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第61話 どうやら幸せ者のようです

 頼むから今度はいてくれよ。(はや)る気持ちを抑えきれずに走り出し、井戸の前に動く人影を見つけて、俺はそっと足を止めた。

 暗くて顔までは見えないが、まあ人違いでも困ることはないだろう。


「アルマ・リリアンさんですか?」


 俺が驚かせないように努めて落ち着いた声音で尋ねると、人影がゆっくりと振り返り、


「アルマは私の夫ですが……どちら様でしょう?」


 聞いているだけで心が洗われていくような高く澄んだ声が、夜の闇に響いた。遅れて雲間に差し込んだ月明かりが照らし出す、(しと)やかな女性の無垢(むく)な微笑――。

 アストラル・ヴィラを訪ねたときにも思ったが、夜に突然訪ねてきた見知らぬ男に見せていい無防備さではないぞと、この国の人間には警戒心というものがないのか? と少し心配になっていると、女性の背後から屋内を照らす暖かな光が漏れ出してきて、


「こんな時間にお客さんか。珍しいな」


 人のよさそうな若い男が家から出てきて、それとなく女性を背中に隠した。

 なんだ、ちゃんとこういうやつもいるんじゃないか。警戒されて安心するというのも変な話ではあるし、よそものに寛容な連邦の風土も嫌いではないのだが、できればいいように利用されないように、連邦の人間にはもっとこの若い男を見習って他人を疑ってもらいたいところだ。

 しかしこの若い男が淑やかな女性の夫ならアルマ・リリアンその人ということになる。

 俺が人知れず気を引き締めていると、若い男が歓迎するように笑顔を見せて、


「王国人か。貴族には見えないし、となると騎士でもないが、腕に自信がないわけじゃない。兵士崩れってところかな。で? 要件は? って聞くまでもないか。俺を連れ戻しに来たんだろ?」


 わかってますよとばかりに肩をすくめると、次の瞬間には表情を険しくして、


「失せろ」


 にべもなく一言で拒絶した。ただその怒気のこもった声も、ああ話を聞く気すらないんだなという態度も、この国に来てからずっと、どこか物足りないというか、気が抜けて仕方ないというか、ぬるま湯につかっているかのような感覚を覚えていた俺にとっては、むしろ寝起きの顔を打つ冷水ぐらい心地よくて、


「まずは夜分遅くに、突然お訪ねした非礼をお詫びさせてください。私は王国で騎士候補生をしております、カイル・シュヴァリエと申します。エリュシオンのアストラル・ヴィラをお訪ねしたところ、ハンナさんに今はこちらへ移られたと伺って参りました。ご明察の通り、私はアルマ・リリアンさんを王城に送り届けるよう頼まれて、参上した次第です」


 これは説得しがいがありそうだなと宣戦布告するようにニッと口角を上げようとすると、それよりも早く、淑やかな女性が若い男の背中から顔を出して、


「ハンナが?」


 嬉しそうに両手を合わせると、


「おいステラ!」


 若い男の制止も聞かずに俺に駆け寄ってきて、


「大丈夫よアルマっ。ハンナの紹介ならきっといい人よ。あの、カイルさん。夕飯作りすぎちゃったんです。食べて行ってくれますよね?」

「まったく」


 ステラの背後でアルマの深いため息が聞こえたが、責めているわけではなく、むしろステラの奔放(ほんぽう)さを理解し、愛でているように聞こえたのは、俺の思い違いではないだろう。



 ♦



「それで?」


 こうなった以上、話ぐらい聞いてやるとアルマは食卓を挟んで、俺を正面から問い詰める。しかし今はそんなこと気にしていられないとアルマそっちのけで俺は上を向いて、それでもこらえきれなくて、一筋の涙をこぼした。

 俺は感動していた。たった一口パンをかじって、スープを飲んだだけで。


「うまい……」


 ステラの料理は驚くほどうまかった。それこそ夜会で食べたものなど比較対象にもならないほどに。いや、ただのパンと野菜のスープが貴族の食う手の込んだ料理よりうまいわけがない。わけがないのに、ステラが俺に出してくれたパンとスープは少なくとも俺が今まで食べてきたものの中では、間違いなく一番うまかった。それも特に変わったところなどなく、誰でも作れそうな素朴な見た目をしているというのに、だ。

 俺は腕で乱暴に涙をぬぐって、


「アルマさん、あんた幸せ者だよ」


 しみじみと告げると、アルマが(きょ)を突かれたように照れた様子で、


「まあな」


 とほおをかいた。それから少しだけ誇らしそうに、


「実は麦も野菜も俺とステラがここで作ったものなんだ。アストラル・ヴィラにはとにかく王国を離れられればいいやって、不純な動機で留学することにしたんだけど、そこでステラに出会って、農業にはまっちゃって」


 アルマは横を向いてステラと顔を見合わせると、二人そろって穏やかに笑った。その見ているこっちまで心温まるような光景に、


「なるほど」


 と俺は自然とうなずかされた。こりゃ説得しても無理そうだな。


「すでにアルマさんは留学の域を超えて、この国に、この土地に根付いているみたいだ。うまい飯もごちそうしてもらったことですし、連れて帰るのは諦めますよ」


 リゼットには悪いが、俺には目の前の光景を壊せない。というか個人的に二人の邪魔をしたくない。もう間に合わないことも確定しているわけだし、ここで変に食い下がっても嫌な思いをさせるだけだろう。

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