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金婚式の朝、五十年連れ添った夫に離婚届を突きつけたら、七十歳の氷の公爵が「行くな」と泣きついてきた件について

作者: アウラ
掲載日:2026/01/22

「本日をもって、私たちの婚姻関係を解消いたします」


金婚式の朝。

純白のテーブルクロスに並べられた豪華な朝食を前に、私——エレノア・ウィンターフェルは、五十年連れ添った夫に離婚を告げた。


向かいに座るアルフレッドの手が、一瞬だけ止まる。

カップを持ち上げようとしていた、その無骨な指先が。


「……何を言っている」


低い声。

表情は変わらない。この人はいつだってそうだ。

氷の公爵と呼ばれるこの人は、私に感情を見せたことなど一度もない。


(ああ、やっぱり動揺すらしてくれないのね)


予想通りの反応に、私は内心で小さく笑った。


「言葉通りの意味ですわ、旦那様」


紅茶を一口。

いつもと変わらない、穏やかな微笑みを浮かべてみせる。

五十年かけて完璧に身につけた、公爵夫人の仮面。


「書類はすでに用意してございます。あとはご署名をいただくだけ」


「待て」


アルフレッドが立ち上がった。

椅子が軋む音が、静かな朝食の間に響く。


「許可した覚えはない」


「許可?」


私は首を傾げた。


「あら、旦那様。離婚届に相手の許可が必要だと、どの法律書に書いてありまして?」


「……っ」


言葉に詰まる夫を見るのは、五十年で初めてかもしれない。


(ふふ、少しだけ気分がいいわ)


「子供たちも独立いたしました。孫たちの顔も十分に見ました。公爵家の後継も盤石です」


一つ一つ、指折り数えるように。


「私の役目は、もう終わりましたの」


「役目だと?」


「ええ。政略結婚で嫁いだ妻の役目です」


立ち上がり、窓辺へと歩く。

朝日が差し込む庭園には、季節の花々が美しく咲いている。

この庭を整えたのは私。この屋敷を守ってきたのも私。


けれど——


「愛されなくても、愛することはできました」


振り返らずに、言葉を紡ぐ。


「旦那様の幼馴染の侯爵令嬢様のお話を、何度聞いたかしら。セシリア様がいかに美しいか、いかに聡明か、いかに……旦那様にふさわしいか」


「それは違——」


「五十年ですわ」


遮った。


「五十年、私は待ちました。いつかこの人が振り向いてくれるのではないかと。いつか『愛している』と言ってくれるのではないかと」


振り返る。

夫の顔を、真っ直ぐに見つめた。


「でも、もう十分です」


「エレノア——」


「人生百年時代と申しますでしょう?」


微笑む。

今度は、仮面ではない笑みを。


「私、残りの三十年は自分のために生きることにいたしましたの」



離婚届を残し、私は朝食の間を後にした。

廊下で待っていたマーガレットが、目を丸くしている。


「奥様……本当に言ってしまわれたのですね」


「ええ、言ったわ」


七十二歳の元侍女頭は、私が十八で嫁いできた日から、ずっと傍にいてくれた人だ。

誰よりも私の苦労を知っている。


「すっきりした?」


「……半分くらいは」


正直に答えると、マーガレットが吹き出した。


「半分ですか」


「だって五十年よ? 一言で清算できるわけないじゃない」


廊下を歩きながら、肩をすくめる。


「北の離宮の準備は?」


「整っております。いつでもお発ちになれますわ」


「そう。なら今日中に出ましょう」


「まあ、お早い」


「長居する理由がないもの」


北の離宮。

十年前、セシリアに「辺境の古い屋敷など、奥様にはお似合いですわね」と嫌味を言われて追いやられた場所。


でも私は知っている。

あの離宮の周囲には、希少な薬草が自生する森がある。

王都の喧騒もない、静かで美しい場所だ。


(やりたいことリスト、一番目——薬草園を作る)


胸の内で、密かにそのリストを確認する。

十八歳の少女が夢見て、六十八歳の女がようやく叶えようとしている夢。


「奥様」


マーガレットが、少し改まった声で言った。


「五十年お仕えして、奥様が声を上げて笑うのを初めて見ました」


「……私、笑ってた?」


「ええ、それはもう楽しそうに」


気づかなかった。

仮面を被りすぎて、自分の表情すら分からなくなっていたのかもしれない。


「そう……」


目頭が熱くなる。

泣いてはいけない。泣く必要もない。

これは悲しい別れではなく、新しい始まりなのだから。


「行きましょう、マーガレット」


「はい、奥様」


私は振り返らなかった。

五十年を過ごしたこの屋敷を。

一度も愛を告げてくれなかった夫を。


——もう、振り返らない。



馬車が本邸の門を出る直前。

窓から見えた光景に、私は目を疑った。


アルフレッドが、門の前に立っている。

あの無表情な顔に、初めて見る——焦りのような色を浮かべて。


「止まれ」


馬車を止めようとする御者に、私は首を振った。


「行って」


「しかし奥様、旦那様が——」


「行ってちょうだい」


馬車は門を通り過ぎた。

窓越しに、アルフレッドの唇が動くのが見えた。


何を言ったのかは、聞こえなかった。

聞こえなくてよかった。


(五十年遅いのよ、あなた)


私は窓の外に目をやり、流れゆく景色を眺めた。

王都の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。


——第二の人生が、始まる。


◇ ◇ ◇


北の離宮に着いて、三日が経った。


「奥様、お茶の準備ができました」


マーガレットの声に、私は書き物から顔を上げた。

窓の外には、緑深い森が広がっている。空気が美味しい。


「ありがとう。今行くわ」


テラスに出ると、そこには完璧に整えられたティーセットが待っていた。

焼きたてのスコーン、自家製のクロテッドクリーム、そして——


「薬草茶ですの?」


「昨日、奥様が森で摘んでいらした薬草で淹れてみました」


カモミールとラベンダーをブレンドした、安眠効果のある薬草茶。

香りを嗅いだだけで、心が安らぐ。


「最高だわ」


椅子に深く腰掛け、ため息をついた。

この三日間、本当に心穏やかに過ごせている。


誰にも嫌味を言われない。

夫の冷たい視線を感じることもない。

社交界の噂話に気を揉む必要もない。


(これが……自由というものなのね)


六十八年生きてきて、初めて知った感覚だった。


「奥様、今日は何をなさいますの?」


「薬草園の設計図を描いているの。この土地の土壌と日当たりを調べたら、かなり多くの種類が育てられそうよ」


「まあ、もう動き始めていらっしゃるのですね」


「当然でしょう。三十年しかないのよ、無駄にできないわ」


スコーンを一口かじる。

サクサクの食感と、ほのかな甘み。マーガレットの腕は健在だ。


「そういえば——」


マーガレットが、少し言いにくそうに口を開いた。


「ルシウス様から手紙が届いております」


「あら、息子から?」


長男のルシウスは、辺境伯領を治めている。

子供たちの中で、一番私に似て冷静な子だ。


手紙を開くと、端正な文字が並んでいた。


『母上。離婚の報せを聞きました。

遅すぎるくらいです。

母上がやっと自分を大切にする気になって、私は嬉しく思います。

何か必要なものがあれば、いつでも仰ってください。

追伸——父上が毎晩書斎に籠もって何やら唸っているそうです。自業自得ですね。』


「ふふっ」


思わず笑ってしまった。


「良いお手紙でしたか?」


「ええ、とても」


息子の『自業自得ですね』という一言が、妙に心に染みた。

分かってくれている人がいる。それだけで十分だ。


返事を書こうとペンを取ったその時——


「奥様! 大変です!」


若い使用人が、血相を変えて飛んできた。


「どうしたの、そんなに慌てて」


「あ、あの、その——」


使用人はテラスの向こうを指差した。

私もマーガレットも、そちらを見て——


固まった。


庭園の入り口に、一台の馬車が止まっている。

見覚えのある紋章。ウィンターフェル公爵家の——


「嘘でしょう」


馬車から降りてきたのは、銀髪を後ろに撫でつけた長身の男。

七十歳とは思えない威厳ある体躯。鷹のような碧眼。


アルフレッド・ウィンターフェル。

私が三日前に離婚を突きつけた、夫だった。



「……何をしにいらしたの」


応接間に通してしまったことを、すでに後悔している。

追い返せばよかった。門前払いにすればよかった。


でも——使用人たちの前で醜態を晒すわけにはいかないという、長年の習慣が邪魔をした。


「視察だ」


「は?」


「領地視察の途中で立ち寄った」


「……この離宮は、領地視察の経路上にありませんけれど」


北の離宮は、どの主要な領地からも外れた僻地にある。

「途中で立ち寄る」ような場所では断じてない。


アルフレッドは、一瞬だけ目を泳がせた。


(嘘が下手すぎない?)


「……体調管理だ」


「はい?」


「ここの空気は体に良いと聞いた」


「あなた、病気一つしたことないでしょう」


「予防だ」


「七十年間予防してこなかった人が、今更?」


沈黙。

アルフレッドの眉間に皺が寄る。

言い訳が尽きたらしい。


(はあ……何しに来たのよ、本当に)


「マーガレット」


「はい、奥様」


「お茶をお出しして」


「……よろしいので?」


「客人ですもの。最低限のもてなしは必要でしょう」


マーガレットが一礼して出て行く。

その背中に向かって、私は付け加えた。


「ただし、一杯だけね」


「かしこまりました」


アルフレッドがこちらを見た。

何か言いたそうな顔をしている。でも言葉が出てこないらしい。


(五十年一緒にいて、まだ会話が下手なのね)


「お茶はお出ししますが、期待はお持ち帰りください」


「……何?」


「言葉通りの意味です、旦那様」


優雅に微笑んでみせる。

五十年磨いた、完璧な公爵夫人の微笑み。


——ただし今回は、塩分多めで。



結局、アルフレッドは茶を一杯飲んだだけで帰っていった。

会話らしい会話もなく、ただ私の顔を見つめて、無言で茶を啜って。


(何がしたかったの……?)


理解できない。五十年一緒にいても、この人のことは理解できなかった。


「奥様」


マーガレットが、空になったカップを片付けながら言った。


「旦那様、随分とお痩せになっていませんでしたか?」


「……そう?」


「ええ。顔色も優れないようでしたし」


言われてみれば、確かに頬がこけていたような。

三日会わなかっただけで、そんなに変わるものだろうか。


「関係ないわ」


「そうですね。関係ありませんね」


マーガレットの声には、どこか含みがあった。


「何?」


「いえ、何も」


「マーガレット」


「……五十年お仕えして、旦那様があんな顔をされるのは初めて見ました」


「あんな顔?」


「迷子の子供のような顔です」


馬鹿馬鹿しい。

あの冷徹な氷の公爵が、迷子の子供?


「疲れているのよ、あなた」


「そうかもしれませんね」


マーガレットは微笑んで、それ以上は何も言わなかった。



その夜。

眠れなくて、窓辺に立った。

月明かりに照らされた森が、静かに風に揺れている。


(迷子の子供、ね……)


ふと、思い出す。

五十年前。政略結婚で嫁いできた夜。


初夜の寝室で、アルフレッドは私に触れようとしなかった。

『疲れているだろう。寝ろ』とだけ言って、背を向けて。


当時は、嫌われているのだと思った。

幼馴染のセシリアを愛しているから、政略結婚の相手など見たくもないのだと。


でも——


(あの時の背中も、どこか強張っていたような……)


首を振る。

今更そんなことを考えても意味がない。


「五十年よ。五十年」


声に出して、自分に言い聞かせる。


「今更、何を期待しているの。バカみたい」


月を見上げる。

冷たく澄んだ光が、目に沁みた。


——明日も、あの人は来るのだろうか。


(来なくていいのに)


そう思いながら、私はなかなか寝床につけなかった。


◇ ◇ ◇


アルフレッドは、来た。

翌日も。その翌日も。その次の日も。


「……また来たの」


「領地視察だ」


「昨日も一昨日も視察でしたわね」


「領地は広い」


「この離宮の周囲に領地はありませんけれど」


「……」


黙り込むアルフレッド。

言い訳のレパートリーが尽きたらしい。


一週間が経った。


信じられないことに、アルフレッドは離宮に居座り始めた。

「帰りが遅くなった」「馬が疲れている」「天候が悪い」——毎日違う言い訳をして、離れの客室に泊まっている。


(いや、天気良いじゃない。快晴じゃない)


窓の外を見ながら、私は深々とため息をついた。


「奥様、旦那様が朝食をご一緒したいと」


「お断りして」


「かしこまりました」


マーガレットが優雅に一礼して去っていく。

数分後、戻ってきた。


「旦那様が、せめてお茶だけでもと」


「お断りして」


「かしこまりました」


去っていく。また戻ってくる。


「旦那様が、顔を見るだけでいいからと」


「お断りして」


「かしこまりました」


これを毎朝繰り返している。

正直、マーガレットには申し訳ない。


「……マーガレット、あなた大変でしょう」


「いえ、楽しんでおりますわ」


「楽しんでるの?」


「ええ。旦那様のあんなに必死なお顔、五十年見たことがございませんでしたから」


七十二歳の侍女は、実に愉快そうに笑った。



その日の午後。

私は薬草園の予定地で、土壌の調査をしていた。


「この辺りの土は酸性度が高いから、ローズマリーには向かないわね……」


手帳にメモを取りながら、膝をついて土を触る。

指先が土で汚れる。爪の間に入り込む。

公爵夫人らしからぬ姿だと、社交界の人間が見たら卒倒するだろう。


(でも、楽しい)


素直にそう思った。

五十年間、私がやりたいことは全て「公爵夫人にふさわしくない」と封じられてきた。

薬草学への興味も。領地経営の実務も。本当は全部、自分の手でやりたかった。


今は違う。

誰にも文句を言われない。好きなことができる。


「奥様、お茶をお持ちしました」


顔を上げると、マーガレットがバスケットを持って立っていた。


「ありがとう。少し休憩しましょうか」


木陰のベンチに腰掛け、マーガレットが淹れてくれた茶を受け取る。

ふと、視線を感じた。


庭園の端。

木の陰から、こちらを見ている人影がある。

銀髪。長身。鷹のような碧眼——


「……見てるわね」


「見てますね」


「何がしたいのかしら」


「さあ」


私たちは特に気にせず、茶を飲み続けた。

アルフレッドは木の陰から動かない。

まるで、こちらの様子を窺う野生動物のようだ。


(狼というより、迷い犬みたいね)


「声をかけなくてよろしいので?」


「なぜ私から声をかけなくちゃいけないの」


「それもそうですね」


茶を飲み干し、私は立ち上がった。


「さて、続きをやりましょう」


「あの、奥様。少しお伝えしたいことが」


「何?」


「旦那様、昨晩もほとんど召し上がっていないそうです」


「……それが?」


「いえ、ただの報告ですわ」


マーガレットは澄ました顔で片付けを始めた。

私は——


(知らないわよ。自業自得でしょう)


——そう思いながら、なぜか少しだけ胸がざわついた。



夕方。

書斎で薬草園の設計図を描いていると、ノックの音がした。


「どうぞ」


入ってきたのは、アルフレッドだった。


「……何か御用?」


「話がある」


ずいと部屋に入ってくる。

勝手に椅子を引き、私の向かいに座った。


(相変わらず、人の話を聞かないわね)


「手短にお願いしますわ。私、忙しいので」


「それは何だ」


「薬草園の設計図です」


「薬草園?」


「ええ。この離宮の周囲には希少な薬草が自生しているの。それを体系的に栽培して、医療用に供給する事業を始めようと思っていますの」


アルフレッドが目を見開いた。

珍しい。この人が驚いた顔を見せるなんて。


「お前が……事業を?」


「おかしいですか?」


「いや……」


言葉を探すように、アルフレッドが口ごもる。


「知らなかった。お前が、そのような知識を持っていたとは」


「知ろうともしなかったでしょう」


さらりと返すと、アルフレッドが息を呑んだ。


「あなたが私に興味を持ったことは、五十年間一度もありませんでしたから」


「……それは」


「違いますか?」


沈黙。


私は設計図に目を戻した。

ペンを走らせながら、淡々と続ける。


「公爵家の財政を立て直したのは、私ですわ。あなたが継いだ時、公爵家は破産寸前だった。それを二十年かけて黒字化したのは、私の領地経営改革です」


「……」


「社交界の情報網も、私が五十年かけて構築しました。あなたが政治的に優位に立てたのは、その情報があったからです」


「……」


「全部、知らなかったでしょう?」


顔を上げる。

アルフレッドの顔は、蒼白だった。


「私はずっと、あなたの隣にいたわ。でもあなたの目には、幼馴染の侯爵令嬢しか映っていなかった」


「違う」


「何が違うの」


「セシリアなど——」


アルフレッドが立ち上がった。

大きな手が、テーブルを叩く。


「あれはただの——」


言葉が途切れる。

苦しそうに眉を寄せ、何かを必死に絞り出そうとしている。


「ただの?」


「……」


出てこない。言葉が。

この人は昔からそうだ。肝心なことが言えない。


「もういいわ」


私は席を立った。


「話は終わりです。夕食は使用人に用意させますから、お好きにどうぞ」


「待て」


「待ちません」


振り返らず、書斎を出た。


背後で、何かを殴りつける音がした。

おそらく、壁か何かを叩いたのだろう。


(知らない。もう、知らないわ)


足早に廊下を歩きながら、私は自分の目元が熱くなっているのに気づいた。


泣くものか。

五十年分の涙は、もう枯れた。



その夜。

眠れなくて、また窓辺に立った。


月明かりの庭に、人影が見えた。

アルフレッドだ。


ベンチに座って、何かを見つめている。

近寄ってみると——花壇だった。

私が三日前に植えた、カモミールの苗。


「……何をしているの」


声をかけると、アルフレッドが振り向いた。

月明かりに照らされた顔は、どこか——虚ろだった。


「この花は」


「カモミールよ」


「お前の、好きな花か」


「……ええ」


答えてから、はっとした。

なぜこの人が、私の好きな花を知っているのだろう。

話したことはないはずだ。


「本邸の庭にも、植えさせた」


「え?」


「二十年前から。お前がよく足を止める花を調べて、庭師に命じた」


「……」


「知らなかっただろう」


言葉が出なかった。


アルフレッドが立ち上がり、私の方を向いた。

月明かりの下、その碧眼が——揺れている。


「私は……お前を、手放すつもりはなかった」


「……」


「言わなかっただけで」


「言わなかっただけで?」


声が震えた。怒りで。悲しみで。五十年分の感情で。


「五十年間、一度も言わなかったのに?」


「……」


「あなたが言ってくれたのは、幼馴染がいかに素晴らしいかという話だけだった。私がどれだけ——」


声が詰まる。

言うまいと思っていた言葉が、溢れ出そうになる。


「どれだけあなたを愛していたか、知りもしないで」


月が雲に隠れた。

暗闇の中、私たちは向かい合って立っていた。


「エレノア」


「もう遅いのよ」


踵を返す。


「五十年遅い。さようなら、アルフレッド」


歩き出す私の腕を、大きな手が掴んだ。


「放して」


「嫌だ」


「放しなさい」


「嫌だ」


子供のような声だった。

七十歳の公爵とは思えない、必死な響き。


「私は——」


アルフレッドの声が、かすれた。


「お前以外を、愛したことはない」


「……っ」


「五十年間、ずっと」


手が震えている。

私の腕を掴む、その大きな手が。


「信じなくていい。今は信じなくていい。だが——」


力が込められた。


「行かないでくれ」


雲が流れ、月が顔を出した。

照らされたアルフレッドの顔には——


涙が、流れていた。


五十年間、一度も見たことのない。

氷の公爵の、涙。


私は——


「……一晩だけよ」


気づけば、そう言っていた。


「一晩だけ、話を聞いてあげる。それで終わり。いいわね?」


腕を振り払い、先に歩き出す。

背後から、足音がついてきた。


(バカみたい。本当にバカみたい)


でも——


(五十年分の言い訳くらい、聞いてやってもいいでしょう)


月明かりの中、私たちは並んで歩いた。

五十年目にして、初めて——対等に。


◇ ◇ ◇


応接間の暖炉に、火を入れた。

パチパチと薪が爆ぜる音だけが、静かな部屋に響く。


向かい合って座る私たちの間には、テーブル一つ分の距離。

近いようで、果てしなく遠い。


「……話して」


アルフレッドは俯いたまま、しばらく黙っていた。

言葉を探しているのか、言う勇気を集めているのか。


やがて、低い声が響いた。


「私は——言葉を知らなかった」


「言葉?」


「愛を伝える言葉を」


顔を上げる。

炎に照らされた碧眼が、真っ直ぐに私を見た。


「父も母も、そういう言葉を交わさない人間だった。使用人たちも、貴族としての礼儀作法しか教えなかった。私は——誰にも教わらなかったんだ。人を愛しているとき、どうすればいいのか」


「……」


「十八の時、婚約者としてお前を見た瞬間——息が止まった」


「え?」


アルフレッドの目が、どこか遠くを見る。


「翡翠の瞳。凛とした佇まい。何より——私の目を真っ直ぐに見たお前の眼差し。媚びることも怯えることもなく、ただ堂々と」


記憶を辿る。

確かに、初対面の時——私はこの人を睨んでいた。

政略結婚を押し付けられた怒りを込めて、精一杯の反抗として。


「一目惚れ、というものを初めて知った」


「……嘘」


「嘘ではない」


アルフレッドの声には、不思議な確信があった。


「だが、同時に——絶望もした」


「絶望?」


「政略結婚だ。お前は私を愛してなどいない。私に嫁ぐことを、喜んでなどいない。あの瞳を見れば分かった」


苦笑が漏れる。アルフレッドの口元から。


「だから距離を取った。迷惑だろうと思ったから。望まぬ結婚を強いた男に、これ以上近づかれても不愉快だろうと」


「それで……五十年?」


「ああ。五十年、私は——お前を遠くから見つめることしかできなかった」


言葉が出なかった。


私が冷遇だと思っていたもの。

無関心だと思っていたもの。


全部——この人なりの、不器用な配慮だったというのか。


「待って」


頭を振る。


「でも、セシリアの話ばかりしていたでしょう。彼女がいかに美しいか、いかにあなたに相応しいか——」


「あれは」


アルフレッドが顔を歪めた。


「お前と、何を話せばいいか分からなかったんだ」


「……は?」


「共通の話題が——社交界の噂しかなかった。セシリアは社交界で有名だったから、話題にしやすかった。それだけだ」


「それだけって——」


呆れを通り越して、笑いが込み上げてきた。


「あなた、本当に……本当に馬鹿ね」


「……分かっている」


「分かってないわ。全然分かってない」


涙が溢れた。

怒りでも悲しみでもない、名前のつけられない感情の涙。


「私がどれだけ傷ついたか、分かる? 毎日、毎日、他の女の話を聞かされて。この人は私を愛していないんだって、思い知らされて」


「すまない」


「謝って済む話じゃないのよ」


「分かっている。だが——」


アルフレッドが立ち上がった。

テーブルを回り込み、私の前に膝をつく。


「エレノア」


下から見上げられる。

七十歳の公爵が、床に膝をついて。


「五十年分の——愛していると言いたい」


「今更——」


「愛していた」


声が震えている。


「五十年前から、今日まで、ずっと。お前だけを」


「……」


「お前の笑顔を見るたびに心臓が跳ねた。お前の声を聞くたびに幸福だった。お前が誰かと話しているだけで嫉妬した。お前の体調が悪いと眠れなかった。お前の——」


堰を切ったように、言葉が溢れ出す。

五十年間、この人の中に閉じ込められていた言葉が。


「毎晩、お前の寝室の前を通った。お前の寝顔を見たくて。でも入る勇気がなかった。毎朝、お前より早く起きてお前の顔を見た。起きる前に部屋を出た。気づかれたくなかったから」


「それ——」


「ストーキングだ。分かっている。気持ち悪いと思われても仕方ない」


自嘲気味な声。


「でも——それしかできなかったんだ。お前を愛しているのに、お前に近づく方法が分からなくて」


七十歳の男が、泣いていた。

声を殺して、肩を震わせて。


私は——


「……本当に、馬鹿ね」


手を伸ばした。

その銀髪に、指先を触れる。


「五十年、ストーキングしてたの?」


「……ああ」


「気持ち悪いわ」


「……すまない」


「でも——」


頭を撫でる。

初めて触れる、夫の髪。


「でも、嬉しい」


「え——」


顔を上げたアルフレッドの目が、大きく見開かれた。


「愛されてたって、知れて。五十年遅いけど」


涙が流れる。

今度は、安堵の涙。


「愛されてないと思ってた。ずっと。だから——」


言葉が詰まる。


「だから、諦めたの。もう期待するのをやめようって」


「エレノア——」


「でも、本当は——」


五十年間、誰にも言えなかった言葉。


「本当は、あなたに愛されたかった」



暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


二人とも、しばらく黙っていた。

言葉を交わす必要がなかった。


「……これで終わり、ではないのだろう」


アルフレッドが、静かに言った。


「分かってる」


「五十年分の傷は、一晩で癒えるものではない」


「その通りよ」


立ち上がり、窓辺に歩く。

夜が白み始めていた。話しているうちに、夜明けが近づいていたらしい。


「一晩で許せるほど、私は甘くないわ」


「分かっている」


「でも——」


振り返る。


「チャンスをあげてもいい」


「チャンス?」


「あと三十年あるでしょう」


人生百年時代。

六十八の私には、まだ三十年以上ある。


「三十年かけて、行動で示して」


「行動で?」


「言葉はもういいわ。五十年分聞いたから」


少しだけ、笑ってみせる。


「今度は行動で見せなさい。本当に私を愛しているなら」


アルフレッドが立ち上がった。

大きな体が、私の前に立つ。


「何をすればいい」


「自分で考えなさい」


「ヒントをくれ」


「甘えないで」


「……」


「まずは——」


人差し指を立てる。


「私を追いかけるのをやめなさい」


「は?」


「ストーキングは終わり。私が呼んだときだけ来なさい」


「待て、それでは——」


「対等な関係を築くの。私はもう、あなたの『妻』じゃない」


「では何だ」


「さあ、何かしらね」


窓の外を見る。

東の空が、茜色に染まり始めていた。


「答えは、三十年かけて探しましょう」



翌朝。


アルフレッドは、離宮を発った。


「行くのか」


「私の仕事があるもの。あなたには、あなたの」


馬車に乗り込む夫を、玄関先で見送る。


「また来てもいいか」


「呼んだらね」


「いつ呼ぶ」


「さあ。気が向いたら」


「……」


不満そうな顔。

七十歳とは思えない、子供のような顔だ。


(この人、本当に面倒くさいわね)


「一つだけ教えてあげる」


「何だ」


「私、週末は暇よ」


言うと、アルフレッドの目が輝いた。

本当に、分かりやすい人だ。


「週末に来る」


「呼んでないわ」


「いや、今呼んだ」


「呼んでない」


「『週末は暇』と言った。呼んでいる」


「曲解しないで」


「曲解ではない」


馬車が動き出す。

窓から身を乗り出したアルフレッドが、大声で言った。


「週末に来る! 覚悟しておけ!」


「……はあ」


呆れてため息をついたが——

口元が緩むのは、止められなかった。


「奥様」


背後から、マーガレットの声。


「嬉しそうですわね」


「嬉しくなんかないわ」


「そうですか。口元が緩んでいらっしゃいますが」


「……緩んでない」


「そうですか」


含み笑いの気配。

振り向くと、マーガレットは実に楽しそうな顔をしていた。


「五十年遅い春ですわね」


「春なんかじゃ——」


言いかけて、やめた。


春。

そうかもしれない。


六十八歳の、遅すぎる春。

でも——


(遅すぎることなんて、ないのかもしれない)


馬車が見えなくなるまで、私はそこに立っていた。


◇ ◇ ◇


数日後。

予想外の来客があった。


「セシリア・フォンターナ侯爵令嬢がお越しです」


使用人の報告に、私は思わず笑ってしまった。


(よりにもよって、この人が来るの)


五十年間、私を見下し続けた女。

夫の幼馴染で、「本当に愛されているのは私」と信じて疑わなかった女。


「お通しして」


応接間で待っていると、派手な絹のドレスを纏ったセシリアが入ってきた。

六十七歳。金髪は染めているのだろう、若作りに余念がない。


「あら、エレノア」


優雅に微笑みながら、ソファに腰を下ろす。


「随分と辺鄙なところにいらっしゃるのね。こんな僻地に追いやられて、お気の毒だわ」


開口一番、これだ。

変わらないわね、この人。


「お気遣いありがとうございます。でも私、ここが気に入っていますの」


「まあ、強がりを言って」


セシリアが艶やかな笑みを浮かべる。


「聞いたわよ、エレノア。アルフレッド様と離婚なさったとか」


「ええ」


「そう。それは——残念ですわね」


全く残念そうではない声。

むしろ、喜びを隠しきれていない。


「五十年も尽くして、最後は捨てられるなんて。哀れですわ」


(捨てられた、ね。面白い解釈だわ)


「あら、違いますわ」


紅茶を一口。


「捨てたのは私ですの」


「……え?」


「離婚を切り出したのは私。書類を用意したのも私。アルフレッドは——むしろ必死に引き留めようとしていましたわ」


セシリアの顔から、笑みが消えた。


「嘘おっしゃい」


「嘘ではありませんわ。ご本人にお確かめになったら?」


「アルフレッド様が、あなたを引き留める? そんなはずが——」


「あるんですのよ」


立ち上がり、窓辺に歩く。

庭園のカモミールが、風に揺れていた。


「五十年間、私はずっと勘違いしていました。アルフレッドに愛されていないと」


振り返る。


「でも違ったの。あの人は私を愛していた。ただ——不器用すぎて言えなかっただけ」


セシリアの顔が、みるみる青ざめていく。


「あなたの話ばかりしていたのも、私との会話の糸口が分からなかっただけですって。面白いでしょう? 七十年生きて、まだ会話の仕方も知らない殿方」


「う、嘘よ……」


「信じなくても構いませんわ。でも事実ですの」


優雅に微笑む。

五十年磨いた、完璧な公爵夫人の微笑み。


「それで——何のご用かしら、セシリア様」



セシリアの本当の目的は、すぐに分かった。


「あなたがいなくなって、アルフレッド様もさぞお寂しいでしょうから」


「ええ、そうかもしれませんわね」


「私が——お傍にいて差し上げようかと思いまして」


(やっぱり)


公爵夫人の座を狙っている。

私がいなくなった隙に、アルフレッドに取り入ろうとしている。


「まあ、それはご自由に」


「え?」


「アルフレッドの傍にいたいのなら、どうぞ。私には関係ありませんから」


セシリアが目を丸くする。

予想外の反応だったのだろう。


「止めないの?」


「なぜ私が止めなくてはいけないの?」


「だって、あなた——」


「離婚したのよ。もう妻ではありませんわ」


肩をすくめる。


「それに——」


ふと、思い出す。

先日のアルフレッドの告白を。


「あの人が誰を選ぶか、私には分かっていますから」


「何ですって?」


「五十年間、私だけを愛していたと言った殿方よ? 今更、他の女性に心変わりするとは思えませんわ」


セシリアの顔が、屈辱に歪んだ。


「あなた——私を馬鹿にしているの?」


「いいえ。事実を申し上げているだけですわ」


「アルフレッド様は、私の幼馴染よ。あなたより、ずっと長く——」


「長く、何ですの?」


遮った。


「長く片想いしていた? それは——お気の毒ですわね」


セシリアが立ち上がった。

顔を真っ赤にして、怒りに震えている。


「覚えていらっしゃい、エレノア。あなたがいなくなった公爵家で、私が——」


「そうそう、一つお伝えしておきますわ」


話を遮る。


「公爵家の財産管理、社交界の人脈、領地経営の実権——全て私が握っていますの」


「……は?」


「離婚しても、それは変わりませんわ。私の許可なくしては、公爵家は一歩も動けない」


立ち上がり、セシリアの前に歩み寄る。


「つまり——公爵夫人の座を手に入れても、あなたには何の権力もありませんの」


セシリアの顔から、血の気が引いていく。


「それから、社交界のこと。あなたがこれまで招かれてきた全ての夜会、全ての茶会——私が口添えしていたこと、ご存知?」


「え……」


「私がいなくなれば、あなたへの招待状も届かなくなりますわ。ホルシュタイン伯爵夫人も、メルツェン公爵夫人も——皆、私の友人ですもの」


セシリアが、よろめいた。


「う、嘘よ……」


「試してみれば分かりますわ」


微笑む。

今度は——仮面ではない、心からの笑み。


「さようなら、セシリア様。お元気で」



セシリアが帰った後。

マーガレットが、温かい茶を持ってきてくれた。


「お見事でしたわ、奥様」


「あら、聞いていたの」


「少しだけ」


少しどころではないだろう。全部聞いていたに違いない。


「五十年分の仕返し、少しだけできたかしら」


「十分ですわ」


「そうかしら。まだ足りない気がするわ」


紅茶を飲みながら、窓の外を見る。

セシリアの馬車が、遠ざかっていくのが見えた。


「これから、あの方は大変でしょうね」


「ええ。社交界での立場を全て失いますわ」


「自業自得ですわね」


「全くです」


二人で、静かに笑った。



一週間後。

ルシウスから手紙が届いた。


『母上。王都で面白いことが起きています。

フォンターナ侯爵夫人が、あちこちの夜会から締め出されているそうです。

「公爵夫人の口添えがなければ来るな」と言われたとか。

因果応報とはこのことですね。

追伸——父上が毎晩「週末はまだか」と呟いているそうです。滑稽です。』


「ふふ……」


手紙を読みながら、笑いが漏れた。


『追伸の追伸——父上から伝言です。

「今週末、必ず行く。待っていろ」とのこと。

伝書鳩のように使われている息子より。』


「あの人ったら……」


呆れながらも、頬が緩む。


週末が、少しだけ楽しみになっている自分がいた。


(駄目よ、チョロすぎる)


でも——


(五十年待ったのだから、少しくらいチョロくてもいいわよね?)


窓の外では、カモミールの花が風に揺れていた。


◇ ◇ ◇


週末。


約束通り——いや、一方的な宣言通り——アルフレッドがやってきた。


しかも。


「何よ、その荷物」


馬車から降りてきたアルフレッドの背後には、大量の荷物が積まれていた。

使用人たちが次々と運び出す箱、箱、箱。


「お前への贈り物だ」


「贈り物?」


「『行動で示せ』と言っただろう」


「言いましたけど——」


箱が開けられていく。

中から出てきたのは——


「薬草学の専門書……?」


「お前が好きだと聞いた。王立図書館の稀覯本を買い取った」


「王立図書館の? そんなの、普通は売ってくれないでしょう」


「公爵の権限で何とかした」


「権力乱用じゃない」


「お前のためなら乱用する」


真顔で言われて、言葉に詰まった。


次の箱からは、色とりどりの種が出てきた。


「これは……薬草の種?」


「大陸各地から取り寄せた。希少種も含まれている」


「え、これ全部?」


「足りなければ追加で取り寄せる」


「いや、多すぎるわよ!」


さらに箱が開く。

高品質な園芸道具。特注の温室の設計図。専門の庭師を雇う契約書——


「ちょっと待って」


頭を抱えた。


「あなた、私が欲しいって言った覚えないわよ」


「お前は言わないだろうから、こちらで用意した」


「勝手に決めないで」


「嫌か?」


「嫌じゃないけど——」


言いかけて、止まった。

アルフレッドが、真剣な目でこちらを見ていた。


「五十年、何もしてやれなかった」


「……」


「これからは——お前の望むものを、全て与えたい」


不器用な言葉。

不器用な愛情表現。


(この人は本当に……)


「……一つだけ聞いていい?」


「何だ」


「これ、全部自分で選んだの?」


「当然だ」


「本当に?」


「……侍従に多少の助言をもらった」


「多少?」


「……かなりの助言をもらった」


正直に言うところが、この人らしい。


「でも、最終的には私が選んだ」


「そう」


ため息をついて、贈り物の山を見渡した。

どれも、確かに私が欲しかったもの。私が必要としていたもの。


「……ありがとう」


「受け取るのか」


「受け取らなければ、いつまでもここに置いておくつもりでしょう」


「その通りだ」


「面倒な人ね」


「自覚している」



贈り物の整理が終わった後。

アルフレッドが、珍しくそわそわしていた。


「どうしたの」


「……出かけないか」


「出かける? どこに?」


「近くに湖があると聞いた。景色が良いらしい」


「知ってるわ。散歩には良い場所よ」


「では、行こう」


「……急ね」


「嫌か?」


「嫌じゃないけど——」


また言いかけて、止まった。

アルフレッドの顔が、どこか期待に満ちている。


(もしかして、これって……)


「デートのお誘い?」


「——っ」


アルフレッドの耳が、赤くなった。

七十歳の公爵の耳が。


「そ、そのような言い方は——」


「違うの?」


「違わないが——」


「じゃあデートね」


立ち上がる。


「支度してくるわ。少し待ってて」


「あ、ああ」


部屋を出ようとして、振り返る。


「六十八年生きてきて、初めてのデートよ」


「……私もだ」


「そう。じゃあ——」


少しだけ、微笑んでみせる。


「楽しみにしてるわ」



湖への小道を、二人で歩いた。


木漏れ日が差し込む森の中。

鳥のさえずりが聞こえる。風が心地よい。


並んで歩くのは、五十年で初めてかもしれない。

社交の場では、いつも夫の三歩後ろを歩いていた。


「不思議な気分ね」


「何がだ」


「こうして普通に歩いているのが」


「……そうだな」


沈黙。

気まずい沈黙ではない。穏やかな静けさ。


「エレノア」


「何?」


「手を——」


アルフレッドが言いかけて、止まった。

耳が真っ赤だ。


「手を、何?」


「……何でもない」


「言いかけたでしょう」


「気のせいだ」


「嘘が下手ね」


ため息をついて、私から手を差し出した。


「繋ぎたいの?」


「——っ」


アルフレッドが固まった。

目を見開いて、私の手と顔を交互に見ている。


「いつまで固まってるの」


「あ、ああ」


ぎこちなく、大きな手が私の手を包んだ。

温かい。少し震えている。


「緊張してる?」


「……していない」


「手が震えてるわよ」


「寒いからだ」


「夏よ」


「……」


黙り込むアルフレッド。

繋いだ手は、離さなかった。


「七十歳にもなって、手を繋ぐのに緊張するなんて」


「笑うな」


「笑ってないわ」


笑っていた。声に出さないだけで。


「私も、緊張してるわ」


「……本当か」


「本当よ。心臓が変な音を立ててる」


「私もだ」


繋いだ手に、少しだけ力が込められた。


「湖に着いたら——」


「着いたら?」


「弁当を用意してある」


「え?」


「マーガレットに頼んだ。お前の好物ばかりだと言っていた」


「……事前に連絡してたの」


「当然だ。デートなのだから」


「デートって認めたわね」


「……うるさい」


手を繋いだまま、湖に向かって歩く。

木漏れ日が、二人の影を一つに重ねていた。



湖畔のベンチで、弁当を広げた。

サンドイッチ、フルーツ、チーズ——確かに、私の好物ばかりだ。


「いただきます」


サンドイッチを一口。

美味しい。マーガレットの腕は相変わらず確かだ。


「美味いか」


「ええ、とても」


「そうか」


アルフレッドが、安堵したように息をついた。

自分で作ったわけでもないのに、なぜそんなに安心するのか。


(この人、本当に可愛いところがあるわね)


——いや、可愛いって何。七十歳の公爵に対して。


「何を考えている」


「別に」


「嘘が下手だな」


「あなたには言われたくないわ」


湖面を渡る風が、髪を揺らした。

キラキラと光る水面を眺めながら、サンドイッチを食べる。


穏やかな時間。

五十年間、一度も持てなかった時間。


「エレノア」


「何?」


「幸せか」


唐突な質問に、手が止まった。


「……どうして?」


「知りたいだけだ」


真っ直ぐな碧眼が、私を見つめている。

嘘を許さない目だ。


「……分からないわ」


正直に答えた。


「五十年間、幸せって何か分からなかった。だから——今が幸せなのかどうかも、分からない」


アルフレッドの目が、苦しげに細められた。


「だが——」


サンドイッチを置いて、湖を見つめる。


「悪くないとは思う。今のこの時間」


「……そうか」


「あなたは?」


「私は——」


アルフレッドが、私の横顔を見つめている。視線を感じる。


「私は、幸せだ」


「そう」


「お前の隣にいられるだけで」


「……」


不意に、目頭が熱くなった。


「急にそんなこと言うの、ずるいわ」


「本当のことだ」


「だから、ずるいって言ってるの」


涙を拭う。

泣くつもりなんてなかったのに。


「五十年早く言ってほしかった」


「……すまない」


「謝らないで。今更謝られても困るわ」


「では、どうすればいい」


「分からないわよ、そんなの」


ふて腐れたように言うと、アルフレッドが——笑った。


小さく、不器用に。

五十年間で、初めて見る笑顔。


「なっ——」


「お前は変わらないな」


「何が」


「五十年前、初めて会った時と同じ目をしている」


「……どんな目よ」


「真っ直ぐで、強くて、美しい目だ」


言葉を失った。


「私は、その目に惚れた」


「……っ」


顔が熱い。六十八歳にもなって、顔が赤くなるなんて。


「もう、やめて」


「何を」


「そういうこと言うの」


「事実を言っているだけだ」


「だから困るって言ってるの」


湖面を見つめる。

自分の顔が映っていないことを祈りながら。


「六十八歳で、こんなに動揺するなんて思わなかった」


「七十歳も動揺している」


「知らないわよ」


「嘘だ。手が震えているのを見ただろう」


「……見た」


横目で見ると、アルフレッドも湖面を見つめていた。

耳が、まだ赤い。


「お互い、大人なのにね」


「大人だからこそ、難しいのかもしれない」


「そうかもね」


風が吹いた。

湖面が波立ち、光がキラキラと散る。


「また、来てもいいわ」


「——」


アルフレッドが、弾かれたように振り向いた。


「今、何と——」


「聞こえたでしょう」


「もう一度言ってくれ」


「嫌よ」


「頼む」


「子供みたいなこと言わないで」


「お前が言った言葉を、もう一度聞きたいだけだ」


真剣な目。

七十歳とは思えない、純粋な眼差し。


「……また来ていいって、言ったの」


「本当か」


「本当よ」


「嘘ではないな」


「嘘じゃないわ」


「来てもいいのだな」


「何度も確認しないで」


アルフレッドの顔が、ぱあっと輝いた。

本当に、子供のようだ。


「来週も来る」


「いいわ」


「再来週も来る」


「いいわよ」


「毎週来る」


「……しつこいわね」


「駄目か」


「駄目とは言ってないでしょう」


ため息をついて、残りのサンドイッチを口に放り込んだ。


アルフレッドの嬉しそうな顔を、直視できなかった。

でも——


(悪くない)


心の中で、そう思った。


◇ ◇ ◇


薬草園の事業が、軌道に乗り始めていた。


希少な薬草の栽培に成功し、近隣の医療施設への供給を始めた。

評判は上々。「北の離宮の薬草は効きが良い」と、遠方からの注文も入るようになった。


「奥様、また注文書が届きました」


マーガレットが、分厚い封筒の束を持ってきた。


「これで今月三十件目ね」


「素晴らしい成果ですわ」


「まだまだよ。供給体制を整えないと、需要に追いつかない」


デスクに向かい、事業計画を見直す。

温室の増設、スタッフの雇用、流通経路の確保——やることは山ほどある。


でも、楽しい。

自分の力で何かを生み出している実感がある。


「奥様」


「何?」


「王都から、使者がお見えです」


「王都から?」


ペンを置いて、顔を上げた。


「どなたから?」


「ヴィクトリア王太后様から、とのことです」


「——王太后様?」



王太后ヴィクトリア。

現王の母であり、宮廷政治を裏で動かす黒幕と噂される人物。


若い頃、社交界で何度か言葉を交わしたことがある。

聡明で辛辣、権力者たちを手玉に取る老獪な方だった。


(なぜ、王太后様が私に……?)


使者を応接間に通し、書状を受け取った。

開封すると、流麗な文字が目に飛び込んできた。


『エレノア。久しぶりね。

あなたの薬草園事業の噂、王都にまで届いているわ。

素晴らしい成果だと聞いています。

近々、直接お会いしたいの。

都合の良い日を教えてちょうだい。

追伸——五十年前から、あなたの才覚には期待していたのよ。やっと花開く時が来たわね。』


「……」


書状を読み返す。

王太后が、わざわざこちらに会いに来るというのか。


「マーガレット」


「はい」


「王太后様をお迎えする準備を」


「かしこまりました」


何かが、動き始めている。

そんな予感がした。



一週間後。

王太后ヴィクトリアが、北の離宮を訪れた。


白銀の髪に紫水晶の瞳。

杖をつきながらも背筋は伸び、七十五歳とは思えない気品を漂わせている。


「お久しぶりね、エレノア」


「お目にかかれて光栄でございます、王太后様」


「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。私たち、昔はもっと打ち解けていたでしょう?」


柔らかな笑みを浮かべながら、ヴィクトリアは応接間のソファに腰を下ろした。


「茶を」


「はい」


マーガレットが、自慢の薬草茶を用意する。

ヴィクトリアは一口飲んで、目を細めた。


「美味しいわ。これが噂の薬草茶ね」


「お口に合いましたら幸いです」


「単なる美味しさではないわ。体の芯から温まる。薬効がしっかりと活きている」


専門家のような言葉に、少し驚いた。


「王太后様も薬草学にお詳しいのですね」


「少しはね。若い頃、勉強したことがあるの」


紫水晶の瞳が、私を真っ直ぐに見つめた。


「エレノア。単刀直入に言うわ」


「はい」


「あなたの薬草園事業を、王家として支援したいの」


「——え?」


「王立薬草園として認定し、王家の庇護のもとで拡大する。それが私の提案よ」


言葉を失った。

王立認定。それは、事業に国家のお墨付きを与えるということだ。


「なぜ……私に、そこまで」


「理由は二つ」


ヴィクトリアが、指を立てた。


「一つ目。あなたの事業は、この国の医療に大きく貢献する可能性がある。希少薬草の安定供給は、長年の課題だったの」


「光栄です」


「二つ目」


紫水晶の瞳が、鋭く光った。


「有能な女性が、夫の添え物で終わるのは国の損失だと、私は考えているの」


「……」


「五十年前から、あなたの才覚には気づいていたわ。政略結婚で埋もれてしまったことを、ずっと惜しんでいた」


ヴィクトリアが、茶碗を置いた。


「だから——この機会を逃したくないの。あなたが、あなた自身の力で羽ばたくこの機会を」


「王太后様……」


「それに加えて」


ふと、ヴィクトリアの表情が柔らかくなった。


「あなた個人への爵位授与も、検討しているわ」


「爵位……?」


「公爵夫人ではなく、あなた自身の爵位。事業への貢献と、長年の社会奉仕に対する報酬としてね」


頭が、真っ白になった。


自分の爵位。

夫の付属物ではない、私自身の地位。


「お考えいただく時間は差し上げるわ」


ヴィクトリアが立ち上がった。


「でも、返事を楽しみにしているわね、エレノア」


去り際、王太后は振り返って言った。


「あなたはやっと籠から出たのね。さあ、翼を広げなさい」



王太后が帰った後。

私は一人、窓辺に立っていた。


爵位。

自分の爵位。


「奥様」


マーガレットの声。


「どうなさいますの?」


「……分からないわ」


振り返らずに答えた。


「こんなこと、想像もしていなかった」


「でも——」


マーガレットが、静かに言った。


「奥様には、その資格がおありですわ」


「……」


「五十年間、影から公爵家を支え、社交界を動かし、領地を繁栄させてきた。それは全て、奥様の功績です」


「誰も認めてくれなかったけれど」


「今、認められようとしていますわ」


窓の外を見る。

薬草園の緑が、夕日に照らされて輝いていた。


「王太后様は見ていらしたのね。ずっと」


「ええ。きっと」


涙が溢れそうになった。


五十年間、誰にも見えていないと思っていた。

私の努力も、才能も、存在そのものも。


でも——見ていてくれた人がいた。


「お受けしましょう」


「——奥様?」


「王太后様のご提案。お受けするわ」


振り返って、マーガレットを見た。


「私は——私自身の力で、立ちたい。もう誰かの添え物じゃなく」


「……はい」


マーガレットの目にも、涙が光っていた。


「奥様らしいですわ」


「そうかしら」


「ええ。とても」


窓の外では、夕日が沈みゆくところだった。

一つの日が終わり、新しい日が始まろうとしている。


六十八歳の、新しい始まり。


◇ ◇ ◇


王太后への返事を書いた翌週。

アルフレッドがいつものように訪れた。


「何か、重要な話があると聞いたが」


「ええ、あるわ」


応接間で向かい合う。

アルフレッドの表情は、どこか緊張しているように見えた。


「王太后様から、提案をいただいたの」


「提案?」


「薬草園事業を王立認定する。そして——」


一度、言葉を切る。


「私個人に、爵位を授与するという話よ」


「——」


アルフレッドの目が、大きく見開かれた。


「お前に……爵位を?」


「ええ。事業への貢献と、長年の社会奉仕に対する報酬として」


「……」


しばらく、沈黙が続いた。

アルフレッドは何かを考え込んでいるようだった。


(反対するかしら)


妻が自分と対等な地位を持つこと。

誇り高い公爵には、受け入れがたいかもしれない。


「……素晴らしい」


「え?」


アルフレッドが、顔を上げた。

その目には——喜びが浮かんでいた。


「素晴らしいことだ、エレノア」


「……驚かないの?」


「驚いている。だが——当然のことだとも思う」


立ち上がり、窓辺に歩く。

背を向けたまま、アルフレッドは続けた。


「お前の才能は、私には見えていなかった。いや——見ようとしなかった」


「……」


「五十年もの間、お前を傍に置きながら、お前が何をしているか、何を望んでいるか、何も知らなかった」


振り返る。

碧眼が、真っ直ぐに私を見つめた。


「王太后の言う通りだ。私は五十年かけて、この国で最も有能な女性を家庭に閉じ込めていた。その罪は——重い」


「アルフレッド——」


「だから」


大きな手が、私の手を取った。


「お前が羽ばたくのを、止めない。止める権利など、私にはない」


「……」


「むしろ——」


少しだけ、不器用に笑った。


「応援したい。お前の隣で、お前の活躍を見ていたい」


涙が、溢れた。


「ずるい……」


「何がだ」


「急にそんなこと言うの、ずるいって言ってるの」


「本当のことだ」


「だから、ずるいのよ……」


泣きながら、笑った。


五十年間、欲しかった言葉。

認めてほしかった。見ていてほしかった。応援してほしかった。


全部——今、もらえた。


「エレノア」


「何……」


アルフレッドが、私の両肩を掴んだ。

真剣な目で、見つめてくる。


「言いたいことがある」


「何よ……急に改まって……」


「五十年分の——愛していると言いたい」


「前にも言ったでしょう……」


「足りない。まだ足りない」


深呼吸をして、アルフレッドが口を開いた。


「愛している」


「……」


「愛している。愛している。愛している」


「ちょっと——」


「愛している。愛している。愛している。愛している」


「待って、何回言う気——」


「五十年分だ。一日一回として、一万八千回以上ある。今から全部言う」


「馬鹿じゃないの!」


「馬鹿だ。お前を愛することしかできない馬鹿だ」


「っ——」


言葉に詰まった。


「愛している」


「もういいから——」


「愛している」


「聞こえてるって——」


「愛している」


「しつこい!」


「お前が聞き飽きるまで言う」


「一生飽きないわよ!」


「なら一生言う」


真顔で言われて、返す言葉を失った。


「……本当に、馬鹿ね」


「ああ。お前だけの馬鹿だ」


不意に、アルフレッドの額が私の額に触れた。

近い。息がかかるほど。


「エレノア」


「……何」


「返事を聞いていない」


「返事?」


「お前は——私を、愛しているか」


沈黙。

碧眼が、不安そうに揺れている。

七十歳の公爵の、子供のような眼差し。


「……五十年前は、愛していたわ」


「今は?」


「……分からない」


「分からない?」


「でも——」


目を閉じる。

自分の心と、向き合う。


「嫌いではないわ。むしろ——」


「むしろ?」


「……好きかもしれない。また」


目を開けると、アルフレッドの目が潤んでいた。


「泣いてるの?」


「泣いていない」


「嘘が下手ね」


「お前には言われたくない」


笑った。二人で。


「これから——」


アルフレッドの手が、私の頬に触れた。


「これから、やり直せるか」


「やり直す?」


「最初から。恋人として」


「……恋人?」


「再婚は——お前が望まないなら、しない。でも」


少しだけ、照れくさそうに。


「恋人からなら、やり直せないか」


六十八歳と七十歳の、恋人関係。

前代未聞だ。聞いたことがない。


でも——


「いいわよ」


「本当か」


「ただし——」


人差し指を立てる。


「あと三十年かけて、行動で示してもらうわ。本当に私を愛しているか」


「三十年か」


「長い?」


「いや」


アルフレッドが、微笑んだ。

五十年で数えるほどしか見たことのない、穏やかな笑み。


「三十年でも、五十年でも。お前の傍にいられるなら」


「……本当に、馬鹿ね」


「お前だけの馬鹿だ」


窓から差し込む光が、二人を照らしていた。


六十八歳と七十歳の、遅すぎる恋の始まり。

でも——遅すぎることなんて、きっとない。


人生百年時代。

まだまだ、これからだ。


◇ ◇ ◇


それから、五年が経った。



「お誕生日おめでとうございます、お母様」


ルシウスが、花束を抱えてやってきた。

七十三歳の誕生日。人生も四分の三を過ぎた計算になる。


「ありがとう、ルシウス」


「薬草園事業、ますます盛況だそうですね」


「ええ、おかげさまで。王立認定のおかげで、大陸中から注文が来るようになったわ」


五年前に授与された爵位——ウィンターガーデン女伯爵の称号は、今や王国中に知られるようになっていた。

「薬草の女伯爵」と呼ばれ、医療界では彼女を知らない者はいない。


「父上は?」


「今日も来るわよ。毎週欠かさず」


「七十五歳になっても、ですか」


「七十五歳だからこそ、らしいわ。『残り時間が惜しい』って」


ルシウスが、呆れたように笑った。


「父上も変わりましたね」


「そうね。五年前とは別人みたい」



午後になると、案の定アルフレッドがやってきた。


「誕生日おめでとう、エレノア」


「ありがとう」


「贈り物がある」


差し出されたのは、小さな箱だった。

開けると——指輪が入っていた。


「これは……」


「婚約指輪だ」


「……は?」


「五十年前、渡しそびれた」


言葉を失った。

政略結婚だったから、婚約指輪などなかった。

そんなものは必要ないと、当時は思っていた。


「今更だが——受け取ってくれるか」


「……馬鹿じゃないの」


「馬鹿だ。お前だけの馬鹿だ」


五年間で何度聞いたか分からない台詞。

でも——毎回、心が温かくなる。


「いいわ。受け取ってあげる」


「本当か」


「ただし——」


指輪を指にはめながら、にやりと笑った。


「これで満足しないでよ。まだ二十五年あるんだから」


「分かっている」


アルフレッドも笑った。

五年間で、この人は笑うことを覚えた。

不器用で、ぎこちなくて、でも——とても優しい笑顔を。



夕方。

庭園を二人で散歩した。


薬草園は、五年間で見違えるほど大きくなっていた。

温室が三棟に増え、スタッフも二十人を超えた。


「立派になったな」


「ええ。私の自慢の庭よ」


「お前の自慢は、私の自慢だ」


「何それ」


「本当のことだ」


手を繋いで歩く。

七十三歳と七十五歳の、恋人同士。


「アルフレッド」


「何だ」


「……ありがとう」


「何がだ」


「色々。全部」


足を止めて、振り返る。

夕日に照らされたアルフレッドの顔は、五年前より優しくなっていた。


「五年前に離婚して、正解だったわ」


「……それは複雑だな」


「でも本当のことよ。あのまま続けていたら、私たち——きっと、こうはなれなかった」


「……そうかもしれない」


「だから——ありがとう。やり直す機会をくれて」


「それは——」


アルフレッドが、私の手を強く握った。


「こちらの台詞だ。お前が——チャンスをくれた」


「お互い様ね」


「ああ」


夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。


「エレノア」


「何?」


「愛している」


「知ってるわ」


「五十年分、まだ言い終わっていない」


「じゃあ続けて」


「愛している」


「うん」


「愛している」


「聞いてるわ」


「愛している」


「……私も」


「——」


アルフレッドが固まった。


「今、何と——」


「聞こえたでしょう」


「もう一度——」


「嫌よ」


「頼む」


「五年後にまた言ってあげる」


「五年も待てない」


「待ちなさい。私は五十年待ったのよ」


「それは——」


「文句ある?」


「……ない」


肩を落とすアルフレッド。

その顔が可笑しくて、つい笑ってしまった。


「ふふっ」


「何がおかしい」


「あなたが」


「私が?」


「七十五歳にもなって、そんな顔するなんて」


「どんな顔だ」


「子犬みたいな顔」


「……公爵を犬扱いするな」


「子犬よ、子犬」


「子犬でもいい。お前の傍にいられるなら」


「……馬鹿」


「お前だけの馬鹿だ」


夕日が沈んでいく。

空がオレンジから紫へと変わっていく。


「帰りましょう」


「ああ」


手を繋いだまま、離宮へ向かって歩き出す。


人生百年時代。

七十三歳の私には、まだ二十七年ある。

その全てを——この不器用な人と過ごすのも、悪くない。


「エレノア」


「何?」


「来週も来る」


「いいわよ」


「再来週も来る」


「いいわよ」


「毎週——」


「分かってるわ」


笑いながら、歩く。


いつでも人生はやり直せる。

何歳になっても、遅すぎることなんてない。


それを——私たちは、証明していく。



北の離宮の灯りが、夕闘の中に浮かび上がる。


七十三歳の女伯爵と、七十五歳の公爵。

恋人同士の、セカンドライフ・ロマンスは——まだまだ、続く。

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