旅の向こうに
「ほんっとうに、ごめん!」
スピーカーから聞こえてくる友人の声に、彼女が実際に頭を下げている様子が手に取るように分かった。
私はなるべく軽い調子で笑ってみせる。
「良いよ、気にしないで。仕事なら、仕方ないじゃん」
「うぅ……今日、すっごく楽しみにしてたのに……久し振りに会えると思ったのに!」
それはこちらとしても同じ気持ちだが、このままでは上司を恨みそうな勢いに、私は「まあまあ」と宥める。
そうしている内に誰かに声をかけられたらしく、友人は向こう側に短く返事をし、最後にもう一度謝罪の言葉を口にしてから通話を切った。
通話アプリを閉じた腕を下ろし、ふっと溜め息が口を衝く。
お盆真っ只中の駅前は人通りが多く、旅行客らしき姿も見える。ここ数年のお盆期間は暑さが猛威を揮っているが、折角の長期休暇だからと出かける決断をする人も多いのだろう。
その内の一人のはずだった私だが、つい先ほど一緒に遊ぶつもりだった友人がトラブルで突然の休日出勤になってしまい、その予定がなくなってしまった。
就職を機に上京して数ヶ月。連絡は取り合っていたものの直接会えるのは久し振りで、顔を合わせるのを楽しみにしていたが、先刻自分が口にした通り仕方がないことだ。
このまま実家に帰っても良いが、正直家でやることもない。というか、帰ったら帰ったで色々手伝われそうで乗り気がしない。
折角地元に帰ってきたことだし、暑さには目を瞑って、買い物でもしつつ、この辺りを散策でもしようか。
そう思って場所を移動しようとした時、ロータリーの隅に設けられた地図の前に困った様子で立っている老夫婦が目に入った。
昼を過ぎたこの時間帯は、丁度あの場所に陽が当たる。現に眩しいくらいの陽射しが直撃しており、通り過ぎる人も自然と足早になっていた。
あそこに突っ立っているのは、老人には堪えるのではないだろうか。余計なお世話かもしれないと一瞬躊躇したが、私は結局彼等に近づいていった。
「あの、すみません」
声をかけると、二人が揃って目を丸くしてこちらを見る。急に声かけしたものだから、驚かせてしまっただろうか。
「そこ、暑くないですか? 良かったら日陰に入られた方が良いと思いますが」
夫婦は目をぱちくりとさせて、しかしすぐに微笑んで頷いた。
「ああ、そうですね。お気遣い、ありがとうございます」
旦那の方がそう言って、夫人の手を取って日陰に移動する。その動作がとても自然で、私は思わず見惚れてしまった。紳士的な旦那さんなのだなと、少し憧れめいた気持ちになる。
前を横切った二人は汗をかいている様子がなく、もしかしたら地図を見始めて間もなかったのかもしれない。暑さにやられる前に日陰に誘導できて良かったと思う一方、きちんと地図を確認する前だったのなら申し訳ないことをしたと少々の反省が頭を擡げる。
そこで私は、せめてものお詫びにと夫婦にもう一度声をかけた。
「もしお困りでしたら、お力になりますよ」
地図の前にいたということは、何処かに行きたいのだろう。ここは自分の地元なのだから、道を教えるくらいならできるはずである。
「……でしたら、ここはどうやって行けば良いのでしょうか?」
一度旦那と顔を見合わせた夫人が、おずおずといった様子で手にしていたものを差し出す。
それは、駅から少し歩いたところにある小さな博物館のチラシだった。市で運営しており、入場無料ということもあって小さい頃はよく行っていた場所だ。
「すぐそこですけど……良ければ、ご案内しましょうか?」
「え?」
通りの向こうを指差そうとしたが、やめてそう申し出てみる。すると、夫婦はまた驚いた様子で目を瞬かせた。
口で説明するより連れていってしまった方が早いと思った結果だが、またしても余計なお世話になってしまっただろうか。観光案内人でもない見知らぬ人間についていく不安もあるだろう。
やはり道を教えるだけにしておいた方が良いかと口を開こうとした時、夫人がにっこりと笑顔を浮かべた。
「良いのですか? ありがとうございます。是非、お願いします」
こうして、私は老夫婦を引き連れて博物館に向かうことになった。
道中そう時間はかからないが、何も喋らないというのも不自然なので、無難な話題を振ってみる。
「ここへはご旅行で?」
「ええ。元々、主人が定年したら色々なところに旅行に行こうって話していたのだけどね、実際その時を迎えたら何かと忙しくなってしまって、中々行けていなかったんですよ。けど、最近になってようやく落ち着いてきたものだから、手始めにこの辺りが良いんじゃないかって、来てみたんです」
ここ一帯は、それほど有名ではないものの、一応観光地になっている。見るところは多くはないが、自然に囲まれた良い場所だと我が地元ながらちょっとした誇りだ。
少し歩くだけでも汗が噴き出るほど暑いので、短い道のりでも老体にはきついのではと心配したが、二人とも意外と平気な顔をしていた。
博物館に到着すると、夫婦は礼を言って中に入っていく。
私もどうしようか悩んだが、遅れて後に続いた。予定がなくなって暇なのだ。久し振りに博物館を見て回って、懐かしさに浸るのも良いだろう。
博物館に来るのは、小学生以来だろうか。展示品は当然多少入れ替わっているが、見覚えのあるものも多くある。雰囲気は当時のままで、想像していたより懐古心が胸に込み上げた。
この近辺で見られるリスの剥製はよく覚えている。小学五年生の時に社会学習でここを訪れて、この剥製をスケッチしたのだ。当時仲が良かった友人と並んで、お互いに絵を覗き込みながら描いた。
そんな風に一人で楽しみながら出口に向かうと、外の植木の下で先ほどの老夫婦が揃って手許と辺りを見回しているのが見えた。手にしているのは、手帳だろうか。
そのまま見て見ぬ振りをして立ち去るわけにもいかず、私はそっと二人に近づいた。
「どうかされましたか?」
「あ、先ほどの」
二人が困ったように微笑む。
「次の目的地に移動しようとしたのですけれど、道が判らなくて」
言いながら差し出された手帳を覗き込むと、手書きで目的地とその場所の目玉が幾つかメモされていた。一番上には、この博物館の名前がある。簡単な旅のしおりのようなものだろうか。
ざっと目を通したところ、この周辺一帯を巡る内容だ。行ったことのある場所ばかりである。
「良かったら、ご案内しましょうか?」
「でも、先ほどもここまで案内していただいたし、申し訳ないわ」
眉を傾けて逡巡する夫婦に、私は微笑んでみせた。
「実はさっき、今日の予定が急になくなってしまったんです。この後は暇なので、案内を任せていただけたら私も助かるんですけど」
その言葉にお互いの顔を見た二人は、一つ頷いて頭を下げた。
「そういうことなら、宜しくお願いします」
博物館を出て向かったのは、地元に根づいた神社だ。朱の鳥居を潜り、拝殿で参拝を済ませてから、玉砂利の音を楽しみながら境内を散策する。
この神社も、今年の初めに初詣に来た以来だ。毎年夏祭りが行われており、幼い頃から馴染みがある。今年の夏祭りは、もう少し先になるだろう。
参道の脇に設置されたベンチを何気なく見た瞬間、脳裏に思い出が甦る。確か、中学生で初めてできた彼氏との初デートで夏祭りに来て、あのベンチで一緒にたこ焼きを食べたのだ。彼に向かって「あーん」なんてしたことまで思い出してしまった。
なんだか恥ずかしくなって、顔に熱が集まるのを感じる。
「あら、顔が赤いけれど、どこか具合が悪いのでは……」
「あっ、いえ! 何でもないです。ただ暑くて……」
顔を覗き込まれ、私は慌てて手を振って誤魔化した。思い出して顔を赤くするのも誤魔化し方も子どもじみていて、それすらも恥ずかしい。
気を取り直して立ち寄った授与所には、色とりどりのお守りが並んでいる。それを眺めていると、旦那がふと呟いた。
「そういえば、孫が来年受験なんですよ」
「でしたら、お土産にされたらいかがですか?」
学業成就のお守りを指差して提案したが、彼は残念そうに小さく首を振ってみせた。
「いや、あの子にはもう別の神社のお守りがあるので」
結局何も授かることなく授与所を後にしたが、その際に受付に立っていた巫女の視線が妙に刺さる感じがした。見るだけで帰ってしまう参拝者に不満を抱くのは解るが、そこまで不躾に見ることもないだろうに。
なんとなく腑に落ちないまま、私達は次の目的地へ向かうことにした。
神社からほど近い位置にあるのが、古い街並みが残るエリアだ。
それほど広い場所ではないのだが、重厚な木造の建物が並ぶ様はタイムスリップをしたみたいで雰囲気がある。この辺りでも人気のある観光地だ。
通りに面した数軒が店舗になっており、土産物を並べていたり、軒先に座席を用意してカフェを開いていたりする。
(ああ、これまだ売ってるんだ)
土産物屋の店先にあったオコジョのキーホルダーが目に入って、思わずそう心の中で呟く。
まだ小学校に上がる前に家族でここへ来た時、これが妙に気に入ってしまった私は親に買って欲しいとせがんだのだ。しかし買ってはもらえず、大泣きして不機嫌な気持ちのままその後の時間を過ごした。
当時は反発心が勝ったが、今思うと両親に申し訳なかったなと苦笑が漏れる。こうして見ると大泣きするほどのものかと思うが、幼心には魅力的に目に映ったのだ。
賑やかな通りをもう少し先まで行くと、硝子工房の看板が見えてきた。覚えがないので、最近できた工房なのだろう。
新鮮な気持ちで近づいた看板の端に、チラシが貼ってある。どうやら、グラス作りの体験ができるようだ。
「良かったら、やりませんか? 思い出の品になると思いますし」
これまで何かを買っている様子がないので、思い出に残るものがあればと提案してみたが、夫婦は困ったように笑って首を振った。
「ごめんなさい。私達、不器用ですから」
そんな風に言われて、無理強いするわけにもいかない。
個人的に興味はあるので、今度一人で来てみようかと、私は二人と歩きながらふと思った。
次に向かったのは、小高い山だ。山頂へは整備された道路を通ったバスも出ているが、夫婦の希望で徒歩で登ることになった。
傾斜はなだらかで子どもがハイキングに登っても問題ないような山だが、老夫婦には些か厳しいのではないかと心配になる。しかしながら実際に登り始めると彼等の足腰は割にしっかりしており、危なげない足取りだ。寧ろ、運動不足気味の私の方が遅れを取る始末である。子どもの時分は何の苦労もなく登っていたというのに、時間というものは残酷だ。
息を切らせながら、夫婦より少し遅れて頂上に立った。
「わあ……」
乱れた呼吸も忘れて、思わずそんな声が漏れた。
夕陽に照らされた向日葵が、眼下一面に広がっている。明るい黄色の花弁が橙の光と重なって濃い色に変化し、それが何だか少し切なく見えた。
この向日葵畑はこの辺りでも有名なスポットで、私も今までに何度もここから眺めている。けれど夕暮れに来るのは初めてのことで、思いも寄らなかった想像以上の光景に言葉を失う。
「――これが見たかったのよ」
夫人の声がして、そちらを見遣る。仲良く二人寄り添って、向日葵畑を幸せそうに眺めていた。
「ああ、これが最後の心残りだったからね」
振り返った二人に、私は目を瞬いた。夕陽のせいか、彼等の姿が儚げに映る。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとうございます」
「お陰で、やっとあちら側に行くことができます」
穏やかに微笑んだ二人の身体が、錯覚でもなんでもなく明らかに透けていくのが判る。隠れて見えないはずの背後の向日葵がはっきり見えていく様子に、私は目を丸くすることしかできなかった。
「最後に親切な人に出会えて、嬉しかったわ」
その言葉を残して、夕陽に溶けるように消えていく。瞬く間に、二人の姿は見えなくなった。
淡い輪郭が目の奥に焼きつく。私はその場に立ち尽くして、風に揺れる向日葵畑を暫く見つめていた。
はっと気がつくと空には星が見え始め、その時になって地元テレビのニュースを思い出した。
丁度、一年前のことだ。この山の山頂から下りてきた乗用車のブレーキが突然効かなくなり、運転手がパニックを起こして車を暴走させた。登ってきたバスが突進してくるその車を避けたのだが、道路脇に車体を突っ込ませて横転。乗用車は麓まで下りた後、電柱にぶつかって停車した。
乗用車に乗っていたカップルは軽傷で、バスの運転手と乗客の大半は命に別状はなかったという。
しかし、バスに乗っていた老夫婦だけは衝撃時の打ち所が悪かったらしく、病院に運ばれたものの、そのまま亡くなったそうだ。
今も事故があった場所には、花束が置かれていると聞いた。
きっと彼等は、持ってはいけないから何も買わなかったのだ。自分達の姿が見えない周囲を気にしていたのかもしれない。
嬉しいことも、恥ずかしいことも、もどかしい思いをすることも、二人はもうできない。そう思ったら、今日私が思い出した感情が酷く愛おしいもののように感じた。
バスに乗っていた観光客は、皆この向日葵畑を見るのを楽しみにしていたのだろう。どうしても来られなかったら、また次回に回せば良い。
けれど、あの夫婦にはもうそれができなかった。
一際大きな風が吹き、向日葵が一斉に靡いて波を作る。
その景色がとても綺麗で、私は一人静かに涙を零した。




