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第三章 リブート⑨

 翌朝、僕は学校の教室のドアの前で固まっていた。昨日は、僕がセーラー服で来るかを彼女たちが昇降口で監視していて、有無を言わさず教室へ連れて行かれたので、女の子の格好をした状態で教室のドアを自分で開けるという行為をしなくて済んだのだ。

 相変わらず彼女たちに逆らう根性のない僕は、昨日と同じように家の物置の中でセーラー服に着替えて登校した。彼女たちにスマートフォンで撮られた画像がちらついて、これを着てこないという選択ができなかった。

 教室の中から漏れてくる楽しげな喧騒が、僕の進入を阻む呪詛のように聞こえた。僕がこの扉を開けた時に彼女たちやクラスメイトがどんな顔をするのかを考えると吐き気がして、手と背中に冷たい嫌な汗が湧いた。

「何やってんの、優月?」

 言葉と共に、ぽんと肩を叩かれる感触があった。

「おはよ。早く教室入ろうぜ」

 棗だった。相変わらずの金髪で、耳はピアスだらけでジャージ姿、ベッドフォンを首に掛けた棗が、僕の前へ出て勢いよくドアを引いた。棗は僕の格好に驚いたり、非難したりするようなそぶりも見せず、普通の態度だった。スタスタと前を歩いていく棗を見ているうちに、気が付くと、僕はその後ろ姿に引き寄せられるように、彼女に続いて教室に入っていた。

 その瞬間に、教室の喧騒がぱたっと止まる。

 彼女たちがちらりとこちらを見た。僕の姿を見て満足げに微笑むと、友達同士の会話に戻った。それを合図にしたかのように、他のクラスメイトもそれぞれのおしゃべりを再開させた。

 棗は特に気にすることなく、いつものように堂々と自分の席に着いた。僕はびくびくしながら、いつものように背中を丸めて自分の席に着いた。

 まだ朝のホームルームまでには十分ほど時間がある。棗はヘッドフォンを被り、指で机を叩いてリズムを取り始めた。

 クラスメイトたちは楽しそうにおしゃべりを続けていた。僕がセーラー服を着させられていることなんか、きれいに忘れているみたいに見える。それとも、僕のことをこっそり指差して笑っているのだろうか。冷たい汗で濡れたシャツの感触と、お腹の辺りがキリキリと痛む感覚が僕を苛んだ。

 逃げ込むように、僕は鞄から取り出したスケッチブックを開く。僕の絵は天使や悪魔、アンデルセンやグリムの童話をテーマにした絵が多かった。僕はそれらを捲って、白紙のページを出す。昨日の夢で見たものを描いておこうと思った。あの美しくて醜い存在を、絵として残しておきたかった。幸い、彼女たちは今おしゃべりに夢中で僕のことなんて眼中にない様子だったので、安心して鉛筆を握ることができた。

 鉛筆を握り、まずはある程度アウトラインを薄く描く。その後、詳細を書き込みながら、徐々に肉付けしてメリハリの付いた絵にしていった。美しい人形の顔、風にたなびく着物の袖、幻想的だけど不気味な蝶の羽と、気持ちの悪い蛸の足。形を整え、光と影を意識して陰影を加えて立体感と存在感を出していく。絵を描いている最中は、全てを忘れて集中することができた。

 だから、この時も気が付かなかったのだ。

――くすくす

――ナニコレ?

――キモ!

 いつの間にか僕の机の周りに彼女たちが集まっていた。

「……あ」

 僕は慌ててスケッチブックを閉じようとするが、彼女たちの一人が無理やり引っ張る。

「見せてよ」

「見てあげるって言ってんの」

「見せてくれるよね? だって、こっちにはこれがあるし」

 彼女たちの一人がスマートフォンをちらりと見せた。僕の腕から力が抜けた。

「うっわ。コワ!」

「超キモイんですけど」

「こいつの頭、やばくね?」

 彼女たちはクスクスと笑いながら僕のスケッチブックをめくっていく。僕は赤くなって青くなって、黙って震えたまま俯くことしかできなかった。

 棗や麗司さんや多佳子さん、そして、父さんや母さんの笑い声はあんなに暖かく感じるのに、どうして彼女たちの笑い声は冷たく刺々しく感じるのだろう。全身の肌と胃の中がチクチクと痛むのは何故なのだろう。

 彼女たちは甲高い声で笑いながら、僕の描いた絵をびりびりと破り捨てた。引き裂かれた紙片は宙を舞い、教室の床に散らばった。

 僕の指が一瞬動きかけるが、しかし、それ以上動かすことができなかった。彼女たちは楽しそうに笑いながら、僕の泣きそうに歪んだ顔を覗きこんだ。

「なに? 何か文句あるの?」

「人に見せられるようなものじゃないでしょ、あんな絵」

「だから私たちが処分してあげたんでしょ」

 僕と彼女たちは同じセーラー服に袖を通していて、ぱっと見た限りでは仲の良い女子グループが集まって楽しく騒いでいるように見えるかもしれない。彼女たちは無邪気に笑いながら話しているようにしか見えないのだから。

 けれど、彼女たちに囲まれた僕は、絶対的な断絶を感じていた。絶対的な疎外感。絶対的なヒエラルキー。絶対的な齟齬。絶対的な隔絶。

 僕は首や脇、背中、あらゆるところから冷たい汗が噴き出した。居心地の悪いここから早く逃げ出したかった。でも、こういう時になんと言って切り抜ければいいのかを僕は知らない。自分が情けなくて、涙が零れそうだった。

――ダン!

 突然、後方で大きな鈍い音がした。その大きな音に驚いて振り返ると、棗が椅子に座ったまま自分の机を蹴り飛ばしたところだった。前の席へ倒れこんだ机の後ろで、ヘッドフォンをはずして首にかけた棗がこちらを睨みつけていた。

「お前ら、優月に何してんだよ。いい加減ウザいし、うるせえんだよ」

 低く凍えた声だった。

 そして、その声を聞いた途端、彼女たちの顔が凍りついた。腰が引けた状態で、何も言い返せない様子だ。僕と彼女たちだけではなく、クラスメイトたちも体を静止させ、檻から出てきた虎を見るような目で棗を凝視していた。

「不細工な糞女はそうやって静かにしてろよ」

 そう言って、棗は彼女たちの様子を眺めながら満足そうにニヤリと笑うと、蹴り飛ばした机を乱暴に元の位置に戻し、再びヘッドフォンを装着した。

 彼女たちは長い沈黙のあと、そろりと窺うように互いに目配せし合った。

「なに、あれ」

「感じわる……」

「最低」

 彼女たちは聞こえよがしに言葉を交わしたが、ヘッドフォンを装着した棗はどこ吹く風で目を瞑っている。

 そのうちに、スピーカーから朝のチャイムが鳴った。それと同時に担任の教師が教室の扉を開けて入ってくる。

 彼女たちは面白くなさそうな顔で棗を睨みながら自分たちの席に戻っていった。当然のことのように棗からは黙殺されていたけれど。

 僕は彼女たちが破いた絵を素早く集めて机の中に押し込んだ。

 棗の方を向くと、彼女は僕に向かって笑顔を見せていた。昨日見せてくれたような暖かな笑顔だった。僕にだけ見えるように、親指を上げて見せている。

 僕はほっとした反面、恥ずかしい気持ちにもなった。

 僕を助けようと毅然と行動した棗に対して、彼女たちに何も言い返せない自分、慌てて絵を回収した自分が卑屈に思えた。彼女たちの注意が棗に移ったときに、瞬間的に安堵した自分がいたことも、僕自身を落ち込ませた。

 僕は棗になんとかぎこちない笑顔を返し、でも、どうしたらいいかわからない、むず痒いような苦いような思いを抱えて、朝のホームルームのため正面に向き直った。


「ねえ、まずいんじゃないかな」

「何が?」

 僕は放課後の昇降口でやっと棗に声をかけることができた。この時間、ほとんどの生徒が部活や委員会に行くか、帰宅している。いつも僕をいじめる彼女たちも既に部活に行っていた。

 今日の棗は珍しく朝のホームルームから帰りのホームルームまで、全ての授業に出席していた。ほとんどの時間を眠っているか、ヘッドフォンを付けたままにしているかではあったけれど。

 だから、いつもは僕を相手にニタニタ笑いながら嫌なことをしてくる彼女たちが、今日は棗を睨みつけることに時間を費やしていた。そのおかげもあって今日の僕は彼女たちに何をされることもなく過ごすことができたのだけれど、僕のせいで棗に迷惑をかけていると思うといたたまれなかった。でも、彼女たちの目が怖くて、日中、棗に声をかけることができなかった。そんな意気地のない自分も情けなくて嫌になる。

「あの人達にあんな態度をとったら、矢車さんが目を付けられるんじゃ……」

「アハハ! バカ言うなよ」

 人のいない昇降口に棗の笑い声が響く。夕暮れの橙色の光が差し込む昇降口で、棗は下駄箱に上履きを乱暴に突っ込み、スニーカーを取り出して履いた。

「俺があいつらにビビるとか、本当に思ってんの?」

 頭を僅かに傾けて、棗はニヤリと不敵に笑う。

「心配すんなって。俺はお前と違って強えからさ」

 棗は右手を上げた。何をする気なのかと見つめていると、その手を僕の目の前に移動させ、綺麗な中指で、おかっぱ頭から覗く僕の額をピンと思い切り弾いた。

「いた!」

 僕が額を抑えながら上目遣いに棗を見ると、デコピンを華麗に決めた彼女は楽しそうに笑っていた。

「ワハハハ! 鈍臭い奴め」

「ひ、ひどいよ!」

 僕がむくれて頬を膨らませると、今度はわしゃわしゃと頭を撫でられた。

「そうそう。それでいいんだよ。お前はそうやってればいいよ」

「ちょっと! もう、やめてったら!」

「そういうのが普通にできるようになれば、いいんじゃねえの。普通に可愛いし。そういう意味じゃ、女の格好も悪くねえんじゃねえかな」

 僕は頬や耳のあたりが熱を持ち、赤くなるのを感じた。どうして可愛いと言われたのに、心臓がドキドキしてしまうのだろう。

「はは。ま、そういうことだからさ」

 棗はぽんぽんと僕の頭を軽く叩くと、背を向けて出口に向かって歩き出した。

「明日も学校来いよ。俺も来るからさ」

 棗は後ろ姿を見せたまま、振り返らずに手を振って外に消えていった。

 オレンジ色が差し込んでくる出口はいやに眩しくて、僕は目を細めた。棗が触った自分の髪に軽く触れ、ぐしゃぐしゃになった髪を指で梳いて元に戻す。僕は真っ赤な顔のまま、棗の後ろ姿を黙って見送ることしかできなかった。

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