第二十四話 ふたり
「あ、ここ、ですか?どうもありがとうございます。こんにちは〜。佐井宗久を探しているんですが…」
「来音?どうしてここに?」
再就職してからもう三ヶ月になる。まだ寒い日だった。唐突に来音が私のところにやってきた。右手に何か持っている。
「ほら、忘れ物ですぞ」
それが何かすぐにわかった。
「ああ、ごめんごめん。さっき僕も忘れたって気づいたとこだったんだ」
今は昼時。今日は外に食べに行こうかと考えていた。
「無くってもまあ良かっただろうけど。せっかく、ね。それじゃ、お仕事頑張ってね〜」
ひらひら右手を振って扉を閉めて出て行った。迷惑かけてしまった。どうもすみません。
「佐井さん、ひょっとして愛妻弁当?すみに置けないじゃないっスか!どこであんなかわいいコと知り合ったんです?」
私同様、昼食を持参して部屋に残っていたまだ若い研究員と昼食休憩をとっていた時に茶化された。少し照れくさかった。
「大分若いみたいだし、犯罪っスよ。ははははは!」
この男は随分分け隔ての無い男で、わたしが時期はずれに入社した時からわたしの相手をしてくれる。何か裏があるだとか、悪い奴には思えない。すべて真実でなければ、ある程度話しても構わなさそうだった。
「前の職場でね…。私が担当していたんだ」
「へぇ、じゃあ前言ってた国の新薬開発の時のコっスね。…じゃああの左手、後遺症ってとこっスか」
「あの子は、…ひどい自己免疫疾患でね。私はそれを治すためだけの研究をしてきた。なんとか彼女の生命の砂時計には間に合わせられたけれど、あの子の弟は…。だけど、彼女だけでも救えて、よかった」
「へー、自己免を完治…。どうやったんスか?」
「ウィルスを使ったんだ」
「え…」
「薬じゃ、ないんだ」
「そ、それって!すごいじゃないっスか!!それを発表とかしなかったんです?もったいない!!ど、どんなウィルスです?」
「…アポトーシスさせない因子を持たせたんだ。病害のないように開発、調整したレトロウィルスに、目的の因子を入れて、ね」
「ま、待ってください。ワクチンでもない、ウィルスの開発?そんなの実現できるわけないじゃないっスか…。治療の理屈的にはわかる方法スけど、実現できるなんて」
驚愕する彼の気持ちもよくわかる。私だって実際にあのプロジェクトに参加していなかったら信じるはずがない。
「…あるのさ、世の中には自分が思ってもみないような技術が。表には決して出ない。そんな技術を使って、いろいろなものが造られているのさ。…生命すらね」
彼は私の冗談を言っているとは思えない表情を見て、驚きを隠せていなかった。
「…ちょっと喋りすぎたかな。幸一君もあまり関わらない方がいい。自分が望んでもね。本当のことを知れば、変わるかもしれないから…」
私は、私が携わったこのプロジェクトを嫌悪している。
Project Reineseele、罪なき魂の生成。
ヒトの、自らが得た科学という力によってさらなる高みに近づこうとした、魂への冒涜。だが、罪深き者たちの行いによって生まれたのは、とても純粋で美しく、我々の卑小さを思い知らせる輝きだった。
…あこがれた。
だから私は進んで研究を行った。私のこの研究の成功がどれだけ大きな貢献となるか、想像するに難くない。プロジェクトが廃棄されなければ、相当な数の悲劇が作り出される。そうなるとわかっていたが、そうであっても彼女たちを守りたかった。
…この輝きを、消したくなかった。
なんという業。あの光から、遠のくばかりだ。
だが、私は後悔してはいない。私の愛する人の笑顔を守ることができたのだから。
たとえこの業が、死してなお私を責めることになったとしても…
悔いることなど、ない。
「ああ、そうそう。今週の日曜だけど、先約があってね。申し訳ないけれど今やってるこの結果が出たら記録しておいてくれないかな。今度幸一君が日曜当番の時、交代するから」
「ええーっ!佐井さんそれ急っスよ!あまりに急っスよ!!明後日じゃないっスか、俺十三連勤っスよ、それだと!」
「ごめんっ!外せない約束だったのを忘れてたんだ」
「それってどうなんスか…。どうせ今の」
「悪い悪い。よろしく頼むよ」
……
もうすぐ四月。大分暖かくなった。風が心地よく、花は咲き乱れる季節…のはずだ。このコンクリートに囲まれた世界ではそれが少ししか分からない。ちょっと残念だ。でも公園やほんのちょっとした花壇に春を見つけると、やさしい気持ちになる。
今日はデータ上、わたしが生まれた日。運良く日曜で、しかも彼の休みも重なったので彼とともに街に出かけていた。まだ左腕は動かない。カバンを左肩からかけて、付いているベルトを肘の長さくらいにして、そこに腕を預けている。これなら首から布で吊り下げているよりは幾分か普通に見える。
デートデート♪二人で出かけるのなんて本当に久しぶりだ。否が応でも心が弾む。お屋敷の近くの町に連れて行ってもらうことは時々あったけど、本当に二人っきりで、と言うのはその時は全く無かった。森の中を散歩したりなんかは二人だけでしたこともあるけど。あの頃とは気分が全然違う。監視されることも無い。わたし達のことなんか全く知らない人達の中で幸せが身体の中からあふれてしまいそうだ。
街のお店を見てまわった。すごい量の人であふれかえっている。やっぱりすごい。何度見てもそう思う。百貨店に入って、何か気に入るものがないか探していた時だった。
「あれ…? ちょっとごめんね」
ふっと横につながる通路に目をやった時、非常階段の扉をあけて、子供がするりとその中に入っていってしまったのが見えた。気になってしまい宗久に断って、わたしもその子のあとを追った。
そこは外に通じていた。表通りとは異なり、こっち側にはあまり人の喧騒が感じられない。随分やんちゃな子で、踊り場のあたりで階段の手すりの上に上がっては飛び降りて遊んでいた。
…小さな頃の自分を思い出す。宗久にも、お母さんにも怒られてたっけ。
「ぼく〜、危ないから止めなさーい」
センパイとしてのわたしの言葉に耳も貸さず、むしろわたしから遠ざかるように上の階に昇って危ない遊びを続けていた。仕方ないのでゆっくり追いかけて階段を昇り、止めさせようとしたその時、手すりの上に乗っていたその子がバランスを崩し、大きく後ろに傾いた。
真っ逆さまに落ちる!
わたしは声を出すよりも先に走り出し、右手で腕を掴んだ。しかし片手だけでは支えきれない。わたしも引き込まれた。落ちていく最中、非常階段に出てきた宗久と目が合った。
あー、やっばー…
あの時のようだ。なんだかゆっくりに感じる。何とかこの状況を打開しないと。だけどいろんなことがぐるぐると頭を駆け巡り、結局何も考えられない。左手も動かないし…。できることは…無さそうだ。
目を瞑り、身体を丸め、子供を抱え込んだ。
どん
大きな音を立てて地面に落ちた。
痛く…ない。痛みを感じることもできないのかな。そっと左目を開ける。
まだ…できたんだ。
見ず知らずの子を抱え、わたしはほっとした表情を見せた。わたしたちは今、右肩から生えた光夜の腕に包まれている。わたしが掴まえた子は頭を抱え、ぎゅっと目を瞑っている。おそるおそる目を開けた時、あの子の腕は細かく砕け、破片が輝いた。
そのきらめきに言葉と目を奪われていたその子も我に返り、今自分がどういう状況にあるかを知った。
「お姉ちゃん…だれ?」
その一言が、たまらなくおかしかった。抱えていた右腕を離すと、その子はきょとんとしてあたりを見渡していた。
「怪我はないみたい…だね。ダメだぞ、もうあんなところで遊んでちゃ」
そう言って右手で頭を撫でて微笑む。早く立ち去ろう。あー、それにしても久しぶりに焦った。そうだ、カバンはどこかな。
その時、後ろから声がした。
「ありが…とう?」
え…?今、え?
理解するまで少し時間がかかった。驚いたけど…やっぱりうれしかった。ちょっとよくわかっていなさそうだったけど。
…何度も変異してきたけど、初めて言われたなぁ。
自分の右肩に頬をすりよせ、つぶやいた。
「最後までありがとう…。でも、もう…いいんだよ。わたしの中にずっと居てくれるだけで…」
宗久が慌てて走って降りてきて、上着を脱いでわたしにかけた。本当にごめんなさい。またあんな思いをさせて…。だけど彼は首を横に振り、一言だけ言った。無事でよかった、と。
ん?そういえばあの子の腕が生えたってことは、右肩あたりから服はひどく裂けてしまったんじゃない?見てた人はいないだろうけど、急に恥ずかしくなってきた。
っていうか一番お気に入りの服だ、これ!