第三章 リブート⑥
ライブハウス『菊之宮デイジー』はそわそわとした雰囲気に飲み込まれつつあった。
書きあげた看板のOKを多佳子さんにもらって、それを一階入り口に置きに行った時には、既に何人かの女の子がチケットカウンターの前に列を作っていた。制服姿の高校生もいたし、もう少し年上の女性もいたし、今の僕みたいなロリータ風のワンピースを着た女の子も、パンキッシュな出で立ちの女の子もいた。彼女達は僕のことを胡散臭そうな目で見たあとは、僕の置いた看板を写メしたり、友達同士で話したりしながら開場を待っていた。
六時にチケットの引き換えを始めると、女の子たちは続々と地下に降り、素早くフロア最前列の柵前を確保した。バーカウンターでドリンクチケットをアルコールやソフトドリンクと交換して、壁際や後方など、好きな場所に立つ人もいる。その後もポツポツと人が入り、女性が多いものの、男性客も何人か見られた。
観客たちはテンション高く会話を交わしながら、あるいは、静かにじっと待ちながら開幕を待っていた。僕はフロアのやや後方に場所をとる。そこまで人が入っていないのでステージはよく見えた。
暗めの照明の灯ったフロアで知らない人達に囲まれながら立っていると、気分がざわざわした。ステージは黒いカーテンで隠されているが、時々調整のためなのだろう、時々ギターやベースの鳴る音が聞こえて、それが胸のざわめきをさらに増加させた。
オープニングアクトである棗のバンド『リジェクト』は、メインアクトの前に演奏して場を盛り上げるのが役目だと多佳子さんに聞いた。どんなステージが見られるのだろう。
壁に掛かった時計が、六時半を少しだけ回った時刻を示した。
その時突然、フロアの照明が落ち、僕は暗闇に包まれた。
「棗!」
「麗司!」
最前列の女の子たちが低い声で叫んでいた。
ステージ脇に控えていたスタッフが、するすると目隠しのカーテンを引く。その隙間から、ステージ上の煌めく光が真っ暗な客席へと漏れ出した。
そこに棗が立っていた。
棗は、僕から見て右側に立てられたマイクスタンドの前で、黒いギターを抱え、俯き加減で立っている。青白い光に照らし出された棗は、生気が抜けたような目をしていた。照明によって陰影のコントラストが強調され、顔の白と目の周りの黒、口の周りの赤と黒というどぎついメイクはさらに禍々しい印象になっていた。
ステージ左のマイクの前に立つ麗司さんも化粧をしていた。棗と同じように、顔を白く、目の周りを黒く、唇を紅くしていて、美しいこの長髪の男性にさらに中性的な妖艶さを与えていた。細身の体を包む衣装は、黒く輝く裾の長いトレンチコート。それと対比するように、腕に抱えた楽器は真っ白だった。
ファンの歓声が聞こえていないように、二人とも俯いていた。
その歓声を切り裂いて、電子音のリズムが場内に鳴り響いた。ドラムの音のようだけど、デジタルで無機質な、どこか未来的な音色のパーカッションだった。ステージ上にはドラムセットが置かれているが、ドラマーは座っていないのでプログラムされた音を流しているのかもしれない。
数拍後、麗司さんが楽器を構え、黒いマニキュアを塗った長い指先で弦を弾き始める。電子音のパーカッションに添うリズムで、ステージ脇の巨大なスピーカーから野太い音が放たれた。ギターよりもずっと太く、低い音だ。麗司さんの担当はベースだったのか。重たく太いベース音は地を這って体の中にまで響くような低音で、ロックのぞくぞくするようなリズムを刻んでいた。
さらに何呼吸か置き、棗が顔を上る。そして、うっとりと呟くように歌を口ずさんだ。ボーイソプラノのようなしなやかで優しい声だった。
それが次の瞬間に一変する。
ライブハウスに豪雨が襲いかかったのかと思った。
棗の手に握られたピックが黒いギターを激しく掻き鳴らした。ざらついた音色のギターが、電子音のリズムも麗司さんのベースも圧倒するほどの迫力でフロアを満たした。
再び口を開いた棗は、先程の優しい声からは連想できないほど、狂おしい音を発していた。ギリギリの高音を喉が潰れても構わないという勢いで歌い上げる。まるで悲鳴のようだと僕は思った。
目を見開いて歌う棗は何かに憑かれているようにさえ見えた。激しく歌いながら、それでも棗はギターを弾く腕は止めなかった。押さえる弦を確認するためか、時々ちらっと目線を下に向ける仕草が堪らなく格好良く見えた。
途中、冒頭の優しいメロディーの歌を挟む部分では、豪雨のように歪んでいたギターの音が優しい霧雨のようにクリアな音に変わる。その時は、棗の歌声もすうっと心に沁みこむような優しい声になった。
サビでは再び激しいメロディーとギターに戻る。麗司さんも口を開き、コーラスに入った。
しかし、これをコーラスと称してよいものだろうか。
自分の出るギリギリの高音のラインを狙ってメロディーを歌う棗に対して、麗司さんは正反対の低い声を出していた。それはまるで獣の咆哮ように低くざらついた叫び声だった。さっきまで爽やかな笑顔で話していた麗司さんの声とはまるで別物だ。棗の狂おしく美しい歌声の数拍空く間を狙って、麗司さんの低い叫び声が響く。繰り返される対比の歌声と激しいギター、ベースのリズムに頭がくらくらした。
加えて、絶えず明滅を続ける照明がステージを彩る。赤、青、白、緑と時に素早く色が入れ替わり、ある時はステージを真っ赤に染め上げ、またある時は暖かい白の光が棗を柔らかく包んだ。
最前列の女の子たちはリズムに合わせて拳を上げたり、髪を振り乱して頭を振ったりを繰り返す。後方のテーブルでドリンクを片手に見ている人たちも思い思いに体を揺らしている。
棗たちが作り上げる音とそれを受ける人たちの熱気とで、ライブハウスの中が不思議な圧力で満たされていくようだった。僕は圧倒されてその場に立っているのがやっとだった。
嵐に飲み込まれているのだろうか。僕は棗たちの奏でる音と声を聞きながら、そんな錯覚に陥った。音の洪水に飲み込まれて息ができない。そんな感じがした。
歌のパートが終わり、棗と麗司さんの叩きつけられるような演奏が徐々に柔らかい音に変わり、雨上がりのような余韻を残して一曲目が終了した。
同時にステージ上の照明が落ちて暗闇に沈む。
――パチパチパチパチ……
優しい雨音のような拍手が会場を満たした。
照明が完全に落ちているわけではないので、ステージ上の動きが少し見える。棗は足元のペットボトルを拾い上げ、中身を口に含むと手の甲で口元を拭う。足元に置かれた何かの機材に手を掛け、ギターを構えて何度か弦を鳴らした。音の調整だろうか。満足したのか、ギターから手を離してマイクの前に顔を向けると、棗にスポットライトが当たった。
「こんにちは。あ、こんばんは、かな? リジェクトです。よろしくお願いします」
最前列の女の子たちが拍手を送る。
「ナツメ、格好いい!」
女の子たちからそんな声援を受けて棗は少し照れたように笑う。
「ありがとう。俺達を見て聞いて楽しんでくれる人たちがいるなんてとても嬉しいです。本当にありがとう。そんなに時間があるわけじゃないので、さっさと次行きましょうか。麗司さん、大丈夫?」
麗司さんは足元や背面の棚に置いてある何かの機材を弄っていたが、OKサインを出した。
「麗司! 麗司、麗司、麗司、麗司、麗司!」
どうやら熱烈な麗司さんファンがいるらしく、最前列で麗司さんの前の位置を確保している女の子が名前を連呼した。
「じゃ、麗司さんにも少ししゃべってもらおうか」
苦笑する棗から麗司さんにピンスポットが移った。麗司さんはベースを軽く支えながらスタンドマイクに手を掛けた。
「こんばんは、ハニーちゃんたち。今日も可愛いね。食べちゃいたいくらいだよ」
「きゃー!」
最前列の女の子たちを順々に眺めながら微笑む麗司さんに、ファンの黄色い悲鳴が飛ぶ。麗司さんの台詞は女の子達にとっては嬉しいものだろう。僕は正直、ちょっと引いてしまったことを告白せざるをえないけれど。棗も同じような感想を抱いたらしく、麗司さんに向かって親指を下に向けて見せた。
「ブー! 変態は帰れ!」
棗の腕の動きに合わせて、手首に巻いた包帯の先端がゆらゆら揺れている。あははは、と客席から小さな笑いがおこった。
「あのさ、麗司さん。俺らには俺らの世界観があるんだから、それを崩さないでよ。あと、遊びもほどほどにしてね。じゃないと、いつか本当に刺されるぜ」
「わかったわかった」
麗司さんは笑って頷く。棗は溜息をついて再び、マイクの前に立った。
「じゃ、気持ちを切り替えて、リジェクトのラストいきます。今日は格好いいバンドがそろったイベントなので最後まで楽しんでいってください」
そう言うと棗は目を瞑り、すうっと息を吸った。限界まで吸い込んだと思われた後、真っ黒に塗り潰された目を見開いて虚空を睨む。
「ぎゃああああああああ!」
棗はマイクに向かって叫んだ。先程の美しいボーイソプラノとも、ギリギリの高音で歌う声とも違う、しゃがれた醜い声だった。
ダン、ダン、ダン、ダン、という機械的なドラム音が響き、今度は麗司さんのベースと棗のギターが同時に入った。
うねるような、歪んだ音だった。とにかく音の数を多く刻んだ、激しい音だった。ナイフを振り回しているみたいに鋭く、荒れて、痛々しい音がライブハウスの中を満たした。
ステージ柵前の女の子たちのほとんどが狂気のように頭を振り、ステージに飛び出さんばかりの勢いだった。
棗は前傾姿勢のままギターを鳴らしていたが、ふっと顔を上げてマイクスタンドの前に立った。口を開くと喉を潰しそうな叫び声のような歌が溢れた。その間も絶えずギターを掻き鳴らし、歪んだ音を撒き散らす。サビ部分ではきれいな歌声になるが、それでも突き刺すようなギターとベースの音は止まなかった。
僕は体中をナイフで刺されるような感覚を覚えた。体中傷だらけにされて、内臓をぐちゃぐちゃにされるような、そういう不快な音楽なのに、耳をふさぐことは出来なかった。頭の中を掻き回されて、僕は一瞬、校舎の裏で喉を刺した夢を思い出し、無意識に喉元へ手をやっていた。当然のことながら、何の跡もないのだけど。
赤い照明で照らされた棗は、時に鬼気迫る表情に、時に人形のような無表情になった。苦しげに音を吐きだす棗の姿を見ていると、ぞくりと肌が粟立った。
悪鬼の表情でステージ上に立つ棗も、長い髪を振り乱してベースを弾く麗司さんも、拳を上げたり頭を振ったりするファンたちも、そして空間を満たす痛々しい音にも、全てに現実味がなかった。ライブハウスの中が別の世界に作り変えられてしまったようだった。この世であってこの世でない、そんな感じ。あの奇妙な存在と出会った世界のように、ここがどこなのかわからなくなりそうだった。
音の狂騒はブツッと途切れるように、唐突に終了した。
併せて照明が青色に変わる。大波にさらわれて、深海に沈んでいくような余韻だけが残った。
ステージ上の棗は漆黒のギターを静かに下ろすと、お辞儀をしてステージを去った。麗司さんも同じように去る。
フロアは拍手に包まれた。僕も、生きてきた中で一番心を込めて拍手をした。曲は終わったのに、僕の中には音の爪痕が残っていた。残響が耳の奥で鳴りやまなかった。耳も心もヒリヒリする。
「棗!」
「麗司!」
リジェクトの退出を惜しむ声と称賛する声がいくつかフロアで囁かれた。僕と同じような感動を他の観客も抱いたのだろうかと思うと、なぜだかすごく嬉しかった。
棗の、リジェクトの作りだす音に包まれるのは、異常になほど心地良かった。客観的に見れば決して綺麗な曲ではないのだろうと思う。でも、美術館で素晴らしい作品と出合った時の、ドキドキして、目を見開いて食い入るように見つめてしまうときと同じような感覚が僕の中にあった。
スタッフがカーテンを引き、再びステージが再び隠されて観客側の照明が点灯した。僕は一気に現実に引き戻されたような気がして、頭がクラクラする。
溜め息を吐いた。いつもの憂鬱なやつではない。
僕はこの一度のライブですっかりリジェクトのファンになっていた。