1-1 Here I Am
ギシリ、という金属音が鼓膜を揺らして私は眼を覚ました。
予想外に重いまぶたを開けたら眩い光が瞳を焼くかと思えばそんな事は無くて、薄暗いだけの敷き詰められた石畳がすぐに眼に入ってくる。暗闇に慣れる時間が必要な程にも明るくなくて、かと言って全くの暗闇というわけでも無い。例えるならば真暗にして寝ていたら夜中に眼が覚めた時だろうか。眼を開けた途端に部屋に置かれた家財道具の薄ぼんやりした輪郭が把握できるくらいには、今いる場所は明るい。
寝起きの上手く開かないまぶたに懸命に力を込め、光源を探す。少しずつ眼を移動させるとたぶんこの部屋の入口だろう、壁が途切れたその向こう側から明々とした光が漏れ入ってきていた。
だけどもどうにもまぶたが開かない。それに、何だか肌寒い。今更ながらに自己主張を始めた皮膚に負けて、まずまぶたに刺激を与え、それから両腕を擦るために腕を動かそうとして、腕に走った鋭い痛みに体を強張らせた。
そしてガシャ、という金属音。腕は何かに妨げられて動かせなかった。
何だろう、と気怠く首を動かして腕を見れば、腕輪が両腕にはめられていた。そこから伸びる金属の鎖。鈍色のそれは腕の動きを拘束して壁へと繋がれていた。そこで私はやっと、自分がこの牢屋で拘束されていることを思い出した。
牢屋に入れられる前と入れられた後の両方で受けた腕の傷。今、見えているのは腕だけども傷は腕だけじゃなくて、多分体の至る所にあるだろう。けれど、下半身は元々感覚が無いし、鎖で拘束されている以上動かせる箇所は腕くらいしか無いから擦れて痛みを思い出すのはやっぱり腕だけだ。
鈍さと鋭さの混じる痛みで俄にクリアになる思考。けれどもそれは、ここに入れられる前に比べるとかなり鈍い。当たり前だ。ここ数日、まともに水さえ飲んでいないのだから。
「……お腹空いたな」
誤魔化し紛れのつぶやき声は我ながら驚くほどに掠れてた。水分を失ってひりつく喉の痛みに咽て咳き込んでしまい、鉄臭い香りが鼻孔を通り過ぎた。つぶやきの返事は何も返ってこなくて、寒々とした響きだけが残った。
今は昼だろうか、それとも夜だろうか。疑問に思うけれど、こんな牢屋に時計なんて立派な物は皆無。明かり取りの窓でさえ存在せず、そもそも設備と言えるものがこの腕を壁に繋いでおくための拘束具のみという何とも有難すぎて涙が出そうな有様だ。昼夜の感覚なんてとっくの昔に無くして、ここに入ってから幾日が経過したのかもさっぱりだ。牢の持ち主は私を生かしておきたいのかそれとも殺してしまいたいのかハッキリさせてもらいたい。まあ、苦しませて殺そうというのが目的なら現状も間違いでは無いのだけれど。
ボンヤリとして牢屋の中を見渡していると、私以外のもう一人の住人の姿が眼に入った。
彼の事を「一人」と表現してしまっていいのかは分からない。コウリと名乗った、私を助けようとして失敗してしまった彼は今、虎の様に黄色い体毛に覆われた体を冷たい石畳の上に横たえてる。上半身から一転して茶色い、細くともたくましさを感じさせるカモシカの様な四肢には私と同じように足輪がはめられて壁に拘束されてる。首には何か紋様が刻み込まれた首輪がはめられ、今は身動ぎ一つしない。寝ているのかそれとも力尽きて息絶えて居るのか。
その姿を見ていて、私は一人の少女を思い出した。
「……ミーナは無事かなぁ……」
決して他人様の心配をできる様な状況では無いと客観的には分かってるのだけど、どうしてもずいぶんとお世話になった彼女の事を思い出してしまう。危機感が足りないと言うか何と言うか。そも、私は今のこの、拘束され飲まず喰わずで何日も過ごしている状況にあまり絶望していないのだからしょうがないのだけど。
希望があるわけでもない。どこかのお話よろしく白馬の王子様が誰かが助けてくれるだなんて妄想染みた期待を抱いているわけでもない。所詮、自らを助けるのは自分しか無いのだから。
それじゃあ何故私はこの状況でも落ち着いていられるのか、と問われれば明確な答えは持っていない。そんなもの、記憶を失っている私には問うだけ無駄だ。だけど、敢えて答えるならばこういう事だろう。
きっと、私は今よりも絶望的な状況を知っている。それは感覚的なものだ。そしてその状況を知って今なおこうして生きているという事は、そんな状況を切り抜けてきたという事だ。更に言えば、私はこの状況を切り抜ける手段を持っている。今はそれを忘れているけれども、きっと必要な時に思い出せる。この確信の出処が一体何処なのかは皆無ではあるけれど。
深々と私はため息を吐いた。絶望はしていない。けれど、今の状況に当然ながら満足しているわけでも諦めているわけでも無い。私の感性はマゾっ気に犯されていないし、不当と感じるくらいには全うで、奴の体を八つ裂きにするくらいでは足りない位には全身は怒りで沸騰している。
私は、私を縛るモノが心底大嫌いだ。殺してしまいたいくらいに憎くて、きっと然るべき時がくれば奴には産まれた事さえ後悔するくらいに私を縛りつけた事を後悔させてやるだろう。けれども、その時はまだだ。だから私は眼を閉じて待つ。じっと牙を研いで食らいつく時を待つのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
捕まって牢屋に入れられる前にこの世界で私が眼を覚ました、つまりは今の記憶が始まったのはもう一月くらい前になるだろうか。まぶたを焼く眩い光に不快感を覚えて眼を開け、体を起こすとそこはどこかの家の中。木造の家でさして広くはなく、立て付けも悪いのか隙間風が入り込んで甲高い音を奏でてた。風が吹く度にギシギシと家中がきしんでて、けれども家の中は清潔で家具も小奇麗に掃除されてた。真新しいシーツは触り心地が良くて、布団も暖かい。この部屋の持ち主の性格が表れてるみたいだ。
そして私は思う。
「ここは……何処?」
部屋自体に全く見覚えは無いし、何故こんな場所に居るのかも記憶に無い。頭を掻きながら一体昨夜に自分は何をしていたのだろうと、それすら思い出せない自分に何だかバツの悪さを感じる。情けなさにため息一つ。重い頭を左右に振って眠気を払う。昨夜の記憶が無いということはここが何処にせよ、部屋の主に少なからず迷惑を掛けただろうし、自省もせねばなるまい。まずは昨夜に何をしていたか、そこから思い出すことをしよう。
結論から言おう。それは失敗した。
私は何一つ思い出せなかった。昨夜の事は愚か、いつ自分が生まれ、どこで過ごし、これまでどうやって生きてきたか、自分の足跡について一切が分からなかった。恥ずかしながら私はこの段に至ってようやく自分が記憶喪失であると悟ったのだ。
にも関わらず私には一切の不安は無かった。喪失感も不安感も無く、それどころか安心感さえあった。
思うに、記憶を失うという事はアイデンティティの喪失と同一の意味を持つ。小難しい話をするならばアイデンティティは自己の同一性だ。自らは他人とは異なっていて、自分は自分であると信じる事だ。
そしてその立脚点となるのは経験。生きていく中で自分は他者とは異なるのだと気づいていく。価値観の違い、学習能力の異なり、運動能力の差、得手不得手の相違、果ては家庭環境の違い。様々な能力の違いが私は私でしか無いと知らしめてくれる。だが記憶を失ってしまえばその根本にして最大の立脚点を喪失してしまうのだと私は――記憶喪失にも関わらず――考えている。
それはつまり私――柏木ミサトがアイデンティティを失っていない事を意味している。
私は私であり私でしか無い。確信とも言える感覚を私はまだ明確に持っている。この状況でも安心感を抱ける事が私の神経の図太さを表しているのか、それとも記憶を失う前の自分がとんでもない状況に置かれていたのかは私が知るところでは無いが。
ただ一つ、記憶が無いことに思い至った時に胸を刺すような寂寥感が過りはしていた。
誰もいない部屋でそんな何の役にも立たない自己同一性の考察なぞをしながらも、いつまでもベッドに居ても仕方ないと、私はベッドに手を突いて降りようとした。
「ふぎゃっ!?」
そしてベッドから落ちた。頭から。
「いつつ……」
強かに打ち付けて赤くなっているだろう鼻を擦り、思わず溢れた目尻の涙を拭って今度こそ立ち上がろうとした。が、そこで私は気づいた。
「あれ?」
脚に全く力が入らない。いや、そうじゃなかった。
感覚が、ない。日に当たった事もなさそうな真っ白な肌を手で触れれば多少は感覚はあるけれど、脚の力の入れ方も分からないしどれだけ意識しても脚はピクリとも動いてくれない。しばし時間を置いてみる。だが改善されそうな兆しは微塵も無し。皆無。これはつまりは、そういうことなのだろう。
「……ま、悩んでも仕方ないか」
下半身不随が生まれつきなのか、それとも記憶を失った出来事に起因しているのかは今の私に知る術は無いけれど、動かせないものは仕方ない。動かせるようになる時はなるし、だとしても今は何も手段候補が浮かばないのだから、クヨクヨしてても時間と頭のリソースの無駄だ。
さてしかし、立ち上がることの出来ない現状において私はどうするべきか。現状把握の意味でも歩き回ってここの場所とかを知りたかったのだけれど。
頬を掻きながらどうしたものかと思案していたその時、ギィ、と軋ませてドアが開いた。そして奥には小柄な人影。
彼女は少女だった。小さい体いっぱいに、荷物が溢れそうな紙袋をいくつも抱えてた。きっと前もまともに見えてないに違い。しかもフラフラしてる。当人も荷物も。もしかしてこの状態で外から歩いて来たんだろうか?だとしたらそれはきっと奇跡で、けれども奇跡なんて安っぽい代物は得てして長続きせずに肝心な時に人を裏切るわけで。
「おっとっと、あ、ちょっ! これヤバいっ、おち、おち、おちる――」
果たして、奇跡なんぞに私の予想を覆す程の気概もあるはずもなく、少女の抱えた荷物の山は少しずつバランスを傾けていって。少女もまたそのバランスを保つために自分自身のバランスを崩壊の一途へと辿らせてしまうわけで。
「にゃ、ゴメ、ムリぽ――」
呆気無く諦めた少女は荷物を自分の体ごと床にぶちまけた。ガッチャーンとテーブルの上の物を巻き込みながら盛大に音を立てて紙袋に入ってた食材が床に散らばった。その内のリンゴの様な、それでいて何か違う気がする果物がコロコロと私の脚元へ転がってきてそれを拾い上げた。
「いっつー……にゃー、やっちゃったー……」
「はい、これ」
「にゅ? ゴメン、ありが……」
少女の元へ這って行き、拾い上げた果物を差し出してやると少女はしかめた顔のまま受け取って、私の顔を見上げてそのまま固まった。一体どうしたと言うのだろうか。
「あーっっ!!」
全く人の顔を見て指さして叫ぶとは一体どういう了見だろうか。自分の顔さえ忘れてしまっているから分からないが、もしかして私はそんなに面白い顔してるのだろうか。だとしたら最悪だ。私は生物学上は女であるらしいからできれば美人さんで居たかったのだが。いや、それは男女関係は無いか。
叫び声を上げたかと思ったら今度は私の腕を掴んでブンブンと思いっきり上下に振り回す。かと思えば私に抱きついてきてギュッと抱き締めてきた。
「良かったー! やっと眼を覚ましてくれたんだ! このまま眼を覚まさないかと心配になったけど……良かった……」
突然抱きつかれて耳元で叫ばれたせいで耳がキーン、となる。つい引き剥がそうかと思ったけれど、後半になるに従って段々と涙声になっていったからそれも出来ない。どうやらずいぶんと心配してくれたらしい。そのことに思い至った瞬間、私もどうしてだか涙が零れそうになった。
どうしてだろうか。心配してくれるなんて、それはもちろん有難い事では有るのだけれど、涙が溢れる程の事なのだろうか。私の戸惑いを他所にどんどんと胸が締め付けられたように痛くなって、私の腕は自然と彼女の背中に回って抱きしめ返していた。記憶の無い私だけど、きっとそれが正解だと思ったから。
彼女の泣き声が耳に届き、吐息が鎖骨をくすぐる。彼女の体温が私を祝福してくれている。なぜだかそんな詩めいたフレーズが浮かび、そして無性にそのことを信じたかった。
彼女の温もりが私に「ここに居ていいんだ」と言ってくれてるように思えた。私が居ることを認めてくれているように思えた。それが私は嬉しいんだと、思えて、その思考もまた嬉しかった。だから、私はしばらく彼女にさせるがままにさせておこうと決めた。
泣き止まない彼女をあやす様に背中をポンポンと叩き、頭を撫でてあげる。茶色い髪は触り心地が良くてしばらくの間撫で続けてたけれど、不意にその時何か頭から突き出したものが手に触れた。それと同時に泣いていた耳元の少女の口から「ふにゃっ!?」なんて声を聞いた。
――なに、コレ?
彼女の頭でよく見えないけど、髪の毛とは違った毛に覆われた突起物。程々に柔らかくて体温くらいに暖かい。何だろう、ずっと触ってたくなるなこの感触。
ふにふにふにふに。ふにふにふにふにとね。
触る度に泣いてたはずの彼女が「あひんっ!?」とか「ふにっ!?」とか声を上げて悶えて、段々と肩に掛かる息が荒くなって身を捩り出す。
けれどそんなの関係ない。私は私の欲望に忠実に生きるのだ!
「ふっ、ふにゃあああっっ!!」
と思ったけど、さすがに限界が来たらしい。彼女は叫びながら飛び退いて荒い息を吐きながら涙目でコッチを睨んでくる。けれど潤んだ眼で見つめられてもそれは何か私の心をくすぐってくるだけで、嗜虐心をそそられると言うか何と言いますか。 けれども、離れた彼女の頭が眼に入って、そして今更ながらに彼女と私の間に隔たる異変に、浮かれた気持ちは冷めていった。
「み、耳は触っちゃダメだにょ……」
ピクピクと触り心地の良かった猫耳を動かし、何やら抗議の声らしきものをあげている彼女。けれども私にとってはあまりの衝撃に言葉を失ってしまった。
彼女の話す言語が、全く理解できなかったのだから。