第一章 リセット①
最初は彼女たちからクスクス笑われているだけだった。それでも当時は不快に感じて悩んでいたものだけれど、そんなのは生優しい、可愛いものだったのだ。今ではそう思う。
「お前、キモいんだよね」
「臭い。ちゃんとお風呂入ってんの?」
「その中途半端なおかっぱみたな髪型、めちゃくちゃダサいね」
僕は一人でいただけだ。話すことが得意ではないから、休み時間は自分の机で大好きな絵を描いて過ごしていた。それだけだったのに。
僕はそこにいるだけでクラスの女子の気分を逆撫でしてしまうのかもしれない。男子の友達もいないので、誰も助けてはくれない。むしろ、彼女たちにからかわれたり嫌がらせを受けたりしている僕のことを、クラスの男子はニヤニヤしながら観察しているようだった。
僕は今日、女子の制服を着て登校した。彼女たちに着てくるように命令されたから。
僕の中学校の女子用制服はありふれた形状のセーラー服だ。白地の上衣には大きな紺色の襟が付き、それを縁取る赤色のスカーフ、そして、膝丈の紺色のプリーツスカート。明日からこれを着て学校に来いと、昨日彼女たちからそのセーラー服を渡された。誰かのお姉さんの使い古しらしい。
ほとんどの教科担当の教師たちは、普段からあまり僕を認識していないせいか、僕の衣服の異常には気付かなかったようだ。気付いて注意してきた先生には彼女たちが反応した。
「優月くんが女装したいって言ったから、お姉ちゃんのお古の制服持ってきてあげたんです」
「優月くんが女性の視点で絵を描きたいとかなんとかで、女性の気持ちを知るために女の格好したいって言ったんだよね」
「だよね?」
教師たちの前で彼女たちに念押しされて、僕は曖昧に笑いながらコクリと頷くことしかできなかった。先生は眉を顰めて「男子は男子の制服を着るように。担任とよく話しなさい」と言った。その人はクラス担任ではないし、僕が何も言わないから、それ以上言うのは憚られたのだろう。面倒に巻き込まれたくなかったのかもしれない。
担任の先生はこっそり教科準備室に僕を呼び出して「何かあったのか?」と聞いてくれた。でも僕はやはり同じように曖昧な笑顔を浮かべて何も言わなかった。先生は困ったような表情で「何かあればすぐ言うように」と言って僕を帰らせた。先生にとっても、僕はよく分からない、どちらかと言うと気持ちの悪い生徒なのだと思う。授業で指してもまごまごして何も応えられないし、休み時間も他の生徒と離れて一人机で絵を描いている。
確かに扱いにくい生徒だよなあと、妙に冷静な僕の一部が溜め息と共に納得していた。そして、先生に訴えたり、他のクラスメイトに相談したりと、現状を打破するような行動を起こす気概も勇気もない自分自身が情けなくて、自己嫌悪に陥った。
昼休みに机で一人、弁当を食べていると、彼女たちに取り囲まれた。彼女たちはニヤニヤと笑っていた。
「放課後遊ぼうよ」
「旧校舎の裏で待ってるから」
「逃げんなよ」
彼女たちのうちの一人が僕の弁当箱に唾を吐いて去っていった。
「いやだ」とは言えなかった。どうしてだろう。セーラー服を着てくることも、そして、さっき彼女たちから放課後に呼び出されたことも、本当は嫌なのに拒否の言葉を発することができなかった。なんで「いやだ」と、たった一言が言えなかったのだろう。そして、今も言えないのだろう。
旧校舎裏に来ればよくないことをされるのは分かりきっていた。分かりきっていたのに、逃げ出すことができなかった。なぜ逃げられないのだろう。苦しくて、何も考えたくなくなって、結局は唯々諾々と彼女たちに従う。自分の馬鹿さ加減に吐き気がしそうだ。でも、それでも、僕は反抗的な態度を取ることができなかった。
彼女たちに囲まれると、僕は何もできなくなってしまう。多分、僕が馬鹿でグズだからだと思う。反抗する気力もない臆病者だから。そんな馬鹿な僕は、きっといじめられて当然なのだ。
そういえば、僕がスケッチブックに鉛筆で描いた絵を、彼女たちに無理やり毟り取られて黒板に張り付けられたこともあった。その時もいやだとは言えなかった。とても悲しかったし、恥ずかしかったのに。
貼り出された作者不明のその絵に対して――片翼を切り落とされた天使の絵とか、王子様の胸にナイフを突き立てる人魚の絵とかそういう絵に対して、他の生徒や先生が引き攣り笑いを浮かべながら見ていたのを思い出す。僕は居たたまれない思いで、体を小さくすることしか出来なかった。「それは僕の絵だ」と言って、彼女たちの所業を告発するなんてことは出来なかった。先生とクラスメイトの中にはそれが僕の絵であることを察していた人もいたと思うが、僕は彼らが正義感に駆られてそれを言い出さないことに安心していた。
僕はただ体を小さくして、時が過ぎるのを待っていた。居心地の悪い時間の中で、嫌なことが通り過ぎてくれることをただただ待っていた。
この時からだったかもしれない。彼女たちが僕のことをクスクス笑っていただけだったのが、積極的に手を出してくるようになったのは。
僕の持ち物が隠されたり、落書きされたり、汚されたり、目の前で悪口を言われたり、そんな毎日が続いた。