第四話 深緑の海の中で
滞在3日目。明日、午前中に帰る事になっている。午前中は初日に両親が楽しんだ洋館見学を一人でしていた。二人は洋館と森の間にあるベンチに座ってのどかな時間を過ごしている。本当は3人で過ごそうと母に言われたのだが、今度は意図的に二人にしようと思いもっともらしい理由をつけてみた。
折角なのでいろいろと見て回った。改めて見るとなかなかに豪華な内装を備えしっかり掃除の行き届いている洋館は、自分の想像していた公共施設のイメージとは全く異なる。空調も快適、食事だってかなりイケているし、ホテルとしても良い部類に入るのではないか。自分たちの部屋がある二階から順番に見て回った。端から端までゆっくり時間をかけて、よくわからないくせに装飾品のひとつひとつを、あたかも目利きであるかのように観ていった。
二階を見終え、全体の中央にある二又の階段を降りていると、一階の奥の方から母親に手を引かれてミミちゃんが現れた。今日は初めて会ったときと同じ服の色違いを着ていた。
「おはようございます」
もうかなり日は高くなっていたが朝の挨拶をするとミミちゃんはとても元気に返事をしてくれた。母親も挨拶をした。ミミちゃんが母親の方を見て
「おひるごはんたべたら、あのお兄ちゃんとおそとにいってもい〜い?」
とお願いしていた。母親はええ、どうぞ、とあっさり了解した。僕は、悩まなくてもいいのか?と若干思ったが、楽しそうにしている女の子をがっかりさせてもいけないと思って提案を受け入れた。
戻ってきた両親と早めに昼食を取り、ミミちゃんと散歩に出かけてくると言い残して席を後にした。ミミちゃんはダイニングの入り口で立って待っていた。ミミちゃんの一番好きなトコに連れてってあげる、と意気込み、僕の手を掴んでどんどん進んでいく。
「あらあら、すっかり好かれちゃったわねぇ」
「昔っからだな」
そこは森が開けていた。断崖だ。四、五階建ての建物くらいの高さはあるだろうか。遠くに山脈が見え、見渡すかぎりが濃い緑で、断崖のそばには川が流れて爽やかな波音をたてている。
壮観だ。まるで深緑の海に自分が立っているかのように錯覚する。
「すごいでしょ。ここね、ミミちゃんのおきに入りなの」
「…すごいね」
僕は純粋にその一言しか言えなかった。それ以上の言葉は僕の中には無かった。胸が透くとはこのことだ。まだ日の出ている間に、必ず両親を連れてこよう。僕が言葉を失っているかたわらで、ミミちゃんは僕の周りをうろうろうろうろしていた。
……
この時どうして僕は、ちいさな女の子を連れているということを忘れていたのか。
ドズン
響くような音ではっと我に返った。辺りを見渡すが何も無い。
そう、何も、誰もいない。
「ミミちゃん?」
悪い予感が胸をよぎる。ばっと断崖の下を見ると、せり出している岩場にミミちゃんがあお向けで倒れている。ぴくりとも動かない。血の気が引いた。瞳孔が一気に閉まる気がした。呼吸が乱れる。気が動転してすぐに行動に移せない。しばらく右往左往したのち助けを呼ぶことに気がついて、走って洋館に戻った。
大人が4人ついて来て、ミミちゃんが落下した場所に到着した。一人の大人が長いロープを持っており、それを自分に巻きつけ反対の端を解けないように手ごろな太さの木に手際よく巻きつけ降りていった。ミミちゃんにロープをかけ脇に抱え、合図とともに他の3人が引き上げる。引き上げられた彼女は別の大人の一人にいろいろ触診されていた。僕はずっと祈るような気持ちで見ていた。
「大丈夫、骨は折れていないしお腹や背中にあざも無い。頭も打っていなさそうだ。不幸中の幸い、かな。だが急いで精密な検査をしよう」
僕はほっとした。だけどまだ安心しきれない。ミミちゃんは二人の大人によって担架に乗せられ、洋館まで運ばれた。ミミちゃんはすやすやと、穏やかに寝ているようだった。少し砂埃で汚れているが、あんな高さから落ちたのに不思議と特に外傷は無かった。ただ洋服の左袖がびりびりに裂け、左手の指に砂利のついた擦り傷が少しだけあった。
「あれ?ここどこ?」
洋館に到着する頃、ミミちゃんは目を覚ました。
「ミミちゃんおどってたらおっこちちゃって、あぶないっておもったらお手手がびゅってのびて」
少し混乱しているようだが意識ははっきりしている。でも無事でよかった、本当に。ミミちゃんの母親が、僕たちが到着するやいなやミミちゃんに駆け寄り涙を浮かべながら彼女を抱きしめた。
僕は父に強めに頬を叩かれた。仕方ない、当然だろう。
ミミちゃんは言われたとおりに大人しくして、担架からストレッチャーに乗せられ、一階の奥、今日出てきたところに入っていった。
おかしいな。だがきっとそこから外に出られて、車で町の病院に行くのだろう。
それにしても驚いた。あれだけ肝を冷やしたことは今までに一度たりとも無かった。あんな高さから岩場に落ちたというのに、命が無事で本当に良かった。
その時は気が回らなかったが、今になるといろいろ気になることがある。僕が、ミミちゃんが落ちた、と報告に戻ってから救助に行くまで、とても迅速だった。まるでそんなことがあってもいいかのように、訓練を積んだ人たちのようだった。それにミミちゃんの状態を診断した人も、医療関係の仕事に従事したことがあるような感じで処置も的確だった。こんな国営のリゾート施設にそんな人たちが勤めているのが不思議だ。…ここは退職した自衛官の再就職先だったりするのだろうか。
月夜の森はまるで海のようだ。木々は風になびき不気味に小波を思わせる。飲み込まれたら帰ってこられない、そんな不安さえ感じさせる。洋館のテラスから見る森は本当に深かった。たった二十四時間の間でここまで変化を見せる自然に畏怖の念を覚えずにはいられない。
そばに両親とミミちゃんがいた。ミミちゃんは検査の結果、なんの異常も無いと言われたそうだ。左手だけは包帯を巻いていた。両親はしゃがんでミミちゃんの目線になり、交互に彼女に謝っていた。ミミちゃんはいつもと変わらずにこにこしていた。
「お兄ちゃんはわるくないよ。ミミちゃんがつれてっただけだもん」
「ごめんね、本当にごめん。怖かったよね」
んーん、とミミちゃんは首を横に振った。ちょっと間をあけて、聞いてきた。
「いつまでいるの?」
明日のお昼前に帰る、と答えると
「そっかー」
少し残念そうな顔をしていた。
最後に朝焼けの森をもう一度みたい、と思いがんばって早起きをした。というか半分徹夜した。両親は寝ている。物音を立てないようにしながら上着を着込み、靴をそこでは履かずに手で持って、部屋の外に出た。外では初めに得た感動がまた僕を待っていた。
本当にすばらしい。白い景色が少しずつ少しずつひらけていき、真紅の空に現れる逆光の森は、やはり僕の言葉では言い尽くせない。
十分に堪能した後、部屋に戻った。両親がまだ寝ていることを想定し、靴を脱いでコソコソと部屋に入っていった。やはり二人とも良く寝ていた。母に起こされるまでもう一眠りしようと、もそもそ布団の中に入っていった。
ぺしぺし、と軽い衝撃を感じ、重たいまぶたを開けると母が僕の左頬を叩いていた。
まったく。そこまでしなくても起きるってば。
やや寝不足のため不機嫌になりながらも促されるまま起きる。洗顔し、着替えて、朝食をとるためにダイニングへ向かう。おいしく朝食をいただき、お茶をすすっているとミミちゃんとミミちゃんの母親がやってきた。
「どうしてもお礼を言いたいといって聞きませんで…」
「お兄ちゃん、どうもありがとう!たのしかったよ!」
昨日のあんな事件のことなんかすっかり忘れさせてしまうかのような屈託の無い笑顔とともに、元気に感謝の言葉をくれた。僕はものすごく胸が痛んだが、この笑顔に救われた気がした。
「きょうはおひるすぎまでけんさで、お見おくりできないんだ、ごめんね」
とミミちゃんが言う。
「なにかまだあったんですか?」
母が本当に心配そうに尋ねた。それほどではないのですが、とミミちゃんの母親が答える。僕は起立して頭を深く下げ、母親に深く詫びた。いえ本当に大丈夫ですので、とあくまでなんでもないことを強調された。
「それじゃあミミちゃんももう行くね。お兄ちゃんたちもげんきでね!」
母親に手を引かれダイニングから出て行く。途中何度も振り返り、バイバイと手を振った。
最後に入り口のところで振り返り、
「またきてねー、まってるからねー!」
大きな声と笑顔でそう言い残して出かけていった。
僕たちもダイニングを後にし荷造りをした。作業を終えてのんびりした後、車に荷物を積み込み、洋館を後にしたのはお昼ごろだった。洋館を出るときにサンドウィッチと副食をいただき、昼食の心配をせず出発した。
僕は後部座席から洋館を見送り、この3泊4日の「家族で自然満喫ツアー」で見たこと、感じたことをすべて思い出していた。この旅行は確実に僕の思い出No.1だ。感動の連続だった。
そしてとても優しく、明るい女の子。
「…可愛い子だったね」
「あら、宗久。あの子に恋しちゃったのかしら?ねえお父さん大変よ、この子ったら」
「おいおい、だめだぞ宗久。さすがに犯罪だ」
「なんでそうなるんだよ!」
油断も隙も無い。ほんの一言でも迂闊なことを言おうものなら、茶化されておしまいだ。
…そう言えば僕はあの子の名前を知っているが、あの子は僕の名前を知らないはずだ。教えておいてあげても良かったかな、と思ったがもう遅い。
だから、また今度にする。僕はあの洋館が気に入った。あの子はあそこに、生まれた時からずっと住んでいると言っていた。
いつか訪れたその時に、まだあの子がいたのなら、自分から自己紹介しよう。
「僕の名前は、佐井 宗久です。」