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第四章 リピート①

 翌日は金曜日で、休日前の学校はどことなく浮ついた雰囲気だった。

 僕は今日も、おかっぱにセーラー服という清く正しい姿で朝の廊下を歩いていた。そのまま教室に入ると、彼女たちがいつものように僕の格好を鼻で笑う。僕を気晴らしの材料にするようなその態度に、僕は内心で苦い気持ちを抱きながらも、唇を噛んでおとなしく自分の席に向かった。

 僕は、彼女たちが僕に向ける視線や言葉、身振り手振りの一つ一つが恐ろしくて仕方がなかった。彼女たちに囲まれると体が動かなくなり、うまくしゃべられなくなって、冷たい汗をかきながら下を向くことしかできなかった。そんな時、今までは、怖い、嫌だ、苦しいということ以外、何も考えられなくなってしまっていた。

 今もその恐怖感は続いているけれど、最近の僕はそれだけではない感情を彼女たちに抱くようになった。彼女たちに何かをされると、心の片隅で、お腹の中にいる虫がぐるぐると蠢くような感覚を覚えるのだ。僕は彼女たちの態度に対してイライラするようになっていた。どうして彼女たちのああいう理不尽な態度を受け入れなければならないのかと、怒りを感じ始めていた。

 でも、彼女たちへの怒りを吐き出す勇気は、僕にはなかった。情けないが、彼女たちに反抗する自分というイメージが全く想像できなかったし、なんて言えばいいのかもわからなかった。それに、彼女たちに握られている写真の行方が恐ろしかったのだ。

 ぐずぐずとそんなことを考えながら、自分の席で鞄から教科書類を取り出していると、朝礼開始のチャイムが鳴るギリギリの時刻に棗が教室へ滑り込んできた。いつものジャージ姿だけれど、今日は顔にマスクを付けている。

「おはよう。どうしたの?」

 僕の机の横を通り過ぎる時に声をかけると、棗は眉尻を下げて溜め息をついた。

「風邪引いたっぽい……」

 もともと棗の声は少し掠れたような声だが、しなやかな印象の心地いい声だ。それが今日はその掠れ具合がだいぶ増していて、しゃべるのも苦しそうな声音だった。

「え、大丈夫なの? 熱はないの?」

「わかんね。計ってないけど、大丈夫でしょ、多分」

 そうは言うものの、片瞼をピアスで飾った棗の目がいつもより、とろんとしているように見えた。

「学校に来て大丈夫なの?」

「ダイジョブだって」

 棗は席に着くと、そのまま机に突っ伏した。その体勢のまま、午前中の授業の間、棗はピクリとも動かなかった。

「ねえ……大変だったら今日は早退したらいいんじゃないかな?」

 昼休みに声を掛けても、棗は突っ伏したまま動かない。眠ってしまっているのだろうか。弁当箱を取り出す様子すら見せなかった。

 そんな僕たちの様子を眺めながら、彼女たちがクスクスと笑っている。またどうせ、クラスの底辺同士が慰め合っているとかなんとか、嫌なことを言っているのだろう。いやらしい人たちだ。

「うっせーな。優月もいちいち気にしなくていいからな」

 棗は僅かに顔を上げると、不機嫌さの滲む掠れ声で彼女たちを牽制したが、いつもの力強さがない。その顔色は、棗は元々色白な方だが、やはり血色が悪いように見えた。

「棗、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だって。それに、お前のが心配。一人で大丈夫なの?」

 棗の目が僕をちらりと見た。僕はかっと顔が赤くなるのを感じた。

 棗は僕のクラスでの扱いを心配して、体調が悪くても教室にいてくれたのだ。情けなくて恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。

「だ、大丈夫だよ……!」

「そうかあ?」

 棗が僕の目をじっと見つめる。綺麗な鳶色の瞳。細く整えた眉右眉の下に銀色の小さなピアスが付けてあって、日に当たるとキラキラ光る。

 でも、いつもは鋭い眼光を放つ棗の目が、今はずいぶん弱々しくて視線も定まらない様子だった。僕はセーラー服の袖に隠れた拳をぎゅっと握る。

「僕は大丈夫だから。心配しないで」

「……ふーん」

 棗は無言でしばらくの間僕を見つめていた。

「わかった。今日は帰るわ」

 決心したようにそう宣言すると、ふらつきながら体を起こして鞄を担ぐ。

「実はさー、明日、先輩のセッションバンドに誘われてたんだよね」

「え?」

「だから、今日は帰って体調、整えさせてもらうわ」

 青白い顔のまま笑顔を浮かべる棗に、僕は不安が募る。

「ライブなんて……。今日の明日で平気なの? 喉痛そうだし」

「多分大丈夫だろ。俺が歌うの一曲だけだし。先輩バンドのボーカルさんの誕生日イベントでさ、色んなバンドのボーカルとツインボーカルで歌うっていう企画なんだよ。あ、優月も見に来いよ。多分七時半くらいに出るから」

「うん。見に行くよ。でも無理はしちゃダメだからね。ボーカルなんだから喉は大切にしないと」

 僕がそう言うと、棗は僕の顔を覗き込みながら首を傾げた。

「なんかお前、俺のかーちゃんみたいだな」

「なにそれ? 心配してるのに」

 僕が頬を膨らませると、棗は僕の頭をポンポンと優しく叩いた。

「お前も無理すんなよ」

 棗はそのまま教室を出ていった。どこか頼りなく揺れる、ジャージを着た華奢な後ろ姿。

 棗に頼ってばかりじゃだめだ。

 僕は唇を引き結び、拳をさらに強く握り込んだ。


 棗を見送った僕は自分の席に戻り、気合を入れるように深呼吸した。それから教科書とノートを開いて今日出された宿題を始める。真面目に勉強する格好をしていれば彼女たちに目を付けられないのではないかと考えたからだ。幸い、今の彼女たちは自分たちのおしゃべりに夢中で、僕にまで注意が向いていないようだった。

 どうか早く時間が過ぎますようにと、僕は必死で神様に祈る。冷たい汗をかき始めた僕は、数学の問題に目を向けながらも全然集中できない状態だった。

 彼女たちが話しかけてきませんように。物を隠されたり、壊されたりしませんように。無茶な頼みごとや、僕を貶めるような発言をしませんように。

 棗には強がって見せたのに、僕の内心はこんなものだ。僕は改めて自分が恥かしくなって、大きく溜め息をついた。

 午後の授業とホームルームが終ると、僕は急いで鞄に荷物を詰めこんで昇降口に向かった。彼女たちに話しかけられる暇を与えないよう、逃げるように校門を出る。そこでやっと深呼吸して、心を落ち着けることが出来た。

 情けない。棗がいなくなるだけで、こんなに心細い気持ちになるなんて。

 僕が溜息をつくのとほぼ同時に、鞄の中の携帯電話が振動した。多佳子さんからの着信だった。

「もしもし?」

『あ、優月くん? あのねえ。棗がね、インフルエンザだって診断されちゃってねえ』

「え!」

『さっきまで明日歌うんだって相当暴れていたんだけど。三十八度も熱があるっていうのに。疲れたのかやっと寝てくれたところなのよ』

「大丈夫なんですか?」

『ちゃんと大人しくしていれば直るわ。だけど、先生の許可が出るまで外出禁止ね。しばらく学校にも行かせられないわねえ』

「そうなんですか……」

 僕は来週の学校生活を思って頭の中が真っ白になった。今日のたった数時間すら苦痛だったのに、そんな長い時間を耐えられるだろうか。

『優月くん?』

 多佳子さんの心配げな声に僕ははっとする。

「あ、す、すみません。棗にお大事にって伝えてください」

『ありがとうね』

 暖かい多佳子さんの声にほっとすると共に、咄嗟に自分のことしか考えていなかった自分が恥ずかしくなった。

『だから、明日のセッションには棗は出ないのよ。来週のリジェクトのライブも……無理だろうね……』

 多佳子さんの声の歯切れが悪い。棗の性格を考えると、リジェクトのステージを諦めさせるのは大変なことなのだろう。

『もし、優月くんにインフルエンザがうつっていたらごめんなさいね。体調が悪くなったら、すぐに病院へ行きなさい』

「わかりました。でも、今は全然平気です」

『良かったわ。それじゃあ、棗が元気になったらまたライブハウスに来て頂戴ね』

「はい。また伺います。さようなら」

 通話を切って携帯を鞄に仕舞う。やっぱり棗は相当に体調が悪かったのだ。それなのに、僕のことを心配して学校に来てくれたのだろうか。むず痒くて、心を引っ掻かれるような感覚が僕を苛む。弱い自分がもどかしかった。

 来週は僕一人で過ごさないといけない。

 棗ではなくて僕がインフルエンザにかかればよかったのにと思えてしまう。そうすれば棗は楽しくライブができて、僕は家で一人寝て起きて寝て起きて。そんな風に逃げられたらどんなに楽なことだろう。

 逃げたい。逃げ出したい。

 そんなことを考えていると、ないはずの喉元の傷がジクジクと痛むような感覚が呼び起こされた。

――わかっている。わかっているよ。もうバカな逃げ方はしないから大丈夫。

 早く棗がよくなるといいな。僕を守ってくれる棗がいないと困るからではなくて、元気な棗の姿が見たいから。それが理由でなくてはならない。そうでなけれは僕は本当に情けない男になってしまうし、棗に失礼だ。

 棗の元気な姿を早く見たい。ただそれだけだ。僕は念じるように、何度も心の中でそう繰り返した。

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