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第三章 リブート⑤

 その後、多佳子さんに言われて、フロアの重たい扉の外にある地上から地下への階段、受付カウンターの掃除をした。外の掃除が終わって、再び中に入ると、さっき見たのとは別のバンドがステージでリハーサルをしていた。立食用テーブルの水拭きや、各バンドの物販スペース設営のお手伝いをしている間も、棗のバンドは姿を見せなかった。どうやら、僕が外に行っている間にリハーサルは終わってしまったらしかった。

 フロアの隅に掛けられた時計を見ると、午後五時半を指している。ここに着いたのは四時くらいで、信じられないくらいあっという間に時間が経っていた。

 部活にも入らず、友達もいない僕は、基本的にこの時間にはいつも家に帰り着いている。図書館や美術館に行くこともあるけれど、少なくとも夕飯の出される七時までには家にいるのが普通だった。

 内向的な僕を心配している母は「もっと外に出てみれば?」と言うほどなのだが、やはり帰りが遅くなりそうな時には電話した方がいいのだろうか。

 携帯電話を入れた鞄は、この姿に着替えさせられたときに、一階の事務所スペースに置かせてもらったままになっていた。その部屋には多佳子さんは鍵をかけていた気がする。

「あの……」

 バーカウンターで打合せしていた多佳子さんに声をかけると、多佳子さんは顔を上げ、艶やかに微笑んだ。

「あら、優月くん、お疲れ様。すごくきれいになったわ。ありがとうね」

 鼻に掛けた老眼鏡の隙間から、多佳子さんの鋭くも優しい瞳が覗いていた。僕はむず痒いような気持ちになって頬を掻いた。

「いえ。そんな。普通に掃除しただけですから。……あ、あの。僕、携帯をとってきたいんですけど……鍵を借りてもいいですか?」

「あら、もしかしておうちに電話?」

「はい」

「それなら、これを使っていいわよ。ここ、電波入るから」

 多佳子さんは懐から携帯電話を出した。

「ありがとうございます」

 僕はカウンター越しに多佳子さんから電話を受け取った。

「優月くん、今日は棗たちのライブ見ていくんでしょう?」

「はい。出来たらそうしたいんですけど……」

「そうよね。でも、親御さんのご希望もあるからねえ」

 正直、親がどのような反応を示すのか、僕には予測できなかった。

「もし大人の人を出してほしいってことなら、私が出るわよ。それと、何があっても九時には家に着くようにあなたを外に出すから。あなた、まだ十四なんだからね」

 僕は頷く。家の電話番号を押して何回かベルが鳴ると、母親が出た。

「あ、母さん。優月だよ」

『あら、ゆうくん? どうしたの?』

「あ、あのね。僕、今、菊之宮デイジーっていうライブハウスにいて……」

『ライブハウス?』

「う……うん」

『……』

「あのね、僕のクラスメイトがこれからここで演奏するんだって。僕、それを見てから帰りたいんだけど……できれば、出演する他のバンドとかも見てみたいなって……九時までには帰るからさ」

『……』

 電話口で絶句している母に僕は不安が募る。

「母さん?」

『すごーい!』

 母のとても三十代後半とは思えない若々しい声が電話口で響いた。

『ゆうくん、ライブハウスなんてすごいね! 楽しんできなよ!』

「……え、いいの?」

『いいよいいよ。ライブハウスなんてカッコいいじゃん。あ、でも今日カレーもう作っちゃったんだよねー。帰ってから食べる?』

「うん。そうする」

『わかった。じゃあ、お赤飯も炊いて父さんと待ってるね!』

「……え?」

『初ライブハウス! おめでたいじゃない!』

「……」

 ときどき僕は母のスタンスについていけなくなるときがある。

『それで、出るのって何くん? 何ちゃん?』

「棗……ちゃんって子」

 少し迷ったけど、多分、ちゃん付けでいいのだと思う。

『へー! 女の子なんだあ。すごいね! チケット代とかは大丈夫?』

「……そう言えば払ってない」

 ちらと多佳子さんを見ると、笑ながら、電話を渡すようジェスチャーされた。

「あ、あのね。このライブハウスのオーナーさんに変わるね。棗ちゃんの保護者なんだ」

『あ、あらそう?』

 母さんの声が若干緊張したように聞こえた。僕が携帯電話を手渡すと、多佳子さんは張りのある声で話し始めた。

「はじめまして。矢車多佳子と申します。優月くんには棗がいつもお世話になっています……いえいえ」

 さすがの母さんも大人同士なら普通に会話するのだろうか。

「優月くんには今日は掃除なんかを手伝ってもらっていて。ええ。ですからチケット代は結構です……いえいえ。六時開場で、六時半から開演ですが、棗のバンドはオープニングアクトなので一番手なんです。実際の公演終了は九時半を過ぎてしまうと思いますが、優月くんは中学生ですので――そうですね。九時には家に着くように帰ってもらいます。よろしければ、私が車で送りますけど……」

 何度かやり取りを交わした後、多佳子さんは丁寧な挨拶で電話を切った。

「面白いお母さんだねえ。不束な息子ですが使ってやってくださいって。今日も九時までに帰れるならライブ見ていっていいって」

 僕は少し顔を赤くして俯いた。

「……母は……少し変わっていますけど、その……」

「ええ、とてもいいお母さんね」

 多佳子さんはニコリと笑った。僕はその顔を見て少しホッとする。

「本当にいいお母さんだと思うわ。中学生の子供をライブハウスに行かせるなんて躊躇する人も多いけど、優月くんのこと、信頼してるのね」

 多佳子さんは柔らかな声でそう言う多佳子さんを、僕は上目遣いに覗う。

「……そうなんでしょうか?」

「あなたの視野を狭めたくないと考えているのかもしれないわね。いろいろなことを経験するのは決してマイナスにはならないから。あなたのポテンシャルを伸ばしたいのよ、きっと。だから、あなたはお母さんの信頼を裏切るような真似だけは、絶対しては駄目よ」

「……はい」

 多佳子さんの瞳は、穏やかだけれど強い芯が透けて見えるようだった。

 僕は今日の出来事――まるで現実に起こったことのような夢を思い出す。自分で自分の喉を刺す夢。刺した直後に家族のことを思い出して、痛い程後悔したこと。

 僕は改めてあれが夢で終わって本当によかったと思った。僕の周りには優しい人たちがいた。父さん、母さん、そして今日は棗や多佳子さんや麗司さん、ライブハウスの人にもよくしてもらった。少し目頭の辺りが熱くなった。

「さて。それじゃあ、開演前最後のお手伝いをしてもらおうかね」

「なんですか?」

 僕はこっそり指で目の縁を拭ってから、多佳子さんに向き直った。

「これ、書いてみる?」

 多佳子さんは、カウンターの隅に立てかけていた一抱えほどの大きさの黒板を示した。

「今日出演するバンド名を書いて、店の前に置くのよ」

「あ、レストランのメニューの看板みたいな感じですか?」

 僕はイタリアンレストランなんかの店の前に置いてある、黒板にチョークで書かれたメニューや簡単なイラストを思い浮かべた。

「そうそう、そんな感じね。優月くん絵を描くらしいって、さっき棗に聞いてね。もしかしたら得意かしらと思って」

「やってみたいです」

 僕なんかがやっていいのかな、という一瞬の躊躇はあったものの、やってみたい気持ちの方が上回った。今の僕は、いつもと少し違うみたいだ。

「あと十五分くらいで描けるかしらね? 描いたら私のところに持ってきてね。はい、これチョークと出演バンドのリスト」

 僕は多佳子さんから黒板と資料とチョークを受け取ると、フロア内で、行き交うスタッフの皆さんの邪魔にならない場所を選んで移動した。フロアの床に黒板を置き、スカートに皺がつかないように気を付けてペタンと膝を付けて座る。

 どうしようかな?

 ギターとか楽器の絵を描くのはベタすぎる気がする。今までのリハーサルを見ていた感じだと、ボーカルの人が叫んだり、楽器の音も重くて低かったりするようなハードロックが多いようだったから、例えばガード下で見るような落書きの、尖ったデザインを取り入れてみても面白いかもしれない。

 ぺらぺらと多佳子さんのくれた資料をめくると、一枚ずつバンドごとの概要がまとめられていた。バンド名、メンバー、プロフィール、音源情報や活動履歴が載せられている。メンバーの写真と一緒にバンド名称を図案化したようなデザインも添付されていた。

――へえ、バンドのロゴなのかな? かっこいいな。

 僕はそれをチョークで模写してみた。チョークなので元のデザインより荒々しくなるが、それが逆にいい味を出している気がする。今日のイベント名称である『TASTE OF MADNESS』の文字を、傷跡みたいなフォントをイメージして書いてみたら、ぐっと鋭い雰囲気が増した気がする。

「うわ。すげえかっこいいじゃん! 優月、器用だね」

 突然頭上から降ってきた声にびっくりして、僕は反射的に上を向いた。作業に集中していたせいで人が近づいていたことに全然気がつかなかったのだ。

「え、あれ? もしかして、矢車さん……?」

「そうだけど。変?」

 最初は知らない人がいるのかと思って身構えてしまった。そのくらい、さっきまでの棗とは別人のような人がいたのだ。でも、確かに声は棗で、ピアスの位置も種類も棗のものだった。少し口を尖らせたような表情の棗を呆然と見つめながら僕は頭を横に振った。

「全然変じゃないよ。すごいね。カッコいいよ」

「マジ? へへ。一応、ステージ衣装ってことでさ」

 そう言って、はにかんで笑った棗の顔は、毒々しい化粧に覆われていた。

 顔全体が必要以上に白く、目の周りだけが必要以上に真っ黒に塗りたくられていた。唇は真っ赤な口紅がはみ出るほどに塗り潰し、さらに口の端に濃いめの色を差しているので、まるで殴られでもしたように見えた。棗の金髪と夥しい数のピアスは、化粧前より今の雰囲気の方がしっくりと馴染んでいるように感じる。

 服はゆったり長めの白い長袖Tシャツと細身のチェックのパンツで、足元にはごついエンジニアブーツを履いていた。華奢な棗は学校でのジャージ姿以上に少年らしく見えた。腕や頭部や首には、所々赤く染まった包帯がグルグル巻かれており、禍々しい雰囲気を演出している。

「びっくりしたよ」

 僕が目を丸くすると、棗は少し傷ついたような表情で唇を尖らせた。

「引いた?」

「そんなことないよ。すごく格好いい!」

「そっか。ありがとう」

 僕の言葉に、棗はまたはにかんで笑った。

 僕はなぜか恥ずかしくなってしまって、少し赤くなった。棗も、きまりが悪そうに目線を逸らす。

「まあ、優月みたいな微妙な知り合いに見られるのは気まずい気もするけど……俺ら以外にもたくさんバンド出るし、楽しんでってよ!」

 そう言って僕の頭をぽんと叩いて、棗は楽屋に向かって歩き出した。

――微妙な知り合い……。

 その通りなんだけど、その表現はなんだか寂しい気がした。棗に何か声を掛けたくて、頭の中でネタを探して、多佳子さんに聞けばいいと思っていたことを棗の背中に問いかけることにした。

「矢車さん! 僕まだ矢車さんのバンド名、ここに書いてないんだけど」

 多佳子さんに渡された資料には、棗のバンドのものが入っていなかったのだ。振り返った棗は僕が掲げる黒板を見てニヤリと笑った。

「リジェクト。オープニングアクト、リジェクトって書いといて。まだロゴはないから、優月のセンスに任せる」

 僕は嬉しくなって、にっこり笑って頷いた。

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