第四章 リピート③
水曜日の夜は本当であれば、棗のバンド、リジェクトのライブが予定されていた。だが、当然、棗はインフルエンザのせいで出られないし、ライブハウスのフロアにも出てこられないだろう。
それでも、僕の足は自然とライブハウス・菊之宮デイジーに向かった。
棗の具合も心配だった。体調を崩したのは、汗をかいたまま僕の物販を助けてくれたせいかもしれないから。僕はお見舞い品代わりのプレゼントを持って、多佳子さんのビルの地下へと続く階段を下りた。
最近の僕はリジェクトのスタッフとしてパスを出してもらっている。受付スタッフの方からもらったシール状のパスをセーラー服に張り付け、フロアを閉じる防音の重い扉を押すと、ギターやドラム、ベースの轟音が漏れ出した。丁度、今日の出演バンドのリハーサル中だったようだ。
「多佳子さん、こんにちは」
バーのスタッフと打合せをしていたらしい多佳子さんが、僕の張り上げた声を聞いて振り返った。
「あら、こんにちは、優月くん。今日も来てくれたのね」
そう言って多佳子さんは艶然とした笑みを浮かべたものの、それはすぐに憂いの表情に変わった。
「ごめんなさいね。今日も棗は熱が引かなくて。しばらくステージにも上げられないし、フロアに来させるわけにもいかないのよ」
ふう、と多佳子さんは溜息を付いた。白髪で顔にも年相応の皺を刻んではいるものの、上品さと野生的な力強さを併せ持つ多佳子さんは、いつもは年齢を感じさせない。でも、今日は少し疲れていて、いつもより年を取って見えた。
「そうですか……」
僕の気持ちも当然ながら暗くなった。
――棗、大丈夫かな。
僕は棗の歌が聞きたくて仕方なかったから、余計に憂鬱な気分になった。意識しなくとも表情が曇って、顔が下を向く。
「優月くん? なんだか、顔色が悪いわよ。 大丈夫?」
多佳子さんが心配そうな顔で僕を見ていた。僕ははっとして、慌てて顔を上げる。
「だ、大丈夫ですよ! 全然大丈夫です! 熱もないし、喉もいたくないし、鼻水も出ないし。げ、元気そのものです!」
一気に捲し立てたら、多佳子さんの顔が怪訝な表情となった。
「優月くん……何かあったの?」
「い、いいえ。あ、だ、大丈夫です。本当に。何も心配ないです。棗にも、僕は学校で元気に、や、やってるって伝えてください」
多佳子さんが何かを計るように僕の目をじっと見つめていた。僕は心臓がバクバクして目を逸らしてしまいたかったけれど、それをしてはいけない気がして必死に多佳子さんを見つめ返した。
「僕は、大丈夫です」
絞り出すように、口から言葉を吐き出した。多佳子さんは何かを言いたげに口を開きかけ、けれど、それを飲み込むようにして微笑んだ。
「そう。ならよかったわ」
僕は内心ほっと胸を撫で下ろす。
「あの、これ……」
忘れないうちに、一抱え程の平たい包みを多佳子さんに手渡した。
「あの、棗に渡してください。早くよくなってほしいから……本当にくだらないものなんですけど」
「まあ……ありがとうね。きっとあの子も喜ぶわ」
多佳子さんの笑顔が明るくなって、僕は嬉しかった。多佳子さんは僕の包みを届けると言って、すぐにフロアから出て行った。
「棗にプレゼントかい? 優月くんもなかなかやるね」
突然、低い美声が降ってきたので、驚いて振り返ると長身の麗司さんだった。楽屋から出てきたところらしく、背中に楽器のケースを背負っている。
「み、見てたんですか? 別に、僕はそんなつもりは……」
「そんなつもりって、どんなつもり?」
「な、ななな……!」
「フフフ。優月くんは可愛いなあ」
僕のおかっぱ頭を撫でる麗司さん。守ってくれる棗がいないから、僕がそっと距離をとると、麗司さんは珍しく素直に手を引っ込めた。
「まあ、マジな話、棗のことを大切にしてくれる人がいるってことが、俺はすごく嬉しいんだよね」
そう言って微笑んだ麗司さんは、今日は長い黒髪を後ろで一つに束ねていて、いつもより落ち着いた大人の人に見えた。今日は学校に行っていたのかもしれない。
少し前に聞いたのだが、実は麗司さんは大学院生なのだそうだ。しかも、大学名をよく知らない僕でもびっくりしてしまうような超有名名門校だ。「研究の合間にバンドしてるのか、バンドの合間に研究してるのかって状態」と言っていた。「数学と物理の間くらいのことを研究しているんだよ」と説明されても、僕にはさっぱりイメージが湧かなかったけれど。
そんな麗司さんは、僕に向かって微笑みながら言う。
「ねえ、優月くん、これからも棗のこと支えてやってくれないかな。すごく……危なっかしいところがあるからさ、あの子には」
そう言うと、麗司さんは笑顔を消した。誰もが振り返るに違いない美貌が、真剣な眼差しでこちらを見つめていて、僕は少し戸惑った。
「俺がいつも傍についてあげることはできないからね。優月くんが棗のところにいてくれれば安心できる」
麗司さんの言葉は僕をさらに困惑させた。僕にとって棗は、自分の道は自分で切り開き、人に媚びず、しなやかな竹のようなイメージの人だ。
「僕なんかがいても……。棗は強い人じゃないですか。僕なんかいなくたって全然大丈夫ですよ。確かに喧嘩っ早くて、見ていてハラハラすることはありますけど、棗は僕なんかより全然強いじゃないですか。逆に僕が助けてもらってばかりだし」
僕がそう言うと、麗司さんは静かに頭を横に振った。
「そんなことないよ。優月くんと話すようになって、棗は随分安定したというか、しっかり生きるようになったなって思うんだ。それまでは結構……何て言ったらいいかわからないけど、弱いところがあったからね」
「そうなんですか……? あまりイメージできないですけど」
「あの子はね、強いところももちろんあるんだけど、弱いところもいっぱいあるんだ。だからね、優月くんがあの子のそういうところを支えてくれたら俺は嬉しいな」
そう言って麗司さんは優しく微笑んだ。でも、その笑顔は少し寂し気なようにも見えた。どうしてだろう。それに、棗の弱いところなんて、想像もつかない。棗は僕なんかよりずっと強いのに。
「こんな情けない僕なんかに、棗を支える力なんて……」
「しっかりしなさい、優月くん」
下を向いた僕に対し、長身の麗司さんがだいぶ高い位置からデコピンを見舞った。
「え……!」
額を押さえながら、僕が驚いて麗司さんを見上げると、いつものように優しげな表情で微笑んでいた。
「今は自分の弱いところが気になっちゃう年頃なのかもしれないけど、そのうちきっと自分の強いところも分かるようになるよ。だからさ。頑張ってよね、少年」
「麗司さん……?」
首を傾げた僕に、麗司さんは少し厳しい表情を見せた。
「俺が妹みたいに可愛がってきた子なんだから、泣かせたら承知しねーぞってこと」
そう言うと、麗司さんは手の甲で僕の頭をポンと軽くはたいた。
「なんてね。そんな台詞を一度言ってみたかったんだ。ちょっと古かったかな?」
そう言って、いたずらっ子みたいに舌を出して笑った。美男子は嫌味だ。そんな表情も絵になってしまうのだから。
それから麗司さんは「じゃあね」と言って、外に続く扉に向かって歩き出す。僕は呆けたまま、その後ろ姿がドアの外に消えるのを見送ることしか出来なかった。
麗司さんは何を言いたかったのだろう。
僕はいつものように菊之宮デイジーの掃除と看板書きを手伝い、棗は出ないが、折角なのでライブを見せてもらった。
リジェクトのステージには麗司さんが一人で出た。冒頭で棗が出演できないことを謝罪し、アコースティックギター一本でステージを作り上げていた。リジェクトの歌をアンプラグドにアレンジして、いつもはデスボイス担当で、ガラガラした声しか出さない麗司さんだが、今日は低い音程で棗パートを歌い、美しい声の響きで観客を魅了していた。
お客さんたちは、「麗司は歌も上手いんだね。知らなかった!」と、きゃあきゃあ言い合っていたけれど、「でも、やっぱり棗の歌が聴きたかったよね。残念だな」という感想を漏らした。僕も心の中でそっと頷いた。
すぐに帰るべき時間となり、僕は麗司さんと多佳子さんに挨拶をしてライブハウスから出た。
地下階段を上がるのが辛かった。一段一段上がるたびに、夜の街の光が近付く。現実に引き戻されるみたいで、足が鉛のように重くなるのを感じた。
地上に出ると、夜の光が僕を覆う。ビル群の窓から漏れる冷たい光、コンビニの他人行儀な光、妖しげな店の派手派手しいネオン。そういう雑多な街の光の上に、夜空が黒々と広がっていて、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。寒々しくて、寂しい景色だった。
僕はしばらく、商店も合わせずにそれ見つめ続けてた。
すると。
「……優月」
どこかから僕を呼ぶ声が聞こえた。からからに乾いたような声だった。
「だ、誰?」
僕はびっくりしてキョロキョロと周りを見回すが、それらしい人影がない。
「ここだよ、ここ」
囁くような声をよく聞くと、上から降ってきているような気がした。上を向くと、菊之宮デイジーの入っているビル、二階の窓が開いていた。そこから、誰かが上半身を乗り出して、手を振っている。
「棗?」
びっくりして声が裏返った。そうか、このビルの二階は多佳子さんと棗の家だったっけ。
「優月、元気?」
「う、うん。僕は……元気だよ」
いけない。少し声が震えてしまった。これは違うよ、嘘じゃない。棗が急に出てきたから驚いただけだから。本当に元気なんだから。
「ふーん。ならいいけど」
棗は少し頭を傾けながら頷いた。大きなマスクをつけているから表情が今一つわからない。ただ、その声はマスク越しにしても枯れ果てていて辛そうだった。
「棗こそ大丈夫なの? 声が……」
「うん。喉が最悪。まだ熱もある」
確かに、焦点が定まらずにどこかぼーっとしているように見えた。
「今日ライブ出られなかったし、最悪。麗司さんにもライブハウスにもお客さんにも迷惑かけたし、バンドマンとしても最悪。体調管理も仕事のうちなのに。土曜日のイベントは先輩にも迷惑かけたし」
「そんなことはもう気にしなくていいよ。それより早くインフルエンザ直さないと。夜風は寒いよ。早く寝た方がいいって」
「うん」
棗は一度中に引っ込むが、またすぐに出てくると手に持った何かを見せた。
「優月、これ、ありがとな」
「……うん」
それは僕が今日持って来たお見舞いの品で、さっき多佳子さんに渡したものだった。あまりお金もないし、気の利いたものも選べないから、棗の歌っている時の姿のスケッチを贈ったのだ。改めて本人が手に持っているのを見ると恥ずかしい気持ちになって、頬や耳の辺りが熱くなった。
「ごめんね、つまらないもので」
「なんでお前が謝るんだって。こっちはすごく嬉しいって」
マスク越しに、棗は少し怒ったような声を出した。
「むしろ謝るのは俺の方だし」
「え?」
「じゃ、そういうことで。お礼は言ったから。また学校かここでな」
僕から言葉を挟む隙もなく、棗はビルの中に引っ込むとぴしゃりと窓を閉めた。
夜の光が煌めく街に残された僕は、再び夜空の月を見上げた。でも、前ほど寂しい気持ちにはならならない。
僕は鉛みたいだった足がアルミになったくらいの足取りで家路についた。