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第三章 リブート⑧

 ライブハウスの入った建物の一階の事務所の鍵を棗に開けてもらい、中でロリータ服から着替えをし、荷物を持って出てくると、廊下にはまだ棗がいた。殴られたみたいなメイクと血糊の付いた包帯をつけたまま、薄暗い廊下の壁に寄り掛かる彼女の姿はちょっとしたホラーだ。一瞬びくっとした僕だが、その後、なんだ棗じゃないかと思ったら、恥かしいようなおかしいような気持ちになって僕はそっと苦笑した。よく考えると、セーラー服を着ている僕も相当おかしい。

「あの洋服は衣装掛けみたいなところにハンガーで吊るしておいたよ」

「ああ。それで大丈夫」

 棗は鍵を回して事務所を再び施錠した。

「じゃあ、帰るね」

「ああ。気を付けてな。おやすみ」

 棗の「おやすみ」の言い方が優しくて、僕はどきっとした。ふわふわの毛布にふわりと包まれるような、心地のいい声だった。

「う……うん。お、おやすみなさい」

 僕は狼狽えながらなんとか返事をする。なんてカッコ悪いんだろう。

 心の中で溜め息をつきながら、今日のことを改めて思い返す。長いようで、あっという間の一日だった。たくさんのことがあったような、それほどたくさんのことは起きなかったような、よくわからない一日。

 そんな一日を終えて、僕は棗に言いたいことがあったのに、なんだかうまく言葉に出来なかった。さっきまでは打ち解けて話していた気がするのに、今は少し緊張していた。

 ぎこちない歩き方で出口の扉まで進む僕に、棗は付き添ってくれた。僕がノブに手を掛けた瞬間、棗はちょっとはにかんで笑いながら言った。

「優月、今日は手伝ってくれてありがとな」

 僕は反射的に棗の方を向いた。

 ありがとうって、それは僕が言わなきゃいけない言葉じゃないか。

 少し涙目になった。

「ううん。矢車さんがここに連れてきてくれて、僕は元気が出たよ。……ありがとう」

「いや。それなら、よかったよ。……なんかさ、お前があんなに……追い詰められてるなんて知らなかったからさ。悪いなって……」

 珍しく棗は歯切れ悪く、苦虫を噛み潰すような表情で目を逸らした。僕は棗が心配してくれたことを嬉しく思う反面、恥ずかしくもあって俯いた。

「優月はさ、明日も学校行く?」

 目を逸らしたまま、棗は独り言のように言った。

「……うん。多分……行くと思う」

「そっか。なら明日は俺もちゃんと行くわ。よければ、またここにも遊びに来いよ」

「いいの? また来たいな」

 僕が言うと、棗はからっとした笑顔に戻って僕の方を向いた。

「それなら、いつでも来いよ。な。じゃ、また明日な」

「うん。じゃあね、バイバイ!」


 多佳子さんのビルから出ると、いつもの街の夜の姿が広がっていた。僕はいつもより軽やかな調子で夜道を歩く。石畳の歩道を僕の革靴がリズムよく叩き、その足音は心地よく響いた。

 夜の街には光が溢れていた。街灯の優しい光、飲食店の派手な光、ビルの窓から漏れる冷たい光、月と星の穏やかな光。それらの雑多な光が、真っ暗な夜の闇を押しのけるのだ。

 そんな一瞬。

 僕の浮わついた心を冷ますように、秋の終わりを告げる冷たい風が頬を撫でた。髪とセーラー服の裾が翻り、一瞬で体温を奪われる。

 唐突に、自分が夜の闇の中、一人ぼっちでいることを自覚させられた。急に薄暗い道に一人でいることが怖くなる。両脇にそびえ立つビル郡が、何か得体の知れない存在のように見えて、逃げ出したくなった。

 ライブを見ていた時には忘れていた意識が、僕の中で急激な勢いで浮上し始める。浮かれていた僕の心の裏で、不安や恐怖、嫌悪のような、マイナスな気持ちが消えているわけでなかったのだ。それは前々から抱えていたもので、特に、学校で彼女たちに植え付けられたものだ。ライブハウスにいた時は脇にやって見ないようにしていたネガティブな考えが、心の隅で渦を巻く。学校で見た異様な夢の記憶が甦る。

 あの夢は何だったのだろう。

 あれは本当に夢だったのだろうか。

 校舎裏での不可思議で恐ろしい記憶。喉を切り裂いた痛みと血の温み。

 さわさわと、夜風が街路樹の葉を揺らした。澄んでいるはずのその風が、一瞬、うっすらと血の臭いを含んでいるように感じて、僕はぞくりと肌が粟立った。

 そのとき。

「え……?」

 僕は背後に何かの気配を感じたような気がして、振り返った。その瞬間、目の端に何かの影を捉えた気がしたが、振り返った先には人っ子一人見当たらなかった。

「なんか……やだな」

 一瞬だけ、鳥肌が立つような、異様な圧力の視線を受けた感覚があったのだ。振り返った時に目の端に捉えた影は、お姫様のように美しい人形の顔と、蝶の羽と、蛸の足、長い黒髪と赤い着物が翻るシルエットだったように思えたけれど、気のせいだったのだろうか。

 震える手で自分の喉元に触れ、傷のない滑らかな感触に安堵を覚える。

 昼間の夢が強烈過ぎたのだろうか。きっとそうに違いない。あれが夢でなくて何が夢だというのだ。

 僕はもう一度後ろを振り返り、何もいないことを確認すると、スカートを翻して足を速めた。

 心の中で棗の歌声の再生を試みる。あまり癒されるような曲ではないのに、少しだけ安らかな気持ちになれた気がした。僕はそのままリジェクトの曲を頭の中でリピートしながら、振り返ることなく家路を急いだ。


 帰り着いた僕の家は、当たり前だけれど、いつもと変わらない姿だった。カーテンの隙間から漏れる暖かい光が僕を出迎え、僕はそれだけで涙が零れそうになった。

 僕の家は小さな一軒家だ。

 最近の建売新築にありがちな、どこといって特徴のない、強いて言えば少しだけ南仏田舎風の白っぽい外装の家。その家は母さんのおねだりで、本来なら駐車場となるはずだった場所がガーデニングスペースになっていた。そこには緑の葉をつける低木と種々のリーフ類が夜風に揺れている。母さんに甘い父さんは、駐車場代がかかるとか、借りている駐車場が遠いとか、ガレージの中で車をいじるのが夢だったのにとか、色々文句を言うふりをしながら、週末には母さんと一緒に笑顔で庭いじりをするのだ。

 庭の端には、スチール製の物置が据え付けられている。広めの試着室くらいの大きさがあって、ここには、工具入れや僕が子供の頃に遊んだおもちゃ、父さんの使わなくなったダンベルなど、家の中からはじき出された雑多なものが放り込まれていた。その中には僕が着られなくなったサイズの洋服も含まれていて、段ボールに押し込まれたまま半分忘れ去られていた。

 僕は人目がないことを確認して、静かに家の門をくぐる。家の中にいる家族に悟られないように足音を殺して物置に近づき、音が出ないよう慎重に戸を開けた。

 物置に入って中から戸を閉めると思った以上に暗く、何がどこにあるのか全く把握できなかった。携帯を鞄から取りだして、画面の灯りを懐中電灯代わりに中を照らす。僕は洋服が詰め込まれた段ボールの一つに手を伸ばし、中をかき分けて詰襟の黒い学生服を取り出した。本来僕が学校に来ていくべき制服で、今朝、出掛ける時に隠したものだ。音を立てないように、けれども急いで着替え、今度はセーラー服をその場所に戻した。

 白シャツをセーラー服の中に着込んでいたから、セーラー服も汚れないし、シャツがきれいすぎると母さんに疑念を抱かせることもないだろう。

 僕は変な形の笑みが口の端に浮かぶのを感じた。惨めな工作をする自分が情けなくて、溜息が零れた。

 僕は物置を出て、家の扉を開ける前に深呼吸をした。一回、二回、三回。それでだいぶ気持ちが落ち着いた。

 扉を引く。

 からん、からん、と扉に付けられた鐘が気持ちのいい音を奏でた。

「あ、ゆうくん、おかえり」

 リビングのドアが開き、母さんが顔を出した。柔らかないつもの笑顔だった。

「ただいま」

 僕もつられて笑顔になった。

「あのね、父さんが今日も残業でまだ帰ってきてないの。まったく。結局いつも遅くなっちゃうんだから。でも、それって私やゆうくんのために頑張ってくれてるってことだもんね。感謝しなきゃね。あと十分くらいで着くんだって、さっき電話があったよ」

 母さんが口を尖らせながらも、にこにこと笑っている。

「だから丁度今からカレー温めるところなの。ゆうくんも着替えて、一緒にご飯にしよ。今日のライブの話、聞かせてね」

「うん」

 母さんが朗らかな笑顔を浮かべるから、僕も笑っていられた。

――今日のあれが夢で本当によかった。

 この柔らかい時間が壊れなくて本当によかった。僕は改めてそう思った。

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