えなかった。声が出なかった。喉が裂けているのだから当たり前だ。あまりの激痛に顔が歪んだ。小学校の工作の授業の時にカッターで指を切ったことはあるが、そんなものの比ではない。頭がおかしくなりそうな苦痛だった。さすがに怖い。すごく怖い。
でも、勢いよく迸る真っ赤な血が綺麗だったから、僕は少しだけ笑顔になった。彼女たちが僕に押し付けたセーラー服の白い上衣がどんどん赤色に染まっていく。なんて素敵な染物だろう。
躊躇いなく出来たことに僕は満足する。善は急げと言うじゃないか。即決即断だなんて、僕にしてはよく思いきれたものだ。
痛みと失血と恐怖で思考回路がまとまらない。彼女たちへの復讐。それが今の僕の中にある唯一の意志だった。僕が自殺したら、彼女たちはどうなるかな。どうするかな。それに対する期待、それだけしか僕の中には残っていなかった。だから、してやったりという満足感しかなかった。
お前ら、これからの人生、僕の死に対する負い目を感じて生き続けるがいいさ。
いい気味だ、と僕の心が笑う。ああ可笑しい。可笑しすぎて、おかしくなりそうだ。
そう、これは満足感。人生の最後の最後、僕は見事にやってのけた。満足だよ。本当に。本当に満足さ。
――本当に?
ちりりと、急に胸の辺りが痛んだ。
「父さん、今日の晩御飯はカレーにするからね。早く帰ってこないと優月と私で全部食べちゃうわよ」
「それじゃあ、仕事が早く終わるようにがんばらないとね」
父と母が笑いながら言葉を交わしている。ああ、今朝の我が家、リビングで朝食をとっていた時の記憶だ。父さんと母さんは今でも恋人同士のように仲がいい。そして、一人息子の僕のことも、宝物みたいに大切にしてくれるのだ。
そうだ。このリビングの壁にも、僕が描いた絵が飾られている。それこそ、幼稚園に入る前に描いた訳のわからないぐるぐるとクレヨンを滑らせただけのものから、小学生の頃に描いて学校で表彰された遠足の思い出の絵、今年の父の日と母の日にそれぞれプレゼントした二人の似顔絵。
母親がふわりと優しい笑顔を僕に向ける。
「ゆうくんも寄り道しないで帰ってきてね」
「うん」
父親が僕の頭をぽんぽん叩く。
「そうだぞ。ちゃんと帰ってこないと、お前の分がなくなるぞ?」
「わかってるよ。ちゃんと帰ってくるよ」
僕は今日の学校を憂鬱に思って浮かない気持ちでいるけれど、それでも父親と母親には笑顔で応えた。二人には心配をかけたくなかったからだ。学校での情けない僕を知られるのは何よりも恥ずかしくて恐ろしかったし、二人の信頼するに足る息子でいたかった。だから僕は笑顔で約束したのだ。ちゃんと帰ると。
突然、喉の痛みが信じられないほど大きくなった。
――ぎゃあああああ!
叫びたいのに僕の壊れた喉は動いてくれなかった。血が大量に失われたせいか、真っ直ぐに座ることすら出来ないほどに頭がくらくらする。実際にぐらぐらと頭が振れているのかもしれないが、それすらも判別がつかなかった。
相変わらず、喉からは勢いよく血が噴き出し続けていた。呼吸も苦しい。うまく空気を肺に入れることが出来ない。
痛い。痛い。痛いよ! 苦しいよ!
僕の人生はこんなはずじゃなかった。
こんなはずじゃなかったんだよ!
後悔。
そう、僕は後悔していた。自分の軽率な、その場しのぎな、考えなしの行動を。僕を大切にしてくれる誰かを無視した行動を。
許して!
誰か助けて!
やっぱあれなし! なしにして!
おかしい。おかしい。世界がぐるぐる回っている。うまく目が見えない。頭が重たい。痛い。痛い。苦しい。怖い。
あれ? リセットボタンってどこだっけ? たしかどこかにあったと思うんだけど。それか戻るボタン。さっきの、無しにしたいんだけど。
え? これって夢じゃないの? ねえ、夢なら早く覚めてよ!
嘘だよね、こんな最期? ねえ?
僕の人生ってなんだったの?
色々な思考や言葉が頭の中をぐるぐると回っているはずなのに、僕は自分が何を考えているのかを判別できなくなり始める。徐々に何も考えられなくなっていく。意識が遠のいていく。
ああ、やっぱり僕は本当にだめな奴だ。死ぬその瞬間までだめなままだった。
ごめん。ごめんなさい、父さん、母さん。
あんなに大事に育ててもらったのに、僕はこんなにひどい息子に育ってしまった。本当に、ごめんなさい。ちゃんと帰るって約束したのに。
僕はどうしようもない親不孝者だ。なんでこうなってしまったのだろう。いつからこんなにだめな人間になってしまったのだろう。死にたくない。死にたくないよ!
意識はどんどん薄くなる。ぐらぐらと世界が揺れる。瞼が重い。もはや痛みも遠ざかって、何か黒々としたものに体と心が飲み込まれていくような、そんな感覚に侵されていた。
僕は涙を流しながら目を閉じた。
「……優月か? おい! 大丈夫か!」
突然、僕の体を激しく揺さぶる腕の感触があった。
誰?
「しっかりしろ! くそ。まさか、こんなことになるなんて……」
薄眼を開ける。焦点の定まらない僕の目は、その人物を正常に映し出すことができない。顔はよく分からないけれど、髪が金色であることだけは判別できた。僕の知り合いで校則違反の金髪にしている人間は限られている。
――棗?
クラスメイトだ。僕とは違う意味でクラスでは浮いている同級生。
「おい、優月! しっかりしろ! 目ぇ開けろ! おい!」
――でも、ごめん。もう眠いんだ。
押し寄せる黒の浸食に抗えず、瞼を閉じた僕の世界は暗転した。
そして、その暗闇の世界に『それ』はいたのだ。