"本番"に備えて
劇場内に鎮座していた謎の白い霧に突入した水森綾は、体感では既に十分以上、何の変化も表れないまま歩き続けていた。
上下左右、前方後方、全てが白。
背後には劇場が見えたりしないかと期待したのだが。
白一色で埋め尽くされた世界は、空と地面の境目が見えないからか平衡感覚が怪しくなって気分が悪くなり、目と頭が痛くなる。
霧のせいでこんなに白いのかと、試しに靴を片足だけ脱いでその場に置き、視界から外さないようにしながら結構な距離を離れてみたが、霧で霞むようなこともなくハッキリと見える靴。
白い世界に、片方だけの靴は浮いて見える。
これはつまり、視界の限りには何も無いというーー。
仲間は戦っている。
自分から飛び込んだんだ。
何も無いなら、敵も居ないんだ。
立ち止まっている暇はないと自分を鼓舞し、綾は歩くことにした。
室内なのか屋外なのか、壁や天井があるのかすら判断つかない。
とにかく広さだけはあるようだ。
殺害が目的なら城で見殺し、或いは好機とばかりに止めを刺されていたはずと、相手の行動を誤解してしまったのが運の尽きか。
手掛かりどころか此処を出る手段すら見当たらず、何も無いならいっそ、瞼を閉じて歩いたほうが目から来る痛みが減る分だけ楽なのではないかと思えてくる。
地面が途切れていても、繋ぎ目のない白一色。
目を開けていようが閉じていようが、見ても判らないのだからどうせ落ちるだろう。
投げる物、何かを発射する魔法が使えれば、届く範囲の奥行きや天井を確認出来た。
杖のような棒があれば、歩く先の地面を叩いて確認しながら歩けた。
攻撃は味方に任せっきりで、攻撃手段は未使用の護身用ナイフのみ。
格好だけでもと仲間から杖を勧められたりもしたが、『命掌』は名前の通り手のひらを起点に回復を施す能力で、物を持つのは邪魔にしかならないと考えていた。
電撃が効かない相手がいるかもと、貪欲に色々な魔法を覚えていた八子のように、一つでも攻撃魔法を覚えていれば。
魔力を足場にするあの技を、春斗は勇者だから、拓哉は戦いの天才だからと、自分から遠ざける言い訳ばかりしないで練習していれば。
遊のような豊富な知識を持っていれば、この何も無いようにしか見えない世界に何かを見つけられたのだろうか。
独りの世界で歩くことしか出来ない綾に襲い掛かってきたのは、敵意を持った誰かではなく、自分の内側から湧いて出てくる無力感。
それでも綾は足を動かし、何でもいいから考え続けた。
靴を脱いだ時に気付いたのだが、地面は舞台の木製とは明らかに違う質感で、靴下ならアイススケートの真似事が出来そうなくらいツルツルしている。
歩いても歩いても壁に行き着かない。
何となくそうだとは思っていたが此所は、劇場とは物理的に違う場所なのだろう。
……何も無い部屋に閉じ込められると、いずれ人は発狂するらしい。
ろくでもない知識が脳裏を過るが、確かにこの何も無い空間に数日も居れば、その内に気が狂うかもしれない。
気が狂う前に空腹で倒れるだろうけども。
綾は、暗くなりがちな思考を力ずくにでも変えようとした。
音楽を口ずさんだり、家族や友達のことを考えたり、二の腕の余分な部分を摘まんでみたり、思い付いたことを適当に考え続けてみたりして。
それでもやっぱり、頭の中は暗くなりがちで。
どうにかこうにか、自分を誤魔化しながら歩き続けていると。
唐突に、白いだけの世界に終わりが訪れた。
前だけ向いて歩いていたというのに、歩幅にして三歩程度の距離。
気が付いた時には慣性のまま足を一歩踏み出しており、ぶつかりそうだと判断した綾の本能は慌て、足を止めるために跳び跳ねるという選択肢を選んだ。
ぶつかる、どうして、こんな近くに、何が、なんで。
ビクッと全身で跳ねた綾は、力んだ拍子に呼吸が中途半端な喉の部分で詰まり、むせた。
落ち着くと、改めて目の前に現れたそれを確認した。
テーブルにクロスが掛けられ、その上にティーセット。
椅子は二脚。
テーブルと椅子は木製の丸みを帯びたデザインで、テーブルクロスは白と水色のチェック柄。
ティーセットは白を基調とした小さい花柄で統一されたカップとソーサーとポットという、何の変哲もないお茶会の様相。
真っ白な世界で、色が付いた、決して小さくはない物をこの距離まで見落とすなんて、普通ならば有り得ない。
「一体、なにが……」
霧の中に綾を誘った相手が待っているのならば、此処しかないだろう。
椅子はテーブルを挟んで対面するように二脚、カップも二つ。
ならばーー。
「ようこそ」
「ひゃい!?」
背後から女の声。
テーブルに意識が集中していた綾は素っ頓狂な声を上げて驚き、あと一歩のところで腰を抜かしそうになったのを何とか踏みとどまる。
「あら、驚かせてしまったわね」
女はクスクスと、言外に狙い通りと思わせるような笑い方をした。
あと数秒の猶予があれば、対面に座るべき相手が同じような手段で現れることに思い当たり、綾も警戒していただろうに。
実に完璧な間合いであった。
そして綾は、聞き覚えがある声に振り返った。
「王女さーー」
「少しは警戒しなさい、水森綾」
額にピタリと当たる、冷たい金属。
突き付けられた物は、綾は実物を見たのは初めてだが、恐らく。
「え」
この世界で。
よく判らない謎の白い空間で。
自分たちをこの世界に喚んだ王女に。
誘拐されたはずの王女が。
拳銃。
「……夢?」
「異なる世界に召喚されたところから、まるで夢の様な人生でしょう?」
綾が知る第三王女は、王族らしい言葉遣いと可愛らしい仕草で、まさに絵本に出てくるような王女様で。
拳銃を人に突き付け、人を見下したまま冷笑を浮かべるような少女では。
「偽者!」
「残念かもしれないけど、こう見えて本人なの」
また、クスクスと笑う。
声だけならばあの可愛らしい王女様だが、拳銃を片手に笑う姿は狂気でしかない。
離れるべきか、降参の意味で手を挙げるか、不意を突いて体当たりでもするか。
長いようで短い思考の末、綾は行動に移ろうとして。
ーー先に、王女が拳銃を下ろした。
「えっ」
「椅子があるのだから座りましょう?」
何事もなかったかのように綾の横を通り抜け。
拳銃をテーブルに置いた王女は、二人分のお茶を用意すると椅子に座った。
選んだ行動をする必要性がなくなり、見ていることしか出来なかった綾は、立ち尽くし。
行き場を探した綾の視線は、王女の顔、テーブルの上に無造作に置かれた拳銃、お茶と空いた席、白いままの背景と移動して。
「座りなさい。お茶が冷めるわ」
「え、あ、……はい」
罠にしてはお茶の用意とか無駄な気がするし、でも怪しいし、でもでもでも……。
考えることを諦めた綾の脳味噌は、素直に従うことに決めた。
一口飲んでから毒の心配をして、念のために『命掌』を使って喉と胸と胃の辺りをさする。
『命掌』にはマッサージに似た効果も期待でき、使うだけでも心が落ち着いてくる。
お茶を飲みながら綾が落ち着くのを待っていた王女は、手のひらの光が消えるのを確認すると。
「さて、と」
声を聞いただけでびくりと小さく跳ねて緊張しだした綾に、かつての王女の演技付きで微笑むと。
「私は貴方が鍵だと思っているわ、水森綾。世界の命運は、貴方の掌の上に」
ベルは、実に楽しそうに"台本"を読み始めた。
・・・
「撤収用意かな」
ベルが行動開始したことでスケジュールが最終段階に突入し、裏方に努めていたソラも動き出さなければいけなくなる。
その前に協力者を回収し、打ち上げ会場に送り届けなければ。
「ゾンビさんは回収済みだからあと三人と、団体さん」
まずは勇者に当てた二人。
聖剣と聖剣がぶつかり合う様は実にファンタジーをしていて観てるだけでも面白かったが、徐々に正式の十代目勇者様が押してきて、オードがソラから貰った大剣を盾に無理矢理にでも介入しなければ、ナツキは早々に負けていたことだろう。
『聖剣』の初起動時に取り込むという精霊の、格の違いが如実に表れた形だ。
十代目は七代目女勇者が暴走した原因でもある大精霊で、そんな『聖剣』の仕様など知らなかったナツキは、そこらにいる野良の精霊だ。
ナツキにはベルの正体を未だに教えていない。
だからベルはナツキの前では仮面を身に付ける。
勇者と勇者の戦いが観たいからと誘った際に「勇者に言いたいことがある」と引き受けたナツキは、案の定、「正式な勇者召喚前に試しとして王女に召喚された勇者モドキ」の話を、勇者に向かって戦いながら叫んでいた。
オードは終始、気まずそうだった。
……ベルが極悪人であることを再確認したソラは、ナツキが地球に帰りたいと言えばこのあと直ぐにでも帰してあげようと心に決め。
もう一人の協力者へと『ゲート』越しに目を向けた。
空を飛べば紫電に撃たれ。
陸に降りれば騎士に囲まれ。
最強騎士アビゴール卿がここに加わり、魔物を次々に追加しているというのに、じり貧で全滅する勢い。
彼、バクタは今、仮面の下で泣いていた。
「魔力さえ回復出来れば時間稼ぎに向いてると思ったけど、思惑通りだね」
レベル的に丁度良さそうな魔物をソラが狩ってきて魔石を見繕い、『Persona not Guilty』のMP回復ポーションを持てるだけ持たせ、とにかく時間を稼げとだけ伝えてあった。
今回の作戦中、他の勇者一行には何らかの形で情報を与えている。
非公式ベル親衛隊だという騎士たちに男だからいいかと<洗脳>したり、ナツキは勝手にやりそうだから放置でいいとして。
ゾンビさんですら簡単な台本を用意されていたというのに、魔物生産装置であるバクタには台本どころか撤退の合図すら教えていない。
それは、殺し合いの前に長い名乗りやポージングを入れたがったり必殺技名を叫んだりするバクタという人間を十分に尊重し、サブカルチャーに造詣が深いソラが彼を認めた結果である。
あと、一度死んだとはいえ彼は現在はソラの仲間、つまりは前の組織を裏切った形になるので、そんな人間に重要な役を与えたくないというベルの意向でもある。
「……よし、回収」
ナツキとオードには花火を使った撤収の合図を出すとして、バクタは、追い詰められてアビゴール卿の重槍で突き刺されそうになったところを寸前まで待ってから『ゲート』に落とした。
貫かれる寸前だったバクタは、失神していた。
「あとは情報部さんだけど」
と、花火の方に異変が。
砲台とは別に仕込んでいた花火によるナイアガラが起動して、何も知らない王都の方で歓声が上がった。
花火の滝。
支えなどないはずの空中にロープを張り、持続性のある花火を数百とぶら下げた物だ。
日本の図書館で花火の仕組みを調べてきて、アイテムの花火を分解して作り上げたオリジナルの試作品であり、ナツキとオードへの撤収の合図である。
「……そういえば、スイッチ切り離しておくの忘れてた」
あちゃー、と額を押さえ、てへっと笑う。
タイミングとしてはバッチリだ。
未来予知のギフトでもあるのだろうかとソラが疑うほどの、全くの偶然である。
花火の後片付けと情報部の回収があるソラは現地に行くと、巨大『ゲート』を開いて。
「千葉さん、やっちゃって~」
『久し振りだな、この喚ばれ方も』
白龍ツィーバ。
草原に隠していた太い紐を白龍の尻尾に結び、再度巨大『ゲート』を開く。
ツィーバが飛び立って『ゲート』を潜れば、ナイアガラ中は作動しないようにしていた他の砲台が紐の先に連なって次々に回収されていく。
急に仕事が無くなり、ドラゴンの贅沢な使い方に情報部の面々が呆然としていると、ソラが飛んできて。
「解散! おつかれっした!」
そう言うと帝国行きの『ゲート』を開き、報酬は皇帝経由で支払うことを約束して、王国の居残り組以外には帰ってもらった。
今すぐにではないだろうが暫くの間は王国の国境警備が厳しくなることが予想されるので、働いてもらった身としては当然の仕事である。
「さて、と。暑いなぁ」
大体の後片付けを済ませ、ソラはナイアガラの火花が当たる真下で待ち構える。
ナイアガラが終わった時、もうひと仕事だ。




