第一話 森の中の影
話し声が聞こえる。無線を介したうえ、非常に小さな声で会話しているようだ。そのため内容は一切わからない。英語だろうか。小声であるために判断できないが、とりあえずこの国の言葉ではないようだ。
そこはうっそうと茂った暗い森だった。今日の天気は曇り。雲は今にも雨が降り出しそうなくらい黒くて厚い。風はほとんど吹いていないようだ。森の中で聞こえるのは異国の人間が道無き道を踏みしめる時の落ち葉の葉擦れだけだ。
木と木の間から人間の姿が見えた。上から下まで迷彩柄の服とプロテクターを着込み、マスクをした頭部は暗視装置のようなスコープの付いたヘルメットを装備していた。これから戦争でもするのかというような大きな銃器を構えながら、一歩一歩あたりを警戒しながら進む。横からではわからなかったが、腰のあたりにパックと一緒に大きめのナイフの柄が見える。たとえ森の中とはいえ、この国には全く似つかわしくない。
人間は五人居た。四人がお互い間隔を取りながら横一列で前方を進み、残り一人が少し遅れて後ろを進む。後ろを進む者は小型の機材を背負っている。他の四人には無い。おそらく通信兵だろう。何か連絡があったのだろうか。通信兵が一瞬、本当に一瞬視線を下ろし、胸元の通信用チャンネルを切り替えるスイッチを押して、視線を正面に戻した。
……一人居ない。
理解しがたい光景を目にし、息を呑んだ。他の三人は全く気がついていない。木陰に隠れて見えないのかと思い、少し左に歩みを進め前方を確認するが、やはり三人だ。左右を確認し正面に視線を戻した瞬間、正面の人間がガクッと膝をつく。そのまま前のめりに倒れた。腰にあったはずのナイフが無い。左に残った二人もさすがに大きな葉擦れの音に気がついた。それ以外に音は全くしていない。
一番左の人間が何かに気づいて上を見上げた瞬間、その身体は後ろに飛ばされ、そのまま木の幹に磔にされた。何かに腹のあたりを貫かれている。貫いた何かは引き抜かれ、枝の間に吸い込まれていった。今の物が何であったか示すものは無く、わずかな時間で二人にされた小隊には混乱だけが残された。
……わずかに葉擦れの音がする。木の上のほうで枝から枝へ、何かが移動している。獣じみた速度だ。先程の事態に呆然としていた前衛の最後の一人が慌てて銃器のベルトを肩からはずし、上に向かって銃器の引き金を引く。それはマシンガンだった。大型のマシンガンを上方に向けて発射してもその反動で上体がぶれることがない。非常によく鍛えられた肉体をしていると察せられた。しかし樹上の相手は狙いをつける暇がないほどの移動速度で、全く掠ることもなかった。せっかくの大型マシンガンも落ち葉の層を少し早めに増やしたに過ぎない。
ガキン! と大きく鈍く金属音が響く。同時に大型のマシンガンは弾かれ、木の葉の上に転がった。血のついた大きなナイフがバレルに突き刺さっている。五人全員が持っていた物と同じナイフだ。木の上を移動する何かが金属製の銃器に突き刺さるほどの力で投げつけたとしか考えられない。その膂力に生存者達の背筋が凍る。
くるりと空中で回転し、何かがとさっと厚い落ち葉の上に落ちた。そこは前衛最後の一人の真左だ。距離は2メートルない。それがゆっくりと立ち上がる。
落ちてきたのは人間だった。
いや、人間の形をしたものだった。
年齢はわからない。外見は少年のようであり、少女のようでもある。だぶだぶな服を着ているので体型からではわからない。きれいな顔立ちだ。
だが、明らかに異様。この現場に現れるとは思いもよらない、というだけではない。
その背中…… 背中がおかしい。
明らかに二本、何かが生えている。暗くてよく見えない。
一つは非常に鋭利な先端を持ち、もう一つは蛇のようにくねって先端は三つに分かれていた。
兵士が恐怖を振り払うが如く声をあげ、腰元のナイフを抜いた。その途端、大柄の男は紙細工のように軽々と後方に吹き飛ばされた。通信兵の右前方の木に激突し、ぐったりとした。強化プラスチック製のヘルメットは砕け散り、頭部は形状を保てていない。胸から上の部分の体積が半分になっていた。
通信兵が思わずしりもちをついて上の方を見上げると、最初に居なくなった一人が喉から枝を生やして、ぶら下がっている木を赤黒く染めていた。
恐怖と混乱のために上手く声が出ない。おそらく通信している相手から状況説明を要求されているのだろう。なんとかしゃべろうとしているが、全くわからない。喘息でも起こしたかのように喉が収縮しているのだろうか。ひゅうひゅうという呼吸音と振り絞るようなググッという音がでるだけだ。
異様な姿が正面を向いた。左腕も異常だった。
巨大すぎる。
葉擦れの音とともに異形が最後の生き残りの方へと近づく。
逃げなくては。
必死に後ずさりするが、完全に向こうの方が速い。
“ Monster! Monster! ”
唯一聞き取れた彼らの言語だった。ほかはもう声にならない。悲鳴だ。
キョウノ エサハ オマエタチカ?
きれいな顔立ちと姿からは想像も出来ないくらいにしゃがれた、そして低くてうめくかのような声だった。異国語ゆえ、当然内容は彼には理解できていない。巨大な左腕で、腰が抜けた通信兵の首が真っ直ぐ伸びるように顎を押さえ、背中に生えた三又の何かが胸から下をがっしりと掴んだ。
わめき、もがくがどうしようもない。首筋にきれいな顔が近づく。髪は黒く、瞳は茶色。典型的なアジア系の配色。恐怖に駆られながらも、どこか美しいと感じる妖しさがあった。巨大な掌と指の隙間から見えるそれの姿から目を離すことができない。鋭利な先端が首に添えられた。
辺りが鮮やかな赤に染まる。
……
…
その異形は居なくなっていた。あたりが騒がしい。
寝袋のような大きな袋が4つ、担架に乗せられて運ばれていく。
通信兵は生きていた。かなり失血しているために瀕死であることには違いない。雨の森から運び出される途中から質問攻めにされた。治療するのも状況を把握するために何が何でも生きていてもらわなくては困るから、そんな感じだ。
しかし、わからない。さっき見たアレをどう説明すればいいのか。
……
それ以上にわからないことがあった。どうして自分は殺されなかったのか。
しかしその理由を知ることは決してない。