第五話 少女の事実
秋。父は本格的にプロジェクトに参加し、国の研究所に行くことになった。単身赴任で行くと言う。行き先は夏に行った洋館に程近いところだそうだ。なんでも大掛かりな施設であるため、あのようないわゆる田舎に作らざるを得なかったと聞かされた。
それで合点が行った。どうして父が旅行に行こうといったのか。もともと不慣れな知らないところに自分のみで行くことを嫌う、インドア趣向の人間だ。何とか名目をつけて訪れて、どんな土地なのか知りたいと言うことだったのだろう。
「施設関係者は家族を含めてあの洋館の利用が無料だからな」
「なーに?それって暇があったら会いに来てほしい、って遠まわしなお願い?」
さすがは夫婦。
「僕は相当暇にならないよ、お受験なんだから」
「あらあら、好きなコに会わなくてもいいの?」
「好きなコ?…って、だーかーらーっ!」
母はこの話題を、僕をからかう格好のネタとしたようだ。ニヤニヤと嬉しそうにしている。しかし決して母が思っているようではないのだが、確かに僕は機会があるのなら早く訪れたいと思っていた。なかなか難しそうだが。
僕の十八の誕生日の日、父は単身、職場へと赴いた。
少し家が寂しくなった気がする。今までもなかなか帰ってこなかったから平気だろうと思っていたが、思った以上。気を取り直して、とりあえずお受験クリアと行くべく僕は前にもまして単調な日々を淡々とこなしていった。
冬ももう終わるといった頃、ようやく長かった単調な日々の終焉を迎えた。嫌だったとはいえ、真剣に取り組んだ。その成果は出てほしい。合格発表までドキドキしていた。とうとう家に合否通知が届き、結果は見事合格。確実な手ごたえが無く、不安に駆られていただけあって、この瞬間はえもいわれぬ喜びに満ちていた。
母も相当喜んでくれた。
「よかったわね!国公立合格&自宅通学って家計も大助かりだわ!」
相変わらずだ。
「これで晴れて好きなコのところに…」
「だから違う!」
ほんとに相変わらずだ。
大学生活がはじまったが、高校の時とは異なり授業の時間も長く、しかもよくわからないからただ座っているだけというような雑学的な授業も多い。はっきりいって単調かつダルいとしか感じられない。せっかく勉強して入ったのにこれでいいのか、と思ってしまう。周囲の人間にはサークル活動を大学生活の本分にしてしまう者もぽつぽつと現れていく。僕は正直お祭り騒ぎのようになってしまう場は苦手だったのでサークルに入ることは無く、授業後の時間にバイトを始めてみた。
…本当にこれでいいのか?
そんな風にはじめのうちは疑問を持っていたが、いつしかそんなことも忘れ、大学生活にもすっかり慣れ、上手な授業のサボり方も会得した前期が終了した。自動二輪の免許も手に入れていた僕は、一人で洋館に行くことにした。ほぼ一年ぶりだ。
一応予約制だというので日にちを決め、連絡を取る。ついでにまだミミちゃんの家族が洋館で暮らしているか、ということを尋ねたがそのような事実はないと言われた。おかしいと思い、何度か聞きなおしたのだが、すべて同じ返答だった。電話を切った後僕が憮然としていたため母が心配していた。
「ミミってのが本名とは限らないわよ」
「だったら何を変化させたらミミになるのさ」
「うーん…月美?」
「何でよ」
「月といえばうさぎじゃない。ほら、ウサミミって言うでしょ」
そうきたか。何だその連想ゲーム。もし事実なら誰も本名にたどり着かないぞ。っていうか、母親が愛称でわが子を紹介するか?それに愛称が「耳」って、冷静に考えるとひどい。
荷物を用意し、赤が目立つバイクとともに早朝出発した。バイクはバイトしながらローンを払っている。日差しが強くなりきる前に到着することを目指した。洋館までの道のりはさほど複雑ではない。僕の住む街を抜け、山と森が深くなるにつれて車通りも少なくなって、自然の音が分かるようになっていく。普段のあわただしさから解放されていく実感がたまらない。
予定通りに到着し、部屋に通してもらいひとまず荷物をおいた。ミミちゃんを探す前に、久しぶりに森を散策しよう。外に出ると、見覚えのあるような赤っぽい茶色の髪をした子供の後ろ姿がある。少し嬉しく思い、近づこうとした。その時その子が振り向いた。
「あ!お兄ちゃん!」
向こうも気がつき、全力でダッシュして来た。ミミちゃんに間違いない。背も伸び、一回り大きくなっていた。
「こんにちは。まだ名前教えてなかったね。僕の名前は…」
「ま、まって…」
話をさえぎられた。ミミちゃんの後ろから4、5歳くらいの短い黒髪の男の子が、懸命に駆けてきた。
「もう!ミツルってば」
「お、おねえちゃんが、きゅうにはしるんだもん」
弟がいたのか。少し驚いた。ミツルと呼ばれたその男の子の手を取り、ミミちゃんがこちらを振り向く。仕切りなおしだ。
「二人ともこんにちは。僕の名前は佐井 宗久です」
「ムネヒサ?宗久っていうんだ!ずっと気になってたんだよ」
「な、なにこの人。あたらしいケンキュウインの人?」
「ちがうよ〜。おねえちゃんのお友だち」
研究員?
そんなに研究員の利用が激しいのだろうか。まあ料理だけでもあのレベルなら利用が多いだろうが、そんなに近くに施設があるのだろうか。この前きた時の窓からの景色や、断崖からの景色からでは、研究所のようなものは全く見当たらなかった。ミミちゃんが居ないと言われたことに引き続き、謎だ。が、まあさしたる問題でもなさそうだ。
ミミちゃんは僕が来たことを大いに喜んでくれた。この洋館と周りの自然、それからミミちゃんに会いに来たと言ったらさらに喜んだ。はしゃいでいるミミちゃんとは対照的に、ミツル君は非常におどおどして終始ミミちゃんのうしろに隠れているような感じだった。随分お姉ちゃん子なんだな。二人を観察していると不意に言われた。
「じゃあまたあそこに行こうよ!」
三人でミミちゃんお勧め、例の転落事故があった断崖にやってきた。今度はあんなことは起こさない、とかなり二人に意識を払っていた。それにしても相変わらず絶景だ。この近辺に施設はないかと、見渡せるかぎりを観察してみたがやはり無い。
ミミちゃんは崖の近くにまでやってきた。あんな目にあったというのに平気な様子で。が、ミツル君は怯えて近寄れない。ミミちゃんがそんなミツル君に檄を飛ばすが、どうやら無理なようだ。あきらめてミミちゃんは僕の近くに立っていた。胸の透く景色を見ているうちに聞きたいことを思い出した。
「そういえばミミちゃんの本当のお名前って、ミミじゃないの?」
「え?ミミはミミだよ。お母さんがよんでくれてるもん。おやしきの外の人たちには、ほかのおなまえがあるの?」
どうやらミミが本名のようだ。ならば洋館の人間がこの子の名前を知らないというわけが無い。どういうことだろう。
しばらく誰もが言葉を発さないまま時間が過ぎていく。
突然ミミちゃんが口火を切った。
「宗久あのね、まえおっこちたときね、」
そこまで言って思いとどまった。僕はとても気になり、正面を見たまま話が続くのを期待した。
「…やっぱり、またあとにする」
右に目をやると少し神妙な面持ちをしたミミちゃんがいた。
ミミちゃん先導で、三人はこの断崖の下を流れる渓流までやってきた。上を見ると森が突然二つに分けられてしまった光景が良くわかる。一体どうやったらこのような地形になるのだろう。まったく、自然とは人の想像力を超えている。ミミちゃんが落ちた、せり出した岩場もみえる。
…何か変だ。岩壁の半分よりちょっと下の辺りにえぐれたような部分がある。ほかはそんなに崩れたりしていないのに。そのことに僕が気づいていると感じたミミちゃんが話し始めた。
「あそこのね、えぐれたところね、」
「何?」
「…ミミちゃんがやったの」
「はい?」
ミツル君がおどおどしながらもミミちゃんの話を制しようとするが、ミミちゃんは止まらなかった。
「ミミちゃんの左手がやったの」
「……」
説明を要約するとこうだった。
あの日落下した時、ミミちゃんは命の危機を感じた。その時左腕が自分の意思から外れ前に出た。突然変化し岩壁に向かって突き刺さり、えぐりとった。その勢いでミミちゃんが落下した速度は緩衝され、ほとんど無傷であった。…突き刺さった左手以外は。
にわかには信じることなどできるはずがない。突然腕が変化するだの、少女が岩壁をえぐりとるだの。…だが少しは合点が行く。あの高さから岩場に落ちて無傷と言うはずがない。死亡する可能性の方が高いくらいだ。あの時聞いた鈍い衝撃音、岩壁に突き刺さりえぐりとった際生じたものだと言うなら納得だ。ミミちゃんが落下した音にしては重過ぎると思っていた。左手の、砂利がついた指の傷も説明がつく。あの時ミミちゃんにかかっていた砂利、砂埃も、えぐりとった岩壁の破片だといえばわかりやすい。
しかし幾つかの点で説明がついたとしても、それが真実であるとはならない。信じきらない様子の僕を見てミミちゃんは少しためらったような顔をし、そして決心して言った。
「じゃあ見てよ」
上着を脱いで肌着になった。目を閉じて深呼吸をした後、少し左腕に力をこめるようなそぶりをした瞬間だった。
…信じられない。こんなことがあるのか。
小さくてか細い少女の左腕が一瞬で膨れ上がり、どんな大人よりも巨大で、凶暴な様子をしたモノに変化した。例えられるものが、ない。手のひらの幅だけで彼女の胴丈と同じくらいある。突き刺さるような爬虫類のものに似た爪を持っていた。ミツル君は木の陰に隠れてそれを見ていた。…気づくと僕の左足は一歩下がっていた。
「こわい、でしょ」
…見抜かれていた。嘘の言葉で返すのは簡単だ。だがそれはおそらく、彼女を著しく傷つける。そう思い、僕はうなずいた。
「だよね」
怪腕はみるみる元のミミちゃんの腕に戻っていった。
「ミミちゃん…」
そういうのが精一杯だった。彼女は上着も着ず下を向いていた。足元の石に雫が落ちる。
「…やだよ、こんなの。いやだよぉ…」
震えていた。肩が大きく上下にゆれ始めた。かける言葉が、ない。
小さな両手で顔を覆い、とうとう声を上げて泣き始めてしまった。僕はゆっくり彼女に近づき、頭と肩を包み込むように抱きしめ、慰めた。
彼女の涙はとまらない。その時はもう恐怖はなかった。
…いや、無かったのではない。恐怖などより、慈しみが勝っていた。
つらかったね、くるしかったね。
そんな慰めの言葉などより、守ってあげることがちいさな子供の苦しみを和らげるに違いない。
そう信じて、抱きしめつづけた。