第十一話 Reineseele
いよいよ導入当日。
二人には検査衣に着替えてもらった。この服は布一枚でできている。
身体検査、一般状態検査、血液検査などを行い、ウィルスの導入に適切な体調であるか入念に検査した。
問題はない。あとは導入するウィルスが全身で目的の因子を増やして定着させてくれることを祈るだけだ。二人を番号で呼ぶのももう最後だろう。二人を部屋に呼び入れる。二人の肩の筋肉内に注入した。研究のデータ上、全身に回って因子が十分定着するのに2週間かかる。この2週間が勝負だ。
理事会からの業務命令でこの処置を行ってから毎日データを取ることになった。凍結が解除され、生産が開始された時の資料とするためだそうだ。命を懸けた最後の実験に望むあの二人のことは、もうそっとしておいてほしい。ところが本人たちに聞くと、どうぞ取ってくれとのことだ。
「もしまたわたしたちみたいな子たちが生まれてきた時、必要なんでしょ?」
「そうそう。命は大事にしなくちゃ」
来音と光夜がそういうのなら僕に止める意思はない。本当に優しい子達だ。
体調を崩すことも、何事もなく1週間が経過した。このままいけば二人とも施設から外の世界に出してやれる。お互いに新しい名前で呼び合う練習をし、時々間違えながら屈託の無い笑顔を見せる二人の姿には、希望があふれているようだった。
「誰か!すぐにストレッチャーを!ICU準備、急げ!」
八日目、悪夢が起きた。
それは光夜にだけ起きた。昨夜までなんとも無かったようにみえた。しかし今朝、来音と一緒にいた時、突然肩を抱えるようにしてしゃがみ込み、うろたえる来音の目の前で、絶叫を上げながら床の上をのた打ち回り始めた。
こんなことは今まで繰り返してきた実験で見られたことが無い。ウィルスの副作用ではない。これほどの急激な異変を示す状態は、ひとつしか考えられない。
…崩壊がはじまったのだ。
ウィルスが増殖するためには細胞の成長が必要となる。実験において、二人に使っていたインヒビターを投与していた動物群では、全身に十分に遺伝因子が行き届かなかった。使用を止めると、無処置の群と同じようにウィルスが働き始めた。そのためインヒビターをこの2週間だけ切る必要があった。
本人さえも気づいていなかった。彼の身体は今までぎりぎりのラインで耐えていたらしい。時間を追うごとに痛みが激しくなっている。今では麻薬系の鎮痛剤ですら効果がない。ウィルスによる因子の定着がなくなるおそれがあるので、崩壊を抑える最後の手段、インヒビターの使用をためらっていた。
来音がICUのガラス越しに酸素マスクをつけた光夜の苦しむ姿を見ている。泣いている。
「佐井さん、お願い。ミツ…光夜を…光夜を助けて…。
痛そうだよ…すごく、すごく苦しそうだよ…。
わたしも…すごく苦しいよ…。お願い…助けて…」
なんてバカなんだ。どうして僕は…。
…迷っている場合ではなかった。対症療法している間に因子が定着し、症状が終息することを期待したかったが、あまりにもいたたまれない。僕はインヒビターを使用した。
しばらくすると、光夜の表情が和らいだ。意識は戻らないが、これで落ち着くかに思えた。しかしそんなに長時間安定させられなかった。数時間間隔で激痛のサイクルが来るようだ。その間隔も次第に短くなっている。最後の切り札も効果を失いつつある。
…僕の責任だ。
僕があまりに急いて功を奏そうとし、インヒビターを使いながらも定着可能な方法を考えなかったからだ…。
今からその方法を考えたとしても…とても間に合わない。
激痛に耐え丸三日が過ぎた。わずかずつでも定着は進んでいるはずだ。だが完了するまでこの子は耐え切れるのだろうか、そんな不安ばかりが脳裏をかすめる。
五日目になろうとした時、再び急激な変化がおきた。
変異だ。それも両腕に。来音のものとはまったく異なる。今までの子たちの例で、崩壊の際に変異が起きたという事態はなかった。崩壊が始まると20時間以内に4例中4例とも死亡している。光夜は90時間以上耐えた。おそらくウィルスの効果が少し出ているため中途半端に死にきれず、暴走が起きたのだろう。
彼の右腕はどうみても機械だ。しなやかに動くロボットアーム。先が三又になっている。データを取るために偶然同室に居た研究員二人が、一瞬で肉塊にされた。左腕は節足動物の脚のようだった。先は刃物と見間違えるくらい鋭利だ。ICUの強化ガラスが一撃で半分に切り取られた。
周囲に広がる地獄。その中心には激痛で表情をゆがめ、苦しんでいる光夜がいた。
この施設には警備の部隊が存在する。彼らが応戦するも、その異形の前には為す術がなかった。前線に立つものは一人残らず上半身が消えた。
僕は呆然とするしかなかった。壁を削り、近くにあるものすべてを砕きながら、叫び声を上げて光夜が苦しんでいる。それを止めることすら叶わない。命をかけてこの子たちを守ろうとしたはずなのに。
僕は無力だった。
崩壊が進んでいるのなら、このまま放っておいてもいつかは倒れる。それで被害はなくなる。しかし彼は今現在、ありえないほどの激痛と必死で戦っている。その苦しみがあの声、あの腕の動きなのだ。
苦しませたくない。苦しませたくない。
…苦しませたくないのに、どうすることもできない。…無力だった。
涙しながら彼を見ていた僕の前に、一人の人間が立つ。その髪は長くて美しい金色をしていた。
…来音だ。
ウィルスの副作用なのか、彼女の赤っぽい茶色の髪は金色に変化していた。彼女もきれいなグリーンの瞳から大粒の涙をこぼしていた。
たった一人の弟。ともに生きてきたのに、彼一人だけが苦しんでいる。
…もう救うためには一つしか方法がないということを、僕も彼女も理解していた。
彼女は決心した。一気に弟のもとに近づく。
もはや光夜には、相手が姉であることもわからないらしい。虫のような左腕がものすごい速さで彼女に突き刺さる。しかし、突き抜けない。刺さる直前で、受け止めた。彼女の忌み嫌っていた左腕だ。その腕が虫の腕を制し、すさまじい力で握りつぶし、引きちぎった。その激痛から機械の腕が猛烈にのた打ち回り、来音を弾き飛ばした。壁に叩きつけられた彼女も苦痛に顔をゆがめている。右腕を巨大な左腕でかばっている。折れてしまったようだ。
「何よ…こんなの光夜に比べたら…」
来音の心は折れず、口を結んだ彼女の緑の瞳には決意が見えた。再び立ち上がり彼と対峙する。おそらく一瞬だろう。あの右腕につかまる前に本体である光夜に接近できれば。早く決着をつけて彼を楽にしてあげたい。僕も、彼女も同じ思いだった。
強い決意を前にして、光夜の右腕が一瞬引いた。この時の彼の目は、忘れられない。
…怯えていた。正気を失ってはいたが、赤い瞳は必死に叫んでいた。
死にたくない 近づくな
…そう、訴えていた。
次の瞬間、右腕が鞭のようにしなり、狭い室内を縦横無尽に叩きつけながらこちらに迫る。そのわずかな隙間を、左腕の変異を解いた小柄な彼女がくぐり抜ける。鮮やかだった。光夜の懐に入り、左腕を再び変異させた。彼の右腕は帰ってこない。来音が左腕を上から下に振り下ろす。右肩から下が砕け、破片が散った。
来音はか細い左腕で、うつ伏せに倒れた弟を抱き起こし、折れた右腕で彼の頬をさする。涙があとからあとから、途切れることなく流れている。
荒い呼吸で苦しむなか、光夜がほんの一瞬正気を取り戻した。僕と来音の顔を見て少し笑顔を見せた。
ゆっくり口が動く。声は、出ていない。
ありがとう、ごめんね
…たしかにそう言った。
目を閉じ、まもなく息を引き取った。少しの静寂の後、悲痛な声が響いた。
来音が異常な行動を示した。僕は言葉が出なかった。光夜の遺体を抱きしめ泣きじゃくっていたかと思ったら、彼の首筋にきれいな顔を寄せると弟の頭を支えていた左腕を変異させてその爪を突き立て、そこから流れ出る血液を吸い取り始めたのだ。彼女の緑の瞳からは涙があふれつづけていた。僕は彼女の行動を制することができなかった。
その光景はおぞましかっただろう。だが、僕にはとても美しく見えた。
彼女の、弟に対する最後の愛。その姿に恋をした。
彼女は弟の血を受け、彼の体を地に横たえた。崩壊が完全に進みきり、光夜の身体は結晶のようにひびが入り、細かく崩れた。
その直後だった。ガレキの中で立ち上がった彼女の金色の長い髪は、弟のような黒色に変化し短くなった。服を引き裂き、背中から光夜のものと同じ、機械の腕と虫の腕があらわれた。こちらを向くと彼女の瞳は赤みが入り、茶色になっていた。
ふたりの姿が、重なって見える。
その姿は異様であったが、感じたのは、畏怖。
弟の血に染まった口を拭うこともなく、彼女は天を仰ぎ見る。涙はまだ、絶えなかった。
哀れであった。
そして、美しかった。