第四章 リピート⑤
下駄箱から上履きを取り出して、履く前に中を見て画鋲を捨てるのが日課になっていた。
昼休みには彼女たちに捉まる前に教室を抜け出して、男子トイレの個室で弁当を食べる。でも、そのことを嗅ぎ付けた彼女たちが男子トイレの前で見張っていて、トイレから出ると腕を掴まれ、教室に連行される。黒板に「トイレでお弁当を食べた藤本優月 不潔 汚い サイアク 変態」など色々書かれ、昼休み中はそれを消すことを許されず、その黒板の前に立たされた。予鈴が鳴ってやっと許されたから、先生が来る前にきれいに消した。
普通の木曜日は五時間目の数学が終われば下校時間となるのだけれど、今日は月に一度、六時間目に地域学習が行われる日だった。この時間には、地域の文化資料館や博物館から派遣された先生が授業をしたり、お年寄りから戦争体験を聞いたり、地域の産業を調べたり、そういう地域のことを知るための授業がなされた。
民話を収集しているという地元の研究家が、今日の授業の先生だ。パリッとしたシャツに清潔なジャケットを羽織った、白髪の上品な紳士だった。六十歳を超えて会社を定年した後、趣味が高じて研究を始めたのだという。
「波川といいます。はじめまして。みなさんには退屈かもしれませんが、今からお話しするのはみなさんのご先祖様が語り継いでこられた伝承です。みなさんにも是非下の世代に伝えてほしいので、ちゃんと聞いてくれたら嬉しいですね」
皺の寄った顔に柔和な笑顔を浮かべながらそう言うと、波川先生は、配布されたプリントを元にゆっくりとその伝承を語り始めた。
昔むかし、ある村に、雛菊と姫菊という名前の双子の少女が暮らしていました。
両親を幼い頃に亡くし、村人からも冷たくされていた二人でしたが、姉妹で協力して、貧しいながらも慎ましく仲良く暮らしていました。
双子であるためか、この二人には奇妙な特技がありました。遠く離れていても、意思疎通ができたのです。例えば、一人が山道で転んで動けないでいると、どこに倒れているのかわからないはずなのに、村の家に居たもう一人がすぐにその場所へと駆けつけたことがありました。なんとも不思議で素晴らしい特技です。
けれども、皮肉なことに、その不思議な力こそ、村人が双子を気味悪がって遠ざける理由の一つとなっていました。
そんなある時、双子の妹、姫菊が消えてしまいます。どこを探しても影一つ見つかりません。村人は神隠しにあったのだろうと噂しました。
姉の雛菊は悲嘆にくれ、毎日泣いていましたが、それでも雛菊は妹の帰りを信じ、毎朝毎晩、神様に妹の無事を祈り続けました。
雛菊の祈りが通じたのか、しばらくすると姫菊が帰ってきました。姫菊は自分が神隠しにあっていた間のことは全く覚えていませんでしたが、その手には生きた人形が握られていました。
それは市松人形のような、女の子の姿をした人形でした。動くことこそできないものの、しゃべることができ、しかも、非常にたくさんのことを知っていたのです。
姫菊や雛菊が質問をすると、人形はなんでも答えてくれました。例えば、昔このあたりであった戦のこと、伝説となった武将の活躍、お姫様の悲恋、遠く離れた都の華やかさ、流行の芝居や役者のことなど。双子は胸を躍らせてそれらの話を聞きました。
村人は気味悪がって以前よりも双子を避けるようになりましたが、双子は気にしませんでした。きっと姫菊を助けてくれたのはこの人形なのだろうと考え、二人は人形を「姫神様」と名付けて大切に扱いました。歌を歌ってあげたり、端切れで着物を作ってあげたりすると姫神様は喜んでくれたので、双子は競って姫神様をもてなしました。
しばらく姫神様と暮らしているうちに、この人形は過去や現在の事だけではなく、未来のことまで知っていることに双子は気付きます。
雛菊と姫菊の父親は借金を残して死んでおり、しばしば借金取りが二人の家にやってきました。二人は少しずつ返していたものの、とても今すぐには返せそうにありませんでした。痺れを切らした借金取りは身売りをせよと言い出します。それを恐れて、「次はいつ来るでしょうか」と問うと、姫神様は「明日の昼時に」と答えました。果たして借金取りは翌日の昼にやって来たのです。二人は物陰に隠れて借金取りをやり過ごすことができました。
ある年の夏、その年は台風の大変な当たり年で、稲の生育も悪く、近隣では洪水の被害も続出していました。双子は「次の嵐はいつでしょうか」と姫神様に尋ねてみました。すると、「明日」と答えたのです。雛菊と姫菊は驚いて「どのくらいひどいですか」と尋ねると「この村は洪水に見舞われる」と言うのです。
双子は大急ぎで村中に知らせました。
姫神様が嵐が来ると予言した当日、半信半疑ながらも村人達は小高い丘の上に避難しました。双子も姫神様を連れて合流します。
姫神様の言うとおり、村は洪水に襲われ、田畑だけでなく家も流されました。避難していなければ人命も含めた大きな被害が出ていたでしょう。畑と家が駄目になったのはとても悲しいことですが、雛菊と姫菊はほっと胸を撫で下ろしました。
けれども、村人の受け取り方は違いました。
「あの人形が穢れを呼び込んだのだ」
「だから竜神様が怒って洪水を起こしたのだ」
「本当のよい神様なら洪水を防いでくれたはず」
「うちの田圃と家が流されたのはあの人形のせいだ」
「そもそも姫菊が神隠しにあったのもあの人形のせいでは」
「神隠しにあった姫菊は呪われている」
「いや、そもそもが、あの不思議な双子は呪われているのだ」
嵐の中で被害に遭い、落ち着きを失った村人たちは口々に双子を罵りました。雛菊と姫菊は必死で否定しますが、聞き入れてもらえません。
「とにかく、その不気味な人形を捨てろ」
「いや、焼いたり捨てたりしたら祟られるぞ」
「なら、生贄を捧げよう」
「生贄? 何を捧げるのだ」
「決まっている。あの人形の好きなものだ」
「あの人形の好きなもの?」
「あの人形は双子に懐いている」
「なるほど。生贄は決まったな」
村人は人形を抱いた雛菊と姫菊に詰め寄ります。双子は恐ろしさで立ち竦み、逃げることができません。
村人は、まず、人形を抱いた雛菊から人形を取り上げ、彼女を絞め殺そうとしました。姫菊は必死でそれを止めますが、娘一人の力でどうなるものではありません。ある村人が短刀を抜き、姫菊に切りつけました。切られた場所が悪かったのか、姫菊はたくさんの血を噴き出しながら、あっという間に息絶えてしまったのです。
「きゃああああ」
「きゃああああ」
二つの悲鳴が聞こえました。一つは双子の姉である雛菊のもの。もう一つは姫神様のものです。姫神様は姫菊の返り血に濡れて真っ赤に染まっていました。
「姫菊の……血。私はこんな未来を知らない」
姫神様は繰り返しそのようなことを呟き続けました。人形の異様な雰囲気を恐れ、村人は姫神様を地面に投げ捨て、ぐちゃぐちゃに壊してしまいました。しかし、バラバラにされても尚、人形はしゃべり続けました。
「私は許さない。あなたたちを許さない」
姫神様は一晩中、その言葉を繰り返すと、二度と動きもしゃべりもしなくなりました。雛菊は、泣きながら姫菊と姫神様を一人で供養しました。
けれどもその後、村を異変が襲います。村人同士の殺し合いが起こったり、自殺が多発したり。夜中に動く日本人形を見たという人もいました。その顔は姫菊にそっくりだったと言います。村人は口々に姫菊と姫神様の祟りだと噂しました。
村人たちは雛菊に謝罪し、祟りを沈めてくれるように頼みました。雛菊は身勝手な村人の言い分への怒り以上に、死後も恨みに縛られている姫菊と姫神様を憐れに思いました。
雛菊は姫神様と姫菊の好きだった歌を歌い、着物を作って供え、祈りを捧げます。すると、村の異変は次第に収まっていきました。村人は雛菊に感謝して、改めて謝罪しました。
雛菊はしばらくして結婚、女の子を産み、その子も母と一緒に祈りを捧げました。彼女たちの子孫もまた、同じように祈りを捧げました。
このようにして、この土地は祟りから救われているのです。
僕の両親は結婚を機にこの土地に越してきたので、僕はこの伝承を聞いたのは初めてだった。昔ながらの怪談なのだろうが、僕がまず思い浮かべたのは、昨夜の夢に出てきた不気味な『それ』のことだった。
暗闇に浮かぶ、赤い着物を着た少女人形。
僕の見たものとこの話に登場する姫神様とに、少し近いものを感じた。
「伝承の概要は以上です。今語ったことは配布した資料にも書いてありますので見てくださいね。何か質問はありますか?」
白髪の波川先生は穏やかな声で僕達に問いかけた。
色々と聞きたいことはあったけれど、まさか、姫神様は実在するのですか、とは訊けない。それに、僕はこういう場で積極的に手を上げられる方ではない。
僕がぐずぐずと迷っているうちに、クラスのオカルト好きの生徒が手を上げた。
「現在も祟りを沈めていらっしゃる方がいるのですか?」
「探しているのですが、まだ見つけられていません。血筋が絶えてしまったのか、それとも、どこかのおうちが密かに執り行っているのか。根気よく調査しているところです」
それ意外に質問はないようだった。誰も手を上げないのを確認して、波川先生の傍に控えていた担任教師が前に出た。
「それでは、残りの時間はグループに分かれて作業をしましょう。この話を後世に伝えていく方法を考えてみてください。そして、実際に取り組んでみましょう。紙や画用紙、マジック等は前に置いてありますから、自由に使ってください。パソコン教室を使ってもいいですよ。できるなら、今日制作物を提出。もし間に合わなかったら、来週の月曜までに持ってきてください。波川先生にお届けしますから、しっかりやってくださいね」
憂鬱だ。僕は一緒のグループになってくれる友達がいないから、こういう時はいつも困ってしまう。こっそりと一人で作業するしかない。
どうしようか。この話の絵を描こうか。
そんな風に考えていると、意外なところから僕に声をかけてくれるグループがあった。悪い予感。そう、彼女たちだった。
「優月くん、一緒にやろうよ」
「私たち、この話の本を作ったらどうかと思って」
「私たちが本文を書くから、優月くん、表紙描いてね」
彼女たちは画用紙を一枚、僕の机の上に置いた。怖いくらい優しい笑顔だった。
「私たちは本文を書くから」
「イラスト関係は優月が担当ってことで」
「頼んだからね」
彼女たちはそれだけ言うと自分たちの席に帰っていった。
どういうつもりなんだろう。
彼女たちが何を考えているのかわからないのが不気味で、不安から胃が痛くなりそうだった。
伝承についての文章は波川先生が配ったプリントに過不足なく書いてあるから、本文作りはそれを写すだけ。簡単といえば簡単な作業だから、面倒くさい絵の工程を僕に押し付けてやったということなのかもしれない。
例えそうであっても、僕はもともと絵を描こうと思っていたし、何の否もない。大丈夫だ。
そんな風に自分に言い聞かせて、僕は鉛筆を取り出して画用紙に向かった。
大まかな構図を頭の中で考えて、薄い線でそれを荒く描く。そこから細かい表情や背景や小物を、もう少し詳細に描き込んでいった。
あとは絵具で仕上げよう。
水入れに水を汲むため席を立つと、自ずと教室の様子が目に入ってきた。
僕に絵を押し付けた彼女たちは、本文の写しもそこそこに、ただ楽しそうなおしゃべりをしていた。もしかしたら、後で本文を書くのまで押し付ける気なのだろうか。でも、そのくらいなら大丈夫。一人作業でも、来週までに何とでもなる。
他のクラスメイトたちは新聞を作ったり、ホームページを作ると言ってパソコン教室に向かったり、それぞれ楽しそうに作業していた。僕はそれを見ないようにして、一人で水場に急いだ。
準備が整った僕は、着色に入る。筆を握っている間は絵に集中できるから、嫌なストレスが消えて心地がよく過ごせた。
表紙イラストの中心は双子の少女と姫神様だ。姫神様のモデルは、迷ったけれどあの不気味な世界で出会った『それ』にした。もちろん、蝶の羽とか吸盤の付いたおぞましい触手とか、そういったものは省く。雪のように白い顔に、さらさらと流れる黒い髪、黒い瞳、菊の花紋様の赤い着物。そんなものを急ぎつつも丹念に塗っていった。
もちろん、双子の方も手を抜いてはいない。線対称のようにそっくりな顔で、互いに手を取り合っている姿を描いた。悲劇的な話なので、やや青ざめたような顔色で。でも、二人には立ち向かう強さがあると思ったから、弱い印象になり過ぎないように、くりっとして訴えかけるような目になるように心がけた。
着色が半分くらい終わったところで、改めて絵を見てみると、双子の姉妹がどことなく棗に似ているように見えた。
なんだか訳もなく恥ずかしくなってくる。姫神様の方まで棗の要素が混ざっていた。『それ』をモデルにしたはずなのに、おかしいな……。
ここでチャイムが鳴った。
僕がハッとして絵から顔を上げると、彼女たちが僕の机の周りを取り囲んでいた。もしかして、また僕の絵を破る捨てる気なのだろうかと身構えてしまう。
だが、彼女たちはニコニコと笑っていた。
「できたの? まだ? なら、月曜までに描いて来てよ」
「ふーん、うまいじゃん」
「完成したら、これに綴じておいて」
彼女たちの反応は、意外なことに冷たいものではなかった。僕は少し拍子抜けして、肩の緊張がほぐれる。
彼女たちは彼女たちできちんと本文を書き上げたらしく、紙の束を僕に渡してきた。紙の右サイドに穴が二つ開いているので、紐を通して冊子にするつもりのようだ。
それにしても随分と厚みがある紙束だった。
波川先生が配ったプリントは、一枚の紙に全文が納まっているのに、彼女たちが寄越した冊子は五十枚近くになっていた。気になって中を覗いてみると、余白と白紙が多いことがわかる。特に白紙は一枚おきに挟まっているような具合だった。
「これって……?」
僕が首を傾げると、彼女たちがクスクスと笑い出した。
「その白い紙のところ、優月の描く分ね」
「この本、子供たちにたくさん読んでもらおうと思って」
「それには挿絵がたくさん必要でしょ?」
そう言って、彼女たちは無邪気そうに笑った。
「月曜日に提出って先生が言ってたよね」
「挿絵のページは全部で二十五枚あるから」
「手を抜いたらダメだからね」
月曜までに二十五枚。今日は木曜日。僕は絵を描くは好きだけど、それはちょっと冗談にならない。
「む、無理だよ……」
僕が震える声で必死に訴えると、彼女たちの顔が笑顔から、蔑むような、怖い眼つきに変わった。
「だって先生が月曜日に提出しなさいって言ってるんだし」
「私たちの課題でもあるんだから、しっかり描いてきてよね」
「私たちに恥をかかせたら許さないから」
僕が「でも……」と言いかけると、彼女たちのうちの一人がにやりと笑った。片手を制服のポケットに入れ、中からちらりとのぞかせたのはスマートフォンだった。
「優月くん、こっちにはあの写真があるの、忘れてない?」
「優月くんがしっかりイラストを描いてきてくれなかったらショックだなー」
「ショックすぎて、間違ってあの画像をどっかのサイトにアップしちゃうかもなあ」
黒く輝くスマートフォンの画面がチラチラと電灯の明かりを反射している。僕は気を失いそうだった。
「ねえ、やるの? やらないの?」
「早くしないと先生に気付かれちゃうよ」
「スマホ没収されるかもね。先生に中身見られてもいいの?」
僕は粗く呼吸しながら、唇を引き結んで彼女たちを見つめる。けれども、彼女たちのいやらしい笑顔が変わることはなかった。
彼女たちはニヤニヤしながら、僕が受け入れるのを待っているようだ。僕は手が震えて、目に涙が溜まった。
僕は結局、情けなさと悔しさで真っ赤になりながら、頷くことしかできなかった。
「さっすが、優月くん!」
「じゃ、任せたから」
彼女たちは満足げに微笑んだ。軽やかに笑いながら、軽やかに手を振って、軽やかな足取りで去っていった。僕は、分厚い冊子を抱えながら、唇を噛んでそれを見送った。
――僕は大丈夫僕は大丈夫僕は大丈夫。
気が付いたら、僕は呪文みたいに繰り返し呟いていた。




