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第四章 リピート④

 その夜、両親と一緒に囲む食事はカレーだった。ここのところ残しがちだった夕食を僕は久々に完食。当然だが、家族の前では、シャツとハーフパンツで普通の男の子らしい格好をしている。

「ゆうくん、今日はよく食べるね。最近よく残すみたいだったから、母さんちょっと心配していたんだよ」

「なんにしろ、食べないと力にならないからな。しっかり食べるのはいいことだぞ、優月」

 ニコニコする両親に僕は内心ドキリとするが、笑顔のまま最後のお茶を飲み込んだ。

 僕は未だに家の物置でセーラー服に着替えてから登校していて、そのことを含め、両親に学校でされたことを相談していない。

 言ってしまえば楽になれるのかなと思うこともある。

 でも、怖くてできなかった。細かい感情がそれを邪魔するのだ。

 家族の暖かい雰囲気を壊したくない、彼女たちに逆らえない自分のことを告白するのが恥ずかしい、僕が学校でうまくやっていると思っている親の想像を裏切るのが辛い――そして、現状を認めたくない。信じたくない。恥ずかしい。忘れてしまいたい。

 僕は喉の奥から零れ落ちそうな何かの感情を、お茶と一緒にぐっと飲み込んで笑った。

「最近は体育も屋内であんまり動かないし、お腹減りにくかったのかも。今日はライブハウスでお手伝いしたから、お腹が減ったみたい」

 えへへと笑うと、父さんと母さんも笑った。

「ライブハウスには優月の同級生が出ているんだって?」

「うん」

「棗ちゃんって子なんだよね。この前、スケッチブックに似顔絵を描いてるの覗いたら、めちゃくちゃかっこいい子だったよ」

「え、母さん、いつの間に見てたの? やめてよ、恥ずかしいよ」

「だってゆうくんリビングで描いてたじゃない。見えちゃったんだもん」

「えー、じゃ、もうここで絵を描くのやめるよ」

 頬を膨らませる僕を見て、父さんが笑った。

「ははは。優月はその子と仲がいいのかい?」

「うん……まあまあ」

「ゆうくん、その子のこと好きなの?」

 そう言って母さんがニヤリと笑うので、僕は大きく首を横に振った。

「な、何言ってんの! そ、そんなんじゃないよ! もう! 僕、お皿洗ってくるから。空いたお皿頂戴!」

 僕は重ねた皿を持って席を立った。

「わるいな優月」

「ありがとう、ゆうくん」

 僕がキッチンで皿洗いを始めると、二人は少し音量を下げて会話を続けた。

「ライブハウスか」

「ゆうくん、ちゃんと遅くなる前に帰ってくるし、あちらの保護者の方もきちんとご挨拶してくださったし、わたしは悪いとは思わないの。だめ?」

「いや、いいよ。優月が自分の意志でしたいと思ってるんだろ? それなら優月に任せるさ。人様に迷惑をかけるようなことをしなければ、親として何も言うことはないよ」

「ふふふ。わたし、今度優月に連れて行ってもらおうかな、ライブハウス」

「優月とデートかい?」

「だって、最近、わたしを外に連れて行ってくれないんだもの、あなた」

「ははは。じゃあ、今度のデートは、いつもより少しいい所で食事しようか」

「やったあ!」

 僕は食器を洗いながら苦笑した。相変わらず、父さんと母さんは仲が良い。二人でデートにもちょくちょく行っている。デートのお土産に、僕に美味しいものや綺麗な絵葉書をお土産にくれる。

 やっぱり、この暖かな雰囲気を壊したくない。

 こびりついたカレーの汚れをスポンジでごしごしと削ぎ落としているうちに、僕の顔から笑顔がだんだんとなくなって、溜め息がこぼれた。

 そういえば、校舎裏で首を切った――夢を見た時も、夕飯はカレーライスだった。

 僕は無意識に喉元に伸びた片手で、傷を作ったはずの部分に触れる。もちろん、何もない滑らかな感触なのだけど、触った瞬間、彼女たちにされたことが唐突にフラッシュバックした。

 映画の予告編やドラマのダイジェストを見せられたみたいに嫌な記憶が頭の中を駆け巡って、僕は呆然と立ち竦む。喉の奥がつんとして、目の辺りがカッと熱くなった。

 僕は必死でそれに耐えた。菊之宮デイジーのことや、リジェクトのライブを思い出して、彼女たちにされたことを頭から排除しようとした。

 何回か深呼吸をすると、次第に気持ちが落ち着いていく。

――今日はもう寝てしまおう。

 僕は食器を片づけると、カラスの行水のように風呂を早く済まし、髪の毛を乾かすのもそこそこにベッドの中へ逃げ込んだ。


 昨日までは柔らかいベッドに潜り込んでも、なかなか寝付けなかった。不安に押し潰されてしまいそうで、なかなか気持ちが休まらず、何度寝返りをうったかわからない。思考回路が嫌な方へ嫌な方へと向い、彼女たちを憎み、自分の情けなさを恨み、ぐるぐる回る気持ちが僕を安眠から遠ざけていた。

 今日は昨日までと比べれば、すんなりと眠りに落ちることが出来たように思う。数度の寝返りで眠りの世界に落ちることができたのだ。

 やっぱり、仕事をして体を疲れさせるのはいいことなのかな。それとも、今日、ライブハウスでみんなと会って、棗と会って、だから……。


 そうやって僕は安らかな睡眠に至ったはずだった。それなのに。

 暗い。明かり一つなく、辺りを見通すことができない。自分の姿さえ確認できないし、それどころか、暑いのか寒いのか、立っているのか寝ているのか、自分自身のことなのにわからない状態だった。

 何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。五感が機能ない世界に僕はいた。

 こういう不安定な体感を得たことが今までに一度だけあったことを思い出す。あの夢――死の世界へ行った夢を見たときのことだ。

 不気味な存在に出会った記憶がまざまざと甦る。現実離れした場所で、現実離れした存在と出会った記憶。

 そんな馬鹿な。あれは夢ではなかったのか。それとも、今のこれも夢なのか。

――ここはどこ?

 なぜ僕は今ここにいるのか。少なくとも、今日は自殺なんかしていない。

 今日は菊之宮デイジーに行って、お手伝いをして、麗司さんや多佳子さんと話して、麗司さんのライブを見て、そして、棗と話して。家では家族とカレーを食べて。

「うわああああああ!」

 思い切り叫んだのに、自分の声が聞こえなかった。めちゃくちゃに手足を動かしたつもりなのに、なんの実感も得られなかった。

――これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。

 何度も自分に言い聞かせた。

――早く覚めろ。早く覚めろ。早く覚めろ。早く覚めろ。

 何度も頭を振って覚醒しようと試みたが、叶わなかった。

「助けて! 誰か助けて!」

 声にならない声で叫んでも、何の反応もない。

 僕は生きたまま墓に埋められたような気持ちになって、泣き叫びたくなる。それなのに、顔の感覚がないせいで、自分が今どんな表情でいるのかさえ知覚できなかった。

 ただ時が過ぎるのを待つことしかできない。あの時と同じで、時間が同じリズムで過ぎているのかも疑わしく、もしかしたら、時が止まっているのかもしれないとすら思えた。

 いくらか時間が過ぎた頃――もしかしたら僕がここに来た直後かもしれないし、あるいはもっとずっと後のことだったのかもしれないが――前方に靄のようなものがあるのを感じた。

 その靄は徐々に僕の方に近づいてくるようだった。それとも、僕が近付いているのだろうか。わからないけれど、段々と靄の輪郭がはっきりと知覚できるようになっていった。

 その靄は以前に出会った、あの異様な存在に違いなかった。

 僕は体が震える感覚を止めることができない。

「これは、夢……だよね」

 僕の声にならない声に、『それ』は頭を縦に振り、また横にも振った。

「夢も現も死もこの次元も、根源的には共有の相として認識することが出来る。故に、私はあなたの問いに対して応と回答する。ただし、あなたたちの認識能力に準拠する限り、あなたたちの世界と夢、あるいはあなたたちの次元とこの次元とは別のものである。故に、否とも回答することができる」

 僕の頭の中に、『それ』の鈴を転がすような、気持ちの悪い声が響いた。

 『それ』は、橙色と黒と白の、不気味な文様が刻印された蝶の羽を広げ、悠然と空を舞っていた。暗闇色の長い髪と菊模様の真っ赤な着物の袖をなびかせて、着物の裾からは吸盤が付いた軟体生物の触腕を覗かせている。

 美しく、艶めかしく、気色が悪く、『それ』を見ていると気分が悪くなる。

「どういう意味……? 僕は、死んでなんか……いないよね?」

「あなたは死んでいない」

 震えは止まらないながら、まずはほっとする。

「だ、だったら、ここから出して!」

「その前に、私はあなたが私と話すことを望む。ようやく妨害障壁が薄くなり、私はあなたとの意思疎通手段を得たのだから」

「妨害障壁?」

「あなた自身も私と話したいと思っているのではないのか」

 僕の問いには答えず、『それ』は言葉を続けた。

「私自身の意志でここへ来たことを私は否定しないが、あなた自身が私を呼び込んだことも、あなたは否定することが出来ないだろう。あなたは私に何かを願いたいと思っているのではないのか」

 『それ』は熱のない声で淡々と言葉を紡いだ。ぽっかりと開いた深い穴のように黒い瞳が、僕を真っ直ぐに見つめている。僕は恐ろしくなり、大きく頭を横に振ろうとした。

「僕は……お、お前を呼んでなんか、いない。お前なんか、この世にいないんだ! これは夢だ……。僕はお前に願うことなんか、何もない……」

 現実の世界だったら、声が震えていただろう。少女人形の白磁の顔が、ぐにゃりと歪んで笑みが溢れた。

「あなたの発言はあなたの本意か? 私はあなたの血を用いて、あなたの任意の過去を改変することが出来る。または、あなた以外の人物の血によって、任意の未来に導くことが出来る。両方とも三年という期限はあるが。あなたは困難な何かを変えたいと思っているのではないのか」

 『それ』の白磁のような顔は笑みを浮かべていた。打算的な香りがする冷たい微笑みだった。

「僕は……何も……!」

「私はあなたが私を必要としていると認識していた」

 僕の心に彼女たちの顔がちらついた。

 僕は心の隅で『それ』を呼んでいたのだろうか。『それ』が夢でなく事実存在するものなら、うまく利用して万事が解決することもできるのだろう。僕の中に、この奇妙な存在にそうやって縋り付きたい気持ちがあったのだろうか。

 それはおぞましいことだ。恐ろしいことだ。

「僕が願い事をするなら、死ぬくらいの血を流さないといけないんだろう?」

「そのとおりだ」

「それなら無理だよ。僕はもう、自分で自分を傷つけたいと思わないから」

「今の世界、この瞬間で血を流したとしても、過去を改変することで、あなたは別の時間軸に移行することが出来る。あなたにとって不利な要素が皆無とは言わないが、ほぼないだろうと私は判断している」

「でも、僕は……」

 気持ちにぶれがないかと言われれば、そんなことはない。『それ』の誘惑は、焼きたてのクッキーみたいな甘い香りがする。

 でも、僕は頭を振って、拳を握りしめる動作を思い描いた。

「僕はもう、自殺みたいなことはしたくない……!」

 僕の応えを聞いた『それ』は、一度目を閉じた。

「そうか。それは私にとって想定外の回答だった。それならば、他者の血を用いて任意の未来を指定するのはどうか」

 再び開かれたその目には、不満も感動も驚きも、何の感情の痕跡もなく、ただただ冷たい色をしていた。

 でも、僕はせせら笑うように答える。

「自分で自分を傷つけるのも怖い僕が、そんなことできるわけないじゃないか」

「そうか、それは私にとっては残念だ」

 言葉とは裏腹に、悔しさの全く伝わらない声だったが、その言葉と同時に『それ』の輪郭が闇に溶け始める。

「もしあなたに願い事が生じれば、私を呼ぶのがいいだろう。しばらくの間、私は自由に動くことが出来ると予測される。私はあなたの期待に応えることができるだろう」

 そう言って、『それ』は優しく微笑んだ。

「また、会えることを期待している」

 呪いのような言葉を残して、『それ』の姿は暗闇の中に溶けて消えた。


「うわ!」

 僕はベッドから飛び起きた。目覚ましのベルが鳴っている。しばらくの間、呆然としてそれを眺め、やっと気を取り直してベルの鳴動を止めた。

――ただの夢? それとも……?

 僕は深呼吸をした。いずれにせよ、僕は自分を傷つけるような逃げ方は二度とご免だ。

 ゆっくりとベッドから這い出して、億劫な動作で身支度を始める。俯きがちになる癖はもう治らないかもしれない。

 今日もまた、長い一日が始まる。

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