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プロローグ

 ふと思い返すことがある。

 うららかな春の日、母親に手を引かれて初めてあの絵画教室に行った日のことを。たしか小学校四年生のときだったと思う。

 もともとは、僕がその教室の広告を見つけたのだ。新聞広告の中に混ざって届いたのは、ファンタジックな色合いで描かれた絵に、教室の概略が添えられた小さいチラシだった。擬人化された子猫や小熊、子ぎつねがスケッチ帳を広げ、その周りを装飾するように、デザイン化された花や蔦や文字が囲む。美しくて、幻想的で、楽しげで、儚げで、当時の僕にはその絵が輝いて見えた。絵を描くことが大好きだった僕は、こんな絵を描けるようになれたらなあと思った。

「ここに通ってみたいんだ」

 そう訴えると、母親は飛び上って喜び、すぐに了承してくれた。普段あまり外の世界と関わろうとしない僕のことを心配していたのだと思う。外出と言えば学校か、たまに図書館に行くくらいで、友達と遊ぶということをほとんどしなかった僕。母が勧める塾や習い事も拒否し続けて、ひとり家で絵を描き続ける、僕は暗い子供だった。

 まずは体験入学ということで、母と一緒に僕は初めてその教室を訪れた。

 そこは小さな一軒家で、先生の住居の一部を開放して営まれている教室だった。玄関で出迎えてくれた先生は、僕の母親と同じくらいの年代の、とても柔らかな印象の女性だった。でも、人見知りの僕は碌に挨拶も出来ず、母の背後に隠れてその人の顔をちらちら覗くことしかできなかった。

 教室には既に何人かの子供たちがいて、鉛筆や筆を振り回しながら楽しそうに絵を描いていた。この子たちの中に混じってみたいという積極的な気持ちと、他の子と交わることへの恐怖とが僕の中に同時に湧いた。僕は母親の服の裾を掴んだまま、びくびくと怯える情けない姿を晒していたと思う。

 教室の中を恐る恐る窺っていた僕の目は、しばらくして他の子たちとは印象の違う女の子に引き寄せられた。絵を描きもせず、それどころか鉛筆や筆、画用紙も持たず、壁にもたれてヘッドフォンで音楽を聴いている女の子がいたのだ。勝気そうなくりっとした目が印象的な子だった。腰まで届きそうな真っ黒の髪を垂らして、きつい印象すらある綺麗な顔をしていた。すっきりとしたデザインの紺色のワンピースを着ていて、おそらく僕と同じくらいの年だっただろう。

 僕の視線に気付いた先生が苦笑した。

「あれは私の娘なの。音楽は好きなのだけど、絵はあまり好きじゃないみたい」

 そういえば、先生と少し似ているかもしれない。先生も目がくりっとしているし、鼻筋や頬の形や輪郭に共通項があった。

「ほら! 教室に出るつもりがないならお外で遊んでおいで!」

 先生はヘッドフォン越しにも聞こえるように声を張った。

「はーい」

 女の子は携帯プレイヤーを持ち、ヘッドフォンを付けたまま僕の横を通って玄関から出て行った。値踏みするみたいに僕をちらっと見ながら。その視線に少し気圧されたのを僕は覚えている。

 そのあと、簡単な教室の説明を経て、僕は他の子供たちに交じって絵を描いた。絵は好きだけれど、他の子たちと会話をするのは気後れしてしまってうまく出来なかった。先生が何度か取りなしてくれたのに、どうしても自然に笑って話をすることが僕には出来なかった。

「やっぱ行かない」

 帰ってからそう宣言する僕に、母親は「もう一回でもいいから、行ってみてから決めれば? 母さんがついて行ってもいいんだよ」と説得を試みた。でも、基本ぐずな僕は頭を横に振り、クローゼットの中に籠城して母を困らせた。

 自分で行きたいと言ったくせに、意気地のない僕はたった一回のお試しで逃げ出した。

 所詮僕は何もできない、何もしようとしない負け犬だ。人見知りの、情けない出来損ないだ。

 僕の腐った根性はこの頃から根を広げていた。そして、その腐った根っこは未だに僕の中でしっかりと生き続け――いや、腐敗し続け、今の現実を形成するに至ったのだ。この最低最悪の現状を。

 だから、ふと考えてしまう。

 もしあの時、僕がもう少し勇気を出して絵画教室に通っていたら。

 絵画教室に通ってみたいなと思った、僕の中に生まれた小さな新しい芽をもう少しだけがんばって育てていたら。

 そうしたら、僕の人生はもう少し違う道を辿っていたのではないか、と。

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