第九話 禁忌の箱
研究を進めていくにあたり、どうしても解決できない問題が発覚した。胎児の細胞崩壊を抑制することは外因性の刺激では不可能だと言うことだ。最も死亡率の高いのはヒトとしての器官の形成期。もしその時細胞死をコントロールしようとすると、正常な形態になることができない。そしてコントロールしなければ今までのデータ上、88%の確率で組織崩壊を起こす。実際にヒトの受精卵を用いて実験したわけではないが、当然ヒトにおいても予測される。
要は天に運を任せる以外に術はない、と言うことだ。
この結論により理事会の方針が決まった。今後の人工生命作成は、遺伝子抽出、改良技術の精練化がなされないかぎり凍結。
これで僕の研究は一本に絞られた。現段階で生存している個体、つまりミミちゃんとミツル君に対し細胞死シグナルの発現の暴走を止める手段を開発し、実行するということだ。
インヒビターは生体の成長を抑える。だが完全に細胞の活動を静止させることはできない。そもそもそんなことになったら正常な生命活動に支障が出る。それにインヒビターの効果は個体差が大きく、二人に一体どれほどの効果を示してくれるかわからない。効果が弱いからといって過剰な投与を行うと副作用が出るおそれもある。根本の解決にはならない。
あくまでインヒビターの投与は時間稼ぎに過ぎない。
いずれその時が来る。早く研究を進めなくてはならない。
二人から採取した細胞をいろいろと調査した。二人とも刺激を与えるとアポトーシスが急激に進む。そしてその細胞死シグナルを増加させている原因は共通していた。正常の動物にも普通にある遺伝子だったが、その発現量が通常の3倍以上。やはり遺伝子精製の段階で起きた問題だろう。二人とも同じ原因ならば、同じ治療を行えば良さそうだ。
ふたつ方法を考えた。
薬によってアポトーシスを起こすシグナル自体を止めてしまう方法。
遺伝子自体を操作してシグナルを増やしている過剰な遺伝子を抑えてしまう方法。
薬によるシグナル停止は非常に調節が難しかった。培養細胞で試したところ簡単にガン化してしまった。マウスで試してみても同様だ。マウスよりも巨大で、しかも人間である彼らに実行するには危険すぎる。…遺伝子操作をするのに比べたら薬で調節するのは簡単かもしれない。しかし調節が可能となっても、それは一生涯続けることになるだろう。永遠にこの研究所に閉じ込めることになる。
…それだけは絶対にしたくない。ならば遺伝子操作の方を行わなくてはならない。
もしも未知の遺伝子が原因だったら抑制するのは不可能だっただろう。だが幸いなことに原因はわかっている。どのような因子が欠けているのかも調べればすぐにわかる。足りない因子を補えば、治療は可能だ。
だが、どうすればいい?本来遺伝子組み換えとは受精卵の時点、あるいは一つの細胞に対して行って、そこから全体が作られることで遺伝改良された個体を作るものだ。彼らのように完全に形成された個体の細胞一つ一つを的確に組み替えるなんていう技術は存在しない。
人間には不可能の技術。しかしそれを平然と行っている物がはるか古代より身近に存在している。
それは誰もが持っており、不可避な物体。
…ウィルスだ。
感染者の身体の中で増殖し、一つの細胞から全身に広がっていく。自分だけでは自身の遺伝子を複製することができないその物体には、感染後宿主のDNAに組み込まれてしまう種がある。宿主が自分の遺伝子を発現する際同時に遺伝子を複製してもらい、増殖していくという巧みな戦略だ。
これを使えば、遺伝因子を組み込み安定化させることも不可能ではない。
理事会に発案したは良いが、最も問題なのはそのウィルスを開発することだ。毒をもって毒を制する。言うは易いが、相手はもともと病原体。たとえ影響の弱いものを使ったとしても、遺伝子を操作することで思わぬ病害をもたらしかねない。
だがこのProject Reineseeleでは、新しく完成されたヒトを作り上げると言う神の御業を成就することが目的だ。それを成すための研究すべてが肯定される。新しくウィルスを開発すると言う研究は、現在欠陥があるReineseeleの遺伝子抽出の精錬化に直結すると言うことで、すぐさま実行に移された。
…背筋が寒くなる。
日本にはLV4の病原体取り扱い施設はない。だがそれは表向きの話で以前より存在している。それがこの施設。Reineseeleの遺伝子抽出、それには外界との接触を断てる完全気密の施設が必要。必然的にここがLV4取り扱い相当の施設になったわけだ。一時機能を停止させられていたプラントが再び機能し始めた。その機能のほぼすべてがウィルスの開発に注がれた。
実験中、実験動物がすべて変死する事件が起きた。凶暴化が著しくなり、感染させた物をすべて処分しなくてはいけなくなったこともあった。もしこんなものが外部に漏れ出そうものならそれだけで世界の破滅だ。
ここは言わば現代のパンドラの箱。不用意に開けてしまえばどのような災厄があるかわからない。
…ウィルスの利用を諦めなくてはいけない。僕が発案し、実行したことは新型の生物化学兵器の開発に等しい。そう考えたことは数え切れない。だが他に有効な手段が思いつかなかった。守るためには、攻めるしかない。そう自分に言い聞かせて。
この施設の異常なまでに高い技術のおかげで、不可能とも思われたウィルスの改良と遺伝因子の組み込み法が確立した。作られたウィルスには完全に病害が無い。繰り返し培養していっても病害が出なかった。そして一度全身に行き渡ると自身の増殖が停止し、宿主のDNAに組み込まれたままになるというスグレモノ。奇跡に近い。
他者への感染は血液、あるいは細胞そのものの移植を行わない限り起こらない。…そもそも感染したところで病害がないのだが。
できたウィルスを用いて動物実験をくり返した。まずは二人から採った細胞で作った培養細胞で効果を確認した後、マウス、犬、サルに様々なタイプの遺伝因子を組み込んだウィルスの導入を行い、その後細胞死シグナルの発現を誘発して効果を見た。
全実験動物種に共通して作用し、最も効果的だった因子を選択して二人に導入する。
すべての結果を出すまで、寝る間も惜しんで4年かかった。これだけ巨大なプロジェクトだったというのにかなり早いと思う。
やはり僕たちは親子らしい。大学生時代からそうだ。僕も打ち込み始めると際限がなくなってしまう。おかげで大学生の時も付き合っていた彼女にふられている。私といるより研究の方が気になるんでしょ、とまで言われた。そんなつもりはまったく無かったんだけど…。その時はショックだった。
…母はよく父みたいな人でも我慢できるものだ。ちょっと見直してしまう。強いのか、何も考えてないのか微妙なところだけど。
今の生活は全然出会いも何もあったもんじゃない。
だけどそんなことよりもずっと大事なことがあったから、今日まで続けてこれたんだ。