第60話 どうやら旅に想定外はつきもののようです
来訪を告げるべく、扉を軽くコンコンコンとたたくと、
「はいはーい」
扉の向こうからすぐに朗らかな女性の声が返ってきた。アルマ・リリアンという名前からして相手はたぶん女性だろうと予想していたが、やはりその通りだったようだ。いや、まだ名前を聞いたわけでもなし、決めつけるのは早計だろう。とりあえず声の主がアルマ・リリアンその人であろうとなかろうと、第一印象は悪いよりはいいほうがいい。
扉の前で居住まいを正して、努めて真面目そうな顔つきをして待っていると、木製の板がギィと音を立てて押し開かれ、
「どちら様?」
その奥から顔を出したのは、眼鏡をかけた若い女性だった。
しかし無防備というか、無警戒というか。とにかく俺に何者か聞くなら扉を開ける前ではなかろうかと思うのだが、連邦ではこれが普通なのであろうか。解錠音も聞こえなかったような気がしたのだが、まさか扉に鍵をかけてなかったなんてことはないと思いたい。ただ連邦に来てからというものの、王国人ということで変な目で見られた記憶がないのも確かだ。
もしかしなくても他人を疑わないのがこの国の風土なのか? なんてことを家人を呼び出しておきながら、家人そっちのけで考え込んでいると、
「あの、何か御用ですか?」
といぶかしげな目を向けられて、俺はあわてて口を開いた。
「私は王国で騎士候補生をしております、カイル・シュヴァリエと申します。こちらに伺えばアルマ・リリアンさんに会えると聞いて、参りました。アルマ・リリアンさんはいらっしゃいますか?」
「わわっ」
眼鏡をかけた若い女性は、ぱあっと表情を明るくして、
「王国からわざわざアルマを訪ねてきてくれたんですか? アルマは王国に友人はいないって言ってたけど、やっぱりいたんですね。よかったー、ていうかいたなら結婚式に呼べばよかったのに。アルマって昔からそういうところがあるのよね。本人は違うっていうけど、遠慮がちっていうか、恥ずかしがりやっていうか」
「あの、」
友人というのは勘違いです。そう言おうとして口をはさむも、うれしくてたまらないといった様子の眼鏡をかけた若い女性の耳には届かなかったようで、
「でも引っ越したことぐらい伝えておけばいいのに。あ、私はハンナね。それからアルマだけど、今はここにいなくて、結婚して奥さんの故郷にいるの。そうね、ここからなら馬車で半日ってところからしら。明日のあさ出発するとして、地図は私が書けばいいとして、宿はもう決めた? ご飯はまだ? よかったらいい店を紹介するわよ?」
俺の声を圧倒的な音の奔流でかき消していく。それで仕方なく、数に対して質で勝負するように俺は声を張り上げて、
「あの! 私とアルマ・リリアンさんは!」
「なに? もしかしてアルマと喧嘩別れしてて、気まずいとか? 大丈夫よ。あなたみたいにしゃべりやすい人なら、奥さんのステラとだって、きっとすぐに仲良くなれるわ。それともまずは温泉に入りたいとか? ここの温泉は有名だからやっぱり気になっちゃうわよね。でも――」
「お願いします」
俺はもうどうにでもなれと、勘違いを指摘するのも面倒になって頭を下げた。
しかし明日のあさ出て半日か。風次第で、早ければ昼過ぎに出発と言っていたからには、さすがに間に合わないだろう。
結構、気に入っていたんだけどな。どうやら帰りは別の船になりそうだ。
♦
次の日。
アルマのいる村は風に波立つ黄金色の麦畑がきれいだとか、石造りの低い家々の屋根が夕焼けに赤く染まると幻想的だとか、潮の香りの代わりに焼き立てのパンのような草のにおいが漂っているだとか、食事の席でさんざんハンナに聞かされていた俺は、まあ半日くらい揺られてやるか、と予定外ながら、まんざらでもない気持ちで朝一番の馬車に乗り込んだ。
ただそれから半日どころか、丸一日近く馬車に揺られることになるとは、俺も予想していなかったし、誰にも予想できなかっただろうが。
「確かにパンみたいなにおいはするんだけどねぇ」
拝むことができなかった黄金色と赤色の代わりに、俺は濃紺に染まった麦畑の間を地図を片手に突き進む。旅に想定外はつきものだが、まさか倒木に落石と、一度ならず二度までも不測の事態に見舞われるとは思わなかった。
一応、明日の朝一で村を出れるよう帰りの馬車だけは頼んでみたが、仮に何事もなく半日でエリュシオンに戻れたとしても、海に出てから最短でも三日はかかるため、すでに現時点で王都にたどり着くのは早くて八日後の昼ごろになる計算だ。
「遅くても七日後の朝、か」
どうやら間に合いそうにないな。悪いなリゼット、と心の中で詫びを入れながらも、どこかあきらめきれない俺の足は、緩むどころか、むしろ速まっていく。
遅れるのが確定したからと言って、ゆっくりしていていい理由もないしな。というか、さっさと帰らないと学園を除籍されかねない。
麦畑の奥にハンナに目印として教えられた大きな井戸と、この村では珍しい木造の家が見えてきたのは、歩みが早歩きに変わってほどなくしてのことだった。




